彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

刀と虎徹

2020年11月16日 | その他
虎徹の井戸がある長曽根町の歴史を調べられている方々の前で、虎徹さんの話をする。という恐れ多いイベントをしてきました。



まずは、僕の14年近い彦根での活動を話してから刀の話を始めます。
中国の『三国志』などの豪傑が使う刀と日本の刀との違い。
銅剣は祭事用であった可能性が強く、隕鉄から採れる鉄が剣となったことで戦いに使われ弥生時代からは剣で斬られたとみられる骨もあること。

前九年の役までは上古刀と言われる直刀の刀
その後南北朝時代までに古刀と言われる刀が、相模、山城、大和、備前、美濃で打たれたこと、これは鉄が採れる場所の近くの森の木を使って鋼を作りそのまま作刀したため。その上で水に恵まれていたと思われます。
彦根藩には備前由来の刀も多く残り、たぶん備前刀が一番有能だったと思うのですが戦国時代にこの地域が何度も水害に見舞われ作刀集団が離散します。
そんな中、一番後進の美濃が発展して越前や伊勢などに広がりそのなかの一派が長曾根派だと思いますが、彼らは甲冑を作る一族でした。

南北朝時代の後辺りから腰から鎖でぶら下げて佩刀する太刀(語源は経つ)より、下級武士が帯に指して帯刀する打刀(打ち合いに使う刀)が抜きやすく主流になります。
虎徹は、そんな打刀を打つ人物でした。
甲冑職人として高名でありながらも、
江戸幕府開幕で平和になり甲冑の需要が減ったこと、
自分の兜を斬れる刀が作りたかったこと、
刀は作者の名が残ること、
官位や物語が付く可能性があること、
などの理由があったとも考えられます。そして古鉄を利用して作刀したことから古鉄、そして虎徹を名乗るようになりますが、入道しての名乗りなので人を殺す刀ではなく、守るための刀を打ち続けたと思います。

虎徹の刀に付く伝承は、新撰組の近藤勇が愛したことで、近藤は三振りの虎徹を所有したと言われていますが、一番有名な池田屋事件で使われたのは虎徹ではなく源清麿だったとも言われているのです。

ちなみに、虎徹のように近江や江戸など各地で刀鍛冶が活躍できたのは物流の発展が後押ししています。
昔は、鉄から作る鋼も薪も運ぶだけで大変だったのでその場の近くの水が合う場所で作刀しましたが、物流の発展で鋼と薪さえ来るならば、水合う場所を探して刀が打てたのです。


と、このような話などを中心に、長曽根を含む三ツ根のことなどの意見交換も行いました。

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