第3655号 31.01.12(土)
道なる者は、須臾も離る可からざるなり。離る可きは道に非ざるなり。是の故に君子は其の賭えざる所に戒慎し、其の聞えざる所に恐懼す。隠れたるより見(あら)はるるは莫く、微かなるより顕かなるは莫し。故に君子は其の獨を慎むなり。『中庸』199
道というものは、本来ほんの僅かの間も人間から離れられないのである。もしも離れられるなら、その道は真の道ではないのである。道に明らかな君子は、道を修めて行くのに、その外に顕れているところはいうまでもなく、その定かには見えもしないところから戒めつつしみ、聞き知れぬところから恐れつつしむ。つまりかくしだてするひめごとほど人前にさらけ出されてうわさの種になるというたといの通りで、もっとも戒むべきことは、人知れぬことにある。だから君子はわれとわが身ひとりのまもりをつつしみ修めることを根本とするのである。
【コメント】道とは人の守り行う道であり、道徳を含めた人の範としての人道の意であります。『論語』をはじめとして漢籍の多くは、こういうことを精しく教えています。
今、中年の男たちが組織する・歌う会「純烈」の高校生レベルのどこがいいのか、歌う時の振り付けはオムツをしている幼児そのものと何のかわりもない。こんなのを報道するから、子供たちが真似をして世の中おかしくなるのです。
元アイドルとされていた女の子で、車で轢き逃げをした女の子と同類だったのですね。
振付をよくしようと思うなら、日本舞踊等々20年位のおけいこが必要なのです。ふざけた中年のオニイたちに中年のおばはんたちがキャーキャーいっている意味がわかりません。
メディアで報道する会社は、真剣に対応してもらいたいものです。小さなことかもしれないけど、小さい内にピシッとして欲しいものです。純烈のメンバーのワルをした男は芸能界から引退したそうですが、生まれ変わってゼロからやり直してください。しっかりしていないと韓国の二の舞になります。
真面目な人生を送りたい人は『南洲翁遺訓』を繙いてください。
今日は円心会の新年会なのですが、悠聖君がインフルエンザにかかって欠席とのことです。
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『善の研究』第124回
主知説の心理学者は、感覚および観念を以て精神現象の要素となし、凡ての精神現象はこれらの結合より成る者と考えて居る。かく考えれば、純粋経験の事実とは、意識の最受動的なる状態即ち感覚であるといわねばならぬ。しかし此の如き考は学問上分析の結果として出来た者を、直接経験の事実と混同したものである。
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道なる者は、須臾も離る可からざるなり。離る可きは道に非ざるなり。是の故に君子は其の賭えざる所に戒慎し、其の聞えざる所に恐懼す。隠れたるより見(あら)はるるは莫く、微かなるより顕かなるは莫し。故に君子は其の獨を慎むなり。『中庸』199
道というものは、本来ほんの僅かの間も人間から離れられないのである。もしも離れられるなら、その道は真の道ではないのである。道に明らかな君子は、道を修めて行くのに、その外に顕れているところはいうまでもなく、その定かには見えもしないところから戒めつつしみ、聞き知れぬところから恐れつつしむ。つまりかくしだてするひめごとほど人前にさらけ出されてうわさの種になるというたといの通りで、もっとも戒むべきことは、人知れぬことにある。だから君子はわれとわが身ひとりのまもりをつつしみ修めることを根本とするのである。
【コメント】道とは人の守り行う道であり、道徳を含めた人の範としての人道の意であります。『論語』をはじめとして漢籍の多くは、こういうことを精しく教えています。
今、中年の男たちが組織する・歌う会「純烈」の高校生レベルのどこがいいのか、歌う時の振り付けはオムツをしている幼児そのものと何のかわりもない。こんなのを報道するから、子供たちが真似をして世の中おかしくなるのです。
元アイドルとされていた女の子で、車で轢き逃げをした女の子と同類だったのですね。
振付をよくしようと思うなら、日本舞踊等々20年位のおけいこが必要なのです。ふざけた中年のオニイたちに中年のおばはんたちがキャーキャーいっている意味がわかりません。
メディアで報道する会社は、真剣に対応してもらいたいものです。小さなことかもしれないけど、小さい内にピシッとして欲しいものです。純烈のメンバーのワルをした男は芸能界から引退したそうですが、生まれ変わってゼロからやり直してください。しっかりしていないと韓国の二の舞になります。
真面目な人生を送りたい人は『南洲翁遺訓』を繙いてください。
今日は円心会の新年会なのですが、悠聖君がインフルエンザにかかって欠席とのことです。
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『善の研究』第124回
主知説の心理学者は、感覚および観念を以て精神現象の要素となし、凡ての精神現象はこれらの結合より成る者と考えて居る。かく考えれば、純粋経験の事実とは、意識の最受動的なる状態即ち感覚であるといわねばならぬ。しかし此の如き考は学問上分析の結果として出来た者を、直接経験の事実と混同したものである。
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