昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

7 大阪ヒーロー 

2021年06月19日 07時21分40秒 | 7 大阪ヒーロー

大阪ヒーロー
      
漫才、落語、新喜劇の革命児達、我がヒーローを物語る 
目次
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笑いたいのをこらえたのに
昭和38年(1963年)
大阪に引越してきて、テレビで初めて「漫才」を知った
漫才、落語、漫談、浪曲、講談、新喜劇・・
8歳の少年の私
これを、「おもしろい」と思った
こういう芸能文化の在る大阪が、とてつもなく大都会に想えたのである
少年は感動したのである

「おかあちゃん、この漫才おもしろいで」

新しい風
昭和42年(1967年)
(中学1年の)私は、いつものとおりテレビで漫才を見ていた
そして
「おかあちゃん、この漫才、おもしろいでェ」
夕食の支度をしていた母に、そう叫んだのである
それはもう、おもしろかった


おまえ・・ブタマン屋の娘やろ
グラマーな女優(ハーフがかった美形の顔付)・・西川洋子が通行人の役で登場する
岡八郎が歩み寄り
「お嬢さん、僕と結婚して下さい」
「お断りします」
「なんや、八ちゃん、初対面の相手にいきなり」
「俺は、女性に遭うと、結婚を申し込む、システムをとっとるんや」
断られた、腹癒せに
「なんや、おまえ・・よう肥えて」
「おまえ・・ブタマン屋の娘やろ」
「ブタマン屋の娘です」         ドテー・・・ここで観客大笑い
岡八郎全盛期の吉本新喜劇の一場面である

革命児達
昭和44年(1969年)
大阪万博の前年、大阪は活気に満ちていた
そして、この活気に満ちた、大阪の勢いが、ヒーローを産み
そして、彼等は、「大阪の笑い」 を革命していく


笑福亭仁鶴
吉本新喜劇の岡八郎
漫才の横山やすし・西川きよし
各々の革命児の出現と共に、笑福亭仁鶴
の登場も亦、大阪の笑い を変えた
そしてそれは、大阪の芸人の存り方をも変えたのである
是、真に革命的と謂えよう
落語でもなく、漫談でもなく、これまでに無い形の喋りは、積重ねた過去をも、凌駕したのである
中学生の吾々は、だからこそ これを 面白いと想った
これを 吾々のモノ と、認めたのである
そして、この吾々が認めたる モノ は、大阪発 は、全国区に展開していった
吾々は得意に成って、自慢したのである
彼は 吾々のヒーローなり と

すきがあったら どっからなと かかってこんかい

岡八郎の真骨頂
吉本新喜劇の歴史上最大のギャグである
これほど爆笑を取ったギャグが他にあるものか
私にとって
岡八郎は 
まさに、ヒーロー なのである


ガオー
 岡八郎
男は泣いたらあかん
そう、教育された
人前で泣いて、どうする
歯をくいしばって、頑張らんかい
男は、泣いても、生涯で3回だけや
男が泣く時は、理由がいる
そして、その時は、誰はばからず
豪快に泣け
そう、教えられたのである
「男は豪快に」・・を信条とする
吾々の世代、誰もが持つ、認識である


人目憚ることなく、ひたすら落語に打ちこむ姿を目の当りにして

面白い落語から大爆笑落語へ
昭和45年(1970年)~50年(1975年)
革命児・笑福亭仁鶴が、我々に落語を知らしめ、落語に耳を傾けさせた
落語も面白いもの・・・と
落語を聞く・・を、若者の一つのファッションとしたのである
然し、それは未だ、粋の範疇、通の領域
落語の域を超えるまでには行かなかったのだ
時代は進化する
昭和48年(1973年)桂小米は桂枝雀を襲名した、そしてこれを機に
枝雀がばけた 大ばけした
ここに、ヒーロー・桂枝雀が真打登場・・したのである
彼の落語はこれまでの全ての落語を凌駕した
それはもう、大爆笑の大爆笑
落語を聴かせて、且つ、我々を大爆笑させたのである
これぞ、枝雀落語の真骨頂・・と


大阪名物パチパチパンチ
  
ポコポコヘッドに、カンカンヘッドは男のロマン
困った困ったこまどり姉妹、しまったしまった島倉千代子・・・
・・・等々のギャグを持つ
強面のキャラクターが、一転愛嬌たっぷり変貌するところが可笑しかった
私の知るところ、異色なキャラクターであった

次頁
8 大和撫子
に続く

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革命児達

2021年06月18日 08時27分00秒 | 7 大阪ヒーロー


わたしゃビルの お掃除おばちゃん

モップかついで 生きてゆく
ひとり息子を じまんのたねに
毎日床をみがくのさ
おばちゃんおばちゃん
がんばってゃおばちゃん

昭和44年 ( 1969年 )
上方落語の笑福亭仁鶴が唄った
「 おばちゃんのブルース 」 である。
中学三年生の時 憶えたこの歌、
私は今でも偶に口遊んでいる。

昭和44年 ( 1969年 )
大阪万博の前年、大阪は活気に満ちていた。
そして、この活気に満ちた、大阪の勢いが、ヒーローを産み
そして、彼等は、「 大阪の笑い 」 を、革命していく。



笑福亭仁鶴
吉本新喜劇の岡八郎
漫才の横山やすし・西川きよし
各々の革命児の出現と共に、笑福亭仁鶴
の登場も亦、大阪の笑い を変えた。
そしてそれは、大阪の芸人の存り方をも変えたのである。
是、真に革命的と謂えよう。
落語でもなく、漫談でもなく、これまでに無い形の喋りは、積重ねた過去をも、凌駕したのである。
中学生の吾々は、だからこそ これを 面白いと想った。
これを 吾々のモノ と、認めたのである。
そして、この吾々が認めたる モノ は、大阪発 は、全国区に展開していった。
吾々は得意に成って、自慢したのである。
彼は 吾々のヒーローなり と



「 大五郎 」
「 チャン ! 」
「 どこいくの? 」
「 チョット そこ まで 」
ボンカレーのTVCMでの、一コマである

ボンカレーを鍋に浸ける際のなべ底 の ソコ と、 チョットそこまでの そこ をかけたものである。
「 おもしろい 」 
と、吾々はウケる
笑福亭仁鶴の絶頂期を物語る一つと謂えよう


ヤングオーオー

(1969年~1982年 毎日放送 日曜午後6:00~ 6:55)
大阪発の公開バラエティーである。
笑福亭仁鶴と桂三枝が、メイン司会を前後に分けた。
番組構成もバラエティに富み、どれもみな新鮮であった、楽しかった、面白かった。

桂三枝、笑福亭仁鶴、やすし・きよし・・・

と、続々と超新星も出現した。
中学生だった吾々にとっては、それはもう大御馳走・・の、満満腹
時代と相俟って、超人気番組に成ってゆく
その勢いたるや
関西のみに止まらず、滔々と全国に展開していったのである。


更に、大阪の時の勢いは
異端児 を産んだ
天才 月亭可朝 の登場である。


♪ 
ボインは
赤ちゃんが吸う為にあるんやで
お父ちゃんのもんとちがうんやで
ボインと云うのは  どこの国のことば
うれし恥かし  昭和の日本語
おおきいのがボインなら  ちっさいのんはコインやで
もっとちっちゃいのんはナインやで

なんで女の子だけボインになるのんけ
腹の立つ事いやな事
シャクな出来事あった日は
男やったら酒のんであばれまわってうさ晴らし
女の子ならなんとする
胸にしまって我慢する  女の子の胸の中
日頃の不満がたまっている
それがだんだん充満して来て  胸がふくれてくるんやで

あげ底のボインは満員電車に気いつけとくなはれや
押されるたんびに移動する
いつの間にやら背中に廻り  一周廻ってもとの位置
これがほんまの  チチ帰るやおまへんか
コレほんまやで

「 嘆きのボイン 」
ギター弾き語りで以ての歌笑曲である。

Wikipedlia に、面白い記述をみたので
此処で、これを紹介する。
ボインという言葉が世間を席巻し、すっかり定着。
当時、全国津々浦々にいたるまで男子小学生のほぼ全員がこの歌を口ずさめた。
♪ おおっきいのんがボインなら、
ちっちゃいのんはコインやで、もっとちっちゃいのんは、ナインやで

などのくだりは、特に小中学生にはウケた。

「 乳房が赤ちゃんのためにある 」 
というフレーズは子供達にとって至極当然の内容であった。
但しこれに
「 それが父親のためにあるのではない 」 と付け加えられることで、
子供達は母親の授乳器官が同時に性的器官であることを暗に悟らされることになった。
この事実を確認するために質問をぶつけられた大人達は当惑しかつ回答に窮し、
対応としては子供達を叱りこの歌を歌うことを子供達に禁ずる以外の手段を持たなかった。
全国の小学校で歌ってはならない歌と定められ、
これに対して子供達は殊更この歌を歌うという現象がおきた。
結局、なぜこの歌を歌ってはならないかと言う合理的な理由は子供達に示されることはなかった。
子供達は大人たちの気色ばんだ表情から、
何かこれ以上触れてはいけないものを感じ、
かつ、母親の乳房が子供の占有物ではなく、
父親と想像出来ぬ形で共有している事実を悟るのであった。
・・・
と、まあ



更に、これぞ月亭可朝の真骨頂
「 ♪ これまた奥さん、天狗の鼻見て、何想像してまんのんやぁ~ 」
「 あっ やっぱりあれでっかぁ 」
「 わいも、すっきや 」
「 ♪ 天狗印の・・・・・・や、おまへんかー 」
「 イヤ ほんま 」
(大阪ローカル) テレビコマーシャルが、家族五人の夕食時に流れる。
「 フッ 」
と、親父が笑う。
然し、皆の手前、笑いを抑えている。
未だ幼き妹二人はその意味は分らないだろうが
気まずい空気の漂う中、私は緊張の面持ちで以て聞いていた。

彼の笑いはシャレていた
「 中学生ふぜいに、簡単には笑わさへんで 」
・・と
どや・・・粋ななぁ
シャレてるやろ・・と

「 イヤッ ほんま 」

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大阪名物パチパチパンチ

2021年05月20日 04時36分49秒 | 7 大阪ヒーロー

大阪名物パチパチパンチ

                                           ドヤ、ドャ、ドヤーーーー
ご存知
吉本新喜劇
脇役・島木譲二の最大のギャグである。
  
ポコポコヘッドに、カンカンヘッドは男のロマン
困った困ったこまどり姉妹、しまったしまった島倉千代子・・・
・・・等々のギャグを持つ
強面のキャラクターが、一転愛嬌たっぷり変貌するところが可笑しかった。
私の知るところ、異色なキャラクターであった。

 ←旧天六阪急ビル
         ↑ 地下鉄入口          ポンビキ位置 ↑           自転車置き場 ↑
「天六には○○と謂う親分が居ってのお」
「あの辺は○○組の縄張りじゃ」
・・・と、子供の頃
親父から聞かされたことがあった

 ぽん引き
昭和55年 ( 1980年 ) 頃
地下鉄堺筋線にて、
天神橋筋六丁目から堺筋本町まで通勤していた私。
天六 ( 天神橋筋六丁目 )  までは、自転車で脚を伸ばしていた。
自転車は、旧天六阪急ビル ( 1階は阪急共栄ストア ) の東側、
交番の前の 「 自転車預り 」 ・谷村に預けた。
谷村さん から地下鉄駅まで徒歩で2分程度の処である。

午後の八時過ぎ
いつものとおり、地下鉄の階段を上った私は
自転車置場に向おうと、天六阪急ビルの東南角にさしかかった。
その時
「 にいちゃん、遊んでいかへんか 」
「 若いええこ、おるで 」
・・・
と、中年の男に声をかけられた。
所謂、ポンビキ と、謂うやつ
立派な体格をしている。
そして、
あの大阪名物パチパチパンチでお馴染みの吉元新喜劇 ・島木譲二バリの強面である。
私は、まともには相手にならず、( イヤイヤ・・と ) 手を振って拒んできた。
幾度となく声を掛けられるのには、閉口していた。
だから、この日
「 地元のもんや 」 ・・・と、そう返答したのである。
私にとっては天六は地元。
すると意外にも
「 おっ、そうかそうか、そりゃすまなんだな 」
・・と、彼の強面の顔が緩んだ。
強面ゆえに、緩むと一転愛くるしい顔に変貌する。

やくざなおっさん
強面の無愛想なおっさん
そんなイメージが強かったから、
その意外な反応に逆に親しみを感じてしまったのである。
「 このおっさん、ええ人なんや 」
・・・と、そう想った。

以来彼とは、なんとなく顔馴染み
互に顔を見合わせると、目と目で以て会釈するようになったのである。

ご互いが
『すっかり顔馴染みに成る』・・を、しちゃあいけないことと
そう想っていたのである。
それが、仁義と
なんとなく、そう想っていたのである。

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すきがあったら どっからなと かかってこんかい

2021年05月19日 05時38分00秒 | 7 大阪ヒーロー


昭和40年(1965年)
藤山寛美の松竹新喜劇 
「 夜明けのスモッグ 」
テレビ中継を視て、
親父は笑っている。
一緒に視ていた私は、ちっとも面白くない。
11歳(小学5年生)の、私に、舞台演劇というもの 分かろう筈もない。
演劇は、「 大人のもの 」
子供が視ても、愉しくはなかったのである。


昭和38年 (1963年 ) 大阪に移住して
「 お笑い 」 に関心を持った私は、
「 お笑い 」 の番組は ほとんど視ていた。
特に印象深い喜劇ものは
藤田まこと 白木みのる の 全国区 「 てなもんや三度傘 」
白木みのる 藤田まこと 藤純子 大丸・ラケット 都喋々出演の 「 スチャラカ社員 」
これらが人気番組であった。
ではあったが・・・やはり 大人のもの
吾々のもの・・という感がしなかった。
況や その頃の 「 吉本新喜劇 」 は マイナーのマイナー
つまらなかった。
「 てなもんや三度傘 」 で、子供等にも人気があった平参平も出る新喜劇
さぞや、面白かろうと 期待したのであるが、反してつまらなかった。
「 松竹新喜劇の真似をしている 」
子供の私にも、そのように、映ったのである。
当時の主な俳優
秋山たかし 藤井信子 平参平 花紀京 桑原和男 「 チャボ 」 こと奥津雄三 

昭和42年 ( 1967年 ) 
グルーブサウンズが時代を席巻した
その時代の変化と共に
大阪のお笑いの世界にも、新しい風が吹き始めたのである。
吉本新喜劇の岡八郎
落語の笑福亭仁鶴、桂三枝
漫才の やすしきよし
彼等が登場したのである
それは、我々中学生でも、大人と共に笑えるもの
・・と、そう認識したのである。
・・・リンク→革命児達

 
井上竜夫  岡八郎  山田スミ子

昭和43年 ( 1968年 )
岡八郎の登場で、吉本新喜劇が革命的に変貌する。
藤山寛美の松竹新喜劇のようなものから、ドタバタ喜劇に変わった。
今の吉本新喜劇の始まりである。
「 ギャグ100連発 」
・・・が、ここから、スタートしたのである。
それは、中学2年生の私の心に響いた。
これは、オモシロイ
爆笑したのである。    ・・・リンク→おまえ・・ブタマン屋の娘やろ

吉本新喜劇史上最高のギャグ
おまえら、やんのんかぃ やったろやないか
ゆうとくけど、俺は強いで
こうみえても、学生時代
柔道部で ピンポン しとったんや
ま、これは冗談やけど
本当は、空手をしとった
通信教育やけどな
おまえら
すきがあったら どっからなと かかってこんかい 

クサー
エゲツナー
イヤラシー

       

岡八郎の真骨頂
吉本新喜劇の歴史上最大のギャグである
これほど爆笑を取ったギャグが他にあるものか
 

私にとって
岡八郎は 
まさに、
ヒーロー
それは もう   おもしろかった
つくずく
そう・・想うのである

   
オーノー         これで焦点距離があうんや   ガオー  リンク→ガオー


 1983.11.23
 
  1982.12.03

吉本新喜劇の俳優達
岡八郎 花紀京 「誰がカバやねん」の原哲男
「ナカスゾアホー・・オホホー」 「お前が泣いてどないすんねん」の船場太郎 
「見よ この決意」の桑原和男    「ヨーシ、ようし、ヨーシ」の阿吾寿朗
「ヨイショッ、アーイソガシー」、「イワン、イワントイテ」の谷しげる 
「・・じゃアーリマセンカ」の浜勇次 「首振り」の淀川五郎  「ブタブタコブタ」の伴大吾 
「おじゃまシマンネヤワ」の井上竜夫
間寛平 木村進 「・・ヨ、ワレー」、「タマネギのたたりやねん」の室屋信雄 
池乃めだか 「あほんだら、アホンダラ」の帯谷孝史 「アツ、アツー」の高石太
「ワレコ、われこ」の由利健 「ブルブルブルー」の泉ひろし 
「マーソノー」の島田一の介 「ちゃーすど、チャースド」のやなぎ浩二 
「ふんどし姿」の木村明 
「はげ頭」の中川一美 「エテコー」の中山三吉
懐かしの女優
山田スミ子 中山美保 片岡あや子
津島ひろ子 安田密子
西川洋子 楠本見江子 藤里美 末成由美 浅香秋恵
高瀬ぎん子 南喜代子

誰も皆 想いで深い 懐かしい 俳優達である。

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「おかあちゃん、この漫才おもしろいで」

2021年05月17日 04時23分06秒 | 7 大阪ヒーロー

昭和40年~42年 ( 1965年~1967年)、 演芸のブームがあった。
「 ちびまるこ 」 の、野口さん・・程ではないが
お笑い好き少年の私は、
ほとんどの番組を見ていたのである。
この 「 演芸ブーム 」 東京がブームの主流であった。
少年の記憶に残るものは

東京
「ドッタの?」の、春野チック・タック  「ヤンナッ・馬鹿だなァ」の、Wけんじ
  
「卵の親じゃ ピーヨコちゃんじゃ」の、獅子てんや・瀬戸わんや  トリオスカイライン  
「びっくりしたなぁ、モオ!」の、テンプクトリオ  「親亀コケタラ、皆こけた」の、ナンセンストリオ  
「すきです、よしこさん」の、林家三平  「山のアナアナ」の、三遊亭歌奴  
新作落語の、桂米丸  柳亭痴楽の綴り方教室、「リュウテイチラクの言うコトニャ、アアイウコトニャ」  
「アーア、ヤンナッチャッタ、オドロイタ」の牧伸二 牧伸二の師匠・牧野周一 
「朝早く起きて、昼寝をしていたら、庭の柿の木にリンゴが成っていた」で、私を笑わせたコミックバンドの、ドンキーカルテツト  
「地球の上に朝が来た」の、小島宏之とダイナブラザース、灘康次とモダンカンカン
声帯模写の桜井長一郎、春野ピーチク・パーチク  早野凡平  「おじゃまします」の、南洲太郎  
「ハードボイルドダド」の、トリオ・ザ・パンチ  コロンビア トップ・ライト  ラッキーセブン 青空千夜・一夜
へびつかいの東京コミックショー 「夢もチボーも無い」の、イナカッペで一世を風靡した東京ぼん太  
コント55号  お笑い番組にも顔を出していた、ドリフターズ・・
    
     
 牧野周一   
      
         

大阪
海原お浜・小浜 「頭の先までピーコピコー」の、若井はんじ・けんじ  
「パンパカパーン」の、漫画トリオ  中田ダイマル・ラケット  
「3万円・5万円・10万円、運命の分れ道」と、夢路いとし・喜味こいし  
「こんなん連れてやってまんねん・・ハハァさいなら」の、平和ラッパ・日佐丸  
「忘れようとしても、思い出せない」と、笑わせた京唄子・鳳啓介  「又も出ましたロマンショー」の太平トリオ  
「うちら陽気なかしまし娘」の、かしまし娘  上方柳二・柳太  早口夫婦漫才の、ミスわかさ・島ヒロシ  
「アーイーヤ」の、暁シン・ハワイ  三遊亭小円・木村栄子  
ぼやき漫才の、人生幸朗・生恵幸子「責任者出て来い!」  島田洋介・今喜多代  
「毎度、皆様御馴染の・・」浪曲漫才の、宮川左近ショー  
「なんでやッ、おいしいからや」の、森野福郎  漫談の西条凡次  
声帯模写の川上のぼる  三味線トリオの三人奴 「おじゃましました」の、横山ホットブラザーズ  
「永谷園の松茸のお吸い物のCM・・まつといたら何か呉れるのか?いやマツタケヤ」の、天草四郎・岡八郎  
「イヤーン、イヤーン」のルーキー新一  
漫才の骨董品、砂川捨丸・中村春代 三味線漫談の吾妻ひなこ「ハハ・・ノンキダネ」・・
   
    
    
     
 岡八郎・天草四郎    

どれも皆、これぞ 「 芸 」 ・・・おもしろかった

新しい風
昭和42年 (1967年 )
( 中学1年の ) 私は、いつものとおりテレビで漫才を見ていた。
そして
「 おかあちゃん、この漫才、おもしろいでェ 」
夕食の支度をしていた母に、そう叫んだのである。
それはもう、おもしろかった。


ヤングおーおー  」 の、やすし ・きよし

横山やすし・西川きよし
彼等の漫才は、其れまでの漫才と全く違った。
新しい形の漫才であったのだ。
其れは、革命的なものであった。
それまで大人のものであったお笑いの世界に、新しい風が吹いた。
彼等の漫才は
吾々、中学生までもが
「 これは、吾々のもの 」
・・・と、
そう認めたのである。

・・・リンク→革命児達

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笑いたいのをこらえたのに

2021年05月16日 05時10分57秒 | 7 大阪ヒーロー

私は
「 お笑い 」 が、
好きである。

昭和38年 ( 1963年 )
大阪に引越してきて、
テレビで初めて 「 漫才 」 を 知った。
漫才、落語、漫談、浪曲、講談、新喜劇 ・・
8歳の少年の私
これを、
「 おもしろい 」 ・・・と、思った。
こういう芸能文化の在る 「 大阪 」
とてつもなく 大都会に想えたのである。
少年は感動したのである。

 後年のダイラケ
ある日曜日
9歳の私は近所の散髪屋へ
店のラジオから、ダイマル・ラケットの漫才が流れていた。
私は、時々笑みを浮べて、聞き入っていた。
「 オモシロイ ・・
ドウシヨウ ・・」
散髪は、カミソリ に さしかかる。
「 笑ろうたらあかん・・」
9歳の少年は、堪えようとした。
しかし
堪えようとすれば するほど 可笑しくなって
とうとう  大笑い
吹き出してしまったのである。


左端に、ダイラケ が居る。 この頃のダイラケの漫才を聞いていたのである

吾々が子供の頃
「 お笑い番組 」 を、家族全員で視ていた。
親と一緒に、視ていたのである。
そして、親と一緒に、「大笑い」 していたのである。

時代は進化する。
58年という時の経過は遥かである。
今や
家族全員で視る、お笑い番組 は無い。
家族全員で、一緒にテレビを視る事もない・・・

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ガオー

2017年02月15日 12時15分34秒 | 7 大阪ヒーロー

男は泣いたらあかん
そう、教育された

人前で泣いて、どうする
歯をくいしばって、頑張らんかい
男は、泣いても、生涯で3回だけや
男が泣く時は、理由がいる
そして、その時は、誰はばからず
豪快に泣け
そう、教えられたのである
「男は豪快に」・・を信条とする
吾々の世代、誰もが持つ、認識である


吉本新喜劇
観客の めがしら が篤く成っている

きっかけを与えたら

皆、泣き出すであらう・・そんな場面

この後、観客を泣かすのであらうか・・

舞台の中央

主役は、ハッチャン こと、岡八郎 (大柄の男である)

屋台のラーメンの長椅子を取り出し

わざわざ、長椅子の上に立つ

皆が、見上げる

「ガオー」
( ドテー、〔舞台の全員〕 )

Oka4

 

 

 

 

 

 




それは、観客の期待なのである

そして、いつもの通り の大爆笑

大の大人が、より高いところで
衆目を集めて、号泣してみせる
そこが、意味(ミソ)で
そこに、吾々は、感動するのである

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おまえ・・ブタマン屋の娘やろ

2016年04月16日 02時20分47秒 | 7 大阪ヒーロー

幕が上がると、既に、船場太郎が場面に居る。
次に、主役の 「 ハッチャン 」 こと、岡八郎の登場である。
いつもの様に、
「 ハッチャン、ハッチャーン 」 と、呼びかける。
「 おんなに フラレテなぁ 」
「 ワロタ、笑うた、もう大ワライ や 」
客席からの大拍手の中、岡八郎が そう言い持って、登場する。


 

 


挨拶が終わると

グラマーな女優 ( ハーフがかった美形の顔付 )・・西川洋子が通行人の役で登場する。
岡八郎が歩み寄り
「 お嬢さん、僕と結婚して下さい 」
「 お断りします 」
「 なんや、八ちゃん、初対面の相手にいきなり 」
「 俺は、女性に遭うと、結婚を申し込む、システムをとっとるんや 」
断られた、腹癒せに
「 なんや、おまえ・・ブクブク よう肥えて 」
「 おまえ・・ブタマン屋の娘やろ 」
「 ブタマン屋の娘です 」         ドテー・・・ここで観客大笑い

岡八郎全盛期の吉本新喜劇の一場面である

 ・

・・・・・ブタマン
昭和38年 ( 1963年 ) 大阪に越してきた小学3年生の私は
誰もが、
「 ブタマン、ブタマン 」 と云う、
ポプュラーな食べ物 「 肉まん 」 が、あることを知った。
「 ブタマン・・・、そんなに、美味いのか?」

そして、
同じクラスの
早石満の家で、
初めて其を食べたのである。
「 これが、ブタマン…かあ 」

私は、このあと このかた
「 ブタマン 」 は 食べない。
・・・のである

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