通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

広島東照宮 通り御祭礼(江戸時代)のコースを歩く(その3)

2015年10月10日 | 見て歩き
通り御祭礼

江戸時代のコースを歩く

立町御門から御旅所・広瀬神社まで






2015年(平成27年)、

広島東照宮(以下、「東照宮」と略す)に祀られた

徳川家康(とくがわ いえやす)の400回忌ということこで、

家康没後50年ごとに行われてきた神輿行列の「通り御祭礼」が、

200年ぶりに復活する。





↓通り御祭礼については、こちら↓

「広島神輿行列「通り御祭礼」」広島東照宮





その、通り御祭礼の行列が江戸時代に練り歩いたコースを

3回に分けて紹介している。

今日は最終回、3回目で、立町御門(たてまちごもん)から御旅所(おたびしょ)の広瀬神社まで。







立町御門を過ぎると…






このあたりは、播磨屋町(はりまやちょう)。







播磨屋町の石板の前(南側)には

今から400年前、元和(げんな)元年(1615年)に営業を始めた、

赤松薬局(あかまつやっきょく)がある。

つまり、通り御祭礼の行列が通りよったころからある店なんじゃの。





↓赤松薬局については、こちら↓

赤松製薬有限会社







本通7番交差点にあるのが、真鍋御門(まなべごもん)の石板。

ここから北に行った紙屋町(東)交差点あたりに

真鍋御門という広島城の門があった。







革屋町(かわやちょう)







本通交差点を渡ると、東横町(ひがしよこまち)。







紙屋町2丁目交差点にあるのが、

一丁目御門(いっちょうめごもん)の石板。

ここから北に行った紙屋町(西)交差点あたりに

一丁目御門という広島城の門があった。







本通を抜けて元安川(もとやすがわ)に出ると、

川上(右手)に原爆ドームが見える。





原爆ドームのもとの建物は、今から100年前の1915年(大正4年)、

広島県物産陳列館として竣工したが、

江戸時代には、広島藩の米蔵があったそうじゃ。







元安川に架かる元安橋(もとやすばし)を渡り、

平和記念公園へ。





今、平和記念公園があるあたりは中島地区と呼ばれ、

江戸時代から広島城下一の繁華街じゃった。





中島地区には、

中島本町(なかじまほんまち)

材木町(ざいもくちょう)

天神町(てんじんまち)

元柳町(もとやなぎちょう)

木挽町(こびきちょう)

中島新町(なかじましんまち)の6つの町があり、

原爆が投下されたときには、

約1,300世帯、約4,400人が暮らしていた。







本川(ほんかわ)に架かる

本川橋(ほんかわばし。猫屋橋(ねこやばし)とも)を渡り、

本川1丁目3番交差手を右(北)へ曲がると、

ここで西国街道から離れ、雲石街道(うんせきかいどう)に入る。





雲石いうのは、出雲(いずも)石見(いわみ)のこと。

可部(かべ)の町から、

出雲大社から松江城下に続く道と、

石見銀山から浜田城下を続く道の

二手に分かれとるんじゃ。







十日市町(とうかいちまち)1丁目交差点を渡り、

十日市町2丁目4番交差点を左(西)へ曲がる。







広瀬町(ひろせまち)交差点を渡ると、

御旅所の広瀬神社に到着。





御旅所というのは、神輿が途中で休憩する場所のこと。

通り御祭礼は、広島東照宮を出て広瀬神社を折り返して帰ってくるので、

広瀬神社が御旅所になるそうじゃ。





撮影日:2015年10月3日





今日は、広島東照宮の通り御祭礼が江戸時代

練り歩いたコースについて話をさせてもらいました。

ほいじゃあ、またの。
コメント
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