神の啓示について
『パウロ・十字架の使徒』( 岩波新書) を、昨年2016年12月20日に無事出版することができました。「あとがき」にも書きましたように、平尾教会の皆様のお祈りとお支えに対しては、心から深く感謝いたしております。ほんとうにありがとうございました。
さて、拙著のなかで私は、次のように主張しました。パウロが出会った「復活のキリスト」は、「十字架につけられたままのキリスト」であった。そしてそのような姿のキリストの顕現こそは、パウロ自身の「内側」における疑問に対して、「外側」から神の応答として与えられた「啓示」そのものであった。パウロのその疑問とは、木に架けられた者は、申命記21 :23が言っているように、神によって呪われた存在であるはずなのに、なぜキリスト者は、こともあろうにそのようなイエスこそがメシア= キリスト、救い主だ、などと断言できるのか、という疑問であった。そしてそれは、ユダヤ教徒時代のパウロをして迫害者ならしめたほどに深刻な疑問だったのであるが、パウロのその「内側」の疑問に対して、神の応答が「外側」から与えられたのであった。そう私は主張しました。
しかしそうだとしますと、さらに根本的な問いが生ずることになります。すなわち、神の「外側」からの啓示は、受け取り手の「主観」を離れた「客観的」なものでなければならないはずなのに、パウロの場合には、むしろまったく逆に、彼の「内側」における疑問・こだわりにまさに「呼応」するようにして、神の「啓示」が与えられたことになってしまうが、ほんとうにそれを「啓示」と見なしてよいのだろうか、という問いです。パウロはこのような問いに対して、それを肯定しつつ、おそらく、「( 啓示をとおして) 預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです」( 第一コリント14:26~ 33a) と答えることでしょう。各自の信仰の成立にとって根本的なこの問題については、今後ともご一緒に考えていきたいと願っています。
青野 師