通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

旧宇品線跡を歩く(その5)

2013年11月03日 | 見て歩き
「今は廃止線となった旧宇品(うじな)線跡をたどる今回のシリーズ」

「前回は、丹那駅(たんなえき)を紹介したんじゃけど」

「今回は下丹那駅(たんなえき)を紹介しようかの」







【下丹那(しもたんな)駅】

駅間距離/0.7キロ

広島駅からの距離/4.7キロ

1934年(昭和9年)12月1日/芸備鉄道が「人絹裏停留場」を新設

1937年(昭和12年)7月1日/芸備鉄道が国有化され、駅名も「下丹那駅」に改称

1943年(昭和18年)10月1日/廃止




「人絹?」

「人絹(じんけん)は、人造絹糸(じんぞうけんし)、今でいうレーヨンのことじゃそうな」

「そうか。レーヨンは、絹に似せて人工的に作った繊維のことじゃけぇ、人造絹糸っていうんじゃね」

「広島市が誘致した錦華人絹(きんかじんけん。現:大和紡績)が、1934年10月から操業を開始したこともあって、駅が作られたそうじゃ」

「でも、駅は1943年に廃止されとるよ」

「戦時下ということもあって、1942年(昭和17年)12月に工場は操業を止めたんじゃの。それからは、陸軍の船舶練習部が使うとったそうじゃ」

「原爆が投下されたとき(1945年8月6日)は?」

「爆心地からは南東に約4キロ離れとったこともあって、被害は少なかったんじゃと」

「ということは、市内から負傷した人たちが避難してきたん?」

「翌7日には、3000~4000人の負傷者で埋めつくされた。ほいで、9日には、臨時陸軍野戦病院(第1陸軍病院宇品分院)が設置されて、6000人以上が収容されたということじゃ」



8月8日には理化学研究所の仁科博士らの調査班が到着し、無傷死体の解剖が行われ、放射線の影響であることが確認されている。

(被爆建造物調査研究会/編『ヒロシマの被爆建造物は語る―被爆50周年 未来への記録―』広島平和記念資料館 1996年)




「戦後の1961年(昭和36年)、大和紡績が持っていた土地は、マツダ(旧:東洋工業)に売却された。で、被爆建物はマツダ宇品工場西地区に残っとって、倉庫として利用されとるそうじゃ」

「そういや、戦後間もないころ、県庁がマツダに移ってきたんじゃろ?」

「加古町(かこまち。当時:水主町)のアステールプラザあたりにあった広島県庁は、原爆によって壊滅、庁舎を失った。そこで、1945年8月、当時の社長・松田重次郎(まつだ じゅうじろう)から土地を提供されて、本社がある安芸郡府中町(ふちゅうちょう)に移転してきたんじゃの」

「県庁はその後(1946年6月)、広島陸軍兵器支廠(現:広島大学霞キャンパス)に移ったんよね」

「10年間ここにおったあと、1956年(昭和31年)4月から、今の中区基町(もとまち)に移っていったんじゃ」













「下丹那駅があったあたりは、4年くらい前からパークゴルフ場として整備されとるんじゃ」

「芝生が張ってあって、きちんと手入れしとってじゃね」

「このあたりには、電線が架けられとらん。ほいじゃけぇ、電線に邪魔されずに空をながめることができるんじゃの」





【参考文献】

長船友則『宇品線92年の軌跡』(ネコ・パブリッシング 2012年)

被爆建造物調査研究会/編『ヒロシマの被爆建造物は語る―被爆50周年 未来への記録―』(広島平和記念資料館 1996年)






訪問日:2013年10月14日





「今日は、下丹那駅について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
コメント (2)
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