晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大成・三郡山の考察

2012-03-31 | 歴史・民俗

2012.3.30(金)曇

 3月21日(水)の大成、三郡山の山行については山行記録として紹介したところであるが、その目的は大成の廃村の状況、大原に至る道の観察、長者成の探査といったところである。

(1)大成の廃村の状況について
 廃村という言葉にはなんとも悲しい響きがある。何百年前、あるいは千年以上も前に祖先が住み着き営々と代を重ねてきた村を自分の代で終わりにするのである。もちろんこの重大な決意をするのには様々な理由があるのだが、結局社会の変化ということになるのだろうか。P1010320
 
大成、観音堂横の五輪塔、地蔵、板碑(2012.3.21)


Img_1711
宝尾山中の墓地、雰囲気は同じだ。(2010.11.13)



 わたしがかつて訪ねた廃村は京北の廃村八丁とおおい町の宝尾である。信州や飛騨の山々を彷徨っているときいくつかの廃村を通っているのかも知れないが意識していなかったので気がつかなかった所もあるかも知れない。
 廃村八丁は周囲を山に囲まれた源流地帯にあり、山奥ではあるがいわゆる高地性集落という感じでは無い。かつては木材の供給地として裕福な村だったと聞く、八丁川の鉄砲(川をせき止めてその水流で木材を搬出する)やコシキ峠は木材を人手で運搬したと聞くとそのことが解る。シンボルともなっていたあの大きな土蔵は50年以上たっていても立派に建っていた。昭和16年には六軒あった家も総て村を出たという。その理由は昭和8年の豪雪で隣の家に行くのも困難になり、住民は生命の恐怖をも憶えたという。また子供の教育ということも大きな要因になったそうだ。わたしが訪れたときには壁の落ちた土蔵と屋敷跡、神社、お墓が残っていた。
 宝尾は高地性集落であって、一乗寺という大寺院が六世紀に存在したという伝説がある。山腹に平な地形が多くあり、それらしい伝承地名もついているが、仏教伝来当時に大伽藍を備えた寺院がこの地に有ったとはにわかに信じられない。ただ重文級の仏像等が流出しているというので、かつて相当の寺院が存在したことには間違いないだろう。開村当時は百軒の家があったと言われるがこれも定かでは無い。文書(若狭郷土史研究36-3)に藤原家五軒、渡辺家三軒、三谷家二軒という記事がある。この程度の屋敷跡なら充分に残っている。最終には一軒だけが残っていたと聞く、山中での一軒屋の生活とはいかばかりかと想像する。
 戦時中に男手が無く村が維持できないので順次離村して、昭和20年代に廃村となっていたと書いている。Img_1712
 
宝尾の墓地で見つけた蹄鉄は、田畑で使ったものか、木材運搬に使ったものか?



 この村の成り立ち、往古の役割は解らないが、近年には山林で生計を立てていたのでは無いだろうか。高所ではあるが水は豊かで、一部水田もあったそうだ。しかし何にしても人の背で運び上げるのは困難なことで、離村の理由は生活の困難性ではなかろうか。
 大成はこの宝尾といろんなところで類似性がある。つづく

【作業日誌 3/30】
じゃがいも植えつけ(キタアカリ、アンデスレッド、シンシア)
タマネギ草引きと追肥

今日のじょん:アレルゲンを見つけるべくドッグフードを替えるそうだ。注文品が届くまで御飯主体の食事となっている。便が軟らかいせいか今日など三度もうんPした。それに妙に腹すかせている、ご飯って持ちが悪いのかなあ。写真は再開したぽんぽこジャンプ。P1010441
 

コメント
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