彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

1月6日、藤堂高虎誕生

2011年01月06日 | 何の日?
弘治2年(1556)1月6日、藤堂高虎が近江国犬上郡藤堂村で誕生しました。

藤堂高虎が誕生した藤堂村は、八幡宮があり、そこの藤の花が立派であった為に、藤があるお堂という意味で“藤堂”という地名だったといわれています。

この為、高虎の生誕地もこの八幡宮を指定していたのですが、近年地名からの研究で、八幡宮のすぐ近くが生誕地として指定されました。

ちなみに、現在は藤堂という地名ではなく、この辺りを“在士”と呼びます。それは、井伊家がこの地を領するようになった時、徳川家康からの信頼も厚い立派な武士である藤堂高虎の氏をそのまま地名に残すのは比例と考えた井伊直孝が、「立派な武士が出た(在った)村」ということで“在士”と村の名前を変えたからだとされています。

さて、そんな藤堂高虎ですが、藤堂氏は高虎の父である虎高の時代では小さな地侍程度の武士だったといわれています。

この地は、南の六角氏と北の京極(もしくは浅井)氏の勢力が何度も戦っている地域で、その度に北と南のどちらに付くかの選択を迫られ、その過程でだんだん支配地を削って行かなければならなかった事情が伺えます。

そして高虎自身が戦えるようになると、浅井長政に従いました。
元亀元年(1570)の姉川の戦いでは目覚ましい活躍があり、長政から感状を受けたといわれています。
その後、小谷城落城の時には織田信長に従っていた様子があります。そして旧浅井長政家臣で織田信長に降伏して大溝城主となっていた磯野員昌の家臣となり、大溝城主が信長の甥の津田信澄に代わるとそのまま仕えましたが信澄とは合わなかったようで出奔しました。
羽柴秀吉の弟の秀長は、高虎の人材を見込んで自分の家臣とします。秀長は自分の家臣で有能な人物は兄の秀吉の直臣に推挙していましたが、高虎は自分の右腕として近くに置き、和歌山城の築城も任せ、家老として優遇するようになったのです。
磯野家に仕えた頃から知己があり、秀長家臣として共に仕えたのが小堀正次で、その息子が小堀政一(遠州)です。
秀長の没後に、跡を継いだ秀保に仕えますが、秀保も若くして不審死を遂げ(十津川で溺死と言われている)、その後は高野山で出家するのです。


こうして、藤堂高虎は戦国武将としての生き方を終えて、静かに余生を過ごすはずでしたが、世の中はそれを認めませんでしたが、それはいずれ機会があれば書きたいと思います。


藤堂高虎に関わるゆるキャラも各地でたくさん活躍しています。

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