昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

1995年1月17日の記憶

2021年01月17日 06時56分30秒 | 昭和以後

平成7年 ( 1995年 ) 1月28日(土) の、事である。
福岡県庁の建築審査係から、電話が入った。
「 確認申請書の訂正があります、月曜日来れますか ? 」
「 いきなり、土曜日のこの時間で、月曜日は無理ですよ 」
「 しかも、こんな ( 午後6時半 ) 時間に、かけてきて 」
神戸への応援で、手が足りないと言う 休みも無いと言う もうてんてこ舞いの状態だと言う。
月曜日しか、時間が取れないのだ。 ・・・と。
私は、2月2日(木) 
満員のB 727機で、『 空路 』、大阪から福岡へ飛んだのである。
(  地震は新幹線をも潰した ・・・予約殺到でこれでも最短  )

平成7年 ( 1995年 ) 1月17日(火)  午前5時46分52秒
阪神淡路大震災 に 遭遇した

大阪都島区の鉄筋コンクリート造、9階建 ・7階部分に居住していた吾々家族
未明の事ゆえ、未だ眠っていた。
いきなり 揺れ始めたのである。

「 いつもより、揺れが大きいな 」
鉄筋コンクリートの建物が それは、ブランコの様に、柔らかく揺れている。

「 いつもより、長いぞ 」
隣り部屋で眠っていた、子供等も、目を覚ました。

ごと ごと ごと
子供の勉強机の本棚が揺れている。
ガラスの扉が開いて、中の本が落ちた。
本棚が、今にも倒れそうだ・・・
子供等は恐怖で、身が竦んで 動けないで居る。
「 子供等が下敷きに成る ! ! 」
「 アブナイ ! ! 」
私は咄嗟に、跳ね起きた。
勝手に体が反応したのである。
そして、子供等を護るべく、覆い被ぶさった。

揺れが治まって、振り返って見ると
さっきまで、私が寝ていた布団の枕元には
台から、飛んだであろう テレビが落ちていた。

子供等を護ろう  』
その一心が
己の難から、免れることが出来たのである。

余震が頻繁に起こり、とどまらなかった。

ダイニングの食器棚が転倒して、扉のガラスが割れていた。
金魚を飼う、水槽の水が半分に成っていた。
そして、一匹 床に落ちていた。
「 震度 5で、水槽の水が半分に減る 」
・・普段、そう聞かされていた
真に、そのとおりである。

夜が明けて
事の大きさが分かってきた。

 
つい、この間 利用した、 阪急伊丹駅

神戸市では、建物が転倒している。

国道47号線と阪神高速道路・・・
・・・と、続々と、テレビで写し出される。

大地震の被害の状況は、その姿が物語る。

幸いにも、震度 5の、大阪は被害が少なかった。
近所の、木造 2階建てに住む両親が、無事であることも分かった。
ここで、やっと、安堵できたのである。


ところが
テレビのニュースで、倒壊しているビルが映し出された。
私は、偶々、それを視たのである。
タイミング も亦 タイミング 哉
私の独立後の初仕事として、
JR千里丘駅・側に在る本社ビルを、
リニューアルしていた、その真っ最中であった。
ニュースのビルが、規模、構造、立地 と、似ていたのである。
「 東京と違って、大阪は地震が少ない 」
・・・
と、高をくくっていた私。
選りにも選って、竣工間際のこの時期に、
大地震が起ころうとは
夢にも想わなかったのである。

建物は壊れては いないだらうか
足場が壊れ、通行人を巻き添えにしては いないだらうか
安否が気にかかったのである

我家が一段落すると
居ても立っても、居られず
車で大日、鳥飼大橋を渡って、千里丘へ急いだ。

最後の曲がり角は赤信号
ここを左に曲がれば、建物が見える。
「 早く青になれ 」
・・・と、気が逸り、焦った。


当時、
九州・福岡で、ゴルフ場を建設する為
クラブハウスの設計を依頼されていた私
その設計が、大詰めの段階に 差掛かっていた。
更に、建築の為の手続きも、
福岡県庁で着々と進めていた。
その最中の この大震災であった。


想へば、
私の人生 ・絶頂の瞬間は、
波乱万丈
阪神淡路大震災の記憶と重なる。
「 選りに選って、この時期に 」
・・・その時の、吾想いである。

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「釣りは、オモシロイ」 と、想ったのは私であった

2016年05月19日 05時40分04秒 | 昭和以後

 「 釣りをしたい 」
小学校4年 ( 10歳 ) の息子が言った。

 

平成7年 (1995年) の事である。
息子は泳げない、心配故一人で川に遣ることはできない。
よって、私も一緒に行くことにしたのである。
大東町の釣具店、「みやの」、で簡単な釣り道具一式と、餌のミミズ(隣太郎)を買って淀川へ急いだ。
息子の嬉しそうな顔につられて 私も愉快な気持ちに成って行く。
淀川に着くと、比較的安全と思われる、毛馬クリークを選んだ。
ここなら、浅そうだ。
大人なら、たぶん足が届くだろう。
そして、護岸の斜面の上から釣ることにした。
息子は生まれて初めての釣りである。

・・・リンク→痛ツ !!
私は、8歳までの幼年期、漁師町三ノ瀬で過ごした。

故に元来、釣りをするのが好きであったのだ。
丸谷の波止場では、ドンコ、アブラメ、コチ、ギザミ(ベラ)を釣った。
夏の夜、親父と一緒に、チヌも釣ったことがある。
船釣りで、アコウを釣ったこともある。
餌は自分で獲ったゴカイ ( ムシと呼んだ )である。
毛馬閘門・洗い堰
昭和38年(1963年)4月、
大阪の毛馬に移住してからは、中学一年の頃釣りをしたことがある。

竿は手元に節が集まる(根っこ)竹ざお
餌は、サナギ粉をまぶしたウドン
淀川のワンドから毛馬の閘門が釣り場であった。
しかし、釣った記憶は全く無い、釣れやしなかったのである。

この年、春分の日は暖かかった。
竿は短い(2.7mと3.6mのグラスファイバー製)
何が釣れるか分らない。
「 さあ つるぞ!」
記念すべし、第一投
・・・・
「 つった!」
息子が一番に釣った。
息子にとっては歴史的瞬間である。
息子は歓喜した。
続いて私が釣った。
それからは もう 「つれる、つれる」
でもそれは、名前も判らない魚ばかりであった。
通りかかった、リー ル竿で釣りをしている青年(大学生か)に尋ねてみると

胴に縞のラインがある小魚がモロコ

綺麗な小魚がモツゴ

顔にホクロがある、たい焼きみたいな魚が、ブルーギル

引きの一番強い、釣り応えのある魚が、ブラックバス・・・だと言う
どれもこれも、知らない魚ばかりであった。
 
息子は、ミミズを釣り針に着けることができない。
気持ちが悪いのだ、無理もない。
途中で、飽きてしまって、ギャラリーに変わっている。
息子の竿は、じいちゃんが使っている。
釣りの途中、小魚を入れるバケツを家に取りに帰った時、息子がじいちゃんに電話して、呼んだのだ。
私の家も、親父の家も、この釣り場まで、自転車で5分で来れる。
魚(料理)の好きな親父は釣った魚、食べられると思ったらしい。
食べられないと分ると、この日がこれっきり、で その後、釣りをすることは無かった。

「釣りは、オモシロイ !」
と、想ったのは私であった。

毛馬クリークでは、他にもイロイロな魚を釣ったり、見たりした。

にほんばらたなご

あゆ

かまつか

はす
 

ふな  ヘラブナ     まぶな  ギンブナ  まぶな  キンブナ

こい

にごい

ワタカ

キ゛ギ

カムルチー
・・・以上、釣ったもの。

大魚ハクレン
これはヘラ・コイ竿では、とうてい敵わない。

すっかり釣りにはまった私
私の性に合ったのだ。
私は毎週土日に釣りに出かけたのである。
息子の学習の為にと、ベランダに水槽を二つ置いた。
そして、釣った小魚を入れた。
しかし、世話は全部私


初夏の夕暮
私は、クリークで釣りをしている。
息子は塾(公文式)へ通っている。
塾が終わると、息子がカンビール ( 極小サイズ ) を持ってやってくる。
そこで一服。
それが楽しみであった。
そして、夕暮れ、二人並んで ウキが見えなくなるまで釣りをしたのである。
夏のある日、40センチの大きなバスを釣った。
大物である。
バス釣り用の竿でもなく、仕掛けでもない、
へら竿と、その仕掛けにブラックバスが食いついたものだから、竿
が大きくシナッタ。
・・それはもう、悪戦苦闘
その様は周囲に一際目立った様である。
釣上げたとき、バス釣りをしている連中から、拍手が起こった。
得意顔の私であった。
「 息子に見せてやろう、自慢してやろう 」
と、息子の来るのを待った。
・・・
「 未だか 」
・・・
「 未だか 」
・・・
その日に限って、息子は来なかったのである。
私はどうしても、息子に釣ったブラックバスを見せてやろうと思い、家に持ち帰った。
持ち帰って水槽の中に入れて飼うことにしたのである。

ところが、こともあらうに ミミズで釣ったブラックバス、ミミズを食わない。
生きた小魚しか食わない。
そして、死んだ小魚を見向きもしないのだ。
対照的にブルーギル
何でも食べる、ソーメンでも漬物でも、米粒でも食べる。
さあ大変。
もろこ、もつご を釣って餌としなければならない。
夏の間は、釣りをしている間、セルビンにサナギ粉を入れて川の中に沈めて置いただけで
釣りの終わる頃には十数匹入っていた。
釣上げたものと合わせて餌にしたが、一週間もたないのである。

秋になり、だんだん、小魚がいなくなる。
息子と一緒に、城北ワンド群をブラックバスの餌である、小魚を求めて釣り歩いた。
それはそれで楽しかった。
そのころ、息子はリール竿とルアーでバス釣りをしていた。
ミミズが気に入らなかったからだ。
11月になると小魚は、たまにしか釣れなくなった。

 ←11番池

ケタバス ( ハス ) がつれたりもしたが、
モツゴより二回り大きいので、ブラックバスこれを食わない。
12月になると、小魚が全く釣れなくなった。
仕方がないので、ペットショップに餌用の金魚があるということを知り、
一匹30円もする金魚を買って、餌としたのである。
腹を空かしたブラックバス。
水槽の水面に金魚が落ちるか否かの瞬間、もう、咥え込んでいた。
なんとも凄い。
真冬の二月になると、バスは水槽の中でじっとして動かなくなった。
子供の拳大のブルーギル二匹と、私の拳大のブルーギルが同居していた。
皆、じっとしている。
動かない。
餌も与えなくなった。
水槽を断熱材で覆い春が来るまで、放って置いた。
春の3月になって、断熱材を取り除いてみたら、
水槽の中にはブラッ クバ
ス一匹になっていたのである。

水槽でバスを育てること。
どれだけ大変なものかが身に沁みた私。
暖かくなる日を待ってバスを放流することにした。
クリークへ戻したとき、ブラックバスはキョトン? とした風であった、すぐに逃げないのだ。
間をおいて、クリーク底へ姿を消していった・・・・・・
そして、水槽も整理した。

これは、ブラックバスの飼育日記ではない。
ないが、いささか長くなってしまった。

子供の成長は早い。
一年たつと、一緒に釣りに行かなくなってしまった。
父親と一緒に釣りをするより、友達と一緒に釣りをした方が楽しくなったのである。
親としては、淋しいことであるが、・・・息子は成長したのである。

然し、
すっかり 「釣り」 に、はまった私。
もう、やめられない とまらない。
釣りを続けることにしたのである。
そして、一年を通してみて、冬でも釣れる魚、それが 鮒 であった。
私は、へらぶな を釣る事にしたのである。
・・・リンク→ガハハ・・・ 至福の瞬間 (とき)

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