昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

新聞少年

2017年08月10日 | 2 男前少年 1963年~

貧しくとも
働くことが大きな希望であった時代
だれも皆、前向きで元気であった。

キューポラのある街
昭和37年 ( 1962年 )
胸が篤く成る、シーン である

歌は時代を反映する。
戦後最大の不況と謂われた 昭和40年 ( 1965年 )
こんな歌が流行った。
当時小学5年生の私、今も偶に口遊む

「新聞少年」
 一
 僕のあだ名を 知ってるかい
 朝刊太郎と云うんだぜ
 新聞配ってもう三月
 雨や嵐にゃ 慣れたけれど
 やっぱり夜明けは眠たいな
 二
 今朝も出掛けに 母さんが
 苦労をかけると 泣いたっけ
 病気でやつれた 横顔を
 思い出すたび この胸に
 小ちゃな闘志を 燃やすんだ
 三
 たとえ父ちゃん いなくても
 ひがみはしないさ 負けないさ
 新聞配達つらいけど
 きっといつかは この腕で
 つかんでみせるよ でかい夢
  ・・・山田太郎 歌

「 ハナダー 」
路から小声で私を呼ぶ声がする。
2階の窓から顔を出すと、
チーボー ( 級友・早石の兄、6年生 ) が、立っていた。
要件は分かっている。
小声で
「 アルバイト ・・・」
私は帽子を被ると、急いで階段を降りた。

二人して、大東商店街の協和ストアへ
そして、魚屋 八百屋 果物屋 雑貨屋・・・等々、周った。
どうしても、アルバイトをしたかった。
しかし、小学4年生を雇って呉れる店等、ひとつも無かったのである。
肩を落とした影ひとつ・・

夕食時、親父が私に訊ねた。
「 アルバイト、見つかったんか?」
「 えっ? なんで知っちょるん 」
「 わしは何でも知っちょるんじゃ 」
「 だめじゃった 」
事を親父に説明したら
「 ワレみたいな子供をだれが使ってくれるもんか 」

怒られると、想った。
「 まあええ、働こう いうことは、ええことじゃ 」
どういう風の吹き回しであらうか
誉められたのである。

昭和39年 ( 1964年 ) 夏休みの事である。


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