「来週の月曜日から、えびす講(「えべっさん」とも)が始まるね」
「えびす講というのは、毎年11月18日から20日まで、広島市中区のえびす通りにある胡子(えびす)神社で行われる胡子大祭のことじゃ」
「とうかさん、住吉さんと並ぶ、広島三大祭りのひとつでもあるよ」
「今日は、胡子神社について話をしてみようと思う」
「ここに祀られている神様は?」
「事代主神(ことしろぬしのみこと)と蛭子神(ひるこのみこと)。あと、毛利家の始祖といわれる大江広元(おおえのひろもと)公の3柱が祀られとるんじゃ」
「事代主神も蛭子神も、七福神のえびす神と関係があるんじゃろ?」
「商売の神・福の神でもあるえびす神のルーツは、事代主神や蛭子神であるといわれとるよのう」
渡部宮司によると、西宮戎系(兵庫県)の蛭子神と美保神社系(島根県)の事代主神が、同時に祀られる神社は、全国的にも珍しいといいます。
広島は両地方との往来も盛んなので、一方に絞れなかったのかもしれません。
(監修/三浦正幸、取材・文/藤井由美『ひろしまのパワースポット社寺&ご利益巡り』南々社2012年)
「大江広元って?」
「平安時代の終わりから、鎌倉時代の始めにかけて活躍された方で、毛利元就(もうり もとなり)の12代前のご先祖様にあたる方なんじゃの」
「へぇ」
「その大江広元の四男・毛利季光(もうり すえみつ)が、安芸国吉田荘の地頭職を与えられたそうじゃ」
「毛利元就も吉田の郡山城(こおりやまじょう)を根拠地にしとったし、このころから毛利と吉田は関係があったんじゃね」
「吉田といえば、もともと吉田にあった胡堂を、ここ広島に移して胡子神社にしたんじゃの」
「そうなん?」
胡子神社は、慶長八年(一六〇三)町の年寄役銭屋又兵衛と大年寄松屋太郎右衛門が、町内繁栄の為に、吉田の胡堂に祀られていたえびす神を現在の地に勧請したのが創始といわれ、それによって胡町の町名が生まれました。
創始については色んな異説が残っておりますが、胡子神社の起源が吉田にあるのは間違いありません。
(「神社由緒」胡子神社)
「1603年いうけぇ、今から410年も前になるんじゃの」
「胡町という名前は、このころからあったんじゃね」
「胡子神社ができてから市が立つようになって、このあたりは「市の町」と呼ばれるようになったそうじゃ」
「ちょっと待ってよ…。1603年ということは関ヶ原の合戦の後じゃけぇ、安芸の国の殿様は毛利じゃのうて、福島正則(ふくしま まさのり)になっとった?」
「ほうじゃの。西国街道(=山陽道)を南にもってきて、広島城下を通るように整備したのも、福島正則なんじゃの」
「城下町をにぎやかにするために、商売の神様でもある胡子神社を吉田から移したんじゃろうね」
「福島氏のあと、浅野氏の時代になると、胡子神社の祭りは、厳島神社(住吉さん)祭礼、白島の清正公、尾長の東照宮祭、広瀬明神、白神社の氏神祭などとならぶ、広島の主要な祭になったそうじゃ」
「えびす講といえば、こまざらえ(熊手)じゃけど」
「これは、1902年(明治34年)に行われた胡子神社鎮座300年祭から売り出されたらしいのう」
「最初っから売りよったわけじゃないんか」
「原爆が投下(1945年8月6日)されてわずか3か月後の11月20日にも、バラックの仮社殿を建てて祭を行われたそうじゃ」
「原爆にも負けず、祭りを守ってこられたんじゃね」
「あと、ご神体もこのときに焼失したんじゃが、戦後、広島出身の彫刻家・圓鍔勝三(えんつば かつぞう)によって復元されたそうじゃ。で、戦後は2度、社殿の建て替えをされとってんじゃの」
「今のように、天満屋八丁堀ビルの裏にできたのは?」
「1972年(昭和47年)、当時の天満屋デパートの改築のときじゃそうな。それまでは、今より西に約10メートルのところにあったということじゃ」
「笑う門には福来たる」という言葉があるように、辛い事があってもくじけずに、毎日を清く明るく過ごしていくことが幸福への第一歩です。
何事も前向きに頑張りましょう。
日々の繁栄・幸せは笑顔と共に。
(同上)
↓胡子神社については、こちら↓
胡子神社
訪問日:2013年11月14日
【参考文献】
『広島県文化百選 2 まつり・行事編』
「今日は、広島市中区えびす通りにある胡子神社について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」