晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大成・三郡山(4) 3/24

2012-03-24 | 山・峠

2012.3.24(土)雨

 道標の広場から南東に道を辿ると緩やかで広い所に出る。ちょうど三郡山の西に当たる等高線が緩んでいる場所だ。植林が生えて薄暗いが、本当は随分気持ちの良い緩斜面である。これがいわゆる”なる”地形で長者ヶ成(ちょうじゃがなる)というのはここのことだろう。長者が住んでいたという伝説があり、節分の晩に黄金の鶏が鳴くという話や、牛の好きな女中の話が伝わっている。P1010364 P1010362 P1010363_2
 



左:長者ヶ成の三郡山に近い部分は植林。
中:土塁のように見える部分。
右:雑木の向こうに綾部市街や大江の連山が見えるのだが、、、


 しかし屋敷跡や井戸跡など生活の痕跡が在るわけで無く、第一周囲に水があるような感じはしない。水が無いので大成と大原の蛇ヶ谷に下ったと言う話しもあるが、そんなところなら最初から住まないと思うのだがどうだろう。おおい町川上の廃村宝尾だって、あんな高いところに住めるものかと思うのだが、しっかり水は出ているのだ。やはり人が居住するのには水は絶対条件であろう。
 土塁のように土が盛り上がったところがあるが、これは北山でもよく見られる山道ではないかと思う。愛宕山辺りでもこういう山道をよく見かける。
 綾部やその向こうの大江連山の展望が良いのだが、木々が邪魔になってよく見えない。少し進んだところに木々が切れた展望の良いところがある。ここで昼食をとる。P1010365
 
長者ヶ成の外れ辺りか、一番展望の良いところ。送電線は致し方ない。



 昼食後ほとんど登り降りの無い稜線を西南に進むと、指さしの絵が描いてあるおしゃれな道標地蔵がある。このあたりが主稜線から蛇ヶ谷へ降り始める地点なんだが、山林の作業道が入り込んでいて不明瞭である。出来るだけ山道を辿りたいと思うが、林道で寸断されたりするので、林道を行った方が確実かもしれない。
 やがて左方から蛇ヶ谷の源流が出合ってくる。大成峠に至る沢は蛇ヶ谷の支流であって、こちらが源流のようだ。P1010367 P1010368
 
この天保時代の道標はよく見るとかなり精巧な彫りである。



 下方に堰堤らしきものが見えてくると大成峠への分岐点だ。その少し下方林道脇に新たな石柱発見、「此ノ山上内藤重則戦歿之地」とあり、教育委員会が立てている。この地域の山域は内藤宗勝が討ち死にしたとされているが、それは内藤重則であるという説もあり、そういった経緯でこの石柱が立てられたのだろうが、史実として定かで無いことを教育委員会の名で立てるというのは如何なものかと思う次第である。P1010371 P1010376
 
内藤重則の石碑とげんさん屋敷近くの地蔵。



 さて、少し戻って蛇ヶ谷本流と大成峠への支流との二股に廃屋跡がある。これがげんさんの屋敷と言われているもので、かつては山仕事で財をなしたという屋敷跡である。明治の地図にも二棟が建っており、道を挟んでトタンの小屋跡もある。ここには手水鉢などがあり、作業小屋跡のようにも見えるが、残存状態から屋敷より新しいものかも知れない。また土手を少し上がったところに地蔵さまが祀ってある。ブロックのお堂や花筒をみると誰かが管理しお詣りをしておられるようだ。
 ここから大成峠までは植林の中の陰気な谷を遡る道である。P1010379P1010354

大成峠への登りと峠から蛇ヶ谷側を見る。



  数時間前に通った峠にたち、少し休憩の後元来た道を観音堂の所まで降りる。自動車で立木駅まで出て解散、有意義な半日であった。山行記録終わり。

今日のじょん:昨日ジローの調子がよろしくないというので様子を見に行った。食欲は異常なほどあるそうだが、全然身につかず怖ろしく痩せこけている。というより腰からお尻の筋肉が落ちているということだ。歳も歳だから致し方ないということだが、なんとも気の毒だ。老いるということの辛さ哀しさが身に浸みる。
 なーんて他所のワンを心配していたら、じょんが具合悪くなってきた。今朝は一回吐いていて、その後も二回吐いてしまった。三回目は少し吐瀉物に血が混じっているようで、人間で言えば胃潰瘍のようだ。P1010406
 それよりなによりかみさんの弱りようが堪らない。落ち込んでしまって布団かぶって寝てしまう始末、、、、こちとらが病気になりそうだ。
元気ネエゼ。

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大成・三郡山(3) 3/23

2012-03-24 | 山・峠

2012.3.23(金)雨

 大成峠に向かう道は両脇に廃屋跡が続き、もの悲しい感がする。大成の大部分がこの道沿いに住まいしていたと見て良い。常夜灯から少し登ったところ、左側にコンクリート枠の池が残っている。聞くと防火用水だということだ。これほど高いところに来ると水は豊富には無い。火事に対する用心は相当であっただろう。消防ポンプもどこか備えてあったそうだ。
 
この地域は離村が早い時期であったようで、土蔵など残っている家は無い。柱や家財の一部が残っているもののほとんどが自然に還ろうとしている。ただ屋敷跡がはっきり分かる石垣だけはしっかり残っている。すべてではないが誰が住まいしていたかが分かる塩ビの標柱が立っている。これは何のためだろうか。P1010342 P1010343 P1010347
 



左:植林の中に屋敷跡の石垣がつづく。
中:柱の残骸に街灯の破片
右:屋敷跡に立てられた塩ビの表札、何かの調査の跡か。


 そしてある一軒にお墓の跡が残っていた。これは妙なことである。なぜならお墓は下流の集合墓地に移されたはずだからだ。明治何年だかの先祖代々の石塔があり、その付近にかなり古いと思われる五輪塔などが苔むしている。そして右手に朽ちかけた木造の龕があり、中にはこれまた古そうな五輪塔が入っている。
 このような形で墓地が存在することは、この地も両墓制であったのだろうか。
また、ここ一軒だけに墓地が残っているのは共同墓地が出来る以前に離村をされた家かもしれない。明治期に既に二軒が離村しているからだ。P1010345 P1010346
 




 屋敷跡が途切れて勾配もきつくなったあたりに二股があり、道標がある。「右大ばら左やま」とあるのだろうか、大原神社への参詣の盛況さを物語る。大原神社に参詣することを大原指(おおばらざし)といい、春指、秋指などと年中祭礼があったようだ。
 大原への道を辿ると杉木立の中の大成峠に着く。大原神社お詣りの人々がここを越えて蛇ヶ谷へ下っていったのかと思うと、嬉しい峠である。大原まであとは下りなんだから。P1010350 P1010353
 
「右 大ばら 左 やま 江」、そして大成峠。



 小休止の後三郡山(みこおりやま・479.9m)へつづく稜線を辿る。送電線の保守道路になっているためか歩きやすい。闊葉樹の明るい尾根道を登って行く。木々の間から長老が岳方面、上林の山々が白く見える。今朝も雪が降ったそうだ。
 やがて左、長者成へゆく道と右、三郡山山頂に行く道とに分かれる。数分で山頂に着くが見通しもきかないなんて言うことも無い山だ。P1010355

三郡山山頂


 早々に北向きの尾根を降りて行くと、ちょっとした広場があり、地蔵や板碑、道標などがある。P1010360P1010359P1010358




左:「右ハ かアい 大原 左ハ大なる」
中:一番古そうな板碑
右:「右 上ばら ???下のかいち」弘化三年の仏蔵道標 


    ここは一種の交通の要衝的なところで、上原、下原からの道は登りが終わったところだし、ここから下替地(したのかいち)、大成、大原へと分かれる所でもある。大成へは今来た道を辿れば良いし、大原へは長者成から蛇ヶ谷への道を辿れば良い。下替地へは三郡山の北を捲き、何鹿船井郡堺の尾根を下って途中から下替地に向かう支尾根を行く道があったのではなかろうか。またその支尾根の分岐から南に行くと大成の片山さんや樋口さんの家、いわゆる北谷にむかう道もあったようだ。つづく

今日のじょん:大好きないくみちゃんが居るのでヒコヒコ。でも雨降りで植木市には連れてってもらえないでがっかり。しゃーないので見送りの車には一緒に乗せてもらっていきやした。疲れた、、、。P1010391 P1010397 P1010403
 

  

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