晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

地名のこと(9) 2/14

2012-02-14 | 上林地名考

2012.2.14(火)雨

 イノハナが鋳の花で鉱物と関係があるとしたら、日吉や京北のマンガン鉱銀座にその地名があるはずだ。地名辞典で小字を辿ってゆく。ついでに鉱山地帯の大江方面ものぞいてみる。どんどん出てくれば、やっぱりということになるのだが、全然見当たらない。やっぱりダメかと再度見て行くと京北町(現京都市右京区)下黒田に井ノ花、井ノ花谷を見つける。このあたりもマンガン坑地帯なのだけど、これだけでは鉱物との関連を語ることはできない。
 そんなとき鉱物関係のあるブログで丹波に於けるマンガン鉱の鉱脈についてのことが書かれていたのを見つける。丹波のマンガン鉱は京北、日吉あたりが最も濃いが西進すると猪鼻(京丹波町)のあたりで一旦途切れるというような内容だった。
京都大学の日下部吉彦氏の「丹波山地のマンガン鉱床」という論文が公開されており、そのマンガン鉱床分布図を見ると、そんな感じかなあということが解る。
 となるとだ、これは可能性としてはかなり薄いのだが、イノハナ=鋳の端という意味も考えられそうだ。
 昨年猪鼻を訪れた際には、マンガン鉱山のことなどさらさら頭になかったから、聞くことも無かった。この地がマンガン鉱脈の端ということならば、端の鉱山があるはずだ。とその時あの地名の謂われとなっている猪鼻岩のことを思いだす。猪の顔に似ているから猪鼻と付けられたという地名はあとからこじつけられたものとばかり思っていたが、ひょっとしたらあの猪の鼻は過去の鉱物の試掘の跡ではないだろうか。そういえば自然のものでは無いような気もしてきた。雪が解けたら現地を訪れてみよう。猪鼻にマンガン坑があったのかどうか、鼻の穴に入って何かの跡でないか観察してみたい。
Img_3164  
この穴、人工的に掘られたものなら事件である。


 とまあ地名の探究というのは次から次へと疑問が拡がり、遂に一点に凝縮するなんてことはあり得ないのである。

今日のじょん:屋根の雪が少なくなって、じょんのびアルペンルートが開通した。雪が解けるのは嬉しいことだけど、じょんの遊び場所が少なくなるのはチト寂しい。P1010032 P1010044
 

ビフォアーアフター

  

 

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雨読 鉄の語る日本の歴史(上) 2/13

2012-02-14 | 雨読

2012.2.13(月)曇、雨

 鉄のことを知りたくて色々の本を読むのだが、どうも頭に残らない。何度か読み直せば良いのだけどそれもしゃくだ。というわけで新たな本を読むことになる。そのうちに頭の記憶装置に保管されることになるのだが、今度はそのデータを取り出すのが一苦労となる。
 「鉄の語る日本の歴史(上)」飯田賢一著 そしえて文庫一九八二年第五刷 定価一八〇〇円 購入価 六〇〇円
 鉄に関する技術史の本である。世界に於ける鉄の発見から、日本のにおける明治の国営八幡製鉄所設立までの技術史である。それ以降現在に至るものは下巻に記されているのだが、わたしの目的には沿わないので当分読むことはないだろうから上巻についてのみ報告しよう。P1010049
 本書の良いところは「鉄の生活史」窪田蔵郎著と同様、著者のポリシーがしっかり表れていることだ。技術的なこと歴史的なことは充分語られていても著者がどのような考えを持っているのか書かれていない、教科書のような本が沢山ある。そういう本は読んでいてもつまらないし、読んだ後の感動も起こらない。
 飯田氏は技術史、思想史の専門家ということだが、金属に関する研究もされており、鉄に対する思い入れもあるようだ。
 人類の長い穴居、狩猟生活から定住、農耕生活に変わったきっかけは鉄の発明にあるのではないかと言っている。日本に於いても、登呂遺跡に見る無数の木製品をみてもその製作に鉄の道具があると推測されるのだ。鉄の製作は農業と同時期、あるいはそれ以前とも言われている。ただ一般の歴史の認識では、鉱業は新しいもので、まず農業が芽生えたというふうになっている。この一般論に反論されているところに著者のポリシーを感じるのである。
 また明治新政府の鉄鋼にかんする政策については、技術者を無視した政治家の手法を鋭く批判している。わたしはあらゆる分野で明治新政府の欺瞞性、野蛮性、無能力、官僚主義を批判してきた。大成功をおさめたかに思われている鉄鋼興産の分野でもそうであったかとおもわされる内容であった。
 技術的なことで、古代の鉄製品の原料について化学分析などを通して書かれているが、実は各書によって主張が異なるのである。わたしが知りたいのは原料が砂鉄であるか鉱石であるか、はたまた国内のものであるか海外のものであるかということである。大きくはマンガンの含有率によって語られているのだが、各書によって結果が正反対のものとなっているのは、含有率だけでは言い切れない部分があるのだろうか。
 また、一六世紀に描かれた重文の『職人尽絵屏風』の鍛冶師の絵に芭蕉らしき木とカナリアらしき小鳥が庭先にあることに言及されている。貧しい鍛冶師にとって、風流のために飼っているものとは思えない。どちらも鍛冶の仕事に関係するのではないかと鋭い観察をされている。芭蕉に特に空気を清浄する効果があるとは思われないが、カナリアは鉱山内で有毒ガスの感知に使われていたと聞く。いずれにしても氏の観察眼の鋭さに感服する。
 余談ではあるが、文中に釜石地方の餅鉄(もちてつ)と呼ばれる70%近い鉄分を含む鉄鉱石のことが書かれている。餅鉄は低温で還元が出来、良質の銑鉄が得られるためたたら製鉄以前の古代の製鉄が行われたのではないかと言われている。わたしはもち鉄の現物は見たこと無いのだが、一昨年上林川で採取した石が実はそれでないかと思っている。P1010051

ずしりと重くて、強力な磁性がある。



 今日のじょん:ゆきパパが「じょ~んお土産屋で」と言って長座布団を持ってきてくれた。わたしのイ草の座布団が破れてきたので、こりゃいいやじょんにやらんと使っちゃおっとおとうの場所に敷いておいた。ところがだ、ふと見るとじょんがくんくんと嗅いだと思ったらクルクルすとんと座り込んでしまった。どーも自分がもらったと解ってるみたいだ。。P1010045P1010046
  



 しゃーないなあ、返したらあとばかりにじょんの場所に敷いてやったら牢名主のようになってしまった。P1010048

 

 

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自作出版開始 2/12

2012-02-12 | 日記・エッセイ・コラム

2012.2.12(日)雪、曇 朝の気温0℃ 積雪2cm

 「虎は死して皮を残す、人は死して書を残す」うーむなんかおかしい。残すじゃなくて遺すだろう。こういう間違いを犯さない辞書、ソフトを求めて一太郎2012を購入したのだが、残念そこまで発達していなかった。
 という感じで、我がワープロソフト一太郎2005を七年ぶりにバージョンアップする。
書を遺すために百万円程の予算を残していたのだが、じょんのび村の建築に使ってしまって、数万円になってしまった。これでは自費出版は困難である。
 そこで考えたのが自作出版、つまり起稿、編集、印刷、製本をすべて自分でやってしまおうというものである。どっちみち万人が読もうという本でもないし、何巻も続くと思われるので、発行部数は少ないがその都度増刷できるこのタイプは理想である。
 製本技術には慣れが必要だと思うので当初はろくなものが出来ないと思うが、増刷、改訂を繰り返す毎にいいものが出来るんじゃないかと思っている。それになりよりもいいことは、原稿の締め切りもないし製本の納期もない。良い本を作るのはこれに限ると思うのだが、早々から良い装幀が出来ようはずもない。おそらく悲惨な状態からの出版となろうかと思うが、版を重ねる毎に良いものを作り、最後には栃折久美子さんをも唸らせる本を作りたいと密かに思っているのである。
 以上は装幀の問題だが、編集の問題も重要である。現在無数の本が世に出ているが、果たして読者の立場を考えて出版されている本があるだろうか。原稿の善し悪しは別として、編集段階でもっと読みやすい本を作ることは可能だと思う。
 金達寿氏が編集者の意見に従って、である調をですます調に替え、地名や人名にはふりがなをうったというのには感激した。ですます調は確かに読みやすい、わたしも一定期間ですます調で書いたのだが、どうしてもなじめなくて止めてしまった。しかしふりがなについては大賛成である。人名地名など固有名詞は読み方が解らないもの、どう読んで良いか解らないものが多い。一般的に最初の登場でふりがなを打って、後は打ってないものがほとんどである。多くの読者は解らないままよみすすめるか、間違った読みで終わってしまう場合が多い。
 すべてにふりがなを打たなくても、その項の最初だけでも打っておけば読者が間違うことはない。
 注釈、参考文献などもそうだ、一般的には巻末にまとめて書いてある。読書にはリズムがあるのでそんなものを見ることは無い。それらは項毎にまとめられるべきである。P1010038
 
使いこなせば値段以上の価値があるが、そうでなければ無駄遣いの象徴のようなものである。


 そういった読者の側に立った編集をしたいと思う。そのために大枚八千円を払って七年ぶりに一太郎をバージョンアップしたわけだ。折丁印刷、ルビ打ち、注釈、添削など嬉しい機能が盛りだくさんで、あとはこれを有効に使えるか否かだ。
とにかく自作出版の第一歩を歩んだわけだ。

今日のじょん:放っておいても雪の山に登るようになってきた。屋根の雪がまだ残っているのでチト心配なのだが、、、、。冬の楽しみなんだからまあいいか。朝の運動が終わって飯食ったら、お客さんが来るまで温々で眠っている。エーナー。P1010032

P1010037

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地名のこと(8) 2/11

2012-02-11 | 上林地名考

2012.2.11(土・祝)

 柳田国男氏や吉田金彦氏など大御所に逆らいつつも金属地名としての猪鼻の可能性が無きにしも非ずという所まで来た。ここで全国各地の猪鼻、猪ノ鼻、亥鼻、井の花地名を探ってみる。二十三地点を選んで、地図で調べて見る。同じような状況の所ばかりなら良いのだけれど実に千差万別である。山地有り、市街地有りで地形的にも色々である。問題の金属関連地か否かという点はいくつか該当するのだが、すべてがそうだとは言えない。詳しい分析は他稿に譲るとして、猪鼻には様々な意味があるのではないかと思わせる。
 その一つに金属関連地名があるとすれば、イ・ノ・ハ・ナをどう解釈すべきだろうか。イ=鋳、井というのは考えられるが、ハナはなんだろうか。
 そんな時、マンガンについて調べた本、「マンガンぱらだいす」と「丹波マンガン記念館の7300日」の中に面白い記事を見つけた。前者では海老谷の例だと思うが、田んぼの中からもマンガン鉱脈が発見されたということで、鉱石の黒い塊が花びらのような形で落ちていて、これを「ハナ」と呼んだということだ。Img_3721
 
田んぼの中でも鉱脈が発見されたという海老谷(京丹波町)


 後者では川に流れ出たマンガン鉱石を「マンガンの花」と呼ぶとある。
 鳥垣のマンガン坑を訪れたとき、同じような岩壁はいくつもあるのにどうしてこの箇所にマンガン鉱が存在するのが解るのか不思議に思ったことがある。想像するに、岩壁の表面に黒い鉱脈の切断面が現れていたのではないだろうか。それがマンガンの花というのではないだろうか。それはもちろん風化したり欠け落ちたりして斜面に落ちやがて谷や川に堆積して、これもマンガンの花と呼ばれるものなのではないだろうか。今まで訪れたマンガン坑は圧倒的に谷の側が多いのである。川や谷を遡って流れ出た鉱石を辿り、鉱脈を見つけたのだと思う。Img_3423
 
この岩壁にどうやって鉱脈を見つけたのだろう。(鳥垣、アシ谷)


 このことは科学的な鉱物探査が不可能な時代にはマンガンに限らずあらゆる鉱物に共通することであって、露頭を探すということが鉱脈を見つける最も有効な方法で在ったのでは無いかと考えるのである。そしてこれ等をも「ハナ」といったなら、「鋳の花」という意味で地名が残ることも考えられるのである。
つづく

今日のじょん:昨日は今年初のシャンプーをして、体重測定は18.4Kgで合格。
雪があるうちは泥んこにならないのでいいのだが。
今朝の積雪は2cm、可愛いものだ。P1010021

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地名のこと(7) 2/10

2012-02-11 | 上林地名考

2012.2.10(金)曇 朝の気温-2℃

  猪鼻地名についてもやもやしているとき、「京都滋賀 古代地名を歩く」Ⅰ、Ⅱという本を手に入れた。京都地名研究会の会長をされている吉田金彦氏の著作だ。読み始めると面白いのだが、地名の解釈に文学的な素養が入っており地名の由来についてもなにか情緒のあるものとなっている。私自身は古代の地名というのはかなり現実的な人間の生々しい生活に直結したものであるという考えなので、少し合わないなあと思い読み進めていないのである。P1010023
 その中で和束町の湯舟(ゆふね)や犬打(いぬうち)のところで珍しく金属地名としての解釈がしてあるのを見つけた。その中に猪谷(いのたに)、猪鼻峠(いのはなとうげ)も出てくるのだ。猪谷にはマンガン鉱山があったとか、鉱山地名に関連してイヌ・イノ・イナがあるという風にも書かれている。
 イ=鋳という意味だろうか。またイ=井であって、井が縦坑を意味するとしている説もある。
 ところが、「採掘場で人が事故で亡くなったり、峠から人が去ってゆくので、イヌ(去)の名があるのかとも思うが(猪谷・猪鼻)それだけでは片付けられない。」という風に締めくくっておられるのは少し興ざめである。
 同じ本の中で土山近くの猪鼻について書かれているが、このあたりこそかつてのマンガン鉱山もあり、金属鉱山地域だと思うのだが、吉田氏の文は次のとおりである。
「というのは、蟹ヶ坂までは鬼の出没するところで、蟹塚や蟹ヶ坂のカニ(蟹)は難儀なところをかろうじて克服するカヌ(肯)の意があり(鬼の横から出て来て悪事を働くという意をかねている)、イノハナ(猪鼻)はイノハナ(斎端)で祈りの場の端を表している。」
 カニ(蟹)=金で蟹地名が金属地域を指すのはよく言われていることで、もう少し現地のことを調べられたら上記のような文にはならなかったのではないかと失礼ながら思うのである。

  今日のじょん:今朝も氷点下で雪はカチンカチン、久々に上林川に降りてみる。まだ誰も歩いていないかなと思いきや、誰かがワンの散歩に来ている、ヘイヘイかな。
というわけで足跡を嗅ぎ回っているのだが、上林川の様子もお見せしよう。P1010009 P1010010 P1010011  

 

 

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地名のこと(6) 2/9

2012-02-10 | 上林地名考

2012.2.9(木)曇 朝の気温-5℃ 降雪量1cm

 竹を屋敷の周りに植えることによって屋敷を隠すことは出来るし、竹林では刀を振り回すことも出来ないので防御の意味はあるのだが、それが竹鼻の地名の語源だとは思えない。第一武士が登場する以前から竹鼻地名はあっただろうと思うし、およそ武士とは縁のない様な所にも竹鼻地名はあるわけだ。
 竹、孟宗竹というのは人工的に植えられたものではないかと思うのである。必ず家屋の周囲にあり、廃村になった高地集落などでも他の樹木の中に特徴的に生えているのでかつての生活の跡がうかがえる。念道でも屋敷のあるところ、あるいはあったところには必ず孟宗竹の竹林がある。ところがそれはすべて家屋の上の斜面に植わっていることである。これはどう考えても地盤の保全としか考えられない。地震、土砂崩れ、あるいは上部からの雪崩なども含まれるかもしれない、一つの防災対策だと思う。P1000437
P1010012_2  
念道の集落の様子、秋と冬のものだが家屋の上部に孟宗竹の竹藪が帯のようにつながるのがわかる。


 話がそれたが、竹鼻地名について、柳田国男氏の文からは納得いくものが得られない。ましてや猪鼻についてはどういうことを言っておられるのか理解が出来ない。
 「イノハナというのも似たような場所で、云々」竹鼻と猪鼻が似たような場所といわれているのだが、竹を植えて要害とするという意味は猪鼻には考えられないので、どういうことか解らないのだ。竹鼻と猪鼻が似たようなものということなら、竹は丈、高で高いところの塙を表し、猪はイノ、イヌで低いところの塙を表すのだろうか。
 しかし元々塙は小高いところなので、これに高い低いを付けるのは何とも妙な話である。また、高い低いは相対的なものなので、同一地域に竹鼻と猪鼻があるべきなのに、実際には対で存在する例は見つけられない。
 これ等のことから竹鼻と猪鼻は無関係ではないかと思うのである。Img_3157
 
猪鼻から大原に越える峠、尻見峠か?この源流に清水の湧く岩壁でもあれば猪鼻地名の根拠になるのだが、、、。


 そんな時徳島県方言学会の地名をさぐるという文書の中に猪鼻地名に関する論文があり、猪鼻→清水の湧く断崖というのがあり、眼から鱗の感がする。断崖というと抵抗があるが、丹波の言葉では”岸”という感じの尾根の末端とでも考えればよいと思う。これだとばかりに色々と発表したのだけど、清水の湧く岸なんてどこにでもありそうで、さりとてここだと確定できないなんとも不可解な語源だなあと思うようになった。他の地名でもそうなんだが、一度これだっと決めてしまっても、後々色々と思い悩む事になるのが常である。
つづく(地名のこと(5)は2012.2.4)

今日のじょん:今朝は-5℃と冷え込んでバリバリの朝となった。ずっこんずっこんの雪から一転、どこでも歩けるカチカチ雪となって大はしゃぎ。やっぱ高いところが好きなんだナ。P1000999 P1010003 P1010005

 

 

 

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大栗峠考(35) 2/8

2012-02-08 | 山・峠

2012.2.8(水)曇

 謎解き形式で大栗峠を考えてきたが、もし多くの方が楽しみとして峠を巡る日がくるのなら、整理をして大栗峠七つの謎などとして公開してらどうだろう。色々推理をしながら峠を訪ねるのはとても楽しいことだろう。
 わたしの提起した謎は実はどうでも良いようなものもあるし、重要なものもある。どうしても謎解きをしなければというものもあるし、放って置いてもいいかというものもある。
 最後に粟野道の謎を提起したい。
 まず、弓削道が車馬に対応した広い道であれば粟野道も当然その広さが必要である。敢えて言えば上粟野から先もそれなりの広さが必要なわけである。大栗峠を越える人たちは上粟野が目的地ではなかっただろうからだ。上粟野から先もどこを通ったんだろうと疑問は膨らむばかりなのだが、とりあえずは上粟野までの旧道を確定したいものだ。Img_3357

シデから長老が岳方面を望む。里村紹巴が大栗峠を越えていたら、あまたの坂はこの山並みとなる。



 少なくとも上粟野の地蔵小屋から尾根に上がるまでは不確定な道である。林道が出来たことと、山の家をつなぐハイキング道が整備されたことがかつての街道を破壊しているのではないだろうか。P1000374
 
明治26年の地形図ではこの谷の右側、尾根の末端から取り付いている。


 今ひとつは大栗峠の東の尾根を上粟野の集落に直接下る尾根である。731mのピークの西のわたしたちがシデの山と呼んでいるピークからも下れるようだが、かなりはっきりした尾根道らしい。国土地理院の地形図には大栗峠の道は記されていないがこちらは途中まではっきり記されている。初めて大栗峠を訪れたとき(2011.6.24)峠から南東に下る道があったように思うのだが、その道が例の尾根道につながるものか試してみたいと思う。またこの尾根道が如何なるものか、古道の遺跡など無いものか歩いてみたい気がするのだが、明治の地図には道はなく、単なる作業道かもしれない。
 そして最後に峠下のお地蔵さんの謎である。「北山の峠」にはかつて六地蔵があったのにその後他の五体はどこにいってしまたのだろうとある。盗難にあったとしたら一体だけ残すのは変な気もするし、先日の情報交換の席でも誰も記憶には無かったようである。P1000380
 
あとの五体はいずこに。


 現在は峠のお地蔵さんも雪に覆われていることだろう。雪が解けて温かくなったら謎解きの山行に出かけよう。大栗峠考も一旦筆を置いて、新たな展開があったときに再度続きを書くことにしたい。

今日のじょん:まだ少し屋根の雪が落ちたみたいだけど、やっぱりゴミがほりだされている。ほんの少しなんだけど。P1000995 P1000996  

 

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訃報 吉野満彦氏 2/7

2012-02-07 | 日記・エッセイ・コラム

2012.2.7(火)曇、雨

 吉野満彦氏が亡くなられた。わたしが岩よ雪よと山に登っている頃の世界的なクライマーである。スポーツの世界でそれぞれに達人というかスーパースターというか雲の上の人というのはいるけれども、どれも同じ人間だと思われるのだが、クライマーだけはとても同種の人間とは思われないのである。植村直己さんだって、エヴェレストやマッキンリー登ったりされてるときは同じ世界にいる人という感じがしていたのだが、冬のグランドジョラス北壁をやられてからは遠い世界の人のように思えた。それはクライミングが命の危険に直接関わっているということなのか、あまりに厳しくて辛いからなのか解らないが、登山を止めてトライアスロンを始めたとき、「こんなに楽なものなのか」と実感したのは確かである。精神的な負担がまるで違うのだ。P1000994 
 
「山靴の音」と訃報の記事


 吉野氏は凍傷で足先をほとんど無くしていながら、日本人初のマッターホルン北壁を登られるのを皮切りに世界の岩壁でめざましい活躍をされた。
 手元に氏の書かれた「山靴の音」という画文集がある。登攀の文もあるが、誌と絵とエッセーなどが詰まっている。ロマンチストという言葉だけでは物足りない。
 
 雪山と孤独

 僕はもうなんの刺激をも
 感じなくなった
 あんなに街にいる時は
 たまらなく
 雪山を恋していたのに

 あんなに街にいる時は
 たまらなく
 孤独を求めていたのに

 僕はなんで
 こんな余分な神経の負担を
 しなくてはならないのだ

 コンクリート作りの
 雪山だって
 いっこうに
 もうかまわないのだが

  40年ほど前にRCCⅡ(第二次RCC)の誰かと、山岳部の誰かと都内でしたたかに呑んだことがある。どういういきさつか知らないのだけど、RCCⅡの重鎮と言われる方のお家に泊めて貰った。吉野さんなのか奥野さんなのか、はたまた別の方なのかまるで記憶がない。都内の古くて大きな家だったことは憶えている。泥酔して眠りこけている枕元で妙な声が聞こえる。襖の向こうで鉄アレイを振っているのだ。「この敷居をまたぐ毎に100回ずつ振ることにしているんですよ、こんど滝沢第三スラブをやろうと思っているのですよ」季節は真冬のことだった。雪崩の巣である滝沢スラブをやるなんて、またそのためのトレーニングが尋常じゃない。
 怠け者で臆病者のわたしにはやはり別の世界と思われた。
 山で逝くことなく、天寿を全うされた吉野さんのご冥福を祈りたい。

今日のじょん:雪がザラメになってきてボッソンボッソンもぐるのだが、随分慣れてきて、走り回れるようになってきた。ところが慣れないのが屋根からの雪で、今朝も超脅えていてゴミ箱荒らしをやっていた。P1000975

 

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大栗峠考(34) 2/6

2012-02-06 | 山・峠

2012.2.6(月)曇

 ”志こ田村出口大はしをこへ”という文章で、上林川の渡がはっきりする。現在の志古田橋の所に立派な橋があったのだろう。志古田村の出口といえばそこしかない。
この文書は近世のものだから、それ以前古代には橋ではなくて徒渉であっただろう。そうなると水流や川幅が重要な要素となるのだが、今それを確定できる史料は何もない。
 志古田と弓削をつなぐ古道が上林川左岸の尾根にあることは既に紹介した。鳥垣と志古田を結ぶ道もあるそうだ。これ等の道は隣村に行くのに橋を渡って本道を行くよりもずっと近道というだけのものかもしれないが、古いお地蔵さんがあったりするのは、ひょっとしたら橋のない時代に、徒渉点から峠に向かう道かもしれないし、差別された巡礼者が通る道であったのかも知れない。こういった道には本街道よりも郷愁をさそうものがある。
 さて今回のつどいには期待していたものがあった。それは大栗峠の倒れた道標と弓削山田分岐点の石柱にある阿波国の長治郎なる行者のことである。Img_3359_2 P1000087
 






 阿波の国の行者がなぜ丹波の山稜にあのような立派な石柱を立てたかということだ。こういった街道の記念碑的な石柱などは無いことはないがあまり沢山あるものではない。実は東北地方にはこの類の記念碑が辻々にやたらと立っている。読んでみると伊勢参りをしたとか金比羅参りをしたとかというのが多くて、中にはどこかで表彰されたとか随分細かいことでも立派な石版に書かれている。これもお国柄というものだろう。Img_1276
 Img_1493
左:遠野市  右:二本松市



 山田村世話人の助左エ門なる人物が川端先生所縁の家だと聞いていたので、この一件について聞いてみたのだが、言い伝えや古文書なるものは無いそうである。
ただ石柱にある文政七年に、山田村では大規模なお寺の改修をしているそうで、そういったものの記念の意味かもしれないということだった。「お寺の修繕費もこの石柱の費用も相当なものだろうし、この行者が寄進でもしたんでしょうかねえ」と聞いたら、「石柱のいわゆる看板のようなものでしょう」ということだった。なるほどそういえば、「願主 助左エ門」となっていた。主役は山田村の檀家であり、その代表が助左エ門であったということだ。納得。
つづく

今日のじょん:「おとーさん」と小声で呼ぶもんだから、なにかいなと思ったら、じょんの寝顔を写真撮れということらしい。寝てるとこの写真はいつも気付かれて失敗するので、そーと撮ってみる。かわいいでしょ。P1000989

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大栗峠考(33) 2/5

2012-02-05 | 山・峠

2012.2.5(日)曇

 「大栗峠とその古道」と題して里山ネットの主催で情報交換のつどいが行われた。郷土史家の川端二三三郎氏による史料解説があり、地元の人の生の情報も聞くことができた。舞鶴、上林、和知が街道を通じて緊密なつながりがあったことが解る。それは政治、経済、文化的なつながりであり通婚圏ともなっているようだ。大栗峠が舞鶴街道の一部であり、舞鶴(田邊)以西から京に向かう街道の峠であって、若狭と京を結ぶ街道としては脇役であったように思われる。P1000993

会場の観光センターから古城山。


 沢山資料をいただいて、川端先生との質疑により多くの謎が解けた。その一つが次の文書である。

 文化四年(1807)巡礼道 
 和知 廿七番妙龍寺→上林 廿八番光明寺
 是より廿八番上林君尾山へ三り 上あわの村より左の谷へ入 道わけある所より又左へ行 大くり峠上り三十丁ほど むねより右へ志こ田村へ下ル 道あしけれども小浜辺のうを荷も通る 志こ田村出口大はしをこへ右へ行 山内村より十八丁上り也
               (丹波西国三十七所道中記)
 これは資料でいただいた文書の一つだが、文化文政の旅行ブームというのがよく解る。和知 廿七番妙龍寺というのは下粟野の明隆寺のことであり、丹波国三十三ヶ所観音霊場の巡礼道が大栗峠に当たっているということだ。三十三ヶ所と三十七ヶ所と数字が違うのは複数のお寺でダブっているところがあるからだそうだ。
 巡礼なればこそ志古田道が合致する、手荷物ぐらいで歩けるからだ。荷車ひいて巡礼するものも居ないだろう。少々道は険しくとも、次の霊場光明寺にまっしぐらに進める志古田道が選ばれたことがよく理解できる。P1000023 Img_3367

洞峠(左)と大栗峠(右)は上林から京に向かう峠の双璧。


 ”むねより右へ志こ田村へ下ル 道あしけれども小浜辺のうを荷も通る”という文書は志古田道のことをよく物語っている。むねというのは山稜の一番高い部分、つまりこの場合は粟野道を登り着いたところだから、峠のことを言う。右へ志こ田村へ下ルというのは、左に行く道、弓削道が既にあったことを物語っている。小浜辺のうを荷というのは、小浜産の魚とは限らないだろうし、高浜や舞鶴の魚かもしれない。いずれにしても背に担う程度の荷物なら、弓削道より志古田道が有利ということである。また、魚の行方も必ずしも京都とは限らないだろうし、仏主峠(ほどすとうげ)から肱谷、鏡坂を越えて園部方面などの行商もあっただろう。ただ宮脇に到る道は洞峠か大栗峠か悩ましいところである。これは荷を背負わなくても良いから是非実験してみたいルートである。つづく(大栗峠考(22)は2012.1.23)

今日のじょん:お山のぽんぽこぽん。P1000986 P1000987 P1000988  
  
 

 

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地名のこと(5) 2/4

2012-02-04 | 上林地名考

2012.2.4(土)晴

 地名というものは自然科学のように、証明してしまえば一応の結論が出るわけでない。考え抜いたあげくに、これかもしれないなあと数点を候補に挙げても、いつまでもあれで良かったのだろうか、これで良かったのだろうかと考えてしまうのだ。そのことが新しいアイデアを生む、そして新たな発見をするわけだ。
 とまあ抽象的なことを言っても何のことか解らないだろうから、具体的に「猪鼻地名」を使って紹介してみよう。
 猪鼻(いのはな)は上林と若狭をつなぐ猪鼻峠から探索が始まった。まず峠の麓に猪鼻という地名が無いかと探るのだが、上林側には無いようだ。若狭側はどうかと調べるが、実は角川日本地名辞典福井県に高浜町の小字名は記載されていない。自治体の協力がなければ記載できないということなので致し方ない。なんらかの方法で調べたいがまだ調査できていない。府県をまたぐ調査は困難なことが多い。
 若狭郡縣志なる文書に猪鼻嶽の記述を見つける。おそらく猪鼻峠と坪坂峠の間のピークかと思うのだが、これが峠名の由来かもしれない。いずれにしても猪鼻の意味はなんだろう。Img_2720
 
猪鼻峠、この尾根上に猪鼻岳がある。


 船井郡瑞穂町(現京丹波町)に猪鼻がある。顕著な猪の面をした岩窟があり、地名の由来とされている。浜名湖の北西に猪鼻湖がある。ここにも湖名の由来となった猪岩がある。どちらもユーモラスな鼻が特徴的で憎めないのだが、地名の語源としては考えにくい。つまり猪鼻地名は全国各地にあるかなり普遍的な地名なのである。そしてその総てに猪を表す岩なり景色なりあるわけではない。なにか共通した語源があるのだろうけど、それがつかめない。Img_3164
 
猪鼻の由来のユーモラスな岩は、単なる付会ではないかもしれない。(乞うご期待)


 まず柳田国男氏の説を見てみよう。「地名の研究」に竹鼻について書かれた文に添えてあるのだが、一向に要領を得ない文章ではある。

 それからまたこの県西部から美濃にかけての地名に、竹の花・竹の腰という字名が、かなり多い。これなどもやはり軍略の必要からでたもので、実際に竹藪を立てて遠望をさえぎり、または人工的に一つの切処を設けたものかと思う。関東にも同じ地名があり、また竹を多く植えていた。ハナは塙であって川の岸などの迂回しなければ近よれない地形であった。イノハナというのも似たような場所で、やはり目かくしの竹を植えていたのだが、交通機関が改まって今は必要もなく、不便ばかり多いので、おいおいにこれを伐り去り、一つの田舎の風物の特徴が消えかかっている。(地名と歴史 八)

 竹鼻と猪鼻を似たような場所と言っているが、ハナは塙を表すという。塙は小高い丘などを表すのだが、竹の植えられた小高い丘が竹鼻なら、猪鼻は何なのだ。
 山科区の竹鼻、東近江市の竹鼻、岐阜羽島市の竹鼻を見てもいずれも平坦地であり、塙という感じでは無さそうなのである。

今日のじょん:今朝は1月25日の最低気温-7℃に迫る-6℃だった。雪の表面が凍てて硬くなっている、これがじょんが好きなんだなあ。ところが中は柔らかいもんだから、ズボンズボンと沈んで、笑ってしまう。P1000976 P1000979 P1000981   


 

 

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冬山の余韻 2/3

2012-02-03 | 日記・エッセイ・コラム

2012.2.3(金)晴

 恐怖の一夜が明け、なつかしい太陽の光で目を覚ます。府道を走る車の音で降雪量も解る。シャーシャー音がしているのでたいした降雪もなさそうだ。それでも昨日かいた後に10cm弱の積雪がある。とにかく今日は一日かけて駐車スペースを作らなければ、、。P1000965

今冬は最低気温は記録したけど、概して気温そのものは高くてつららの形成も少なかった。今朝は冷えたみたい。


 昨日かいた部分は簡単だが、残した部分は3~40cmあり堪らない。既に周りは雪の山になっていて、跳ね上げるのに苦労する。その上今シーズン買った雪ハネのプラスチック部分が割れてきた。一番活躍する用具だけにワンシーズンも持たないで壊れるのはなんともつらい。昼過ぎになってやっと車道が開通した。アルペンルートの弥陀ヶ原の開通のようなものである。やれやれ。P1000969 P1000935 P1000939 P1000953
 




 ニュースで雪かきや屋根の雪下ろしの映像をよく見るが、よく見ると輪かんじきをはいておられるのがいくつかあった。今や冬山ではスノウシューといういわば西洋輪かんじきが主流のようだが、わたしたちの時代は昔ながらの輪かんじきだった。立山の芦峅寺(あしくらじ)のものが逸品だとかで、我が家にもあるので出してきた。紐を用意していなかったので使えなかったが、次に大雪が降ったら使ってみよう。P1000967
 ついでに冬山用品で優れものを御紹介しよう。
 純毛の手袋、登攀用に使っていたので3組残っているが、当時の値段で二千円ほどしたと思うので高価なものだ。今では優れた合成繊維があるのかも知れないが、純毛の使い道は最高である。暖かくしかも濡れても暖かいという優れものだ。そしてよくぞ置いていたというのがオーバーミトン、手袋の上からはめるナイロン製で手の平の部分は滑らないようビニロンで出来ている。これさえあれば手袋が濡れることはない。P1000968
 雪かきの道具だって、冬山ではエンピという平スコップに穴の開いたのを使っていたが今はアルミのスコップを使っている。これは石炭ショベルといって元々は石炭をすくうものらしい。いずれにしても冬山の用具がここにきて役に立つとは思わなかった。

今日のじょん:じょんのび村内はノーリードで好きなように遊んでいるが、散歩道は歩道しか行かれない。念道橋も行きたそうだが、当分行けそうにない。P1000956 P1000962_3 P1000964

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雪の新記録 2/2

2012-02-02 | 日記・エッセイ・コラム

2012.2.2(木)雪 -2℃ 朝15cm 夕48cm

 今冬一番の寒波が到来した。昨日から曇っているので気温は-2℃と記録ではないのだが、日中も氷点下で真冬日となった。雪は朝起きたときは予想以下で15cmの積雪とたいしたこと無かったんだけど、その後ずっと降り続けた。それが普通じゃないのだ、気温は低く、風は強く、視界もなくなるほどの降雪、将にホワイトアウトの世界である。ヤッケもたちまちバリバリに凍ってしまう。上林で雪かきしてるというより、冬山合宿でラッセルしているみたいだ。かいた後から雪は降り積もり、あっという間に白くなって、きりがない。昼過ぎには30cmを超え、3時には38cmの積雪になってしまった。以前から積もっているところは1m近くなり、かいた雪を積んでいるところは背より高くなった。 P1000939
P1000941

見ての通りのブリザードで屋根からの雪は2mとなった。

 昨年の雪は30年ぶりの大雪と言うことだったが、明らかにもう昨年の記録を越えている。つまりじょんのび新記録ということだ。
 今日の雪は低温のためパウダースノウで雪かきしても崩れてきて、賽の河原で石を積んでいるような気分になる。本格的な雪かきは明日になるだろう、もう少し締まらないと本格的に除雪は出来ない。P1000952
 
パウダースノウはかいた後から崩れて除雪にならない。


 ニュースでは北陸や東北の豪雪の情報を毎日おくっている。大変だなあとは思うのだが、自分がその身になってみて初めて実感が湧く。ある種の恐怖感が沸いてくるのだ。寒波もここまでで雪も止んでくるなと言う予想があるのでそれほど心配ではないのだが、この雪がいつまで続くか解らない地域ではその恐怖感もひとしおだろう。
 日本で最初の廃村といわれる廃村八丁の廃村の理由はやはり雪であったと聞く。豪雪で孤立し食糧も情報も無く、暗闇の中で隣家に行くこともままならなかった人々の恐怖感は故郷を棄てる事以上のものだったのだろう。
 夕方のテレビで秋山郷のニュースをしていた。津南町でも相当だろうにそれから山に20kmばかし分け入ったところだ。おそろしいほどの豪雪地帯だが、映像は意外に明るかった。北越雪譜の舞台のひとつだが、著者の鈴木牧之はあれほどまでに豪雪を嘆きながらも、その行間に「雪の中にも小さな楽しみがあり、苦労が多いだけ春の喜びも大きい、寡雪の国ではこんな喜びは味わえないだろう」という自慢が見えるのだが、、、、。
 
 【作業日誌 2/2】
 朝から晩まで雪かきくけこ。


 今日のじょん:ここまで積もるとうんPが大変、新雪に飛び込むとすっぽり埋もれてしまう。しかたがないので少しかいてうんP場を作ってやる。それでもなかなかしないのでこちとらが凍えてしまう。P1000949 P1000951

 

 

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地名のこと(4) 2/1

2012-02-02 | 上林地名考

2012.2.1(水)曇

 地名語源辞典やそれに類する辞典をひいて地名が解明するもので無いことは以前にも書いたが、例えば現在考察中の大栗峠の大栗(おぐり)について見てみよう。
P1000388 大栗は大栗峠から志古田側の広い山林地帯をいう。



 クリ (1)岩礁。〔魹礁(トドグリ・鯖礁(~グリ)〕(2)クレ。〔久利・栗原〕(3)栗の木。〔栗林・栗山〕

 鏡味完二氏の「地名の語源」は辞書形式になっていて多くの地名研究者にも利用されている。以前に読んだ地名に関する書物の中でも”「地名の語源」による”と引用して、それで完結しているものがいくつもあった。読者としては何も理解できないのだ。それは語源となる意味、なぜそうなるのかということが書いてないからである。
国語辞典や英和辞典ならそこまででいいのだが、地名語源辞典はなぜそうなるかが解らないと意味がないのである。上記大栗について当てはめると、”大”は美称あるいは大きさを表す接頭語だろう。”栗”は栗の木としかならない。つまり辞書だけで見ると大栗は大きな栗のあるところという意味にしか取れない。地名、特に古い地名では植物や動物などの存在を表すことは少ない。ただ人間にとって親しい動植物は地名として付けられることが多い。しかしその意味するものはその動植物ではないのだ。例えば桜(さくら)は狭い谷間を表す。サは狭、クラは谷を表す。また動詞”裂く”に接尾語”
ら”をつけて崩壊地形をあらわしているものもある。ただ、新しい地名では桜の名所や分譲地の美称などあるので注意。
 辞書を見ても解決できないので様々な書物から引用する。結局大栗は”刳る”から来る崩壊地形、あるいはクリが石や岩を表すとして、大きな岩のあるところと考えた。次に現地を確認して、そこがどのようなところか見るわけだが、崩壊地形でもあり、大きな岩も特徴的に存在しているところだった。
 そして次に同じ地名のところが無いか調べるわけだが、それは近くから順次調べていく。地名には地域的なものと全国的に普遍的なものがある。上林の地名で今まで調べた中では、遊里(ゆり)は丹波地方が主で、引地(ひきぢ)は本州全域、念道(ねんどう)は和束町に一ヶ所あるだけだ。Img_3857 P1000929 P1000930 P1000932
 


 
 

 

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