晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大成・三郡山(2) 3/22

2012-03-23 | 山・峠

2012.3.22(木)曇

 観音堂の裏手を北に細い山道をトラバースしていくと樋口家の屋敷跡がある。屋敷は完全に壊れて、土蔵のみが残っている。土蔵というのは湿気にも腐蝕にも強いのだろう。完全に廃村となったのが1966年ということだから46年以上経過しているから驚く。わたしの家の土蔵(川合)など30数年で崩壊してしまっている。建物の大きさに関係しているのかとも思う。この山間の斜面に建てられた土蔵は一回り小さい、屋敷にしたって跡地を見る限りかなりこぢんまりしている。貯蔵用の穴や貯水の枠など生活の跡が偲ばれる。P1010328
P1010329P1010330 



左:樋口家土蔵 中:庭石か 右:貯蔵用の穴

 さらに北に向かい谷を渡ると片山家の屋敷跡があり、同様に土蔵が残っている。ここは出身のご婦人が参加しておられ、ここがお風呂、ここが座敷と説明をして頂いた。村を出て以来半世紀近くたって初めての里帰りをされ、どのようなお気持ちだったのだろう。わたしは彼女が小さい頃、あの山道をランドセルを背負って学校に通っている姿を思い浮かべる。学校は一、二年生は立木(たちき)の分校に通い、それ以降は安栖里(あせり)の小学校に通ったそうである。立木までは2Kmぐらいだが、安栖里まではそれから5Kmほどある、立木からは汽車を利用していたのだろうか、聞き忘れてしまった。今では植林で陰気なところだが、かつては開かれた明るい村だったろうと想像される。それにしても道巾や傾斜は変わらないところであり、子供の足では通学も大変であっただろう。P1010333 P1010332 P1010338






左:片山家土蔵 中:手吹きの瓶 右:家の手前の谷、かつては橋が架かっており、水車もあったそうだ。


 廃村後土蔵は荒らされるものらしい、各家にあった什器などは置いていくからだ。わたしの家の土蔵も荒らされたが、ここも同様に荒らされたようだ。皿や漆器などさしたる価値が無いとしても、骨董市では相当の値段で取引されているようだ。
 それでも持って行きようのない手水鉢や壺などが残っており、生活の跡が偲ばれる。その中に手吹きガラスの瓶が数個と何に使うか分からない道具があったので、かつての住人にお断りして戴くことにした。道具は田の草取りの農具だった。歯車式のは一般的だが、すくい取るタイプのこの農具は初見であった。
 家の横の谷には橋も架かっており、水車もあったと言うことだ。観音堂から奥には明治の古地図には三軒の家が載っており、もう一軒はかなり上部にある。集落全体がいわゆる高地性集落と言えるのだろう。
 再度観音堂への道を還り、大成峠への道に向かう。等高線の緩んだこの緩斜面が大成の名の由来であり、大成集落の中心地だと言える。林道の脇に大きな常夜灯が立っており、この林道の上が参道であることが分かる。常夜灯は巨大なもので、元治元年(1864年)の銘が刻んである。大成のシンボリックなこの常夜灯をいつまでも残して欲しいと思う。つづくP1010339

常夜灯から右へ参道があり、真っ直ぐ登ると大成峠に続く大成のメインストリート。


 今日のじょん:じょんたんの記事(3.20)に肝心のじょんの写真を忘れていた。改めてアップしておくことにした。ただしあんまり良い写真では無いので期待しないこと。
 パオパオさんのコメントに誕生日がはっきりしている云々とあったのだが、本当のところは分からない、信太山のスタッフが観察を続けていて、その前後関係から3月20日となっているだけのことだ。
 

コメント
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