この数ヶ月、読み始めては中座し、中座しては読み始めるという動作を繰り返してきたのが、フランスの思想家であるジョルジュ・バタイユの短編小説集「マダム・エドワルダ」。きっかけは広島出身の画家、靉光(あいみつ)の記事で少し触れた「眼のある風景」(1938年)という作品。観た時にバタイユの処女小説「眼球譚」(1928年)を思い出したから。
バタイユの妻のシルヴィアが彼と離婚した後に再婚したのがジャック・ラカンということもあり、彼の名前は頭のどこかにいつも引っ掛かっている。それと最近では、前に記事にした内田樹のエッセイ「子どもは判ってくれない」で村上龍の「タナトス」が引用されていて、ついでに鎌倉の浄智寺で澁澤龍彦の墓の前を通っていて。フロイト、エロス、タナトス、ラカン、バタイユ、澁澤・・・。
ありますよね、いろんな因果が少しずつ絡んできて、そこにたどりつくみたいな因縁。今回はそのケース。それで内容はというと、酔いどれ変態男?と娼婦宿にいた変態女?の変態話。この小説は1941年に匿名で非合法出版されたらしいけど、簡単に言えば極めて猥雑なポルノ小説。とにかく全編その手の話だけ。おまけに難解。ただしその中に哲学を感じさせるのが特徴。
この娼婦は“あたしは<神様>よ”と語る。彼女と一緒に乗り込んだタクシーの中で、彼女は運転手と関係を持ち、やがて絶頂に達する。それを変態男は横目で見ながら、“ヘーゲルは一人の狂女の<神格化>とはなんのかかわりもない”と考える。この作品は三島由紀夫が賛嘆したことでも知られていて、現代では20世紀を代表する古典的名作の地位を得ているらしい。
余談だけど、自分が読んだのは図書館にあった生田耕作訳の角川文庫版。別に中条省平訳の光文社版もあるみたいで、両者を読み比べるのも面白そう。例えば冒頭の記述が、前者が“或る街角で、苦悩が、不潔な酔い痴れるような苦悩が、おれの顔をゆがませた”に対し、後者では“ある街角で、不安が私に襲いかかった。汚らしく、うっとりするような不安だ”、という感じ。
今年はどうも、エロティシズムを哲学的に追及したいようです。
角川文庫版 光文社古典新訳文庫版
バタイユの妻のシルヴィアが彼と離婚した後に再婚したのがジャック・ラカンということもあり、彼の名前は頭のどこかにいつも引っ掛かっている。それと最近では、前に記事にした内田樹のエッセイ「子どもは判ってくれない」で村上龍の「タナトス」が引用されていて、ついでに鎌倉の浄智寺で澁澤龍彦の墓の前を通っていて。フロイト、エロス、タナトス、ラカン、バタイユ、澁澤・・・。
ありますよね、いろんな因果が少しずつ絡んできて、そこにたどりつくみたいな因縁。今回はそのケース。それで内容はというと、酔いどれ変態男?と娼婦宿にいた変態女?の変態話。この小説は1941年に匿名で非合法出版されたらしいけど、簡単に言えば極めて猥雑なポルノ小説。とにかく全編その手の話だけ。おまけに難解。ただしその中に哲学を感じさせるのが特徴。
この娼婦は“あたしは<神様>よ”と語る。彼女と一緒に乗り込んだタクシーの中で、彼女は運転手と関係を持ち、やがて絶頂に達する。それを変態男は横目で見ながら、“ヘーゲルは一人の狂女の<神格化>とはなんのかかわりもない”と考える。この作品は三島由紀夫が賛嘆したことでも知られていて、現代では20世紀を代表する古典的名作の地位を得ているらしい。
余談だけど、自分が読んだのは図書館にあった生田耕作訳の角川文庫版。別に中条省平訳の光文社版もあるみたいで、両者を読み比べるのも面白そう。例えば冒頭の記述が、前者が“或る街角で、苦悩が、不潔な酔い痴れるような苦悩が、おれの顔をゆがませた”に対し、後者では“ある街角で、不安が私に襲いかかった。汚らしく、うっとりするような不安だ”、という感じ。
今年はどうも、エロティシズムを哲学的に追及したいようです。
角川文庫版 光文社古典新訳文庫版