通り御祭礼
江戸時代のコースを歩く
立町御門から御旅所・広瀬神社まで
2015年(平成27年)、
広島東照宮(以下、「東照宮」と略す)に祀られた
徳川家康(とくがわ いえやす)の400回忌ということこで、
家康没後50年ごとに行われてきた神輿行列の「通り御祭礼」が、
200年ぶりに復活する。
↓通り御祭礼については、こちら↓
「広島神輿行列「通り御祭礼」」広島東照宮
その、通り御祭礼の行列が江戸時代に練り歩いたコースを
3回に分けて紹介している。
今日は最終回、3回目で、立町御門(たてまちごもん)から御旅所(おたびしょ)の広瀬神社まで。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/80/6e3cf5a00d99b3e260d53a06dce328be.jpg)
立町御門を過ぎると…
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/a1/74deef3ad375206b079ca0fef2fb8954.jpg)
このあたりは、播磨屋町(はりまやちょう)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/18/84fc855aae17c3607bbc4faacc001da8.jpg)
播磨屋町の石板の前(南側)には
今から400年前、元和(げんな)元年(1615年)に営業を始めた、
赤松薬局(あかまつやっきょく)がある。
つまり、通り御祭礼の行列が通りよったころからある店なんじゃの。
↓赤松薬局については、こちら↓
赤松製薬有限会社
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/f0/5dc64bad7f991ac0f8c7a0f67069db80.jpg)
本通7番交差点にあるのが、真鍋御門(まなべごもん)の石板。
ここから北に行った紙屋町(東)交差点あたりに
真鍋御門という広島城の門があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/21/3d90ad0323d7c362b6feeb63ec81d2a0.jpg)
革屋町(かわやちょう)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/db/69ab0f2f5b7476820bd8801997290eef.jpg)
本通交差点を渡ると、東横町(ひがしよこまち)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/bf/c132b0ed7333ae89b3f37b85746e01a0.jpg)
紙屋町2丁目交差点にあるのが、
一丁目御門(いっちょうめごもん)の石板。
ここから北に行った紙屋町(西)交差点あたりに
一丁目御門という広島城の門があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/e9/94e9e1c5bebc18d7b49272ef4029ebbf.jpg)
本通を抜けて元安川(もとやすがわ)に出ると、
川上(右手)に原爆ドームが見える。
原爆ドームのもとの建物は、今から100年前の1915年(大正4年)、
広島県物産陳列館として竣工したが、
江戸時代には、広島藩の米蔵があったそうじゃ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/66/9c36448f9c52be784ceb7e794bdc6769.jpg)
元安川に架かる元安橋(もとやすばし)を渡り、
平和記念公園へ。
今、平和記念公園があるあたりは中島地区と呼ばれ、
江戸時代から広島城下一の繁華街じゃった。
中島地区には、
中島本町(なかじまほんまち)
材木町(ざいもくちょう)
天神町(てんじんまち)
元柳町(もとやなぎちょう)
木挽町(こびきちょう)
中島新町(なかじましんまち)の6つの町があり、
原爆が投下されたときには、
約1,300世帯、約4,400人が暮らしていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/71/9d8e1a73b4ff7b2c109ab658309fb03d.jpg)
本川(ほんかわ)に架かる
本川橋(ほんかわばし。猫屋橋(ねこやばし)とも)を渡り、
本川1丁目3番交差手を右(北)へ曲がると、
ここで西国街道から離れ、雲石街道(うんせきかいどう)に入る。
雲石いうのは、出雲(いずも)石見(いわみ)のこと。
可部(かべ)の町から、
出雲大社から松江城下に続く道と、
石見銀山から浜田城下を続く道の
二手に分かれとるんじゃ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/6c/2a5f131052df66fe520e7d087b7599de.jpg)
十日市町(とうかいちまち)1丁目交差点を渡り、
十日市町2丁目4番交差点を左(西)へ曲がる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/ef/862e0f75b5e1d0381811d98a8fddce47.jpg)
広瀬町(ひろせまち)交差点を渡ると、
御旅所の広瀬神社に到着。
御旅所というのは、神輿が途中で休憩する場所のこと。
通り御祭礼は、広島東照宮を出て広瀬神社を折り返して帰ってくるので、
広瀬神社が御旅所になるそうじゃ。
撮影日:2015年10月3日
今日は、広島東照宮の通り御祭礼が江戸時代
練り歩いたコースについて話をさせてもらいました。
ほいじゃあ、またの。
江戸時代のコースを歩く
立町御門から御旅所・広瀬神社まで
2015年(平成27年)、
広島東照宮(以下、「東照宮」と略す)に祀られた
徳川家康(とくがわ いえやす)の400回忌ということこで、
家康没後50年ごとに行われてきた神輿行列の「通り御祭礼」が、
200年ぶりに復活する。
↓通り御祭礼については、こちら↓
「広島神輿行列「通り御祭礼」」広島東照宮
その、通り御祭礼の行列が江戸時代に練り歩いたコースを
3回に分けて紹介している。
今日は最終回、3回目で、立町御門(たてまちごもん)から御旅所(おたびしょ)の広瀬神社まで。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/80/6e3cf5a00d99b3e260d53a06dce328be.jpg)
立町御門を過ぎると…
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/a1/74deef3ad375206b079ca0fef2fb8954.jpg)
このあたりは、播磨屋町(はりまやちょう)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/18/84fc855aae17c3607bbc4faacc001da8.jpg)
播磨屋町の石板の前(南側)には
今から400年前、元和(げんな)元年(1615年)に営業を始めた、
赤松薬局(あかまつやっきょく)がある。
つまり、通り御祭礼の行列が通りよったころからある店なんじゃの。
↓赤松薬局については、こちら↓
赤松製薬有限会社
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/f0/5dc64bad7f991ac0f8c7a0f67069db80.jpg)
本通7番交差点にあるのが、真鍋御門(まなべごもん)の石板。
ここから北に行った紙屋町(東)交差点あたりに
真鍋御門という広島城の門があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/21/3d90ad0323d7c362b6feeb63ec81d2a0.jpg)
革屋町(かわやちょう)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/db/69ab0f2f5b7476820bd8801997290eef.jpg)
本通交差点を渡ると、東横町(ひがしよこまち)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/bf/c132b0ed7333ae89b3f37b85746e01a0.jpg)
紙屋町2丁目交差点にあるのが、
一丁目御門(いっちょうめごもん)の石板。
ここから北に行った紙屋町(西)交差点あたりに
一丁目御門という広島城の門があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/e9/94e9e1c5bebc18d7b49272ef4029ebbf.jpg)
本通を抜けて元安川(もとやすがわ)に出ると、
川上(右手)に原爆ドームが見える。
原爆ドームのもとの建物は、今から100年前の1915年(大正4年)、
広島県物産陳列館として竣工したが、
江戸時代には、広島藩の米蔵があったそうじゃ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/66/9c36448f9c52be784ceb7e794bdc6769.jpg)
元安川に架かる元安橋(もとやすばし)を渡り、
平和記念公園へ。
今、平和記念公園があるあたりは中島地区と呼ばれ、
江戸時代から広島城下一の繁華街じゃった。
中島地区には、
中島本町(なかじまほんまち)
材木町(ざいもくちょう)
天神町(てんじんまち)
元柳町(もとやなぎちょう)
木挽町(こびきちょう)
中島新町(なかじましんまち)の6つの町があり、
原爆が投下されたときには、
約1,300世帯、約4,400人が暮らしていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/71/9d8e1a73b4ff7b2c109ab658309fb03d.jpg)
本川(ほんかわ)に架かる
本川橋(ほんかわばし。猫屋橋(ねこやばし)とも)を渡り、
本川1丁目3番交差手を右(北)へ曲がると、
ここで西国街道から離れ、雲石街道(うんせきかいどう)に入る。
雲石いうのは、出雲(いずも)石見(いわみ)のこと。
可部(かべ)の町から、
出雲大社から松江城下に続く道と、
石見銀山から浜田城下を続く道の
二手に分かれとるんじゃ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/6c/2a5f131052df66fe520e7d087b7599de.jpg)
十日市町(とうかいちまち)1丁目交差点を渡り、
十日市町2丁目4番交差点を左(西)へ曲がる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/ef/862e0f75b5e1d0381811d98a8fddce47.jpg)
広瀬町(ひろせまち)交差点を渡ると、
御旅所の広瀬神社に到着。
御旅所というのは、神輿が途中で休憩する場所のこと。
通り御祭礼は、広島東照宮を出て広瀬神社を折り返して帰ってくるので、
広瀬神社が御旅所になるそうじゃ。
撮影日:2015年10月3日
今日は、広島東照宮の通り御祭礼が江戸時代
練り歩いたコースについて話をさせてもらいました。
ほいじゃあ、またの。
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