昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

野球少年 ・ チャンバラから野球へ

2021年02月28日 06時46分56秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

 類似イメージ
昭和36年 ( 1961年 ) 頃
住吉浜の山麓には田圃があった。
稲刈が終ると、俟ちかねたように、吾々は そこで野球をしたのである。
革製のまともなグローブなぞ、誰が持っているものか。

蒲刈中学校で野球の試合
昭和37年 ( 1962年 )
地区対抗でソフトボールの試合が行われた。
それは、いつもの三角ベースではなく 9人制のチャントシタもの、
蒲刈中学校の運動場で行われた。
然し、誰もmyグローブ、myバット・・そんなもの持っちゃあいない。
使用する野球用具は総て用意されたもの、
だから、私のグローブは手に余った。
そして
誰が如何 仕切ったかは、解らない。
何故かしらん、
私はピッチャーであった。

最年少 ( 小学二年生 ) の私、いつもは外野の外野、
偶に守らせて貰っても、ライト・・が定位置だった。
ピッチャーの経験なぞ、
一度もなかったのである。


痛かったのに・・・・
「 エッ !? 」

打者の打ち返した球がライナーで真向から飛んでくる

低い小フライならグローブ捌きは手のひらを上に向けて掬って捕れるのに

フライなら手を伸ばして顔の前でグローブを立てて捕球もできるけれど・・・

投球直後の屈んだ私の顔面に向かって、打球が真ッ直ぐ飛んで来る

上向きにしやうか、立てやうか・・上向きにしやうか、立てやうか・・

如何すりゃいいのさ、思案橋

球は、スローモーション映像で見るかの様に、見る見る間に大きく成ってくる

そして、ソフトボールがドッチボールに為った時、私の目から星が出た

グローブ捌きもクソもあるものか

私は為すすべも無く、まともに顔面で球を受けたのである

此れまさに、漫画の様な一場面

ガハハハ・・

敵も味方も、見ている者、皆がこぞって、それはもう大笑い

カッコウ悪いったら、ありゃしない

今度は、顔から火が出た

人の気も知らんで・・・

 類似イメージ
昭和34年 ( 1959年 )、
5歳の私は10歳年長の叔父のラケットを持って素振りの真似をした。
中学の部活と謂えば卓球が定番だった。
昭和36年 ( 1961年 ) になると、
「 テニス 」 や 「 バレーボール 」 等の、カタカナで称する新しいものが現れた。
『 テニス 』 と謂う 言葉の響きに、
7歳の私は、なにかしらんスマートな感じを抱いたのである。
( 6歳年長の叔父はバレーボール部 だった )
   類似イメージ
我々、子供の遊びも変わった。
いつのまにやら
定番の 「 すもう 」 や 「 チャンバラ 」 を、しなくなったのだ。
時代は、「 映画 」 「 ラジオ 」 の 時代から、 「 テレビ 」 の 時代に進化して行く

そしてそれは
、『 野球 』 なる新しい遊びを、登場させたのである。


コメント    この記事についてブログを書く
« タコ捕りの達人 | トップ | 長島少年 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。