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味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

乾道は男を成し、坤道は女を成す。

2016-11-14 09:56:43 | ブログ
第2876号 28.11.14(月)
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乾道(けんどう)は男を成し、坤道(こんどう)は女を成す。『易経』
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 「乾」は積極性の道であり、「坤」は消極性の道である。その乾道は男子としての性格を具え、坤道は女子の性格をもつ。たとえば、創始し、やりとおすという力は、男の多くがもつべきものであり、これを受けて完成し守りぬくという力は、女子に多く備わっているものである。234
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 【コメント】上の解説は素直に受け取りたいものです。そのようにありなさいということでは毛頭ありません。考え方として、です。
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 天が男と女という人間を生み出しました。時代が急速に進み、男女同権という思想が広がり、その権利は一緒だということになって参りました。
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 損得、利害という視点から見れば男女同権は大変よいことだと思います。然し機能が異なる以上、そこに制約がなければならないと思います。男に子供を産めといってもそれは叶いません。
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 現代の人は、天が産み出した男と女の役割というか、機能を無視しているように思えてならない部分があるように観察できるのです。
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 例えば戦争が勃発したとします。男は銃をかついで戦闘に赴きます。そして戦死者は男が圧倒的に多いのです。その翌年から出生する子供は男の子が圧倒的に多いのだそうです。
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 これは『終身教授録』を書いた森信三氏の『幻の講話』に詳述されています。ということは、天の力が働いていると考えてもいいでしょう。
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 毎週日曜日に報道する「なんでも言って委員会」に出演している超美人ではあるが日本一口の悪いバァさんは、そういう論理には与しないでしょうが、これらは事実として捉えていいのではないかと思います。
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 かといって男尊女卑であってならないと思います。それらを短絡的に考えるからいろいろ支障が出てくるのではないでしょうか。
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 すべてを科学で処理することは困難性があるように思われるのです。心身統一法を創見した中村天風氏の著書を読み、その考え方に興味を抱いていますが、なるほどという部分が数多ございます。
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 それらを素直に受け取り実践し、その結果が幸せを呼び込み、家庭内が仕合わせに包まれ、そして人様からも信頼され、健康に恵まれ、経済的にも恵まれるとしたら、天風論を是としていいのではないかと考えます。
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 政治の世界で、この考え方をA党が政策として推進したとします。ところがB党はこれは女性蔑視だという視点で吹聴します。人間できれば、多くの金を貰い、難儀もせずに暮らせるとしたらこれほどいいことはないでありましょう。77年間、生きてきて甘事をいう政治屋がいるから、世の中おかしくなるのです。
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 今日青年たちは、楽をして金を稼ぎ、そして遊び耽り、異性交遊にうつつをぬかしているとしたら、それは満足でしょう。そいうう生き方をした場合、死して後、それはそれは大変な難儀をするのだという映画を見たことがあります。これらは正論だと思えてならないのです。
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 私は父の事業倒産のお蔭で、大変な労苦をしいられたと思っています。しかし、そのお蔭で今日も超元気なのです。自分の幸せを追求し確保したければ『南洲翁遺訓』と漢籍を学ぶことに尽きると思うのです。

 周囲にも、老人団体と思える集団からお誘いがありますが、彼等は『南洲翁遺訓』を餌にしていますが、その精神性について真逆だと私は捉えています。

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『臥牛菅実秀』(第411回)
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 渡独二年目の明治七年六月に、忠篤が郷里に寄せた書翰に、
「大勢来ていた日本の留学生も追々帰ってしまい、静かになって勉強もしよくなった。学課は兵書、歴史、算術などで、昼夜ひまなく、大いに苦しんでいる。日常の会話はさしつかえなくなったが、学術は日常の会話とはちがって二、三年で卒業するわけにはいかないと思う。去年(六年)ベルリンに着いた忠宝も少しは会話もできるようになり、なかなかの勉強である。」
と報じている。
 こうした勉学の半面、大いに青春を楽しんでいる模様を、
「先日は忠宝、神戸善十郎(忠篤に随行した長沢は病気のため帰国し、随行者は神戸一人になっていた)それにドイツの友人たち十人ほどで、ベルリンから三、四里はなれた山林に出かけ、馬車の敷物を林の中に敷いて、肉を焼きビールを痛飲して楽しんだ。」
と報じ、そして、
   先日は当地において又又大調練有之、人数二万なり。国帝始め王族残らず馬上にて出で、実に盛んなること筆舌に尽し難   く候、何卒早々我が皇国も斯の如き兵勢に致したきものと存じ候。
と述べながら反面に、
   当地にても兵事は中々盛んなれども、其の外は皆々能きものには無之、西洋人とても四目両口有るにあらず、馬鹿は矢張   り馬鹿に候。
とあり、当時の洋行者には盲目的な欧米崇拝者となって帰朝した者も少くなかった中で、さすがに西郷、菅の訓育を受けた人だけに、他の心酔者とちがった見識を示している。

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