「明治時代後期の広島の名所30ヶ所をめぐる広島名所双六(すごろく。発行:明治35年)を紹介しているこのシリーズ」
「1番目が厳島(いつくしま)、2番目は中国牧畜合資会社じゃったね」
「中国牧畜合資会社を、チチヤスの前身でなる広島合資ミルク会社と読み替えて話をしてみました」
「3番目に紹介するのは、広島市の南にある宇品港(うじなこう)」
「宇品港は1932年(昭和7)から、今の「広島港(ひろしまこう)」と名前を変えとるんじゃが、今回は明治時代の話なので、「宇品港」で話を進めていきます」
↓前回、中国牧畜合資会社についての記事は、こちら↓
広島名所双六(その2)~中国牧畜合資会社
「今から138年前の1880年(明治13)、県令(けんれい。今の県知事)として千田貞暁(せんだ さだあき)さんが東京から広島に来られた」
「鉄道はまだ広島まで通っとらんかったけぇ、船で来られたん?」
「そのとおり。船で広島まで来られたんじゃが、そのころの広島には大きな船が泊まれる港がなかったんじゃ」
「港がなかった?」
「江戸時代、大名が幕府に反抗することがないよう、500石(こく)積み以上の大型船を造ることを禁止しとった」
「大きな船に乗って一度に江戸まで攻めてこられたら困るけぇね」
「幕末、ペリーが来航するに至ってその禁令が解かれ、洋式の軍艦が建造されるようになった。その後、民間でも洋式の船舶を持つことができるようになった」
「時代が変わって船は大きくなったけど、それに対応できる港がなかったと」
「千田さん自身、宇品の沖から小さな船に乗り換えて、広島市街の川岸にある雁木(がんぎ)から上陸されたそうじゃ」
「これからの時代、大きな船が泊まれる港が必要じゃと、千田さんは考えられたんじゃね」
「広島の産業を発展させるためにも港が必要じゃと痛感された千田さんは、オランダ人技師のムルデルという人を招いて、宇品築港計画を作った。その計画とは、次のようなものじゃった」
1.京橋川東側の皆実新開と宇品島との間(約2キロメートル)に堤防を作り、その東側にあたる宇品島と金輪島との間に港を作る。
2.堤防に沿って、港と広島市街を結ぶ道路を整備する。
3.皆実新開と宇品島との間に新開(干拓地)を作る。
「NHKの「ブラタモリ」で、江戸時代、干拓して陸地にしたときの堤の跡を、タモリさんが「江戸堤」と名づけられとったね」
「そのときの「江戸堤」が、皆実新開の南側の端にあった堤の跡。今の、御幸橋(みゆきばし)東詰から県病院を通って、広島南警察署前交差点あたりまでじゃ」
「この堤から南側は、そのころ海じゃったんじゃね」
「海を埋め立てて作る干拓地は、明治になって職を失った士族に職を与えるという意味もあったんじゃの」
「そうか。武士という身分がなくなるわ、藩がなくなるわで、元武士じゃった人たちは収入がなくなったもんね」
「この宇品築港計画、試算してみたところ、総工費が18万円以上かかるといわれたそうじゃ」
「18万円って、今のお金でいうとどのくらい?」
「よう(=よく)わからんが、18万円は、当時としても大金じゃったそうな。そこで、経費を減らすための策が考えられた。たとえば、土木技術者の服部長七(はっとり ちょうしち)が考え出した人造石工法(長七たたき)を採用したのもそのひとつで、そのほかにもいろんな手を打って、工費を約9万円まで切り詰めた」
「おぉ、すごいね」
「一方で、この築港計画に対する反対運動も起こった」
「なんで反対してんじゃろ?」
「海を埋め立ててしもうたら、海で生活している人が漁業や海苔(のり)の養殖ができんようになるじゃろ」
「あ、そうか」
「千田さんはこの人たちと何度も話し合いを持つことで、最終的には協力を得ることができたそうじゃ」
「で、いよいよ工事にかかった」
「1884年(明治17)に宇品築港工事が始まった。…が、この工事はいろんな困難に直面した」
「たとえば?」
「暴風雨で堤防が壊されたり、何者かが樋門が壊したりした。さらに、広島市の東にある呉(くれ)では鎮守府設置や、江田島では海軍兵学校の移転工事などもあって、人件費が上昇したりもしたそうじゃ」
「工事費がアップしたじゃろ」
「5年の歳月と30万円余の工費を使って、1889年(明治22年)、ついに宇品港は完成した」
「工費は結局、30万円もかかったんじゃね」
「千田さんは、2度、国から補助金を受けたのに加えて、自身の財産もこの工事につぎ込んだ。工事を担当した服部さんも、自身の財産をつぎ込まれたそうじゃ」
「すごいね、そこまでやるかって感じ」
「ところが、宇品築港工事の完成式に千田さんの姿はなかった」
「えぇっ、なんで?」
「工期が延びたうえに、費用が高くなったという責任を負わされて、新潟県知事に左遷されたためじゃ」
「うーん」
「しかも、その宇品港は、最初はあまり利用されんかった」
「1894年(明治27)の日清戦争以後、宇品港は兵隊を戦地へ送り出すための兵站基地の役割を担うことになったんじゃったね」
「宇品港の評価が上がるとともに、千田さんへの評価も高まった。1894年、千田さんは天皇から表彰を受け、服部さんも1897年(明治30)緑綬褒章を受けたそうじゃ」
「えかった、えかった、じゃね」
「と、言いたいが、そうもいかん」
「なんで?」
「千田さんが作りたかった宇品港がどんなもんじゃったか、覚えとるか?」
「広島の産業が発展するための港が必要、いうて作られたんじゃったね」
「ところが、その宇品港は「軍港」として評価された」
「商業のために使われる港という面で評価されたわけではないと」
「そのとおり。最初に言うたように、1932年(昭和7)宇品港は広島港と名前を変えて、翌33年から商業港として、1940年(昭和15)から工業港として整備が進められたんじゃ」
「工業港といえば、漫画『この世界の片隅に』の主人公・すずさんの実家も、もともと海苔の養殖をされとったのが、江波の工業港建設の影響で廃業されちゃったんじゃったね」
「工業港建設で江波の海が埋め立てられてしもうたけぇの。今回は明治時代の話じゃけぇ、その工業港の話はまたの機会にしよう。あと、広島市郷土資料館では、3月25日まで「特別展 宇品港」をやりよってじゃけぇ、宇品についてはもう少し突っ込んだ形でやってみたいと思うとります」
【参考文献】
広島市郷土資料館 学習の手引き
「第18号 広島 海辺の開発の歴史」
「第22号 宇品の港」
「第31号 千田貞暁」
『平成21年度版 うじな通(つう)になろう うじな通検定テキスト』
長船友則『宇品線92年の軌跡』ネコ・パブリッシング 2012年7月
「今日は、広島名所双六の3番目・宇品港について話をさせてもらいました」
「次回は、4番目の廣島停車場と5番目の東松原の予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
「1番目が厳島(いつくしま)、2番目は中国牧畜合資会社じゃったね」
「中国牧畜合資会社を、チチヤスの前身でなる広島合資ミルク会社と読み替えて話をしてみました」
「3番目に紹介するのは、広島市の南にある宇品港(うじなこう)」
「宇品港は1932年(昭和7)から、今の「広島港(ひろしまこう)」と名前を変えとるんじゃが、今回は明治時代の話なので、「宇品港」で話を進めていきます」
↓前回、中国牧畜合資会社についての記事は、こちら↓
広島名所双六(その2)~中国牧畜合資会社
「今から138年前の1880年(明治13)、県令(けんれい。今の県知事)として千田貞暁(せんだ さだあき)さんが東京から広島に来られた」
「鉄道はまだ広島まで通っとらんかったけぇ、船で来られたん?」
「そのとおり。船で広島まで来られたんじゃが、そのころの広島には大きな船が泊まれる港がなかったんじゃ」
「港がなかった?」
「江戸時代、大名が幕府に反抗することがないよう、500石(こく)積み以上の大型船を造ることを禁止しとった」
「大きな船に乗って一度に江戸まで攻めてこられたら困るけぇね」
「幕末、ペリーが来航するに至ってその禁令が解かれ、洋式の軍艦が建造されるようになった。その後、民間でも洋式の船舶を持つことができるようになった」
「時代が変わって船は大きくなったけど、それに対応できる港がなかったと」
「千田さん自身、宇品の沖から小さな船に乗り換えて、広島市街の川岸にある雁木(がんぎ)から上陸されたそうじゃ」
「これからの時代、大きな船が泊まれる港が必要じゃと、千田さんは考えられたんじゃね」
「広島の産業を発展させるためにも港が必要じゃと痛感された千田さんは、オランダ人技師のムルデルという人を招いて、宇品築港計画を作った。その計画とは、次のようなものじゃった」
1.京橋川東側の皆実新開と宇品島との間(約2キロメートル)に堤防を作り、その東側にあたる宇品島と金輪島との間に港を作る。
2.堤防に沿って、港と広島市街を結ぶ道路を整備する。
3.皆実新開と宇品島との間に新開(干拓地)を作る。
「NHKの「ブラタモリ」で、江戸時代、干拓して陸地にしたときの堤の跡を、タモリさんが「江戸堤」と名づけられとったね」
「そのときの「江戸堤」が、皆実新開の南側の端にあった堤の跡。今の、御幸橋(みゆきばし)東詰から県病院を通って、広島南警察署前交差点あたりまでじゃ」
「この堤から南側は、そのころ海じゃったんじゃね」
「海を埋め立てて作る干拓地は、明治になって職を失った士族に職を与えるという意味もあったんじゃの」
「そうか。武士という身分がなくなるわ、藩がなくなるわで、元武士じゃった人たちは収入がなくなったもんね」
「この宇品築港計画、試算してみたところ、総工費が18万円以上かかるといわれたそうじゃ」
「18万円って、今のお金でいうとどのくらい?」
「よう(=よく)わからんが、18万円は、当時としても大金じゃったそうな。そこで、経費を減らすための策が考えられた。たとえば、土木技術者の服部長七(はっとり ちょうしち)が考え出した人造石工法(長七たたき)を採用したのもそのひとつで、そのほかにもいろんな手を打って、工費を約9万円まで切り詰めた」
「おぉ、すごいね」
「一方で、この築港計画に対する反対運動も起こった」
「なんで反対してんじゃろ?」
「海を埋め立ててしもうたら、海で生活している人が漁業や海苔(のり)の養殖ができんようになるじゃろ」
「あ、そうか」
「千田さんはこの人たちと何度も話し合いを持つことで、最終的には協力を得ることができたそうじゃ」
「で、いよいよ工事にかかった」
「1884年(明治17)に宇品築港工事が始まった。…が、この工事はいろんな困難に直面した」
「たとえば?」
「暴風雨で堤防が壊されたり、何者かが樋門が壊したりした。さらに、広島市の東にある呉(くれ)では鎮守府設置や、江田島では海軍兵学校の移転工事などもあって、人件費が上昇したりもしたそうじゃ」
「工事費がアップしたじゃろ」
「5年の歳月と30万円余の工費を使って、1889年(明治22年)、ついに宇品港は完成した」
「工費は結局、30万円もかかったんじゃね」
「千田さんは、2度、国から補助金を受けたのに加えて、自身の財産もこの工事につぎ込んだ。工事を担当した服部さんも、自身の財産をつぎ込まれたそうじゃ」
「すごいね、そこまでやるかって感じ」
「ところが、宇品築港工事の完成式に千田さんの姿はなかった」
「えぇっ、なんで?」
「工期が延びたうえに、費用が高くなったという責任を負わされて、新潟県知事に左遷されたためじゃ」
「うーん」
「しかも、その宇品港は、最初はあまり利用されんかった」
「1894年(明治27)の日清戦争以後、宇品港は兵隊を戦地へ送り出すための兵站基地の役割を担うことになったんじゃったね」
「宇品港の評価が上がるとともに、千田さんへの評価も高まった。1894年、千田さんは天皇から表彰を受け、服部さんも1897年(明治30)緑綬褒章を受けたそうじゃ」
「えかった、えかった、じゃね」
「と、言いたいが、そうもいかん」
「なんで?」
「千田さんが作りたかった宇品港がどんなもんじゃったか、覚えとるか?」
「広島の産業が発展するための港が必要、いうて作られたんじゃったね」
「ところが、その宇品港は「軍港」として評価された」
「商業のために使われる港という面で評価されたわけではないと」
「そのとおり。最初に言うたように、1932年(昭和7)宇品港は広島港と名前を変えて、翌33年から商業港として、1940年(昭和15)から工業港として整備が進められたんじゃ」
「工業港といえば、漫画『この世界の片隅に』の主人公・すずさんの実家も、もともと海苔の養殖をされとったのが、江波の工業港建設の影響で廃業されちゃったんじゃったね」
「工業港建設で江波の海が埋め立てられてしもうたけぇの。今回は明治時代の話じゃけぇ、その工業港の話はまたの機会にしよう。あと、広島市郷土資料館では、3月25日まで「特別展 宇品港」をやりよってじゃけぇ、宇品についてはもう少し突っ込んだ形でやってみたいと思うとります」
【参考文献】
広島市郷土資料館 学習の手引き
「第18号 広島 海辺の開発の歴史」
「第22号 宇品の港」
「第31号 千田貞暁」
『平成21年度版 うじな通(つう)になろう うじな通検定テキスト』
長船友則『宇品線92年の軌跡』ネコ・パブリッシング 2012年7月
「今日は、広島名所双六の3番目・宇品港について話をさせてもらいました」
「次回は、4番目の廣島停車場と5番目の東松原の予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
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