大丸京都店で新撰組のだんだら羽織を復元し展示しているとのことで観てきました。
新撰組のだんだら羽織は、『忠臣蔵』の赤穂浪士の衣装を浅葱色(切腹時に着る裃の色)にしたものだと言われていますが、まだ芹沢鴨存命中に大丸呉服店に発注した物と言われていますので、オリジナルを作った大丸の企画というところに惹かれて観に行きました。
ちなみにこの隊服は汚れが目立つ色なので洗濯と縫い直しが必須だったためにすぐに使用されなくなり現存する物はないとされています。
しかし、渋沢栄一の記録や志士の回顧談などから新撰組には黒い隊服があったのではないか?と言われています。
この展示は、映画『燃えよ剣』のイベントに絡んでいたようで映画衣装も観ることができます。
・沖田総司
・土方歳三
・藤堂平助
前回、彦根城下町は彦根道から始まったと考えられることを記した。これは彦根だけの話ではなく都市計画においては当たり前のことである。しかし、時代の需要によって町の形は変わってくる。
古代は京都市内に碁盤の目として今でも残るような条里制が主流であり、この形は都市だけではなく日本各地で痕跡を確認することができる。滋賀県内もその例外ではない。対して現代に近い時期の土地計画としては太平洋戦争後の戦後復興ではないだろうか? その象徴的な逸話として名古屋市を例に挙げたい。
大空襲で名古屋城天守すら失った名古屋市の復興に乗り出した佐藤正俊市長(当時)は、田淵寿郎を技監に招き土木建築業務の全権限を託す。佐藤自身は前後の公職追放で市長職を追われるが田淵の仕事は継続された。まず田淵が行ったことは墓地を一か所に集めることと幅の広い道路を造ることだった。特に道路に関して見てみると、国策として公園整備も兼ねた100メートル道路が立案されていた時代ではあったが、それを除いたとしても道路幅8メートル以上を考慮した200万人都市を念頭に置いた道路計画が実行された。まだ高度経済成長期など夢にも思っていない時期に将来の車社会を見据えた道路計画は無駄とされ、田淵や佐藤は冷笑された。しかし、現在は先見の深さを高く評価されている。これに対し空襲の被害をあまり受けず江戸時代の街並みを残す彦根市では人口は名古屋市の20分の一ほどだが車の渋滞状況は場合によって酷いとも感じる(私見)。
名古屋市は例外だが、現在の都市形成は江戸時代に遡ることができ、各都市が持つ役割が組み込まれている。彦根は譜代大名筆頭井伊家の城下町であるため物流が活発な大規模地方都市であり、旅人を監視する監視機関であり、軍事都市でもあった。
物流は城下を通る道さえ整備できれば自然に商人がやってくる。監視に関しては「彦根城は道を通る人の顔が判別できるように道とは並行せず斜め向きに計算して築城されている」との眉唾な話を耳にするが、城下町には門や木戸を設置していて役人が常駐しているためわざわざ彦根城から監視する必要がない。絵図などを観ると城下町にも多くの門が作られていたことが確認できる。
そして軍事都市としての痕跡は、城下の中の細い道や「どんつき」と呼ばれる急な行き止まりと「食い違い」と呼ばれるクランクの多様であった。これら全ての道が敷かれたのちに町作りが始まった訳ではなく町作りの中で必要に応じて配備されて行くのだが常に重視されていたことは間違いない。
第一期の築城で現在の内堀より内側の築城が行われ、その堅城さは現在の城ブームでも語られる。しかし防御に適した城を戦いに使わないために城下町で敵を防ぐ工夫が考えられたのである。
彦根城下町の食い違い(彦根市本町二丁目)
古代は京都市内に碁盤の目として今でも残るような条里制が主流であり、この形は都市だけではなく日本各地で痕跡を確認することができる。滋賀県内もその例外ではない。対して現代に近い時期の土地計画としては太平洋戦争後の戦後復興ではないだろうか? その象徴的な逸話として名古屋市を例に挙げたい。
大空襲で名古屋城天守すら失った名古屋市の復興に乗り出した佐藤正俊市長(当時)は、田淵寿郎を技監に招き土木建築業務の全権限を託す。佐藤自身は前後の公職追放で市長職を追われるが田淵の仕事は継続された。まず田淵が行ったことは墓地を一か所に集めることと幅の広い道路を造ることだった。特に道路に関して見てみると、国策として公園整備も兼ねた100メートル道路が立案されていた時代ではあったが、それを除いたとしても道路幅8メートル以上を考慮した200万人都市を念頭に置いた道路計画が実行された。まだ高度経済成長期など夢にも思っていない時期に将来の車社会を見据えた道路計画は無駄とされ、田淵や佐藤は冷笑された。しかし、現在は先見の深さを高く評価されている。これに対し空襲の被害をあまり受けず江戸時代の街並みを残す彦根市では人口は名古屋市の20分の一ほどだが車の渋滞状況は場合によって酷いとも感じる(私見)。
名古屋市は例外だが、現在の都市形成は江戸時代に遡ることができ、各都市が持つ役割が組み込まれている。彦根は譜代大名筆頭井伊家の城下町であるため物流が活発な大規模地方都市であり、旅人を監視する監視機関であり、軍事都市でもあった。
物流は城下を通る道さえ整備できれば自然に商人がやってくる。監視に関しては「彦根城は道を通る人の顔が判別できるように道とは並行せず斜め向きに計算して築城されている」との眉唾な話を耳にするが、城下町には門や木戸を設置していて役人が常駐しているためわざわざ彦根城から監視する必要がない。絵図などを観ると城下町にも多くの門が作られていたことが確認できる。
そして軍事都市としての痕跡は、城下の中の細い道や「どんつき」と呼ばれる急な行き止まりと「食い違い」と呼ばれるクランクの多様であった。これら全ての道が敷かれたのちに町作りが始まった訳ではなく町作りの中で必要に応じて配備されて行くのだが常に重視されていたことは間違いない。
第一期の築城で現在の内堀より内側の築城が行われ、その堅城さは現在の城ブームでも語られる。しかし防御に適した城を戦いに使わないために城下町で敵を防ぐ工夫が考えられたのである。
彦根城下町の食い違い(彦根市本町二丁目)