彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

井伊家始祖・井伊共保誕生

2010年01月01日 | 井伊家千年紀
寛弘7年(1010)元旦、2010年の元日からちょうど1000年前。
冬の冷たい空気の中、特に厳しい寒さが襲ったであろう井戸の傍らに一人の赤子が居ました。
場所は遠江国井伊谷(現在の静岡県浜松市)の八幡宮御手洗の井戸で、近くの自浄院(今の龍潭寺)の住職(一説では八幡宮の神主)に拾われた赤子は、橘紋の入った産着を着せられ保護されたのです。この子が千年の歴史を今も伝える井伊家始祖・井伊共保です。

今から1000年前といえば、記憶に新しい話では、2008年に『源氏物語千年紀』が世の話題となっていました。
『源氏物語』の作者である紫式部が記した『紫式部日記』や後に関白太政大臣に就任する藤原道長の『御堂関白記』など京都を中心とする政治家たちの情勢を記した記録には恵まれている時期ですが、地方の情勢がいまいち不鮮明な時代でもある平安時代の一番象徴的な時期だったのです。
私たちがよくイメージするような、煌びやかで華やいで恋や和歌が謳歌した文化の時代は都に住む一部の豊かな貴族たちだけが楽しんでいた事で、宮廷から一歩外に出れば“平安”とはかけ離れた貧しい時代でもあったのです。

権力者や有力な寺院は荘園という私有地を全国に置き、その運営や監視・警護を地元の長に私警団を組織させ武装して守らせていました。これが武士の始まりとなり、天慶2年(939)に関東で起きた“平将門の乱”や永承6年(1051)から12年間東北地方を騒がした“前九年の役”などの朝廷を揺るがす武士の反乱も起こるようになっていったのです。

つまり、1000年前は貴族から武士へと政治の主体が変わりつつある、

“貴族主権の終焉と武士主権の黎明期”

でもあったのでした。

この先、明治維新までの約860年を武門の家として生き抜く井伊家の始祖・共保の出生は、武士の台頭とほぼ同時期になり、井伊家はその誕生の瞬間から武士として運命付けられた家であり、歴史の中に時々ひょこっと顔を出す重要な一族でもあるのです。



では井伊家始祖・井伊共保とはどのような人生を送ったのでしょうか?

井伊谷八幡宮の井戸で拾われた共保は、そのまま住職(神主か?)に育てられる事となりました。
7歳の頃に井中化現(出生)の男子の話は噂となり、都より遠江国司として下向し浜名湖の中の志津館に住居を構えていた藤原共資の耳にも入るようになったのです。この噂に興味を持った共資の娘婿として共保を志津館に迎えます。
井伊家は藤原房前の子孫と称していますが、これは共資の家系を引き継いだ物なのです。
長元5年(1032)に家督を継いだ共保は、生誕地の近くである井伊谷に城を築き、この地に居城を移して“井伊”姓を名乗るようになったと云われています。そして寛治元年(1093)に84歳で亡くなりました。

現在の地図を開くと、浜名湖のある辺りと井伊谷では同じ浜松市内とは言っても、すぐ近くという印象を受けるのは難しいと思います。
浜名湖の中に位置し、湖から太平洋に抜ける水運も持っていたとも予測される志津館から井伊谷川で浜名湖に繋がっているとはいえ山に近い井伊谷に拠点を移し姓を変える時に、家臣たちの反対は無かったのか?
妻である藤原共資の娘の意志はどうであったのか?
という疑問は残る所です、もしこれらが大きな反対も無く順調に進んだのなら、出自のはっきりしない自身の誕生や婿養子に入る立場から、共保は慎み深い人物であるように心掛けながら生きた人物だったのかもしれませんね。


“龍潭寺にある井伊共保の墓(左) 右は桶狭間で戦死した井伊直盛の墓”


後の話ですが、始祖が拾われた時に着せられた産着に入っていた橘紋が井伊家の家紋となり、井戸出生にちなんで井桁を旗印とするのです。

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