流れ星何処へ降りたら良いのやら
霧の世はとまる木のない迷ゐ鳥
写真ネットより
警察官僚から「おやじ日本」へ(npo法人おやじ日本理事長) 竹内 豊
子供たちを育てることに関しては、私たち世代の大人社会にも反省することがあるように思う。というのも、このような社会病理が次々と明らかにきたのに、この間の大人社会は、あまり強い危険感を持たず、たいした手当をしなかったばかりか、無意識のうちとはいえ問題を深刻化させることに手を貸してきたといってよいからだ。早い話が、携帯電話が子供たちをメール中毒にし、出会い系サイトが児童買春の被害の温床だというのに、仲間外れになってはかわいそうだからと安からぬ通信費を払ってそれを買い与えてきた親たち。表現の自由や通信の自由を盾に重い腰をなかなか上げようとしなかった大人社会。子供たちの深夜徘徊も度を越していた。子供を信じているともっともらしい理屈をつけて、子供たちとの争いを避けた親も親だが、カラオケや漫画喫茶で寝泊りする子供たちを見過ごしてきた大人も大人だ。学校教育とて、こんな時代に生きていくたくましい子どもを育てることに懸命だったとは思えない。ゆとり教育は、学校週五日制を取り入れ、子供を家庭と地域で育てようとしたが、その家庭や地域が劣化を続け、子どもたちを情報の洪水とゲームの誘惑が襲ったことから目をそらしていたのだ。現に、その目的を達し得、逆に危険深まったではないか。大人社会、総体としてその間、いつか必ず国はよくなる。そこそこ反映は取り戻せると高を括っていたのだろう。そんな大人社会の錯覚が、子どもたちに伝わり、大人として生きていく現実社会の厳しさを見誤らせることになったという側面は否めないと思う。私たちはこれまでの過ちをまず自己批判した上で、一人前の大人に子どもたちを育てるための具体的な行動を起こす責任がある。冒頭のおやじの会の若い父親の役割を、大人たちは担わなければならない。
「文芸春秋11月号より」
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます