彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

井伊家千年の歴史(22)

2017年11月26日 | ふることふみ(DADAjournal)
 井伊直虎が生きた時代を見渡したとき、何十年も前から歴史家たちに注目されていた人物は瀬戸方久であった。

 方久の前半生はよくわかっていない。一説では三河国清水城主の息子が城の落城で領国を追われ新野左馬助に助けられたとも、貧しい暮らしをしていた男が行商を繰り返しながら財を得て新野家に出入りするようになったとも言われている。新野左馬助に関りがあった縁から左馬助の妹が井伊直盛に嫁ぎ新野家が井伊谷に居を構えたときに井伊家と方久との縁もできたのだった。井伊家を得意先とした商売をしながらも旧体制の強い駿府でも商いを行っていた方久は、やがて今川氏真との縁もできるようになっていた。この頃、井伊谷は直虎が治めるようになっていたが方久が資金を提供して次郎法師を大旦那とする鐘(江戸時代に焼失)が寄進されるなど良い関係が築かれていて「松井」との名で井伊谷七人衆の一人にも数えられていた。しかし氏真は気賀に堀川城を築き城主に任命することで方久を取り込む、新田義貞の子孫を称していた方久は新田喜斎と名乗り武士としての顔を見せ、商人としては井伊家を見捨てて徳政令を賛同する立場に立ち直虎は井伊谷を失ったのだった。
 井伊家滅亡直後に始まった徳川家康による遠江侵攻で堀川城は徳川勢と戦うことを決める。方久はこれに反対して城を追われ中村源左衛門の仲介で家康と面会した。城主と領民が敵対することになった堀川城は徳川家の戦いでは例が少ない虐殺へと発展し方久は後悔の念から出家、しばらくは隠棲していたがやがて商人のみの道を進むことになった。
  時は流れ関ケ原の戦いが終り、徳川幕府は政権安定のために厳しい法によって身分制度をはっきりさせた封建制を強固にしようとしていた。それは戦乱の世を終わらせるために必要な手段ではあったが、急激で厳しい世の中の変化に戸惑った領民たちは城主まで務めた方久に民の想いを述べる訴状執筆を依頼した。困った者の為と想いこれに応じたが、この訴訟が幕府に提出された後に捕らえられることになる。そして身分を弁えずに世を乱す文章を書いたという「非文の罪」により斬首されたのだ、慶長11年(1606)方久の享年は83歳だったと伝わっている。方久の首が落ちた地は約40年前に堀川城の人々が処刑された場所であった。
 歴史の中ではときとして突然変異としか思えないような人物が誕生する。そのなかには時代を変えてしまうような影響を残す者もいるが全国という大きな規模にはならなくとも地域にとって何らかの足跡を残しているのだ。瀬戸方久は歴史家から「中世の岩崎弥太郎(幕末から明治の商人で三菱の創始者)」と評されているまさしく突然変異のような人物だったのかもしれない。
 余談ではあるが、『おんな城主直虎』では商人としての顔を瀬戸方久とし、武士としての人生を龍雲丸として描いている。

方久が城主を務めた堀川城址


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする