2012.2.6(月)曇
”志こ田村出口大はしをこへ”という文章で、上林川の渡がはっきりする。現在の志古田橋の所に立派な橋があったのだろう。志古田村の出口といえばそこしかない。
この文書は近世のものだから、それ以前古代には橋ではなくて徒渉であっただろう。そうなると水流や川幅が重要な要素となるのだが、今それを確定できる史料は何もない。
志古田と弓削をつなぐ古道が上林川左岸の尾根にあることは既に紹介した。鳥垣と志古田を結ぶ道もあるそうだ。これ等の道は隣村に行くのに橋を渡って本道を行くよりもずっと近道というだけのものかもしれないが、古いお地蔵さんがあったりするのは、ひょっとしたら橋のない時代に、徒渉点から峠に向かう道かもしれないし、差別された巡礼者が通る道であったのかも知れない。こういった道には本街道よりも郷愁をさそうものがある。
さて今回のつどいには期待していたものがあった。それは大栗峠の倒れた道標と弓削山田分岐点の石柱にある阿波国の長治郎なる行者のことである。
阿波の国の行者がなぜ丹波の山稜にあのような立派な石柱を立てたかということだ。こういった街道の記念碑的な石柱などは無いことはないがあまり沢山あるものではない。実は東北地方にはこの類の記念碑が辻々にやたらと立っている。読んでみると伊勢参りをしたとか金比羅参りをしたとかというのが多くて、中にはどこかで表彰されたとか随分細かいことでも立派な石版に書かれている。これもお国柄というものだろう。
左:遠野市 右:二本松市
山田村世話人の助左エ門なる人物が川端先生所縁の家だと聞いていたので、この一件について聞いてみたのだが、言い伝えや古文書なるものは無いそうである。
ただ石柱にある文政七年に、山田村では大規模なお寺の改修をしているそうで、そういったものの記念の意味かもしれないということだった。「お寺の修繕費もこの石柱の費用も相当なものだろうし、この行者が寄進でもしたんでしょうかねえ」と聞いたら、「石柱のいわゆる看板のようなものでしょう」ということだった。なるほどそういえば、「願主 助左エ門」となっていた。主役は山田村の檀家であり、その代表が助左エ門であったということだ。納得。
つづく
今日のじょん:「おとーさん」と小声で呼ぶもんだから、なにかいなと思ったら、じょんの寝顔を写真撮れということらしい。寝てるとこの写真はいつも気付かれて失敗するので、そーと撮ってみる。かわいいでしょ。