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味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

寡妻に刑し、兄弟に至り、以て家邦を御む。

2016-11-18 10:09:14 | ブログ
第2880号 28.11.18(金)
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寡妻(かさい)に刑し、兄弟に至り、以て家邦(かほう)を御(おさ)む。『詩経』
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 「寡妻」は自分の妻。「刑す」は模範を示すこと。まず自分の妻に模範を示す、次には兄弟に模範を示し、こうして家をととのえ、邦をも治める。家庭における行いが、おのずから治国の道に通じるという思想。183
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 【コメント】大変良い言葉だと思います。西郷先生も、菅先生もこの漢詩を味わったのでしょう。折角ですので、この文言がある漢詩をご紹介致します。 
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   詩 経   大 雅  思 齊
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 思齊(しせい)たる大任は    文王の母
 思媚たる周姜(しうきゅう)は  京室の婦
 大姒徽音(たいじぎいん)を嗣ぎ  則ち百の男あり

 宗公に恵(つつ)しみ   神怨む時罔く
 神恫(いた)む時罔し   寡妻(かさい)に刑あらしめ
 兄弟に至り    以て家邦を御(おさ)む。
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【通訳】御先祖様にお尽しし、先祖の霊に怒りをかうこともなく、先祖の霊にお叱りを受けることもない。そして妻に法あらしめ、一族の兄弟に及ぼし、そして国を治めるに至った。(新釈漢文大系 詩経 下 93)

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『史記』の言葉。
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衆怒は犯すべからず。(楚世家) 
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 (大衆の怒りが爆発するとどうすることもできない)
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 楚の霊王は横暴なふるまいが多く、一時は国際的にも権勢をきわめたが、都を留守にしているときにクーデターがおきた。民心は離れて王は完全に孤立し、飢えて山中をさまよったあげく死んだ。そのとき嘆いてつぶやいたというこのことばが、皮肉にも名言として後世にまで残ったのである。

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『臥牛菅実秀』(第415回)  
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 この間の事情については、
    南洲翁すでに歿して、廟堂の形成一変し、報国の志を伸ぶるに由なく、軍職を辞せり。
と書き残されてあるだけであるが、新生日本の建設に尽そうとして異邦の生活に耐え抜いてきた忠篤、忠宝にとって、この痛切な挫折感は果してどのようなものであったろうか。それについての資料はほとんで見当たらないが、ただ忠篤は生涯、ドイツ留学時代のことを語ることを欲しなかったと伝えられている。
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 周囲の人々も、すでに西郷が賊将の名のもとに戦没したときから、忠篤、忠宝の将来にある暗い予感を抱いていたが、それが現実に示されたときの失望感は大きかった。
 ドイツに随行した神戸善十郎は、この後、間もなく、ほとんど憤死のようにこの世を去ってしまった。

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