それが起こったのは、忘れもしない4月23日の事だった。
その日は、日曜日。特に予定も無くだらだらと過ごしており、正午少し前に昼食の準備をしていた。
そんな時、電話が鳴った。発信元を見ると、母からとある。何かな、と思いつつ出てみると、母ではなく叔母の声がした。「お母さんが倒れた」と言うのだ。最初は、何のことだかわからなかった。後から考えると、あのときは叔母もかなり混乱していたのだが、とにかく母が倒れてA病院に救急車で搬送されるところだと言う。いまいち要領を得ないところがあったが、緊急事態なのは確かなので、すぐにA病院に向かった。
A病院は自宅から電車で40分ほど。病院に着くまで、なるべく事態は軽いものであってくれと祈り続けた。
病院に到着すると、叔母がいた。母は、くも膜下出血との事。はっきり言って、想定していた中では最悪の部類に入ると言っていい。やがて医師が来て、説明を聞いた。この病気が発症すると、3分の1の人はその場で亡くなること、そして回復して歩いて家に帰ることが出来るのは10分の1ほどであること、などなど。聞いているうちに、余計に暗澹たる気持ちになっていった。
正直なところ、この時点で心配していたのは、母の葬儀のことだ。このような説明を聞けば、誰だってそうなると思う。運良く命は助かったとしても、なんと言っても脳内の出血なのだ。どんな後遺症が残るか、わかったものではない。母がどうなろうと、これからかなり大変なことになるだろうと、覚悟したのだった。
やがて、A病院からH病院へと移されることが決まった。医師や設備など総合的に判断しての事であり、よりよい対応が出来ると言われたので、断る理由はない。
救急車で15分ほどかかって、H病院へと着いた。救急車への同乗という初めての体験をしたが、一刻を争う状況であり、今思い返してもあまりよく覚えていない。
H病院で、母は手術を受けることになった。H病院の医師の説明によると、カテーテルですめば「コイル塞栓術」を行い、それではダメな場合は開頭してクリップで出血部を止める手術になるという。開頭手術なんて大変なことだぞと思ったが、運よく開頭には至らず、手術はコイル塞栓術で行われた。待つこと約3時間。その間に、名古屋から妹もやってきた。やはり、最悪の場合を覚悟していたようで、喪服も持ってきたと言っていた。
そして、手術は無事に終了した。医師によると、手術後2週間が山だという。血管が収縮する「れん縮」が起きたり、頭に水がたまる「水頭症」になったりして、生命に危険があるのだ。
「水頭症」については、『ブラック・ジャック』をお読みの人ならよくご存じだろう。チャンピオンコミックス版第6巻の最後に収録されているアレだ。私も、まっさきに『ブラック・ジャック』を思い出したが、まさか自分の身内が水頭症になるかもしれない事態になろうとは、全く想像だにしなかった。
医師から説明を受けた後、母の意識が回復したというので、面会。妹を見て「娘です」と言っている。とりあえず、意識はまともらしくて一安心だ。
これ以上付きそっていても仕方が無いとの事だったので、その日は帰る事になった。帰ると言っても、自宅ではなく実家の方だ。実家は両親の二人暮らしであり、母が倒れたら父が一人になってしまう。父は、一人ではちょっと危なっかしい状態なのだ。同じ敷地内に住む叔母もいるが、今回の事でかなり憔悴しているらしく、あまり頼れない。妹は、名古屋に住んでいるので、翌日には帰ってしまう。と、なると私が実家に泊まり込むしかない。
そんなわけで、思わぬ形での実家暮らしが始まった。
父の世話をしつつ、昼間は母のいるH病院に見舞いに行くという生活が、約一ヶ月間続いた。はっきり言って、非常に神経を使う毎日だった。老人との二人暮らしが、こんなに疲れるものだとは思わなかった。これが自分の親じゃなかったら、放り出していただろう。その意味で、介護などの仕事をしている人はすごいと思う。
時は流れて5月18日。母が退院した。非常に幸運な事に、五体満足な状態で、だ。
車椅子を使うような事にはならなかったし、頭もはっきりしている。つまり、10分の1の運のいい人の中に入る事が出来たわけだが、母がこれで一生分の運を使い果たしたのではないかと、ちょっと心配ではある。
ともかく、4月23日より前とほぼ変わらぬ日常が戻ってきた。母はまだ、寿命ではなかったのだろう。
今回の事で、親を看取るとはどういう事なのか、そして親の介護の大変さなど、色々と考えさせられた。いずれは、本当の親との別れがやってくるのだろうが、その時になってあわてる事のないように、今のうちに出来る事はしておかなければならないと、強く思わされた。
この一ヶ月間、ネットは主にスマホで見ていたが、やはり身内が大変な事になると、ネットへの書き込みなど積極的な参加は精神的に無理になってしまう。
ツイッターも一ヶ月間放置してしまったので、ご心配をおかけしたのではないかと申し訳ない気持ちだ。
アニメは、実家で普通に観ていたが、母の発病から三日間くらいはやはり落ち着いて娯楽作品を楽しむという余裕もなかった。その頃に観た作品は、上の空だったのであまりよく覚えていない。
録画については、数日に一回自宅に戻って設定していたので、録り逃したものはない。この点、大阪に引っ越していて本当によかった。名古屋だとこうはいかなかっただろう。時間的にも金銭的にも、負担が大きすぎる。
長くなってしまったが、この一ヶ月間は、このような事がありました。と、言ったところで、この項を終わります。
その日は、日曜日。特に予定も無くだらだらと過ごしており、正午少し前に昼食の準備をしていた。
そんな時、電話が鳴った。発信元を見ると、母からとある。何かな、と思いつつ出てみると、母ではなく叔母の声がした。「お母さんが倒れた」と言うのだ。最初は、何のことだかわからなかった。後から考えると、あのときは叔母もかなり混乱していたのだが、とにかく母が倒れてA病院に救急車で搬送されるところだと言う。いまいち要領を得ないところがあったが、緊急事態なのは確かなので、すぐにA病院に向かった。
A病院は自宅から電車で40分ほど。病院に着くまで、なるべく事態は軽いものであってくれと祈り続けた。
病院に到着すると、叔母がいた。母は、くも膜下出血との事。はっきり言って、想定していた中では最悪の部類に入ると言っていい。やがて医師が来て、説明を聞いた。この病気が発症すると、3分の1の人はその場で亡くなること、そして回復して歩いて家に帰ることが出来るのは10分の1ほどであること、などなど。聞いているうちに、余計に暗澹たる気持ちになっていった。
正直なところ、この時点で心配していたのは、母の葬儀のことだ。このような説明を聞けば、誰だってそうなると思う。運良く命は助かったとしても、なんと言っても脳内の出血なのだ。どんな後遺症が残るか、わかったものではない。母がどうなろうと、これからかなり大変なことになるだろうと、覚悟したのだった。
やがて、A病院からH病院へと移されることが決まった。医師や設備など総合的に判断しての事であり、よりよい対応が出来ると言われたので、断る理由はない。
救急車で15分ほどかかって、H病院へと着いた。救急車への同乗という初めての体験をしたが、一刻を争う状況であり、今思い返してもあまりよく覚えていない。
H病院で、母は手術を受けることになった。H病院の医師の説明によると、カテーテルですめば「コイル塞栓術」を行い、それではダメな場合は開頭してクリップで出血部を止める手術になるという。開頭手術なんて大変なことだぞと思ったが、運よく開頭には至らず、手術はコイル塞栓術で行われた。待つこと約3時間。その間に、名古屋から妹もやってきた。やはり、最悪の場合を覚悟していたようで、喪服も持ってきたと言っていた。
そして、手術は無事に終了した。医師によると、手術後2週間が山だという。血管が収縮する「れん縮」が起きたり、頭に水がたまる「水頭症」になったりして、生命に危険があるのだ。
「水頭症」については、『ブラック・ジャック』をお読みの人ならよくご存じだろう。チャンピオンコミックス版第6巻の最後に収録されているアレだ。私も、まっさきに『ブラック・ジャック』を思い出したが、まさか自分の身内が水頭症になるかもしれない事態になろうとは、全く想像だにしなかった。
医師から説明を受けた後、母の意識が回復したというので、面会。妹を見て「娘です」と言っている。とりあえず、意識はまともらしくて一安心だ。
これ以上付きそっていても仕方が無いとの事だったので、その日は帰る事になった。帰ると言っても、自宅ではなく実家の方だ。実家は両親の二人暮らしであり、母が倒れたら父が一人になってしまう。父は、一人ではちょっと危なっかしい状態なのだ。同じ敷地内に住む叔母もいるが、今回の事でかなり憔悴しているらしく、あまり頼れない。妹は、名古屋に住んでいるので、翌日には帰ってしまう。と、なると私が実家に泊まり込むしかない。
そんなわけで、思わぬ形での実家暮らしが始まった。
父の世話をしつつ、昼間は母のいるH病院に見舞いに行くという生活が、約一ヶ月間続いた。はっきり言って、非常に神経を使う毎日だった。老人との二人暮らしが、こんなに疲れるものだとは思わなかった。これが自分の親じゃなかったら、放り出していただろう。その意味で、介護などの仕事をしている人はすごいと思う。
時は流れて5月18日。母が退院した。非常に幸運な事に、五体満足な状態で、だ。
車椅子を使うような事にはならなかったし、頭もはっきりしている。つまり、10分の1の運のいい人の中に入る事が出来たわけだが、母がこれで一生分の運を使い果たしたのではないかと、ちょっと心配ではある。
ともかく、4月23日より前とほぼ変わらぬ日常が戻ってきた。母はまだ、寿命ではなかったのだろう。
今回の事で、親を看取るとはどういう事なのか、そして親の介護の大変さなど、色々と考えさせられた。いずれは、本当の親との別れがやってくるのだろうが、その時になってあわてる事のないように、今のうちに出来る事はしておかなければならないと、強く思わされた。
この一ヶ月間、ネットは主にスマホで見ていたが、やはり身内が大変な事になると、ネットへの書き込みなど積極的な参加は精神的に無理になってしまう。
ツイッターも一ヶ月間放置してしまったので、ご心配をおかけしたのではないかと申し訳ない気持ちだ。
アニメは、実家で普通に観ていたが、母の発病から三日間くらいはやはり落ち着いて娯楽作品を楽しむという余裕もなかった。その頃に観た作品は、上の空だったのであまりよく覚えていない。
録画については、数日に一回自宅に戻って設定していたので、録り逃したものはない。この点、大阪に引っ越していて本当によかった。名古屋だとこうはいかなかっただろう。時間的にも金銭的にも、負担が大きすぎる。
長くなってしまったが、この一ヶ月間は、このような事がありました。と、言ったところで、この項を終わります。