貧しくとも
働くことが大きな希望であった時代
だれも皆、前向きで元気であった。
キューポラのある街
昭和37年 ( 1962年 )
胸が篤く成る、シーン である
歌は時代を反映する。
戦後最大の不況と謂われた 昭和40年 ( 1965年 )
こんな歌が流行った。
当時小学5年生の私、今も偶に口遊む。
「新聞少年」
一
僕のあだ名を 知ってるかい
朝刊太郎と云うんだぜ
新聞配ってもう三月
雨や嵐にゃ 慣れたけれど
やっぱり夜明けは眠たいな
二
今朝も出掛けに 母さんが
苦労をかけると 泣いたっけ
病気でやつれた 横顔を
思い出すたび この胸に
小ちゃな闘志を 燃やすんだ
三
たとえ父ちゃん いなくても
ひがみはしないさ 負けないさ
新聞配達つらいけど
きっといつかは この腕で
つかんでみせるよ でかい夢
・・・山田太郎 歌
「 ハナダー 」
路から小声で私を呼ぶ声がする。
2階の窓から顔を出すと、
チーボー ( 級友・早石の兄、6年生 ) が、立っていた。
要件は分かっている。
小声で
「 アルバイト ・・・」
私は帽子を被ると、急いで階段を降りた。
二人して、大東商店街の協和ストアへ
そして、魚屋 八百屋 果物屋 雑貨屋・・・等々、周った。
どうしても、アルバイトをしたかった。
しかし、小学4年生を雇って呉れる店等、ひとつも無かったのである。
肩を落とした影ひとつ・・
・
夕食時、親父が私に訊ねた。
「 アルバイト、見つかったんか?」
「 えっ? なんで知っちょるん 」
「 わしは何でも知っちょるんじゃ 」
「 だめじゃった 」
事を親父に説明したら
「 ワレみたいな子供をだれが使ってくれるもんか 」
怒られると、想った。
「 まあええ、働こう いうことは、ええことじゃ 」
どういう風の吹き回しであらうか
誉められたのである。
昭和39年 ( 1964年 ) 夏休みの事である。