彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

櫻井驛跡訪問

2020年09月14日 | 史跡
JR京都線に乗っていると、通過する島本駅の近くに大きな石碑が建っていることが気になっていました。
掛川、浜松旅行の翌日、京都に予定があったのですが少し時間ができたので気になる石碑を見学に行きました。





すると、そこが櫻井驛跡でした。





『櫻井の別れ』と言えば、戦前は知らない人の方が少ないくらいの有名な逸話でした。

延元元年(1336)9月16日、新田義貞への援軍のために京から兵庫へと向かっていた楠木正成は櫻井驛に到着すると息子正行を呼びます。

正行がやってくると、「お前は、2000の兵を連れて河内に戻れ」と命じ自らは700を連れて兵庫で討死する覚悟だ」と語ったのです。
正行はそれに否を唱え自らも共に戦い死ぬと訴えたのでしたが、正成は自分に成り代わって後醍醐天皇に忠誠を尽くし朝敵を討つように諭して、後醍醐天皇から下賜された菊水の紋が入った短刀を渡したのでした。
この場面を表した像もありました。

その翌日、死地向かう700人が2000人を見送り、楠木父子も永遠の別れとなったのです。

楠木正成は、南朝の英雄でしたが土豪の出身であったために南朝の公家たちからは冷たく扱われていました。
同じ武士でも足利氏と出自が変わらない新田義貞の方が信頼されていたのです。
しかし、義貞は足利尊氏を敵対視するばかりで尊氏と協力する考え方はなく公家たちもそんな義貞を頼りにします。
対する正成は、義貞が播磨に出陣している間に尊氏との和解か、京に尊氏を誘い込んで討つ洛中決戦の戦略を後醍醐天皇に謀りますが天皇も公家もこれを拒否して正成に義貞への援軍を命じたのでした。
櫻井の別れはこの行軍中にあったとされています。この時の正行が11歳だったと伝えられてきたためにその健気さも重なり涙を誘う場面になっていますが、寧ろ11歳の子どもを行軍に加えてる父親ってどうなの?という考え方や、正行はもっと大人だった説、そもそもこの話がなかった説なども出てきています。

しかし、南北朝時代から昭和初期までの長い時間、楠木父子の物語とその舞台は日本人に愛されて続けていたのです。
明治時代には、英国公使ハリー・パークスもこの話に感動して英語で石碑を刻ませています。








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