終わったところからの希望
希望というのは、不思議なものだと思う。もう、終わったと思ったところから始まるのが、本当の希望なのではないか。イエス様の復活もそうであった。誰がイエス様の復活を想定したであろうか。
確かに、福音書では、生前のイエス様がご自身が復活することを告げている箇所があるけれど、実際、十字架の上で壮絶な死を遂げたイエス様の姿を見て、いったい弟子の誰が、本気で、これからイエス様は復活なさるのだと思っていただろうか。すべてはもう終わった、そうした絶望感に支配されていたのではないか。それだけではない、これからは自分たちがいよいよ捕えられる番だと、恐れ慄いていたことだろう。
しかしイエス様は神様によって復活を遂げられた。まさに、終わったところから、キリスト教の真骨頂が始まったのである。私たちキリスト者は、常に、こうした終わったところから始まるといった、イエス・キリストによって示された希望に生きている。神学者で牧師でもあったボンへッファーは、ヒトラー暗殺計画に加わった罪で処刑され る最後の日に、「これが最後です。しかし、わたしにとっては、いのちのはじまりです」と語ったと言われている。
パウロは、私たちに最後まで残るのは、信仰、希望、愛だと教えている。それは、イエス・キリストにあってのことであって、このお方を抜きにしてはありえない。今日から神学校週間が始まる。神学生たちもこの希望に生きることを決めた人々である。
平良憲誠 主任牧師