おけはざま山は、桶狭間の戦いの時に今川義元の本陣があったとされている場所です。
明治時代以来、長い間日本史における桶狭間の戦いは、桶狭間(田楽狭間)という谷間に本陣を置いた今川義元に対し、織田信長が谷の上から今川勢を見下ろして攻め降ったとされていました。
このために、今川義元は兵法も解らない凡将とのイメージが付いていたのです。
その原因は桶狭間という地名にもあることは否めません。
狭間という地名はどうしても谷を思い出させてしまうのです…
ただ、緑区の桶狭間古戦場公園の中にある「義元公首洗いの泉」の解説の中にこんな文言がありました。
“湧き出る水の勢いで水汲み用の桶がくるくると廻っている様子に興味を誘われた旅人が、桶が廻る間の一服とて「桶廻間」と呼ぶようになったとの言い伝えもあります。江戸時代の文書の殆どは「桶廻間」でしたが、明治10年(1877)の郡町村制の制定以降、現在の「桶狭間」となりました”と…
それが事実ならば、桶狭間は谷のような場所と考えることすらありえなくなるのです。
そして、最近の指摘として言われるようになってきたのが、義元が本陣を置いたのは「おけはざま山」であったと『信長公記』に書かれているということです。
この「おけはざま山」がどこであるのか?どんな漢字を使うのか?はわかっていないので、批准地として候補に挙がっている場所が、桶狭間古戦場公園近くの丘のような場所です。
この付近は確かに高低差があります。
住宅地の一角に石碑と案内板があります
桶狭間の戦いはまだまだ謎が多く残りますが、一つの説としての「おけはざま山」批准地として見学しました。
所在地 名古屋市緑区有松町桶狭間
明治時代以来、長い間日本史における桶狭間の戦いは、桶狭間(田楽狭間)という谷間に本陣を置いた今川義元に対し、織田信長が谷の上から今川勢を見下ろして攻め降ったとされていました。
このために、今川義元は兵法も解らない凡将とのイメージが付いていたのです。
その原因は桶狭間という地名にもあることは否めません。
狭間という地名はどうしても谷を思い出させてしまうのです…
ただ、緑区の桶狭間古戦場公園の中にある「義元公首洗いの泉」の解説の中にこんな文言がありました。
“湧き出る水の勢いで水汲み用の桶がくるくると廻っている様子に興味を誘われた旅人が、桶が廻る間の一服とて「桶廻間」と呼ぶようになったとの言い伝えもあります。江戸時代の文書の殆どは「桶廻間」でしたが、明治10年(1877)の郡町村制の制定以降、現在の「桶狭間」となりました”と…
それが事実ならば、桶狭間は谷のような場所と考えることすらありえなくなるのです。
そして、最近の指摘として言われるようになってきたのが、義元が本陣を置いたのは「おけはざま山」であったと『信長公記』に書かれているということです。
この「おけはざま山」がどこであるのか?どんな漢字を使うのか?はわかっていないので、批准地として候補に挙がっている場所が、桶狭間古戦場公園近くの丘のような場所です。
この付近は確かに高低差があります。
住宅地の一角に石碑と案内板があります
桶狭間の戦いはまだまだ謎が多く残りますが、一つの説としての「おけはざま山」批准地として見学しました。
所在地 名古屋市緑区有松町桶狭間