昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

昭和の聖代

2022年06月28日 23時50分18秒 | 9 昭和の聖代


現御神 アキツミカミ
神と同一の心境、純粋無私の精神で君臨す


昭和の聖代

正義が常に正義として通用する
此  真の聖代と謂う

正義とは大御心を謂う
大御心そのものが 正義

堪へ難キヲ堪へ  忍ヒ難キヲ忍ヒテ  以テ 万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス 
敗戦の日

昭和の聖代
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1、爾臣民
大日本帝国憲法
 
教育勅語
軍人勅諭
戦陣訓

2、殉国
愛国百人一首 
・ などてすめろぎは ひと となりたまいし

妻と共に消え去った、幼き命がいとおしい 

殉国
親泊朝省

いよいよ降伏と決定
大日本帝国は有史以来初めて敗北を喫した。
親泊が精神の拠り処と仰いだ大元帥陛下は敵の軍門に降られ、皇軍は消滅する。
その上、故郷の沖縄は敵手に落ち、同胞の軍官民 数千人が戦死したという。
 
「 帰りなん、いざ、魂は南溟の果てに 」
敗戦と決定して以来、親泊の心中を去来したのは
この思いではなかったか。

彼の動かぬ決意を知った妻の英子は、
「 愛児とともに是非お連れ下さい 」
と、同行を願った。


長文の遺書 「 草莽の文 」 をしたため

この命斷つも残すも大君の

勅命 (マケ) のままに益荒男達よ

九月二日の夜
「 ガ島で死すべかりし命を今斷ちます、諸兄皇國の前途よろしく頼む 」
と、同期の井本、種村、杉田宛にしたため
妻子とともに 四十三年の清冽な生涯を終えた。

・・・ 殉国 「 愛児とともに是非お連れ下さい 」

3、昭和20年8月15日
大御心
「合法手続ならば裁可する、
其れが立憲国の天皇の執るべき唯一の途である 」


・ 
敗戦への導火線 ・アメリカの対日戦略 『 ロンドン軍縮会議 』 

・ 
落日の序章 ・1 『 中野正剛の自刃 』 
落日の序章 ・2 『 津野田知重少佐事件 』 

・ 聖代の終焉 ・1 『 ポツダム宣言受諾をめぐって 』 
聖代の終焉 ・2 『 玉音放送の録音盤を奪え 』
聖代の終焉 ・3 『 一死以奉謝大罪 』 

終戦への道程 1 『 東條を斃さねば、日本が滅びる 』 
終戦への道程 2 『 阿南惟幾陸軍大臣 』
終戦への道程 3 『 天皇に降伏はない 』 
終戦への道程 4 『 8月15日 』
終戦への道程 5 『 残った者 』 


・ 昭和20年8月15日・厚木航空隊事件 『 神州不滅なり !』 
・ 昭和20年8月15日・東久邇宮内閣とマニラ派遣特使 
・ 昭和20年8月15日・阿南惟幾 『 一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 』 
・ 昭和20年8月15日・殉国 『 無窮に皇城を守らむ 』 

佐々木二郎大尉の八月十五日  ・・「 今の陛下が大切です 」

「 日本は負けたんだ 」  ・・「 あんたは警官じゃないか、なぜ救わないんだ 」
「 挙国の士以て自立するなくば即ちその国倒る 」  ・・敗戦の結果、敵国軍隊の軍靴の下に祖国は蹂躙された
亡き戦友の声 ・・私は戦死した人々の顔が浮び、声が聞こえるように思った
マッカーサーの行った日本の改革 ・・『 日本改造法案大綱 』 と甚だ似たものであった

4、
人間宣言  
・ 
などてすめろぎは人間となりたまひし 

詔書 
茲ニ新年ヲ迎フ。
顧ミレバ明治天皇 明治ノ初 国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ御誓文ヲ下シ給ヘリ。
曰ク、
一、広ク会議ヲ輿シ 万機公論ニ決スヘシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経論ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄 各其志ヲ遂ケ 人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ 天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。
朕ハ茲ニ誓フ 新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。
須ラク此ノ御趣旨旨ニ則リ、旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民挙ゲテ平和主義ニ徹シ、
教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。
大小都市ノ蒙リタル戦禍、罹災者ノ艱苦、産業ノ停頓、食糧ノ不足、失業者増加ノ趨勢等ハ真ニ心ヲ痛シムルモノアリ。
然リト雖モ、我国民ガ現在ノ試練ニ直面シ、
且 徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、
克ク其ノ結束ヲ全ウセバ、独リ我国ノミナラズ全人類ノ為ニ、輝カシキ前途ノ展開セラレルコトヲ疑ハズ。
夫レ家ヲ愛スル心ト国ヲ愛スル心トハ 我国ニ於テ特ニ熱烈ナルヲ見ル。
今ヤ実ニ此ノ心ヲ拡充シ、人類愛ノ完成ニ向ヒ、献身的努力ヲ効スベキノ秋ナリ。
惟フニ長キニ亘レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、
我国民ハ動モスレバ焦躁ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪セントスルノ傾キアリ。
詭激ノ風 漸ク長ジテ道義ノ念頗ル衰ヘ、為ニ思想混乱ノ兆アルハ洵ニ深憂ニ堪ヘズ。
然レドモ 朕ハ爾等国民ト共に在リ。
常ニ利害ヲ同ジウシ 休戚ヲ分タント欲ス。

朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、
終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、
単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。

天皇ヲ以テ現御神 ( アキツミカミ ) トシ、
且 日本国民ヲ以テ 他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、

延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス
トノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。

朕ノ政府ハ国民ノ試煉ト苦難トヲ緩和センガ為、アラユル施策ト経営トニ万全ノ方途ヲ講ズベシ。
同時ニ朕ハ我国民ガ時艱ニ蹶起シ、当面ノ困苦克服ノ為ニ、又産業及文運振興ノ為ニ勇往センコトヲ祈念ス。
我国民ガ其ノ公民生活ニ於テ団結シ、相倚リ相扶ケ、寛容相許スノ気風ヲ作興スルニ於テハ、
能ク我至高ノ伝統ニ恥ヂザル真価ヲ発揮スルニ至ラン。
斯ノ如キハ実ニ我国民ガ人類ノ福祉ト向上トノ為、絶大ナル貢献を為ス所以ナルヲ疑ハザルナリ。
一年ノ計ハ年頭ニ在リ、
朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、
自ラ奮ヒ 自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ。
御名御璽
昭和二十一年一月一日
内閣総理大臣兼
第一復員大臣第二復員大臣    男爵    幣原喜重郎
司法大臣    岩田宙造
農林大臣    松村謙三
文部大臣    前田多門
外務大臣    吉田茂
内務大臣    堀切善次郎
国務大臣    松本烝治
厚生大臣    芦田均
国務大臣    次田大三郎
大蔵大臣    子爵    渋沢敬三

 
ある日より 現神は人間となりたまひ
  年号長く 長く続ける昭和
 「 実は 朕は人間 (ひと) である 」 

天皇陛下万歳

コメント

昭和20年8月15日・殉国 『 無窮に皇城を守らむ 』

2022年06月28日 12時17分59秒 | 9 昭和の聖代


大東塾の塾生十四人が集団自決を決行したのは、昭和二十年八月二十五日午前三時頃、
マッカーサー元帥が厚木に着陸する五日前のことであった。
自決は当時の代々木練兵場の通称十九本欅と呼ばれる木立の辺で行われ、
割腹の自刃であった。
十四人のうち介錯者二名も終了直後に自刃した。
大東塾というのは昭和十四年四月三日、神兵隊事件の指導者前田虎雄の住居に開設された私塾で、
前田の同志 影山正治が塾長となり
「 表面大陸進出の人材養成に仮託し、実質は蹶起同志の大量的養成ならびに全国同志の連絡 」
を図るために結成されたものであった。
この塾生を中心とする同志たちは、
昭和十五年七月五日、首相米内光正ほか、
牧野伸顕、岡田啓介、松平恒雄、池田成彬、原田熊雄、有田八郎らの襲撃をはかり、
決行直前逮捕されたことがある。
いわゆる第二神兵隊事件もしくは七 ・五事件である。
塾長影山正治は
明治四十三年六月、愛知県豊橋市の生れ、家は祖父の代から神職であった。
正治は昭和四年國學院大學予科に入学、
弁論部において日本主義哲学者松永材の指導をうけ、
早くから反共的学生運動の指導者となり、
前田虎雄の同志として、昭和八年の神兵隊事件には、
國學院大學生数名を率いて参加した。
事件後の獄中生活を通じ、
「 ひたすら神話より出発したる日本主義思想を唱導し
 身を以て国体の真義闡明と国難の打開に殉ずるの決意を固め 」 ( ・・七 ・五事件判決主文 )
前記七 ・五事件を企図したわけである。
これは、折柄の新体制運動を
「 幕府体制との妥協の上にできた一つの公武合体運動で、
 日本資本主義と支配層の延命策にすぎない。
 これを打ち破らなければ本当の維新はこない・・・
・・・ここで一撃を加え、国内維新に向っての国民の立ちあがりを要請し、突破口を作ろう 」
という狙いをもつものであった。
そのさい、実力行動をともなう決起は
「 吾吾は現実の勅みことなりこそ戴かなかったが、
 自らの心の中に神勅を自覚し、唯神のまにまにやった 」

「 故に私どもの行なうや、神これを行なわしめ、私どもの言うや、神これを言わしめ 」
たものとして自覚されていた。
そして実はその同じ自覚が、敗戦後の自決にもまたつらぬいている。
ただ後の場合は、敗戦をもまた真意の働きとしてとらえ、
「 道の峻厳なる、随神かんながらの厳粛なる神はかかる陋劣を許し給わず、
最も悲惨の極に至りたる正に神国として当然 」
として、国内革新なき外征がこの挫折をとげたのは当然のこととしている。
自決は、神意奉行において至らなかった自らの罪穢けがれをみそぎによって潔め、
神々への復奏かえりごととしてとり行われた。
しかもそれは、それ自体が神道の信仰儀礼として、
ごく自然におこなわれたというおどろくべき印象を与える。
こうした信仰上のテロリズム、もしくは自決という異常な行動形態は、
おそらくはとおく 神風連の行動を最後として、
その後いわゆる国家主義運動の中にはほとんど見出しえないものであろう。
二 ・二六青年将校の場合には、「 戦闘孝養」 における独断専行の論理によって、
天皇の意志を先取するという合理化が認められるが、
大東塾の場合には、その神典 ・古典 ・歌学の研修による影響が大きく、
より正統な信仰的形態に近いという印象である。
塾生自決のさいには、塾長影山正治は華北戦線にあり、
正治の父 庄平がその代理として自決を執行したのであるが、
正治の考えは、
天皇とともに、敗戦 ・再建の責めを負うて生きるというものであったようである。
自決現場は久しくワシントン ・ハイツ地区内にあり、
大東塾を中心としてその返還要請運動が行なわれていたが、
自決十九周年祭に当る昭和三十九年八月二十五日には、
十四士中央合同墓碑が現場に建てられ、
およそ二百五十名の参列者を集めて建碑祭典が行なわれた。
碑面には、たんに 「 十四士之碑 」 の五字が刻まれている。
・・・解説の部分を書写したもの


遺書と辞世歌    影山庄平 ほか
敗戦直後、その罪を神明に謝して自決した大東塾塾生十四名の遺書から一部を収録した。
この自決は、その神道信仰上の純粋 ・厳格さにおいて稀有のものであろう。
『 大東塾十四烈士自刃記録 』 ( 一九五五年刊 ) より採録

塾神前祝詞
( 註  八月二十五日午前一時出発直前塾神前において奏上せられたもの )
大神の御前に白もうさく、御前の大東塾同志十四名、
うつそみの命をかぎりて無窮に国体皇道を護持拡充の念願を籠め、
最后いやはての大きみ祭りを明治神宮の御側なる代々木練兵場において仕え奉るを、
つばらに聞し召し受け給いて、大事恙つつがなく取り果たさしめ給い、
同志のみたま洩ることなく速やけく高天の神のみ門かどに引き取り給いて、
みたま著く永久とわの御仕え仕えまつらしめ給えと畏み畏みも申す

共同遺書
( 註  自刃前夜塾長室において作成せられた。 「 共同遺書 」 の題名は 『 自刃記録 』 編者の命名による。)
清く捧ぐる吾等十四柱の皇魂誓って無窮に皇城を守らむ
昭和二十年八月二十四日
影山庄平
野村辰夫
牧野晴雄
藤原正志
鬼山  保
芦田林弘
東山利一
棚谷  寛
野村辰嗣
福本美代治
吉野康夫
津村満好
村岡朝夫
野崎欽一
・・・・・・・・・・・・

辞世歌    牧野晴雄
( 註  後の二首 < 短冊二枚 > は妻静子へ遺したもの。)
あなうれしいのち清らに今しわれ高天原に参上るなり
わが魂は天地駈り永遠に皇国傷そこなふ賊を砕かむ
君がため身まかりにきと風告ばはや参ひ來れ神の広前
いざ吾妹わぎも高天の原に参上り天の御柱い行き廻らむ
遺書
( 註  当時北支応召中の影山正治塾長に遺したもの。)
塾長
三十一年間御迷惑をお掛けし通しでした。
何もわからず、何も出来ず、何も知らず、間違いだらけの罪多き私も、
今辛うじて庄平先生に連れられて高天原に参上ることが出来ます。
尊く有難く畏こみ奉っています。
弥栄。    牧野晴雄
昭和二十年八月二十五日
遺書
父上様
皇国非常大変の秋ときに立到り候は、
実に吾等臣子の大罪にしてまことにもって深く悲しくまた恐れ畏み申し候。
三十有一年に亘り父上の厚く大きい御志に依りて育てられ、
長じていささか御奉皇の道に繋がり居り候も、
至誠至らず祈念足らずして今日の大罪を負い申し候。
万事唯々申訳けこれ無く候。
この上は、この現身うつしみを清く奉還申し上げ、高天原に参上りこの由復奏仕り、
真に神の子として無窮に仕え奉らん存念に候。
神の子として内外の仇賊を滅し、もって高天原を地上に荘厳せんと祈り居り候。
父上様
現身の一時の命の消ゆるは問題にこれなく、
神洲の民として無窮の命に生きんことを晴雄は祈り申し候。
父上様
晴雄の信仰は、今まで既に御承知のごとくに候。
御国の道に則り、今日の大罪を禊祓みそぎはらい無窮に命生きて仕え奉らんとして、
本二十五日午前三時  明治大神の神鎮しずまり坐す代々木原頭にて
教えの師影山庄平先生以下十四柱の同志と共に割腹自刃し
もって神明に帰し奉り申すべく候。
父上様の事を想い候えば、落涙禁じ難く候も、
まことにこの自刃帰一は神命に候えば、尊く嬉しく存じ居り候。
父上様も御悲しみを押え、皇国の大道に立って御喜びくだされたく候。
父上様
晴雄はこの世に存命中の御恩情を深く御礼申し上げ候。
残暑なお厳しくしかも御国重大の秋、愈々益益御健勝にて御奉皇くだされたく切に祈り上げ候。
母上様にはお悲しみ一入ひとしおと存じ候も何事も神命と畏みくだされたく一向に願い上げ候。
一栄 ・ 静栄 ・外茂栄の誤りなき御奉皇を祈り申し候。
親類の皆々様の御厚情を謝し奉り御清祥を祈り申し候。
村民各位によろしく御鳳声くだされたく願い上げ候。
静子の事はあくまでもよろしく願い上げ候。
不束ふつつかながら志の美しきものと御賞めくだされたく候。
以上絶筆認め御別れの御挨拶申し述べ候。

 大いなる悲しみ抱き夏老ゆる代々木の原にわれは逝くなり
 大君の大き御嘆き畏こめば罪多く耐えがてぬかも
 いざさらば命清らに禊みそぎして高天の原に参上るべし
 わが魂は天地駈り永遠とことわに皇国傷みくにそこなふ賊を砕かむ
 あなうれし高天の原に今しわれ神と集ひて神語りする

葬儀は、神式をもって厳修致しくだされたく、この段 切に切に願い上げ候。
最期の御願に候。
氏神様の傍に御建てくだされたくこれまた呉々も願い上げ候。
敬具
八月二十五日    晴雄 拝
父上様御膝下
・・・・・・・・・・・・・

辞世歌と遺墨    野村辰夫
高千穂は天そそるなり細矛千足くわしほこちたるの国ぞゆるぎあらめや
皇国に生命捧ぐるこれの夜や月は隈なく照り渡るなり
久方の日の若者に参ひ昇り寂かに永く御国まもらむ
死禱いのる以て皇国体を無窮に護持しまつらむ 
昭和二十年八月二十四日    野村辰夫

趣意書
言卷くも畏く、神ながらに生成せる皇国は天地の初発はじめより、
諸々の神勅を奉じて、悠遠に保全し來り、中今を通して、天地と共永久に、
万有万国を修理固成するの大使命を保有す。
天皇は、これが大使命の御中心に坐します。
之の信に立つ時、神洲断じて不滅なり。
之の命を奉ずる時、皇祚断じて無窮なり。
信に立ち命を奉ずる、すなわち使命の遂行なり。
使命の遂行は神意の遵奉にして、人意の敢行なるべからず。
神意のみ畏み、人意を貫行する時人意万福の発揮は勿論、神力加わり、
真に神孫たるの本領威力を発揮するを得べく、
己の本を忘れ、神意を無視して人意の敢行に馳る時、
神力の加わらざるのみならず、人力の万福だに出ずること能わず。
これ人間本来の絶対信に立たず、功利打算によって、
その意を左右する人力に頼るの欠陥にして、常に我等の力説する所以なり。
悲風蕭々しょうしょうとして神洲を過り、暗雨蕭条として皇土寒けし。
妖雲漠々として天日を覆い、陰気鬱々として山河に漲みなぎる。
とつ
! 起る媾和の報。
民は暗澹あんたんとして拱手長大息す。
鳥は飛ばず、獣は馳せず。
咄咄とつとつ云う降伏の報。
鬼哭きこく啾々しゅうしゅうとして神洲陸沈を嘆ず。
鳥は啼かず、獣は吠えず。
誰か天を仰ぎて慟哭せざらん。
誰か地に伏して号泣せざらん。
されど、心耳を傾けて神声を聴け。
心眼を開いて神兆を見よ。
現下の非局招来は、神を冒瀆し、祭りを無視し、国体を離れ、
皇道を蹂躙せるに基因せずんばあらず。
これ、ひとり神洲皇国をいうのみならず、世界の暗澹もまたその因を同じうす。
昭和民草の罪科ここに極るというべし。
罪の痛感は禊みそぎの起点なり。
禊の敢行は使命の覚証なり。
禊は紙への帰命によって徹せられるべく、使命は神との合一によって完うせられるべし。
ここに覚証し信念する時、今日の悲運は明日の神運なりというを得べし。
されば我等同志一統、神の実存を身をもって証し、やがて神運啓発の契機たらむとす。
我々の神策たる今回の挙や、克く神明納受し給うところありて、
人意によって既に絶望というべき深淵に沈湎したる今日の危局を、
直ちに挽回すべき神霊の恩頼を蒙こうむり得ば、本懐の成就にして幸甚の極みなり。
皇国は農民一億のためのもののみならず、また世界全人類のためのものなり。
天皇は臣民一億の上に座すのみならず、また世界全民族の上に坐します。
あたかも天日の地球におけるがごとく、
天地初め この方造化の神則たる大地上における人類理想実現の根本一大事なり。
すなわち万有万国を修理固成して光華明彩ならしむるの絶対使命を有するが故なり。
すなわち渾円球上に高天原崇厳の聖使命を有するが故なり。
もしそれ皇国壊滅の事ありとせんか、世界万国世界人類は未来永恆に理想光明を喪失せん。
加之しかしのみならず、皇国の無窮なる所以、万有修理固成の世界的神位は、
造化の神則によるものなるが故に、これに反するば、ただに人類の理想の絶望に至るのみならず、
天地宇宙も共に壊滅するの事実を知らざるべからず。
あにその尊厳に渇仰せざるを得んや。
まことに皇国は万国理想実現の中朝にして万有光明発現の淵藪なり。
今こそ、この一大事を再確認せよ。
今こそ、この重大事を再信念せよ。
かくて、一箭いっせんの光明暗雲を貫いて直下せん。
かくて、天の岩戸は朗々開かるべし。
吾等これが先達たるべく、神人帰一合力一体の随神かんながらの大道を照示し、
顕幽呼応して防護恢弘の大命に立ち、もって神洲陸沈の悲運を挽回し、
無窮永遠に国体を護持し奉り、ただひたぶるに、神勅奉行道を勇往せん。
さらに言を尽せば、真に神洲の信に徹せず、
人智をもって神を語り、神洲をいいて、遂に神をもって人意の手段となし來たれるは、
畏き神国をして、神を遊離せる人意万能の諸国と互するに至り、
互いに世界神孫同胞の相喰あいはみ相恨みあうの愚を露呈し 今日の混沌を招来したる所以なり。
大死一番もってこの愚を超絶して、真に神洲の信に徹し、
恩慈愛育の現津御神あきつみかみの御稜威みいつの慈光に浴さしめ、
真に欽迎心服せしめ、四海同胞の共栄和楽を実現せしむるは、
列皇の、ならびに  今上様の御詔書に炳乎へいことして明かなるところ、
これに俯状感泣して御天業の御恢弘を翼賛冀求ききゅうし奉ること、
これに直ちに皇民臣子の使命たるのみならず、万国万族の使命とすべきところ、
ここに至りい万国万有は初めて修理固成され、大地上は光明明彩の栄光に浴し、
真に人類の求むる理想幸福は実現せらるるなり。
我等切々の熱禱ねっとうもここにありというべし。
仰ぎ冀ねがわくは、天地神明、吾等が微衷を納受あらしめ給え。
無窮の国体皇道の分霊たる本姿を充実して、
無窮に御天業翼賛の臣子の大生命たらしめたまわらむことを。
遺書
皇国に生命捧ぐるこれの夜や月はくまなく照り渡るなり
母上様
永々御世話に相成りまことに有難うございました。
何一つ孝養を尽し得なかった事を深く御詫び申します。
辰夫は今日  皇国無窮の護持のため喜んで死んで参ります。
御多幸を祈り上げます。
八月二十四日    辰夫
・・・・・・・・・・・・・

趣意書    藤原 仁
謹みて惟おもうに皇国今日の非状を招来せる根因は、人智人力に趨はしり、
神を忘れ、国体を離れ、造化の真則に戻り、すなわち一切随神かんながらに逆行せるにあり。
その大欠患を補うことこそ人為の延命策の陋ろうを覚醒して真に無窮の御国体をお立て申し、
天壌無窮の御宝祚ほうそを御安泰申し上ぐる所以なり。
この大欠患を補うとはすなわち人為人力に日本を打ち込むことであり、
すなわち神を添え、御魂の威力を加えてその本来の使命の真に立ち、
神人帰一、合力一体の神秘を発揮、顕幽相呼応して国体皇道を護持拡充せしむるにあり。
御中心の天皇を戴き、
その一分たり股肱たるのみたみわが随神かんながらみことみことの完璧を期する時、
たとえ挽回絶対不可能の局面に至りても、未遂に戦局は挽回され、
危局は転換、聖戦は完遂され、もって御天業は恢復され、稜威は八紘に光被され、
世界万有は修理固成成り、万国万族光華明彩の恵光に浴し得るなり。
これを如実に顕現発揮し得るの道は何か。
欠患そのものたる神となり、み魂となりてその神秘霊力を注ぎ受けしむるにあり。
すなわちうつそみの生命にお暇を戴き危局を導きし自他の罪責を背負いて今後禊みそぎ続けると共に、
清らに生命捧げて神界に溶入し復命を了えて八十の熊手に候うにあり。
事ここに思い極まりて静かに長き随神かんながらみあとを決行するものなり。
庶幾こいねがわくは神命同志我等の微衷を納受し給い、
無窮絶大の勤皇護道の大生命たらしめ賜らんことを。
昭和二十年八月二十五日

自刃の趣意
最も神に背き、神を離れし全世界が神罰を受くることなく、
皇国が先ず第一にかく徹底せる神譴しんけんにあいたるは、
皇国先ず覚醒して しかる後全世界始めて覚醒すべき道のままなる
深き御神意と拝察し奉る。
岩戸開き即ち維新なくして絶対に聖戦の完徹なし。
維新未成にして たとえ戦い勝つことありといえども
そは聖戦の真義を益々晦冥かいめいならしめ、
神国日本の真姿を最も曇らすものである。
かかるが故に先ず維新すべきを今日まで絶叫し來りしなるも、
事成らず遂に今日に至りしなり。
今後に遺されし道としては左の二途のみ。
一、このままの態勢にて一応戦い勝ち、しかる後に最も厳しき禊を千年の後に受くること。
二、今日直ちに禊を開始すること。 ( 禊 ・・みそぎ )
右二者の中、神意後者に働き決して悲痛極りなき皇国今日の禊に至りしなり。
人情の切なるものとしては誰人といえども前者を望むなるが故に我等今回の処置にしても、
無窮に国体護持の楚石たることは勿論、今日ただ今 直ちに挽回策成り、
維新完成 ・聖戦完遂に至ることを念願して止まざる点に立ちしなり。
剣を取りて蹶起することは一見至高の大義と思われるるも
今日このままの状態においては人為人力に更に人為人力を加え、
神意に背きし上にも更に神意に背くものであり、益々逆結果に至り、
皇国を更に危殆に陥らしめる憂い甚だ濃厚なり。
情けにおいて忍びざるものありといえども、
遂に我等、これを最高至善なるものとして把らざりしなり。
すなわち神意を奉じての蹶起にあらずして人為による蹶起なりと深く決断する次第である。
かかる人為人力の蹶起に道を与え日本を打ち込むに非ざれば
遂に皇国の前途は言うに忍びざるの情態に至ること当然と言うべし。
されば一つには吾等皇国今日までの一切の罪穢つみけがれを背負い
「 一切の罪穢は吾等背負い奉りますにより何卒このままの状態において直ちに勝たしめ給え 」
と神々に直訴し奉るなり。
吾等今日まで営々として皇事に肝脳を砕く、更に今一切のうつしみを断ちて血涙祈願す。
神明これを納受し給うを信じて疑わざるなり。
吾等の魂魄の上に立てる剣こそ真の神剣となるであろう。
うつし世こそ一切の目的である。
されば現し世における万全の備え処置を講じ、
最も燃焼し切り 最も張り切った魂がぶっつり切れて幽界に至る時
始めて幽界りの思いが通るのであり、然らずして幽界にゆきても魂の発動はあらさせるなり。
吾等息を引き取るまで現世の奉公を尽し かつ方法をまで詳細に検討し続けしはこのためなり。
十数名打ち揃ってゆく以上その資格なきもの一人も無く一回揃って神の神前に行きたく思うのである。
親心、大御心とはすなわち玉鉾たまぼこのみちである。
玉鉾の道とは極く分かり易く言えば、玉の面は、鬼の角をも溶し、
敵も恨みを忘れて慕い恋うほどの愛と誠が充実しておることであり、
鉾の面とは鬼の角さえもへし挫ひしぐほどの力の出ずることである。
かかる玉鉾両面の完全なる発動なくしては大御心に添い奉り、
御天業を翼賛し來たることは不能である。
今次聖戦の遂行を回顧する場合玉鉾の発動はまったく逆であり、
玉徹せざるが故に鉾徹らず、鉾徹らずが故に玉徹せず、玉無きが故に全世界の恨みを買い、
鉾透らざるが故に今日の悔いを受く。
玉鉾両面かく逆行せるは すなわち聖戦の目的不明なるによる。
目的立たずして一事成るなし。
道の峻厳なる、随神かんながら の厳粛なる神はかかる陋劣ろうれつを許し給わず。
最も悲惨の極に至りたる、正に神国として当然なりと涙をもって論断せざるべからざるなり。
日本を改めて玉鉾の道完またけく発動出来るごとくせざれば真の聖戦なく真の国体の安泰なし、
随神かんながら に浴わざる勝は皇国無窮の勝にあらず。
いかなる人為的不可能の場合においても玉鉾の道完またけく発動されて始めて無窮の日本の安泰あり、
これこそ我等の念おもいて止まざる維新である。
人為の最高に神を添えること、魂魄を打ち込むことが大切である。
このことは理論や頭でやってゆけるものではない。
忠魂の発動を思う時は百の理論よりも楠公の事実を見ればよく、
維新を思う場合には直ちに松陰 ・南洲先生を想起すればよいごとく、
神の欠如を思い神助を乞わんとすれば我等十幾人の御霊みたまの前に來ればおのずから
皇魂発揮さるべしと我等信じて疑わざるなり。
無窮に神々お喜びくだされ、天皇御嘉祥くださるべきと信ずる次第である。
万世一系の御皇統と共に臣下の魂の無窮の御柱たらんとするのである。
皇魂の典範の御柱たらんとするにあり。
我等生きては万人の通れざる道を生き、死してくた万人の為し得ざることを為さんとす。

自刃に至る経緯
〇十四日夜先生 ・藤原、三浦顧問宅訪問、左の情報を得。
①  すでに無条件降伏は決定、十四日朝敵側に通告、敵側より承諾の返答あり、
  その後に打合せのため午後三時より閣議開催中のこと。
②  今夕十時を期して事の次第を新聞社に通告、明日の新聞に出すこと。
③  明日 ( 十五日 ) 午前中に  至尊みずからマイクの前にお立ちになる事。
④  阿南陸相との連絡十三日午後より切れたる事。自刃せるならむ。
⑤  陸軍の決意固きこと。
⑥  御前会議の内容
  梅津 ・豊田・阿南相当頑張りたる事。
  鈴木 ・米内 ・東郷 強硬なりし故 三対三にて遂に聖断を仰ぎたり。
  宮中は木戸の手によりすでに全面的に和平に塗りつぶされておりたる由。
その他種々の情報を入手、明日の生死も期し難く、先生 ・三浦顧問今生の別れの挨拶を交わさる。
生か蹶起の二途あるのみ。
先生すでに蹶起の道ほとんど無きを言われ、
三浦顧問は必ず近き中にあるにつき自重下されたしと言わる。
帰塾、全員を二階塾長室に招集、非公式に事の次第を報告し謹慎を命ずる。
十四日夜、庄平先生 ・野村 ・藤原 種々談合、理論として聖死案濃厚。
〇九日頃より先生の身体異状を呈す。
今までに無き事なり。
先生いわく 「 塾の上か郷里の肉身の上か 或いはお国の上に何か起るに違いない 」 と。
はたして事態は九日頃より悪化し、今日に至りしなり。
このころ先生すでに生きながら神のごとく、一切の事すべて的中するなり。
十三日夜、野村 ・藤原、小林顧問宅より九日閣議の非常情報を入手
夜中二時ごろ帰塾の節も先生十時ごろ就寝せるも遂に一睡も出来ず。
不思議なりと思いおられしところであった。
事の次第を報告、事ここに至る、今さらあわてても及ばずと静かにうどんを食して何も語らず休む。
先生は夜明けまでに熟睡さる。
十五日塾の態度を決定するまでに先ず第一の事として勤皇村護持のために正明君付を決定す。
①  川野 ・三橋 ・磯村 ・大島 ・関口 ( 入営中 ) を万難を排して残すことに決定す。
 ( 川野は事分からざる以前即ち十三日に既に出発せる。  真あれば意おのずから通ずと。
 川野出発に際してひそかに語りて曰く、 「正行まさつらの家来となりし者の心中は如何であったろうか 」
 と ) 正に事実はそのとおりなり。
十五日正午一同ラジオを神前に設けて謹みて玉音ほお聞きし奉る。
申し上ぐる言葉なし。
先生この日、一切をこの一挙に籠めて自決を決意せらる。
神意激しく働きて遂に延ばさる。
十六日午後より塾態度決定の為に準同人以上を招集、重要会議に入る。
出席者    庄平先生 ・野村 ・藤原 ・鬼山 ・森山 ・芦田 ・東山 ・棚谷 ・三橋の九名
・・・・・・・・・・・・・

辞世歌と遺墨    津山満好
万世よろずに流れてつきぬ真清水といのち清らに御国護らむ
神洲快男児ヲ尊ブ    狂石書
一族勤皇    狂石書

遺書
肇国以来ここに三千星霜、神洲の歴史燦あきらかとして日星のごとし。
天之御中神天地の初め高天原に成りまして以来神の御裔すそとして天津日嗣あまつひつぎ
天皇この国を治め給い、御民みたみ我等、
生死顕幽両貫して止まざる行願生活として  皇城を守護し奉り、
日本の御祭の灯をいや継ぎ継ぎて今日に至ったのであります。
この歴史と血涙のうちに清く美しい敷島の国に育はぐくみ神孫御民として神勅奉行の一道に徹し、
全世界修理固成し、光華明彩ならしめ、
皇道世界実現のためにこの歴史と国体を護持せむとするため、
平時に、あるいは狂乱怒濤の乱世に、みずから一本の燈となりて
御祭の燈国体護持に邁進し來たった皇民志士碧血の祈りがこり集って身命の御激発となり、
天壌無窮の弥栄いやさかを如実に実証して行く皇国本姿を思い、
御民ただ血涙あるのみです。
この三千年の歴史を護るため常に天津日嗣あまつひつぎ
天皇この国を治め給い、御民はこの歴史の上に、命清らに護り続けてくれし我等の祖先、
今日送日している日本とはかくのごときものであり、我等の祖先はかくのごときものである。
この歴史と凛冽と孤高の中に生れ奉った我々の血はかくのごときものである。
近世日本は、明治以来志士肝脳を砕きて皇政復古に帰し、
七百星霜に渡る武家政治ここに終局し、神祖以来の使命に邁進せむとするに、
しかるに漸次欧米的自由、個人、享楽、共産思想流入し、終ついに一世を風靡するに至れり。
新政維新成り 世界列強に互するも、これがため維新の宏謨こうぼ地に落ち、
その後に来たるものは文明開化の奔流の音のみであり、
ついに昭和維新激発となるまで、
おのずから維新のいのちは地下水のごとく流れ來たったのであります。
その間皇国の危局を救い、幾多忠勇義烈なる志士が賊と呼ばれ、
狂と笑われつつ神洲の無窮を信じ静かに現世去りし幾人。
かかる情勢下に在りて、終ついに支那事変、大東亜戦争を迎えるに至ったのであります。
聖戦ここに四年有余。
青雲の向き伏す極み海潮波の流るる極み、天軍神兵曠野に戦い、波濤に進む。
されど神意如何にせむ、戦勢必ずしも我に利あらず、
ここに皇国歴史肇はじまって以来最大の難局に至らしめたのである。
すなわち米英支ソ四国共同宣言受諾に至ったのである。
これ何ぞ、すなわち日本の奸賊ども皇国を無視し米英追従となり、
戦局終局の大詔渙発に至る、
時皇紀二千六百五年八月十五日正午玉音を拝す。
伏して  陛下に御詫び申上げ、昭和民草万死の罪を通記せねばならぬ。
嗚呼 臣等何たる無力、何たる非力  天を仰ぎ地に慟哭す。
かかる結果に至らしめしは、終ついに皇民各おのも各おのもの祈り足らず、
神と日本を忘れたところに存するところに在ると思考するのである。
ここに三千年以来の歴史の混沌と一大波乱を生ずるに到れり。
我等皇国国士を以て任じ、道統血統一如の下、
朝霜の道を歩み來たった大東塾一統最后の熱禱いのりを捧ぐ。
歴史と伝統を持つ日本を、かかる結果に到らしめしは、
昭和民草の祈行足らずとすれども、
直接は宮中府中の奸賊、重臣財閥、親英米的俗輩出で、
終に神洲をして米英の蹂躙をあえて見ざる奸賊出で、
平和の美名にかくれしこれら賊こそ一刀両断に斬り、
皇国維新と聖戦貫徹のため みずから捨石になるにあり。
然るに我等静視国の現状を、
天皇の赤子として詔書にまた玉音を拝す。
ここに我等深思、直接行動のいかに低くいかに浅きかを通記す。
そは一に塾長代行影山庄平先生御指導によるものなり。
若き先輩同志血気の勇、
終に神を戴き神の御声を拝すに足る先生の御言葉にみずからの浅きを恥じ
ここに一決、一統神の大御前に切腹自刃となりぬ。
そは己が責をお詫びするごとき単なるものでなく、
遠く神の正道を継ぐ日本民族大生命の流れの上に起ち、
永遠永久に御祭の燈を今ぞ風前の燈というべき皇国の道統を、
我々の屍越えて魂を背負う人のみ神洲の道ありと思考す。
嗚呼 何たる光栄 何たる歓喜、
生死を越えたここに白玉のごとき静光に満ちた大歓喜境が存す。
日本人として皇国に生を享け、真に御民最高至上の道を行じ、
またこれに殉ずることを、ここに永久に神霊となりて皇国護持の大任につかむとす。
皇国の天御柱を打ち立てる一塊の土となり砂石となるのである。
この天御柱粛然として聖土に立ち、御燈を護り、常に行き廻りて皇国を護持する秋
必ず神洲は不滅であり、みずからは一本の御祭の燈となるのである。
今こそ科学至上主義をとなえこれを心底より信じ [ 居る ] 神孫御民と世界人類に
真に心底より神を信じさせ神力の存するを実証せしめむとす。
この御祭神勅奉行の道のいかに尊く、
このことのみが日本の道である事を信じさすことが出来得るのである。
熱血憂国の志士は、必ず誓って我等の魂を背負い、
神洲護持に邁進して下されるを深く信じ、
我等は魂となりて、天駆り国駆りつつ永遠に皇国護持に仕え奉るなり。
ここに波瀾に富んだ草莽の臣 津村満好の生涯を白玉のごとき静けさの中に終らむとす。
・・・

筑摩書房  橋川文三 編集 解説
現代日本思想体系 31
( 昭和49年 ( 1974年 ) 4月2 日 購入 )
超国家主義  
行動  遺書と辞世歌  影山庄平ほか  から

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終戦への道程 5 『 残った者 』

2022年06月28日 06時41分29秒 | 9 昭和の聖代


黒崎貞明著
恋闕
承詔必謹  から
・・・前頁
終戦への道程 4 『 8月15日 』 の続き

十九日になって、軍事資料部の整理は一応完了した。

そしてその夜は日本陸軍としての最後の送別の宴であった。
さすがに万感胸に迫って、涙に始まり涙に終わった。
誰もかれも皆泣いた。



夜半過ぎまでの宴を終って、

お茶の水の宿舎に帰ると、まったく思いがけないことがあった。
栃木県に疎開していた妻が私の寝台に生れたばかりの赤ん坊を寝かせていたのである。
三人の子供をつれて益子村へ疎開していた妻は、
この八月一日に四人目の子、次男を出産したばかりであった。
栄養不良と疲労と産後のために、みるかげもなくやつれた妻の姿をみて、さすがに胸が熱くなった。
忘れていたわけではないが、妻子のことなど顧みる暇もなかった。
「 三日前に、弟に託されてあなたの遺髪と青酸カリと遺言をいただきました。
 軍人の家族として恥かしくない死に方をしてくれとありましたが、
でもこの生れたばかりの赤ん坊を一度も父に会わせないで殺すにしどうにも忍びない。
せめて死ぬ前に一度だけでもお父さんに見てもらっておきたいと上京しました 」
と妻はいって子供を抱き上げた。
聞けば、交通は混乱して汽車の屋根にまで、大勢の人が乗っているという。
切符も買えない。
必死の妻は夜中に家を抜け出し、線路を走って駅の中に入り、
朝早く、誰か親切な人に窓から引っ張り上げてもらって、
混んで身動きもできない車中を赤ん坊を抱いたまま無我夢中できたという。
汽車は駅で長く止まり五時間もかかったという。
子供を抱き上げると、私の片手の中に入ってしまいそうなほど小さく軽かった。
「 ちいさいなア、これで育つだろうか 」
「 どうせ皆で死ぬんですもの、育つかどうかなんて心配よりも、
 私は四人の子供を私ひとりで殺せるかどうか心配です 」
「 そうか、もし死ぬなら私も皆と一緒に死のう。
 それまで、益子に帰って待っていてくれ。私が益子に帰るまでは先に死んではならぬ 」
と私は固く言い渡した。
翌朝、妻の顔は晴れていた。
宿舎の原さんにつくってもらった握り飯を、
「 久しぶりの お米のおにぎり、子供たちがどんなにか喜ぶことでしょう。
この一ヵ月間ほどお米にはお目にかかっておりませんので 」
去って行く やせ細った妻の姿はいまでも私の胸にはっきりと焼き付いている。
疎開先では、この一ヵ月ほど、毎日配給のジャガ芋と、芋のつるの雑炊しか食べていないという。
このとき、妻は二十六歳であった。
日本の女性はみなそうであったろうが、しっかりと胸に秘めた覚悟のほどには、
男の私も 愧じ入るばかりである。


  帝国ホテル
二十七日、米軍が日本に進駐を開始した。
そして日本占領は驚くほど平静裏に進められていった。
問題は、外地にある軍の派遣軍将兵の復員作業であった。
このための対米交渉は難行をきわめた。
また、米軍が本土上陸作戦遂行のため、
日本の周辺に投下敷設されていた機雷の除去なども大きな課題として残されていた。
陸軍省、参謀本部の課員、部員たちはこの処理のため残留していた。
これらの処理が一応完了した十月末、大本営は完全に解散となり、
わたしも妻子待つ益子村へかえることになった。


疎開先で四人の子供とともに ひたすら私の帰りを待っていた妻は、
私の帰宅を死ぬためと判断したらしい。
「 すみません。日本刀と青酸カリの瓶は母屋の人に隠されてしまったのです。
 でも短刀一振りだけは私の着物の中に隠していましたので 」
といって、一振りの短刀を差し出した。
妻は農家の八畳一間を借りて住んでいた。
お茶の水で別れて以来この二ヶ月余を、妻は私と死ぬために過ごしてきたという。
部屋を借りているお百姓さん一家に、それとなく着物類を形としてあげてしまって、
貴重品はすべて子供のおもちゃとして、身辺の整理はきれいにできていた。
「 いつあなたがお帰りになっても、心配なくすぐ皆で死ねるように覚悟も用意もできております 」
と妻はいった。
「 俺は、生きてこれからの日本のために、日本のその生きざまを見きわめようと思って帰ってきたのだ。
 が、お前がその覚悟なら一応やるべきことは終ったので一緒に死んでもよい。
しかし子供はどうする・・・・」
「 勿論、子供も一緒です 」 という。
 栄養失調でやせさらばえた子供たち、久しぶりの父にまつわりつく子供たちの頭をなでながら、
「 俺はこの子たちを殺すことができるであろうか 」
と一瞬不安を感じた。
無心の子供がいかにも不憫であった。
母屋の人々は、妻の荷物の整理ぶりを見て、私の帰りを一家心中自殺のためかと早合点して、
この家で死なれては困ると思ったのであろう、代わる代わる監視をつゞけている。
ふすま一枚向こう側にはいつも人の気配がして、妻とゆっくり相談することもできない。
だが妻の決心は固かった。
むしろ私がそれにつられている格好であった。
『 遣り損なったら惨めだ 』 と思い、機をうかがいながら二、三日を過ごした頃には、心身ともに疲れ果てた。
思い切って妻にいった。
「 どうもやれそうにない。
 どうだろう、これからは、この子供たちのために、第二の人生を生きてみようではないか。
おまえがどうしても死をえらぶというなら、この家を出てどこかでやるよりほかはない 」
というと、妻は、
「 今まで、死ばかりを考えて張り切って暮らしてきましたのに、急に生きろといわれても・・・・」
と 泣き伏した。
「 今まで、私はお国のためにということばかりで生きてきた。
 妻子のことなどまったく考える暇もなかった。
しかし、今日からは、お前たちのために生きようと思う。
もう俺たちの世の中は終った。
だがこの四人の子供たちを立派な日本人に育てようではないか 」
妻も泣きながらうなずいた。
母親というものは、いざというときには、男も及ばぬ覚悟を示すものである。
「 そうでした。私にはこの子供を立派に育てなければならない使命がありました 」
母屋の人々に、
「 私たちはもう死にません。
 この子たちのために頑張って強く生きてゆくことに決めましたから、ご安心下さい 」
と告げて、監視を解除してもらった。

昭和二十年十一月であった。
北関東益子村の空は悲しいほど澄もきっていた。

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昭和20年8月15日・東久邇宮内閣とマニラ派遣特使

2022年06月27日 20時04分39秒 | 9 昭和の聖代


8月15日

朕 深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ

非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ
茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕 ハ帝国政府ヲシテ 米英支蘇四国ニ対シ
其ノ共同宣言ヲ 受諾スル旨 通告セシメタリ
抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ
万邦共栄ノ 楽 ヲ偕ニスルハ
皇祖皇宗ノ遺範ニシテ 朕 ノ拳々措カサル所 
曩ニ 米英二国ニ宣戦セル所以モ亦
実ニ帝国ノ自存ト 東亜ノ安定トヲ 庶幾スルニ出テ
他国ノ主権ヲ排シ 領土ヲ侵スか如キハ固ヨリ 朕 カ志ニアラス
然ルニ 交戦 已ニ四歳を閲シ
朕 カ陸海将兵ノ勇戦 
朕 カ百僚有司ノ励精
朕 カ一億衆庶ノ奉公
各々最善ヲ尽セルニ拘ラス
戦局必スシモ好転セス
世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之 敵ハ 新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ
頻ニ無辜ヲ殺傷シ 惨害ノ及フ所 真ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚 交戦ヲ継続セムカ
終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス
延テ 人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ 朕 何ヲ以テカ
億兆ノ赤子ヲ保シ 皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ
是レ 朕 カ帝国政府ニシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
朕 ハ帝国ト共に終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ
遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
帝国臣民ニシテ
戦陣ニ死シ
職域ニ殉シ
非命ニ斃レタル者
及 其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク
且 戦場傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ
朕 ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ 今後帝国ノ受クベキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ  朕 善ク之ヲ知ル然レトモ
朕 ハ時運ノ趨ク所
堪へ難キヲ堪へ
忍ヒ難キヲ忍ヒテ
以テ 万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕 ハ 茲ニ国体ヲ護持シ得テ
忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ 常ニ爾臣民ト共ニ存リ
若シ夫レ情ノ激スル所 濫ニ事端ヲ滋クシ
或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ
為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ
朕 最モ之ヲ戒ム宜シク 挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ
任重クシテ 道遠キヲ念ヒ 総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ
道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ
誓テ 国体ノ精華ヲ発揚シ
世界ノ進軍ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克ク 朕 カ意ヲ体セヨ



玉音放送は終わった。

天皇も出席して、午前11時から皇居の防空壕で開かれていた枢密院本会議は、
放送中休憩していたが、12時10分再開した。
外相 ・東郷茂徳が戦争終結に関する報告をし、枢密院顧問官四人との間で質疑応答があった。
元日銀総裁の顧問官 ・深井英五は、四人の発言を、愚痴か、さもなくば憤慨に過ぎないと思いながら聞いていた。
病いをおして出席、発言の用意のなかった深井だが、一言いわざるを得ぬ思いで、最後に立った。
「 ・・・・御聖断は申すもかしこきことながら、これに関与せらるる総理大臣、外務大臣らの御勇断を喜ぶ 」
  皇居前広場
玉音放送をすませた情報局総裁 ・下村宏は、
内幸町の放送会館を出ると、車を皇居前広場へと走らせた。
車を降りて二重橋へと歩を運んだが、その眼にうつったのは
「 そこにもここにも嗚咽哭泣の声が広場にくまなく聞こえている 」
という光景だった。
その真っただなかに立った下村は、
三十三年前の明治45年7月、明治天皇危篤の報を聞いた日の光景を思い浮かべていた。
広場の砂利石をひろい上げ、
 玉砂利の一つを手にし押しいただき
   胸におさめ涙して立ちつ
歌一首をよむと、首相官邸へと急いだ。
焼け野が原の 陸軍官衙

厚木基地を飛び立った零戦は、三千㍍の空から首相官邸めがけて急降下飛行をくり返していた。
空襲で半分焼け、本館だけ残った官邸では、午後2時半から閣議が開かれた。
陸相阿南推幾の席だけ空席になっていた。
まず情報局総裁 ・下村が玉音放送終了についての報告を行い、つづいて鈴木貫太郎が発言した。
二 ・二六事件で奇跡的に死を免れた七十九歳の老首相は、
8月9、14両日の御前会議で、意見対立し、
二度まで天皇の裁断をわずらわせたことに対し、恐懼に堪えぬと述べ、
「 それで辞表を捧呈する事といたしました。
 終戦となるからは、内閣も切りかえねばならないが、そのけじめが考えられない・・・・
どうも、この際よりほかには、今後の終戦の始末をつけるべきケジメがないと思います。
ご了承下さい 」
といった。
それから姿勢を改めると、
「 さて、誠に悲しむべきことは、阿南陸相の自決せられしことである 」
と述べ、前夜来の陸相とのやりとりを報告した。
この朝、午前4時過ぎ、陸相 ・阿南は、
 大君の深き恵みにあひし身は
  いい残すべき片言もなし
の辞世を残し、臨時陸相官邸で割腹自決したのだった。
いったん閣議を休憩して公室に引き上げる鈴木の後を追い、
下村は、「 この上の覚悟無用 」 と書いた紙片を、首相の執務机の上にさし出した。
ちらっと目をやった鈴木は、
「 ありがとう、御心配におよびませぬ。ご安心下さい 」
といい、ゆっくりと宮中へとむかった。
首相 ・鈴木が天皇に辞表を提出したのは、午後3時35分だった。
「 ヨクヤッタ。何分ノ命アルマデ暫時政務ヲ見ヨ 」
と、天皇は老首相の労をねぎらった。

鈴木といれかわりに、天皇は内大臣 ・木戸幸一を招き、後継首相を選ぶように命じた。
木戸は前日の14日夕には、すでにこのことを予想して、
内大臣秘書官長 ・松平康昌を使って下準備を進めていたが、
「 今回は重臣を集めることなく、平沼枢相と相談のうえ奉答いたします 」
と答えた。

午後4時、
首相 ・鈴木はいったん休憩していた閣議を再開、
まず 天皇の言葉を伝え、
「 私はどうしても内閣は、この際切りかえるがよろしいと考える。
 ただし外務は支障なき限り、東郷外相に手をゆるめずにやってもらえるとよいと思う。
いずれにしても在任五ヵ月に過ぎねど、邦家未曾有の難局に当たられし各位に対し、厚く深謝する 」
と挨拶し、鈴木内閣は、午後4時40分、総辞職した。

高松宮夫妻と入れかわりに、
午後5時15分 東部軍司令官 ・田中静壹大将が、天皇の前に立った。
玉音放送の録音レコードを入手するため、
近衛第一師団の畑中少佐らは師団長 ・森赳中将を射殺、
午前零時過ぎ皇居に乱入した。
単身これを説得、占拠を解いたのが田中だった。
天皇は、
「 今朝ノ軍司令官ノ処置ハマコトニ適切デ、深ク感謝スル。
 今日ノ時局ハ真ニ重大デ、イロイロノ事件ノ起ルコトハ、モトヨリ覚悟シテイル。
非常ノ困難ノアルコトハヨク知ツテイル。シカシカクセネバナラヌノデアル。
田中、コノ上トモシツカリヤツテクレ 」
と感謝の言葉を述べた。
「 誓って聖旨にそい奉ります 」
と答えた田中は、すでに死を決意していたが、あふれ出る涙をぬぐおうともしなかった。

平沼枢相と協議をした木戸は、6時35分、
再度天皇の前に立ち、東久邇宮稔彦を後継首班に推すことを報告、
直ちに秘書官長 ・松平を東久邇宮邸にやった。
松平は、
「 ---木戸内大臣の言葉としまして、
 いま重臣の中に、軍部を抑えて、表面に立って出ようという人がない。
 鈴木内閣の後を東久邇宮にやらせたらどうか---との御考えであります 」
と、伝えた。
前日の夕方、松平から同じ要請をうけたとき、
「 自分は政治家ではない。皇族であってまた軍人であるという関係で、
 政治に関しては何ら経験もない。
それから、私は、皇族は政治に関係しない方がよいという考えをもっている。
私は現在の困難を打開して、将来、日本を如何になすのがよいか---その見通しも、まだついていない 」
と固辞した東久邇宮は、決して政治に関与すまいという固い決心を、子供の頃から持っていた。
東久邇宮の父 ・朝彦は、幕末に孝明天皇から相談をうけ、攘夷論を退けて開国論に賛成した。
そのために維新後、明治政府から謀叛の嫌疑をうけ、数年間、広島に流され、蟄居を命じられたのだ。
後に京都に帰り、皇族としての地位は与えられたが、他の皇族とは差別され、非常に貧乏だった。
それで俊彦らの兄弟は、別れ別れに他人の家に預けられて成長したのだった。
松平は14日夜半から15日朝にかけての皇居占拠事件を説明し、
「 幸い両陛下とも御安泰にあらせられます・・・何時また、いかなる事件が突発するかわからない状態であります。
 こうした状態なので、組閣を急ぐからして、ぜひ東久邇宮に出ていただきたい---
と、木戸内大臣の伝言であります 」
と、たたみかけた。
じっと考えた末、
「 ・・・・重臣中、一人の起って鈴木内閣の後を継ぎ、
軍を抑えて " 超非常時 " の大危機を突破することを、お引き受けする人もないというなら、
自ら顧みて甚だ不適任ではあるが、成敗を顧みず、総理就任の事を考えなおしてもよろしい 」
と、東久邇宮は答えた。

午後7時30分、
首相 ・鈴木はマイクの前に立ち
「 大命を拝して 」 と題する放送をし、
「 ・・・詔書の通り挙国一家となり、子孫相伝え、不屈不撓、最大限の努力により、
 一日も早く世界における帝国の地位を、その正当なるところに還すべきである 」
と結んだ。
この日未明、小石川丸山町の私邸を焼き討ちされた鈴木は、
芝白金に住む弟 ・鈴木孝雄陸軍大将に一時身を寄せていたが、ここも危険というので、
この夜は弟の家の隣家 ・磯村邸で過ごさねばならなかった。

戦災に遭い、岡山市巌井三門町に疎開していた永井荷風は、
この日、津山市に疎開していた谷崎潤一郎を訪ね、玉音放送も聞かず、
2時過ぎ岡山にもどって来たが、夕方には、下宿を世話した染物屋の老婆が、鶏肉と葡萄酒を持って来てくれた。
「 あたかも好し 」 である。
歌風は来客とともに、休戦の祝宴を張り、この夜は酔って床についた。

この日、スイスでは、大使館付き武官 ・岡本清福中将が、
蘭印では第五師団長 ・山田清一中将が自決、
異国の地で果てていた。

8月16日
特攻隊の " 生みの親 " 海軍軍令部次長 ・大西滝次郎中将は、
「 特攻隊の英霊に白す。
 善く戦いたり、感謝す。
最後の勝利を信じつつ、肉弾として散華せり。
然れどもその信念は、遂に達成し得ざるに至れり。
吾、死を以て旧部下の英霊と、その遺族に謝せんとす。
次に一般青壮年に告ぐ。
吾死にして、軽挙は利敵行為なるを思い、聖旨に添ひ奉り、自重忍苦するの誠めとならば幸なり。
隠忍するとも、日本人たるの矜持を失うことなかれ。
諸子は国の宝なり。
平時に処し猶よく特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平のため最善をつくせよ。
海軍中将 大西滝次郎 」
の遺書を残し、
午前3時、渋谷区南平台の官邸で割腹、さらに短剣をノドに立てた。
 ・
東久邇宮邸には、早朝侍従から電話があり、それを追うように宮内省から、
「 今日、参内されたならば、すぐ内大臣の部屋までお出で下さい 」
と伝えて来た。
内大臣 ・木戸は東久邇宮の協力者として公爵 ・近衛文麿を考え、前夜すでに連絡をとっていた。
箱根湯本に近い入生田にいた近衛は、午前8時、小田原から東京に向かった。
電話で指定された午前9時、皇居に入った東久邇宮は、まず内大臣室に行った。
木戸は姿勢を正し、
「 天皇陛下におかせられては、わが国家、国民を救うためには、
御自身が如何ようなことになってもよろしい、という固い御決心をなさっておいでになる 」
と述べ、国内の混乱の状況を説明してから、
「 一方、米国はわが国土進駐を急いでいて、
 その打合せに一日も早く日本政府を代表した連絡使節をフィリピンに派遣するように---と、
無電でいって来ている。
・・・・このまま長びくときは、責任をもって連合国側と連絡するところの機関がなく、
それがために連合国の疑惑を受けて、わが国の立場はますます困難となろう 」
といい、最後に、
「 この際、東久邇宮が、なおも総理就任を御辞退なさることは、陛下に御心配をかけ、
お困らせすることになり、またわが国をますます混乱と危急に導くことになるから、
ぜひとも内閣組織にあたって下さるように・・・・」
と説得した。
東久邇宮はしばらく考え込んでから、
「 この終戦の危機を突破するための内閣総理大臣をお受けいたします 」
と、きっぱり答えた。
木戸は、 「 安心いたしました 」 と、一言いった。
9時40分、東久邇宮は天皇の前に進み出た。
「 卿ニ内閣組織ヲ命ズル。
 特ニ憲法ヲ尊重シ、詔書ヲ基トシ、
軍ノ統制、秩序ノ維持ニツトメ、時局収拾ニ努力セヨ 」

と、天皇はいった。
東久邇宮は、
「 暫時、御猶予をお願いいたします 」
と答えたが、
皇族全員で12日と会ったときにくらべ、わずか四日の間に、天皇がさらにやつれたように感じた。
戦災で焼け野が原となった東京には、組閣本部を設ける建物もなかった。
宮内大臣 ・石渡荘太郎の進言で、赤坂離宮を使うことに決まった。
そして書記官長に旧知の緒方竹虎をすえることを考えたが、行方が判らない。
東久邇宮は内大臣室で、近衛と緒方の到着を、じりじりしながら待っていた。
・・・挿入・・・
八月十二日の午後三時、皇族会議が開かれた。
梨本宮、高松宮、三笠宮、東久邇宮、賀屋宮、竹田宮は揃って宮中に参集され、御意見を交わした。
このおり、昭和天皇は御自ら現況を説かれ、国難に対しての強力を求められた。
それから間もなく 夜、阿南は三笠宮邸に参上した。 
出迎えた三笠宮から、散々に叱責された。
「 陸軍は満州事変以降、大御心に副わぬ行動ばかりしてきたではないか 」 と。
阿南はうちひしがれ、帰途、形容しがたいほど沈痛な面持ちで
「 あのようなお強さで仰っらずとも・・・・」 と、繰り返し呟いた。・・秋月達郎 ・・歴史街道から


秋田 ・山形の県境の山村 ・稲住に疎開していた武者小路実篤は、
この朝届けられた新聞で終戦を知り、さすがに原稿も、絵も かく気になれなかった。

朝香宮鳩彦、閑院宮春仁、竹田宮恒徳の三人の軍人皇族が参謀本部に姿を現したのは午前10時だった。
米国から、マニラへの特使派遣を要求する電報を受け取り、参謀本部は、その人選で大騒ぎをしているところだった。
その渦中にいる参謀本部次長 ・河辺虎四郎中将は、三人の皇族と面談せざるを得なかった。
大将の朝香宮は中国ヘ、少将の閑院宮は南方へ、中佐の竹田宮が満州へ飛び、
現地の日本軍に、天皇の言葉を伝えに行くのだった。

午前10時半、
小田原から上京した近衛が、内大臣室に到着すると、東久邇宮は入閣を要請し、
近衛もこれをうけたが、緒方にはまだ連絡さえつかなかった。

役所をはじめ新聞社などが、戦争に関する書類を焼き、東京の空には黒い灰が舞い上がり、
厚木航空隊の飛行機がまく白いビラと、奇妙なコントラストを描き出していた。

午後2時、
鈴木内閣の外相 ・東郷が呼び出しをうけ、内大臣室に東久邇宮を訪ねて来た。
首相から留任を求められると、東郷は、
「 太平洋戦争勃発の際の外務大臣であったから、
 敗戦のこの際に於ては、戦争犯罪の問題発生すべき懸念もあるから・・・」
といって固辞するのだった。
東郷と相前後して、待ちに待った緒方がやって来た。
緒方は、内大臣室とは目と鼻の首相官邸にいたのだ。
それが判らぬほど、東京は混乱していた。

午後3時、運輸省は、
「 現下の情勢にかんがみ、六大都市着となる普通乗車券の発売を一時停止する・・・・
 万やむを得ない旅行以外はこの際やめられたい 」
と発表した。

書記官長に就任する予定の緒方につづき、
3時25分、
東久邇宮が赤坂離宮の組閣本部に入った。
まず大体の候補者を定め、交渉を開始しようとしたが、
空襲で焼けた東京市内の電話は、ほとんど普通になっていた。
そのうえ焼け出されて転々としているため、住所も判らぬという始末だった。
東久邇宮は、とっさに陸軍省から自動車を借りることを思いつき、
とにかく五台の提出をうけたが、時間だけがいたずらに過ぎ、
内大臣 ・木戸からは、一時間おきに、まだかまだかの電話がかかってくるのだった。

・・・夕方、厚木航空隊司令 ・小園は、横須賀鎮守府付となり、
小園説得の一番手をつとめた第七一航空戦隊司令官 ・山本が、三〇二空指令兼務と発令された。
深夜まで飛行長 ・山田七九郎少佐らと作戦会議を開いた小園は、会議を終えたとたんに激しい悪寒に襲われた。
副官がベッドに寝かせたが、小園はガバッと立上がって、わめき声を上げた。
「 神州不滅なり ! 」

その頃、赤坂離宮の組閣本部は四苦八苦していた。
内大臣 ・木戸から矢のような督促はあったが、内、外、文の三相だけはどうしても決定に至らず、
午前2時、ひとまず中止することとなった。

8月17日
赤坂離宮の組閣本部では、
午前8時30分から、緒方を軸とし、近衛が援けるという形で組閣工作が進められた。
二人が膝をつき合わせて話し合うのは、これが最初だった。
近衛、緒方双方にいささか遠慮があったが、難航した内相は山崎巌、外相は重光葵に落着き、
陸相は北支軍司令官 ・下村定大将をあて、帰京まで首相が兼任することになった。
午前11時、
東久邇宮は天皇に閣僚名簿を提出、45分から親任式が行なわれた。
組閣を終えて首相官邸に入った東久邇宮は、その荒廃ぶりにびっくりした。
十文字に、窓ガラスに貼った爆風よけの紙がすすけ、灯火管制用の黒幕がちぎれたままぶら下がっていた。
玄関脇の応接室や大ホールには、疲れ切った警備の兵がごろごろ寝ていた。
東久邇宮は、まず物々しい警戒をやめさせ、窓ガラスの十文字の紙をとりのぞき、黒幕をとりはらった。
開け放った窓から、青く晴れた青空がのぞき、真夏の陽光が室内にさし込んだ。
一望の焼跡だったが、ふと目をおとすと、まっ黒に焼けた樹木の根本から緑の新芽がふき出ていた。

大本営には、連合国最高司令官発の電報が入った。
前日、政府 ・大本営の名で、マニラへ派遣する特使の任務についての確認と 
「 ・・・8月17日我ガ方代表者ノ飛行方ヲ取リ計ロウコトハ不可能ナリ・・・」
という電報を打ったのに対する返電だった。
「 8月16日付貴電第4号ニ関シ、
 降伏条項ニ署名スルコトガ、マニラ派遣セラルベキ日本代表ノ任務ニ含マレオラズ、
ト推測セラレタルハ正確デアル。
本司令部ヨリノ指令ハ明瞭ニシテ、コレ以上遅滞スルコトナク応ゼラルベキデアル 」
とあった。
この電報を受けた大本営では、特使の選考が急に進められ、
参謀次長 ・河辺虎四郎中将と決定し、海軍省、外務省から随員をつけることとなった。
「 ・・・汝等軍人克ク朕カ意ヲ体シ鞏固ナル団結ヲ堅持シ、
 出処進止ヲ厳明ニシ、千辛萬苦に克チ、忍ヒ難キヲ忍ヒテ国家永年ノ礎ヲ遺サムコトヲ期セヨ 」
御前会議での発言通り、天皇は陸海軍人に勅語を出した。
組閣も終り、詔勅も出て、ほっとした内大臣 ・木戸は、午後2時半、東久邇宮邸を訪ね、
首相就任の御祝いの記帳をし、その足で官舎にもどった。
やれやれと風呂に入っていると、役所から電話がかかって来た。
「 水戸から兵隊が上京し、不穏な情勢だから、至急登庁せよ 」 という。
急いで風呂を出た木戸は、午後4時、皇居内の内大臣室にかけつけた。

夕方、大本営はマニラの連合国最高司令官に対し、
「 我方ノマニラニ赴くべき代表ノ人選決定シタ・・・・8月19日日 東京出発ノ予定  詳細追報 」
という電報第7号を打電した。

午後7時、
首相 ・東久邇宮は 「 大命を拝して 」 と題する放送を行った。
その放送は前例のない放送だった。
まず 「 昨日、大命降下とともに、仰せ出された御言葉は--- 」 と前置きして、
天皇の発言をそのまま伝えたのだった。
「 陛下と国民とが、ことさらにへだてられている。これは是正されねばならない。
 陛下の御気持なり、御考えなりは、その時々の問題についても、国民によく通じているのが本来の姿である 」
というのが、首相 ・書記官長の一致した考えであった。

8月18日
午前9時、
麻布市兵衛町の私邸を出た首相の東久邇宮は明治神宮、靖国神社に参拝してから皇居に行き、
天皇と約十文間面談した。

大本営では、この朝、マニラ派遣特使の陸軍随員七人がやっと決定した。
特使の河辺が随員にと指名しても、
「 自決するとも、降伏軍使団の一員たる恥辱をうけない 」
という者に、さんざんてこずった末の決定だった。

午後1時30分、
更相 ・松村謙三の兼任だった文相に、前田多門が就任、皇居で親任式が行なわれた。

マニラへ行く特使 ・河辺は、
午後、外務省からの随員である調査局長 ・岡崎勝男、書記官 ・湯川盛夫、
海軍側の横山一郎少将らと会合し、任務についての打合せ、検討を行った。
これをすますと、川辺は東久邇宮を訪ね、天皇の信任状を手渡されたが、
東久邇宮は、首相として、
「 この際、はじめて敵地に使いする一行の労を多とする、しっかり頼む 」
と激励した。
夕刻、外務省からの二人をのぞく特使 ・河辺以下の陸海軍一行十四人は、参謀本部に集合し、
陸軍参謀総長 ・梅津美治郎大将、海軍軍令部総長 ・豊田副武大将の前に並び、正式に命令をうけた。
河辺の心配は、
降伏文書の調印に、天皇自ら出て来い
という指示を出されないか、ということだった。
もしそんな指示を押しつけられた時は、生きて帰れないという思いで、
軍関係随員にはピストルを携帯するように指示した。
それから両総長が盃をとり、冷酒で送別の乾杯をした。
梅津から特にご苦労の声をかけられた河辺は、外国の戦史でしか読んだことのない、
敗戦国の軍使の任を思い浮かべながら、ただ我が身の不運を嘆くのみだった。

参謀本部では、送別の乾盃に引きつづき、
第一部、第二部と陸軍省軍務局の部局長以上の陸軍関係者が集まり、
連合国の第一次進駐部隊の上陸日時を中心に、検討を行っていた。
その席上に、海軍側から、
「 厚木飛行基地にある海軍航空部隊は、中央部からの説得などに耳を傾ける気色もなく、
 今日も、木更津でマニラ行き一行の乗機の試験飛行がなされたとき、
厚木の戦闘機がこれを追っかけていた。何をしでかすか知れん 」
という情報が入った。
連合国最高司令官から、特使の搭乗機は白塗り、青十字をつけるよう指令されていた。
陸軍では、この目立つ飛行機を敵機と誤認して、攻撃して来る防空戦闘機があるかも知れないと考え、
19日の特使の搭乗機の行動について、航空隊に情報を流していた。
一方、海軍では、厚木からの攻撃機のおそれもあり、あえて通牒を出さず、逆に秘密扱いにしていた。
会議の席でも 「 明朝の特使一行の出発時刻を一時間くりあげて、午前6時 木更津出発にしたらよい 」
という意見も出され、大勢はこれに傾いていた。
特使 ・河辺は、
「 私は日本の陸海軍の将校に、そんなアホーはおらぬと信ずる。
 ・・・・万々一そうした狂人がいて、それに撃ち落されても、私はかまわぬ。
また、この降伏軍使が、そんな理由で、一日二日遅れようが、大局上何の支障もない 」
と、頑として動く様子を見せなかった。

8月19日
快晴の日だった。
マニラに向かう特使 ・河辺以下十六人は、予定通り、午前5時45分、羽田空港に着いた。
陸軍省から軍務局長 ・吉積正雄中将、参謀本部から第一部長 ・宮崎周一中将らが見送りに来ていた。
ちょっと出征軍司令官のような見送りだった。
午前6時、一行はダグラスDC3型機に乗りこみ、十分後には木更津の海軍第三航空艦隊基地に到着した。
迎えたのは、前日の夕、厚木航空隊への鎮圧部隊出動にストップをかけた司令官 ・寺岡だった。
海軍の陸攻機二機は、すでに離陸の準備を完了していた。
朝食をすませた一行は、二機に分譲、午前7時15分 相次いで離陸した。

沖縄の伊江島へは、東京湾口から本州 ・四国南岸沿いに飛び、
鹿児島湾上空を経て直進するのが通常コースだった。
二機は、木更津から一気に南に飛び、島島から西進、種子島上空から伊江島へというコースをとった。
午前8時20分、厚木航空隊の改田義徳中尉操縦の哨戒機は、犬吠岬南方海上で、南東へ飛ぶ見なれぬ中型機を発見、
軍使機と見て、厚木への無電連絡をしながら、追跡体制に入った。
しかし三時間の哨戒飛行で、すでに燃料はつきようとしていた。
緊急無電をうけた厚木では、第一飛行隊長の森岡寛大尉が零戦に飛び乗り、
大島から伊豆七島上空まで全速で追ったがとうとう発見できなかった。

午前10時、首相 ・東久邇宮は天皇を訪問した。
天皇は、
「 戦争終結後ノ国民生活ヲ明朗ナラシメヨ。
 例エバ灯火管制ヲ直チニ中止シ、町ヲ明ルクシ、娯楽機関ノ復興ヲ急ギ、
マタ信書ナドノ検閲ヲ速ヤカニ停止セヨ 」 
と東久邇宮に命じた。

軍需産業に動員されていた要員の配置転換は必至だった。
その巨額の退職金が流出すれば、インフレを助長するとあって、大蔵省は、
軍需産業の従業員の退職金支給方法を
「 社員および労務者の退職金は、原則として、銀行の期限三ヵ月以上の定期預金を以て支給すること 」
とし、20日から実施すると発表した。

午後1時30分、
特使を乗せた二機の " 陸攻 " は、米軍機の誘導をうけ、伊予島に着陸した。
物見高いアメリカ兵が、黒山の人だかりをつくり、写真機をむけていたが、一行は飛行場に目を見はった。
「 滑走路の舗装状況や土地の掘開状況など見ると・・・・、
戦争の間われわれの最も手痛い強敵であった動力化土工機材の偉勲をマザマザと見せつけられた 」
と、川辺は手帳に書きつけた。
一行は、待機していたダグラスDC4型に乗せられた。
機内は通路も広く、ゆったりした座席三十二もあった。
一行のうちの空軍関係者は、思わずもらした。
「 奴さんらは、すばらしいもの使ってやがる 」

海軍省では、午後4時、海相 ・米内が司令長官会議を招集した。
東久邇宮内閣に留任した米内は、終戦に至るまでの経過を説明し、
それから連合軍の日本進駐にともなう受入れ、復員など意見調整が行われたが、
会議中に、特使を乗せた飛行機がマニラに着いたという電報が入った。

マニラの午後4時45分---東京時間の5時45分、
特使 ・河辺らの一行は、ニコラス ・フィールド空港に着陸した。
タラップを降りる十六人に、カメラが集中した。
「 お迎えに来ました 」
タラップの下で、米軍の大佐が日本語でいった。
河辺は出迎えの情報部長 ・ウィロビー代表と自動車に同乗してホテルへ向かった。

マニラの夕暮れは東京以上にむし暑かった。
河辺がシャワーを浴びて出て来ると、通訳として同行した、
米国生れで参謀本部第二部勤務の少尉がノックして入って来た。
「 ただ今先方の連絡員が来て、
 会議の席では日本側一行の軍人たちの武装をはずしてもらいたい・・・・
米国側は全員非武装のスタイルで出るのだから・・・と、鄭重に申込んで来た 」
と報告した。
河辺は少尉に言った。
「 つぎのように返事しなさい。
 われわれは日本将校の佩刀は制度としてきめられ、いかなる場合でもみだりにはずすことは許されぬ。
・・・ただ会議の席には、日本でも佩刀をとるのが例であり・・・・はずして出ます
・・・われわれは拳銃を携行しているが、これは会議への往復の途上でも帯びることはしない 」
軍刀については、これで片付いた。
つづいて、会議のための書類が日 ・英両文で届けられた。
正式降伏調印は8月28日、東京湾内の米国軍艦上で行われる。
このため26日にマッカーサーが厚木到着、その先発部隊は23日に厚木へ---というプログラムであり、
河辺が心配していた " 天皇自ら調印 " の要求はなかった。
ほっとした川辺にとって、あとは進駐予定を延期させることだけだった。

東京時間の9時半、
マッカーサー司令部のあるマニラ市庁の参謀長室で、米国側七人と日本の陸海軍人十四人の間で、
最初の会同がはじめられた。
まずアメリカ側は、第一次進駐を予定している厚木飛行場の現状について質問をしたが、
アメリカ側の期待と日本の実状とは大きく食い違っていた。
ここで特使の河辺は、参謀長 ・サザランドに対して発言を求め、具体的事例をあげて説明、
「 ・・・・要は、よく日本内地の現状に応ずるよう検討を加え、貴軍隊の進駐に対するわが方の受入れ態勢を整えるに、
 十分の時間的余裕を与えるよう、再考せらるべきものと信ずる。
・・・この際 数日を惜しんで無理をすることは、遠く将来に必ず大きい禍根を残すものと思う 」
と結んだ。
ここで陸 ・海 ・空 三部に分かれ、情報の聴取をはじめた。
室内のあちらこちらに散って、それぞれ話し合いをはじめると、
それまでの緊張した空気もなごみ、笑い声さえ聞かれた。
その間、川辺と話していたサザランドは、広島での原爆の被害状況について質問、
河辺の答を聞くと、大げさに驚きの表情をみせた。
河辺の方は、進駐の日時をおくらせるため、特使一行の東京帰着後十日間の余裕を与えるよう求めたが、
サザランドは、それには答えず、席をはずして部屋から出て行った。
第二回会同が始まり、サザランドは、
「 先発隊の厚木到着を26日、マッカーサーの日本上陸を28日、降伏文書調印を31日 」
という妥協案を示した。
これに対して、川辺はさらに再考を求めたが、サザランドはこれをつっぱねた。
そこで河辺は、
「 ・・・この際は一日、二日でも大きな意義があるから、もう一、二日だけでも、
さらに延期する寛大性を貴方は持たぬか 」
と、たたみかけた。
しかしサザランドは、
「 われわれは、この案通り実行しなければならない。 日本政府および日本軍の努力を望む 」
と結んだ。
そして明20日午前9時30分から、この場所で、第三回の会同をなすこととし、
これには軍だけでなく、外務省の代表も出席するよう指示した。
一同席を立つと、アメリカ側は罐ビールをぬいて、日本側にサービスし、
河辺が宿舎のホテルへ帰ったのは、午前1時---東京時間の午前2時だった。
ホテルでは、ウィロビーの名刺のついた紙包みが、河辺を待っていた。
中にはウィスキーと煙草が入っていた---

8月20日
東京はこの日も快晴だった。
前日の天皇の発言は、早速実現することとなり、防空総本部は、
「 20日正午を期し灯火管制規則大四条による準備管制を解除する 」
と発表、逓信省も直ちに信書の検閲を停止するよう、全国に通達した。
準備管制というのは、警報が発令されていない場合でも、日没後すべての屋外燈を消燈するもので、
この解除によって、東京の夜は戦前にもどることとなった。
郵便信書の検閲は、機密の保持と流言の防止のため、緊急勅令 「 臨時郵便取締令 」 により
16年10月3日から実施されていた。

東京と違って、マニラでは朝から激しい雨が降っていた。
第三回の会同は、予定より一時間おくれめという通告があり、つづいて書類が届けられたが、
進駐プログラムに変更はなく、
「 本日の会議では、書類についての文意の質問はさしつかえないが、
内容の改変に関する意見はきかない 」 といって来た。
午前10時半、
後に吉田内閣で外相となる外務省調査局長 ・岡崎らも出席して会議が開かれた。
冒頭、参謀長 ・サザランドが書類を朗読したのに対し、川辺は、
「 連合国最高司令官として、中国軍またはソ連軍と日本軍の間に、何かトラブルが生じるような場合、
 必要な指示をされるか ? 」 と質問した。
それに対しサザランドは、
「 それに関しては、わが方には何らの権限がない 」
と答えた。
それから書類上の疑点について質疑応答があり、東京に伝達する文書三通を手交されて、
会議の終了が宣せられた。
間もなく正午---日本時間午後1時だった。

3月末、フィリピンを脱出、台湾--上海経由で帰国した註フィリピン大使 ・村田省蔵は、
8月1日に大使を辞任し、古巣の大阪商船のある新橋 ・大阪ビルの事務所に毎日通っていた。
村田は、運輸相 ・小日直登からの電話で、1時過ぎ運輸省を訪ねた。
小日山は、
「 海運事務はすべて再び本省にもどることとなった。
 ついては・・・・顧問として自分を助け、海運再建に尽力してくれないか 」
とたのんだ。
一ヵ月後には、戦犯容疑で横浜拘置所に入れられることなどつゆ知らぬ村田は運輸省顧問就任を承諾した。

戦争は終ったが、英霊の " 無言の凱旋 " はつづいていた。
青森県三戸駅にも、午後4時7分白木の遺骨が到着、三戸小学校教頭 ・大庭茂は、学校を代表して、駅頭で迎えた。

法相 ・岩田宙造は、東京及び近県の陸軍部隊の少壮軍人が、ポツダム宣言受諾に反対し、
20日夜半に皇居占領を計画中という情報をキヤッチした。
情報を知らされた国務相 ・近衛と書記官長 ・緒方は、夕方、首相 ・東久邇宮の耳に入れた。
東久邇宮は、直ちにクーデター計画の代表者を招き、
「 この際に暴挙をやることは、かえって皆の希望の国体護持にならないのみならず、
 わが国を亡ぼすようになるかも知れない 」
と、じゅんじゅんと説いた。相手は、
「 お話はよく判りましたが、
それならば、今夜12時、皆が二重橋前に勢揃いしたところにいらして、
総理から直接説得していただきたい。 そうすればおさまるでしょう 」
という。
「 私が話せば納得してくれるものなら、どこへでも出かけて話そう 」
東久邇宮は答えたが、それを聞いた緒方は、ラジオ放送の代案を提案した。
代表者はこの代案を受入れ、
「 国体の護持については、
 自分は、責任者として積極的かつ具体的な考えを持っているから、
諸君は自重し、厳粛なる態度をもって事に処せよ 」
という文章で放送してほしいと差し出した。

午後6時、
首相 ・東久邇宮は、注文された通りの言葉で放送した。
甚だ唐突で、一般国民には何のことか、さっぱり判らなかった。

篠つく雨をついて、マニラを出発した河辺ら特使一行の飛行機は、
午後6時、快晴の伊江島に着陸した。
ここに待機していた陸攻機のうち、一機が、地上滑走中にブレーキ故障をおこし、機体が傾いて翼端をいためた。
アメリカ軍が、明朝までに修理してくれるというので、河辺、岡崎、横山らが先行することとし、
重要書類を持って一番機に乗込んだ。
午後6時半、陸攻は伊江島を離陸した。
赤赤と輝く夕日が東支那海の水平線下に沈み、やがて十三夜の月が窓越しに機内を照らした。

午後6時から、一時間おきに、一般にはわけの判らぬ放送をした首相 ・東久邇宮は、
万一を心配し、軍服を着たまま首相官邸で頑張っていた。
予定の午前零時を過ぎ、書記官長 ・緒方から、
「 宮城前に集合した者は、きわめて少数であり、間もなく散ってしまった 」
という報告を聞いて、ほっとしたが、マニラへ行った河辺ら特使一行の飛行機が、
予定を過ぎても帰って来ない。
心配になった東久邇宮が、
「 途中で、興奮した特攻隊にやられたのではないかしら ? 」
というと、緒方も、
「 そうかも知れません・・・・」
と暗い表情で答えた。

8月21日
河辺ら特使の先発隊を乗せた陸攻機が、遠州灘に不時着したとき、月はまだ水平線上にあった。
乗務員が、
「 どなたかお怪我はありませんか ? 代表閣下はいかがですか ? 」
と操縦席から声があった。川辺は、
「 ありがとう。何のことはない 」 と答えると、右側の席にいた岡崎が立上って、
「 怪我した 」 と元気よく叫んだ。
後部の出入口で、海水に足をひたした乗務員が、背負うようにして特使たちを砂浜へおろした。
みんなが浜にあがったところ、急に月が落ちた。
午前2時7分だった。
干魚の不寝番をしていた老人は、急に飛行機が降りて来たので、アメリカ機と思い込み、
浜に曳きあげてあった舟の陰に身をかくした。
しかし話している言葉が日本語とわかると、闇の中を浜づたいにやって来た。
「 ここはどこかネ 」
と聞くと、天竜川河口左岸の浜だという。
老人にたのんで村の警防団員をわずらわし、天竜飛行部隊のトラックをよこしてもらうとともに、
東京への連絡を警察に依頼した。
トラックは、艦砲射撃で焼土となった浜松市内を抜け、林の中にある浜松の航空通信隊にたどりついた。
連絡をうけて浜松飛行隊から将校と軍医がかけつけ、岡崎の傷の手当をしたが、
浜松飛行隊の飛行機は、全機富山に疎開していた。
幸いなことに、前日、富山から連絡に来た4式重爆撃機一機が、小さな故障で滞留していた。
将校は、
「 只今から、すぐに整備員を起こし、明朝6時半までには、必ず東京へお送りできるよう手配いたします 」
といってくれた。
一行はほっとして、昔の工員宿舎で床についた。

二時間の仮眠をとった河辺らの特使一行は、朝食をすますと、浜松飛行場で4式重爆撃機に乗込んだ。
やがて午前7時、重爆は離陸した。
雲ひとつない紺碧の空に富士山が美しく聳そびえていた。
8時、調布飛行場に着陸した。
参謀本部第一部長 ・宮崎がただ一人出迎え、
「 総理宮以下みんな大変心配し、いま関係者多数が総理官邸に集まって、報告を待っている 」
と伝えた。
一行は車をかって永田町へとむかった。

首相官邸では、首相 ・東久邇宮以下、陸 ・海軍の課長級まで、大勢で待ち構えていた。
午前9時、官邸に着いた川辺は、帰国報告をし、米軍から手交された書状を首相に手渡した。
それから、
「 連合国側の態度は、十分に理性的であるとの印象を受けた。
 会議にあたっての米国側の態度は、むろん勝敗のけじめは極めてはっきりしていたが、
不必要な屈辱感を与えるようなことは全くなく、わが方の事情り説明についても、
聞くべきは聞くたいどであり、また極めて能率的であった 」 と語った。
報告のすべてが終ったのは、午前11時だった。

午後1時15分、
特使 ・河辺は東久邇宮と皇居に行き、天皇に簡単な報告を行った。
退出すると内大臣 ・木戸と侍従武官長 ・蓮沼蕃大将から、詳細な報告を求められた。
米国側の態度についての報告を聞くと、
木戸は " ひと安心 " といいたげな表情をみせた。
午後3時15分、
「 お疲れであろう 」 という皇后の伝言つきで
「 特殊疲労回復飲料 」 を、女官長が木戸に届けた。


原文保 著
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玉音放送から一週間  から

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昭和20年8月15日・厚木航空隊事件 『 神州不滅なり !』

2022年06月27日 05時04分39秒 | 9 昭和の聖代


8月15日

朕 深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ

非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ
茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕 ハ帝国政府ヲシテ 米英支蘇四国ニ対シ
其ノ共同宣言ヲ 受諾スル旨 通告セシメタリ
抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ
万邦共栄ノ 楽 ヲ偕ニスルハ
皇祖皇宗ノ遺範ニシテ 朕 ノ拳々措カサル所 
曩ニ 米英二国ニ宣戦セル所以モ亦
実ニ帝国ノ自存ト 東亜ノ安定トヲ 庶幾スルニ出テ
他国ノ主権ヲ排シ 領土ヲ侵スか如キハ固ヨリ 朕 カ志ニアラス
然ルニ 交戦 已ニ四歳を閲シ
朕 カ陸海将兵ノ勇戦 
朕 カ百僚有司ノ励精
朕 カ一億衆庶ノ奉公
各々最善ヲ尽セルニ拘ラス
戦局必スシモ好転セス
世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之 敵ハ 新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ
頻ニ無辜ヲ殺傷シ 惨害ノ及フ所 真ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚 交戦ヲ継続セムカ
終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス
延テ 人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ 朕 何ヲ以テカ
億兆ノ赤子ヲ保シ 皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ
是レ 朕 カ帝国政府ニシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
朕 ハ帝国ト共に終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ
遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
帝国臣民ニシテ
戦陣ニ死シ
職域ニ殉シ
非命ニ斃レタル者
及 其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク
且 戦場傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ
朕 ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ 今後帝国ノ受クベキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ  朕 善ク之ヲ知ル然レトモ
朕 ハ時運ノ趨ク所
堪へ難キヲ堪へ
忍ヒ難キヲ忍ヒテ
以テ 万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕 ハ 茲ニ国体ヲ護持シ得テ
忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ 常ニ爾臣民ト共ニ存リ
若シ夫レ情ノ激スル所 濫ニ事端ヲ滋クシ
或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ
為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ
朕 最モ之ヲ戒ム宜シク 挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ
任重クシテ 道遠キヲ念ヒ 総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ
道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ
誓テ 国体ノ精華ヲ発揚シ
世界ノ進軍ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克ク 朕 カ意ヲ体セヨ


玉音放送は終わった。


海軍三〇二空指令、小園安名大佐は、
放送が終わると同時に、通信長を呼び、
この朝 " 略号文 " にさせておいた 『 声明 』 を 「 作戦緊急で発信せよ 」 と命じた。
それから洗濯したてのシャツに第三種の開襟軍衣を着ると、総員集合している中央広場の号令台上に立った。
「 諸君!日本政府はポツダム宣言を受諾した。
 このことにより、日本の軍隊は解体したものと認める。
これからは、各自の自由意志によって、国土を防衛する新しい国民的自衛戦争に移ったわけである。
諸君が私と行動をともにするもしないのも、諸君の自由である。
私と志を同じくして、あくまでも戦うというものはとどまれ、
しからざる者は、自由に隊を離れて帰郷せよ。
私は必勝を信じてあくまでも戦うつもりである 」
と大声で訓示した。

「 次ニ來ルベキ停戦命令、或イハ武装解除命令ハ天皇を滅シ奉ル大逆無道の命令ナリ・・・・
 ・・・必勝ノ信念ヲ失イ、斯ル大逆ノ命令ヲ発スル中央当局及ビ上級司令部ハ、
既ニ吾人ニ対スル命令権ヲ喪失セルモノト認ム。
依ツテ而今如何ナル命令ト雖モ、一切之ヲ拒否スルコトヲ声明ス。
日本ハ神国ナリ、絶対不敗ナリ・・・・」
小園の 『 声明 』 は、玉音放送終了の五分後に、全国の海軍部隊で受信された。
連合艦隊はすでに潰滅していた。
軍艦のない司令長官、小沢治三郎中将は、日吉の総隊司令部でこの電報を見て驚き、
怒り、直ちに全海軍に向け 「 翻訳禁止 」 の命令を打電させた。
午後2時、厚木の戦闘指揮所の吹流し塔に菊水の旗が掲げられた。
これを旗印とした " 七生報国 " の楠木正成は、小園が尊敬する武将だった。

厚木航空隊では、小園の決起に応じ、ガリ版ずりのビラ作りがすすめられていた。
「 国民諸氏ニ告グ    海軍航空隊司令
・・・・日本ノ天皇ハ絶対ノ御方ナリ    絶対ニ降伏ナシ    天皇ノ軍人ニハ降伏ナシ
我等航空隊ノ者ハ絶対ニ必勝ノ確信アリ・・・・
今コソ一億総決起の秋ナリ・・・・」
すりあがったビラを手に、午後3時40分、" 遊説隊 " が隊門を出て行った。
小園の檄に応じた士官たちが、先輩 ・知友の所属部隊に、決起を促すためだった。
二十分後の4時には、ビラを積んだ一番機も飛んだ。
厚木航空隊と雷電
厚木航空隊の竹俣外雄少尉たちが、保土ケ谷に近い蔵本機墜落現場に到着したのも、ちょうど午後4時だった。
玉音放送二時間二十分前の午前9時40分、米艦載機グラマン三十八機の編隊迎撃のため、
雷電で厚木を発信した蔵本正浩中尉にとって、これが空戦の初陣であり、最期となった。
すでに敗戦を知っていた蔵本にとっては、覚悟の上の出撃だったのだろう。
竹俣が蔵本機の破片をとりのぞこうとしたとき、突如、銃弾のはじける音がして、土砂が宙にとび散った。
地熱のため、残弾が土中でははねていたのだ。

午後6時、第七一航空戦隊司令官 ・山本栄大佐が、厚木航空隊の司令 ・小園を訪ねた。
第七一航空戦隊の下には、厚木の三〇二空、横須賀の二五二空の二隊があり、
小園にとっては山本は直属上官だった。
小園はラバウル勤務時代にかかったマラリアのため発熱していた。
山本の姿を見ると、小園は、
「 山本大佐!おれはすでに海軍省と縁を切った。
 三下り半をたたきつけた以上、海軍とは赤の他人である。
 したがって、海軍に命令権はない。はやく帰ってくれ 」
と、ベッドの上から叫んだ。

8月16日
特攻隊の " 生みの親 " 海軍軍令部次長 ・大西滝次郎中将は、
「 特攻隊の英霊に白す。
 善く戦いたり、感謝す。
最後の勝利を信じつつ、肉弾として散華せり。
然れどもその信念は、遂に達成し得ざるに至れり。
吾、死を以て旧部下の英霊と、その遺族に謝せんとす。
次に一般青壮年に告ぐ。
吾死にして、軽挙は利敵行為なるを思い、聖旨に添ひ奉り、自重忍苦するの誠めとならば幸なり。
隠忍するとも、日本人たるの矜持を失うことなかれ。
諸子は国の宝なり。
平時に処し猶よく特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平のため最善をつくせよ。
海軍中将 大西滝次郎 」
の遺書を残し、
午前3時、渋谷区南平台の官邸で割腹、さらに短剣をノドに立てた。

夜が明けると、厚木航空隊の飛行機はビラまきに飛び立って行った。
それには、
「 全国赤子ニ訴フ
 陸海軍ハ徹底抗戦ス    一億国民ハ我等ニ続クヲ信ズ
ヤガテ内外攘夷ノ御大詔ハ渙発セラルベシ 」
とあったし、国鉄の新橋駅では、
「 国民諸子ニ告グ
 皇軍無クシテ皇国ノ護持全ウスベカラズ
皇軍トシテ此処ニアリ
・・・・・・・・
帝国海軍航空隊司令 」
の張り紙が出され、着剣した水兵が立っていた。
海相 ・米内光正は、
こうした浮説を否定するため、
早朝、各長官にあて、
「 ・・・・武装解除ニハ苦慮アルベシ    以テ詔書ヲ出スモ差支エナク
 放送モ行ウベシ    更ニ必要トアラバ   アラユル手段ヲツクス故頼ム 」
という 御前会議の天皇の発現を、そのまま電文として流した。
・ 
午後3時、
運輸省は、

「 現下の情勢にかんがみ、六大都市着となる普通乗車券の発売を一時停止する・・・・
 万やむを得ない旅行以外はこの際やめられたい 」 と発表した。
ちょうどその時、黄色の将官旗を立てた黒ぬりの乗用車が、厚木航空隊本部の前にとまった。
車から降りて来たのは、第三航空隊司令 ・寺岡謹平中将だった。
木更津から小園説得のためにやって来たのだった。
直属の上官を迎えた小園は、寺岡を司令公室に案内した。
室の外には若い中尉クラスが日本刀をかまえて、会談に聞き耳をたてていた。
寺岡の説得に対し、
「 陛下はいま御一身を投げ出されて、日本国民を救い給わんとなさっておられます。
 これは息子の犯した罪を自分で負うて、捕吏ら身を委ねようとしている父親と同じであります。
このとき子として、ただありがとうといって父親が曳かれて行くのを、そのまま見送ることができますか・・・・」
小園は逆に寺岡を説得して、決起させようとした。
文人肌の寺岡が、いささかも動じることなく、
「 君の忠誠心はよく判るが、大忠もやりようによっては大不忠となる・・・・
 よくよく熟慮して、誤りあるべからず 」
というと、小園は、
「 長官のいうことはよくわかりました。わざわざありがとうございました 」
と答え、会談は三十分で終った。

厚木航空隊からは、午前にひきつづき午後も " 遊説隊 " が、基地の門から出て行った。
改田義徳中尉も、横浜駅に出て、駅前で決起のアジ演説をぶった。
それから市内菊名の自宅に立ちより、兄嫁の艶子にあてた遺書を便箋にしたためた。
「 死期ヲ失スル勿レ
 長年月ノ御厚情ヲ深謝ス
 皇紀二千六百五年八月十六日  義徳拝 」
改田は白封筒に入れ、艶子の朱塗りの手箱におさめると、そのまま立ち去って行った。
夕方、厚木航空隊司令 ・小園は、横須賀鎮守府付となり、
小園説得の一番手をつとめた第七一航空戦隊司令官 ・山本が、三〇二空指令兼務と発令された。
深夜まで飛行長 ・山田七九郎少佐らと作戦会議を開いた小園は、会議を終えたとたんに激しい悪寒に襲われた。
副官がベッドに寝かせたが、小園はガバッと立上がって、わめき声を上げた。
「 神州不滅なり ! 」

8月17日
正午を過ぎると、この朝水戸駅を出発した水戸教導航空通信師団の将兵三百九十一人が、
杉茂少佐の指揮をうけ、続々と上野公園の美術館前に終結をはじめた。

満洲 ( 現 ・中国東北区 ) の午前11時---東京の正午、新京 ( 現 ・長春 ) を逃れた満洲国皇帝 ・溥儀を乗せた飛行機が、
奉天 ( 現 ・瀋陽 ) の飛行場に着いた。
ここで大型機に乗りかえ、日本に向かう予定だった。
飛行場の休憩室に入ると、突然耳をつんざく爆音とともに、ソ連機が次々と着陸、
あっという間に、飛行場の日本軍を武装解除した。
溥儀はその場で、ソ連軍の戦犯となった。

神奈川県保土ケ谷に近い丘陵で、15日の夕方から農家に泊り込み、
蔵本中尉の遺体発掘をつづけていた厚木航空隊の竹俣少尉たちの一隊は、
午後2時過ぎ 地下10メートルの深さで、雷電201機を掘り当てた。
その胴体はおしつぶされ、カメラの蛇腹のようになっていた。
機体の下にあった遺体を、のぞき込んだ軍医は、
「 頭部を撃ち抜かれて、即死した直後に失速して墜落したものと思われる 」
と、悲痛な声でいった。

上野公園に終結した水戸教導航空通信師団の一隊は、
夜に入ると、「 東京での徹底抗戦 」 を叫んで行動を開始、
午後10時、皇居前広場まで前進した。
しかし近衛師団の警戒は厳重を極め、何もできぬまま、再び上野公園にとって返した。

8月18日
そのころ ( 正午頃 ) 高松宮は、軍令部の地下壕の電話で、厚木航空隊の司令 ・小園を呼び出した。
小園が病床にあったので、かわりに電話をうけたのは、飛行長 ・山田九七郎少佐だった。
電話機からもれてくるのは、
「 ---三〇二空はなにを騒いでいるか。・・・・終戦降伏は、あくまで陛下のお心から出たものである。
・・・・すでに各部隊は聖慮にしたがい武器を捨てた。
にもかかわらず厚木はまだ抗戦するというのか。
司令は病気でふせているというが、お前が司令の立場に立ったとしたら、どう処置するか、
冷静によく考えよ 」
感度が悪く、聞きとりにくいところもあるが、間違いなく高松宮の声だった。
とっさに答える言葉もなく、山田は、
「 よく聞こえません 」
とだけいって、ガチャリと電話を切った。

厚木鎮圧のため午後6時出動の命令を受けていた横須賀の第一連合特別陸戦隊は、
出動予定時間の10分前---午後5時50分、
「 出動中止、そのまま待機せよ 」 という変更命令を受けた。
特別陸戦隊の挺身奇襲大隊は横須賀 ・衣笠の実科女学校に大隊本部をおき、
サイパン、グアムのB29基地に奇襲攻撃をかけ、飛行機の破壊を目的とする " 忍者部隊 " だった。
厚木鎮圧にはうってつけの部隊だったが、日本軍同士が相討つおそれは十分あった。
変更命令をうけた挺身奇襲大隊の隊員は、同志討ちをせずにすんだというので、
みな抱き合って喜んだが、やがて、「 高松宮殿下が厚木にむかわれ、ことが治まったのだ」 
という噂が流れた。
しかし真相は第三航空隊司令官 ・寺岡が出動に反対したためだった。

参謀本部では、送別の乾盃に引きつづき、
第一部、第二部と陸軍省軍務局の部局長以上の陸軍関係者が集まり、
連合国の第一次進駐部隊の上陸日時を中心に、検討を行っていた。
その席上に、海軍側から、
「 厚木飛行基地にある海軍航空部隊は、中央部からの説得などに耳を傾ける気色もなく、
 今日も、木更津でマニラ行き一行の乗機の試験飛行がなされたとき、
厚木の戦闘機がこれを追っかけていた。何をしでかすか知れん 」
という情報が入った。
連合国最高司令官から、特使の搭乗機は白塗り、青十字をつけるよう指令されていた。
陸軍では、この目立つ飛行機を敵機と誤認して、攻撃して来る防空戦闘機があるかも知れないと考え、
19日の特使の搭乗機の行動について、航空隊に情報を流していた。
一方、海軍では、厚木からの攻撃機のおそれもあり、あえて通牒を出さず、逆に秘密扱いにしていた。
会議の席でも 「 明朝の特使一行の出発時刻を一時間くりあげて、午前6時 木更津出発にしたらよい 」
という意見も出され、大勢はこれに傾いていた。
特使 ・河辺は、
「 私は日本の陸海軍の将校に、そんなアホーはおらぬと信ずる。
 ・・・・万々一そうした狂人がいて、それに撃ち落されても、私はかまわぬ。
また、この降伏軍使が、そんな理由で、一日二日遅れようが、大局上何の支障もない 」
と、頑として動く様子を見せなかった。

第三航空艦隊司令官 ・寺岡の使者の説得、高松宮の電話などがあって、
厚木の三〇二空の隊長クラスの士官は、かなり冷静に事態を把握しはじめていたが、
次室士官や下士官はいぜんとして戦意旺盛だった。
前日夕、解職となった小園にかわり、三〇二空指令を兼務いた山本栄大佐が、この夜、厚木基地に到着した。
高熱にあえぐ小園は、意味の判らぬことを口走り、一種の錯乱状態に陥っていた。
山本は隊長クラスの士官会議を招集したが、士官室で会議がはじまったのは、午後10時だった。
血気盛んに自室士官が士官室に押しかけたが、部屋には鍵がかけられていた。
会議は延々とつづいた。
カレンダーは 「 19日 ・日曜日 」 と変り、会議の終ったのは午前零時20分だった。

戦災を免れた杉並区天沼の家で、徳川無声は眠れぬ夜にいらいらしていた。
蚤のみがちくりちくりとさすのだ。その日の一句、
  御破算でやり直しなる浴衣かな

8月19日
マニラに向かう特使 ・河辺以下十六人は、予定通り、午前5時45分、羽田空港に着いた。
陸軍省から軍務局長 ・吉積正雄中将、参謀本部から第一部長 ・宮崎周一中将らが見送りに来ていた。
ちょっと出征軍司令官のような見送りだった。
午前6時、一行はダグラスDC3型機に乗りこみ、十分後には木更津の海軍第三航空艦隊基地に到着した。
迎えたのは、前日の夕、厚木航空隊への鎮圧部隊出動にストップをかけた司令官 ・寺岡だった。
海軍の陸攻機二機は、すでに離陸の準備を完了していた。
朝食をすませた一行は、二機に分譲、午前7時15分 相次いで離陸した。

沖縄の伊江島へは、東京湾口から本州 ・四国南岸沿いに飛び、
鹿児島湾上空を経て直進するのが通常コースだった。
二機は、木更津から一気に南に飛び、島島から西進、種子島上空から伊江島へというコースをとった。
午前8時20分、厚木航空隊の改田義徳中尉操縦の哨戒機は、犬吠岬南方海上で、南東へ飛ぶ見なれぬ中型機を発見、
軍使機と見て、厚木への無電連絡をしながら、追跡体制に入った。
しかし三時間の哨戒飛行で、すでに燃料はつきようとしていた。
緊急無電をうけた厚木では、第一飛行隊長の森岡寛大尉が零戦に飛び乗り、
大島から伊豆七島上空まで全速で追ったがとうとう発見できなかった。

彰義隊ゆかりの上野公園に、17日終結した水戸教導航空通信師団の三百九十一人のうち、
第一中隊の四十九人は翌日水戸に帰ったが、
第二中隊の三百四十人と杉茂少佐らは依然として美術館で頑張っていた。
この日、航空本部で説得され、水戸への帰還命令をうけた杉少佐らと、あくまで頑張るという一派が論争、
結論の出ぬまま午後7時から帰還派は次々と引揚げて行った。
そこへ、15未明の皇居占拠事件に参加した近衛師団参謀 ・石原貞吉少佐が説得にやって来た。
第二中隊長 ・岡島哲少佐への説得を横で見ていた林少尉が、いきなりピストルで石原少佐を射殺、
これを見た杉少佐は、腰の軍刀を引き抜き、林少尉を一刀の下に斬って捨てた。
さすがの強硬派も撤収することとなり、午後10時半から相次いで美術館を出て行ったが、
林少尉の属する隊の小隊長 ・松島利雄少尉は、美術館内で自決して果てた。

8月20日
土曜日にもらった電話のお礼のため、海軍軍令部に高松宮を訪ねた厚木三〇二空副長 ・菅原秀雄中佐と、
整備長 ・吉野実少佐の二人は、おそい夕食をすますと、午後9時、準士官以上の全員をガンルームに集めた。
菅原は、
「 本日、吉野少佐とともに殿下の膝下に参上した。
 じきじきにお話をうけたまわった。
・・・・陛下は、もっと高いところからの大御心によって渙発せられたるものにして・・・・
これ以上ことをなさんとすれば、この副長の首をはねてより、なしてもらいたい 」
と話した。
つづいて小園のあとをついだ新司令 ・山本が立った。
「 ・・・・こよいは、この山本、司令にあらず、司令官ではあらず、ひとりの人間 ・山本として、
 私の言葉を聞いてほしい 」 とまず述べ、
「 いまや小園司令倒れ、司令ほどの信念をもつものはない。
 この山本としても、真の信念はない。
だれか確固たる信念のものあって、私にそれを説破することあれば、私もまた起つ。
実際にいまは、その進むべき道を知らず、静かに命を待ちつつある・・・・」
と静かに語った。

8月21日
起床した厚木航空隊の岩戸良治中尉は、海軍手帳の片隅に記した。
「 ---この日、われら起てり ! 本日は私の一生を通じ、 最有意義なる日なり。
 皇国護持---心、冷静にして、清明淡々たり 」

午前8時30分、厚木の三〇二空では、
準士官以上に、大講堂に集合するよう命令が出た。
第三航空艦隊司令官 ・寺岡は三〇二空指令 ・山本、同副長 ・菅原を従え講堂に姿を見せた。
寺岡は、最後に16日未明自刃した軍令部次長 ・大西の遺書を読上げ、自重を促した。
その間に " 猛将 " といわれた小園安名は、麻酔をうたれ、両手両足をしばられ、
自動車にのせられて、基地から横須賀の野比海軍病院へ護送されていた。

首相官邸での河辺の報告も終わりに近づいた午前10時45分、
厚木基地から彗星六機、彩雲三機が相次いで離陸して行った。
彩雲のしんがりが発信すると、五日前に横須賀市菊名の自宅に遺書を残して来た改田中尉を、
一番機とし、零戦二十一機が飛び立った。
   
彗星                                       彩雲                                  零戦
精神錯乱に陥った小園の意志をまもり、徹底抗戦を叫ぶ決起の隊員は、
岩戸中尉を指揮者として 「 菊水隊 」 を名乗っていた。
「 武装解除 」 の命令が出ると同時に、埼玉県下の狭山、児玉の両陸軍航空部隊基地に愛機を移し、
陸軍とともに戦おうというのだった。

三十分後の11時15分、彗星238号で狭山に着陸した岩戸は、隊長の前に進み出た。
「 第三〇二空菊水隊の岩戸中尉、大詔再渙発を信じ、武装解除を避けて、ただ今到着しました。
飛行一個中隊機材をお預りねがいたい 」
といったが、逆に武装解除を説得された。
半時間後に、岩戸は単身、児玉基地へと飛んだ。
「 ---われわれは、陸軍部隊と合流するために基地を脱出してきました。
 今後は隊長の指揮に入り、行動をともにしたい 」
というと、第九八陸軍爆撃戦隊長 ・宇木素道少佐は、
「 当隊に来た以上、身柄は責任をもって私がお預りする。 それまで休養してくれ 」
と答え、士官宿舎となっていた児玉農林学校の雨天体操場に案内させた。
 
銀河                                      九九式艦爆 
零戦、彗星、彩雲のほか、
銀河、九九艦爆など三十二機、七十二人の基地脱出将兵のうち、
改田中尉の操縦する零戦だけ、狭山、児玉のどちらにも到着しなかった。
厚木基地を飛び立った改田機は、
菊名の自宅上空を旋回、そのまま反転して東京上空に入り、
皇居の上を低空で旋回、羽田沖で海面に突入、自爆したのだった。

狭山の陸軍航空隊基地には、相次いで説得の使者が飛んできた。
士官たちの間では、自爆論と恭順論が対立し、容易に結論は出そうになかった。
「 隊へ帰る 」 ことに決したのは、夕方になってからだった。

その夜、
三〇二空飛行長
山田九七郎少佐と悠紀夫人は、
町田町 ( 現町田市 ) の自宅六畳の間で、青酸カリをのんだ。
北枕に蒲団をのべ、
夫人は喪服に白足袋、山田は白の第二種軍装に短剣をつけていた。
床の間には、家主に宛てた遺書がおいてあった。
奉書紙に水茎の跡も美しかった。
---長いあいだお世話になりました。
ほんとによくしていただいたこと、ふかくふかくお礼申上げます。
このようなことになり、さぞご迷惑のこととおもいますが、
ご迷惑のおかけついでに、おたくさまの墓地のすみでけっこうでございます。
ふたりを埋めてくださいますよう、おねがいしとうございます。
こんど生れてくるときは、戦争のない平和な時代であることを信じ、
あの世へまいります。  かしこ    悠紀

8月22日
朝から曇天だった。
狭山基地で " 恭順 " を決定した彗星一機を含む零戦十五機は、厚木へ帰還した。

正午を告げるサイレンが、東京の空に鳴りわたった。
サイレンを聞けば、警報だと思っていた市民は、一瞬ぎくりとした。
正午のニュースにつづき、ラジオが天気予報を流した。
時報のサイレンも天気予報も、16年12月8日の太平洋戦争勃発以来禁止されていたので、
三年八ヵ月ぶりだった。
天気予報は、 「 驟雨 」 だったが、夜に入って豆台風がやって来た。

陸軍省に情報をとりに行った児玉基地の戰隊長 ・宇木は、
夜8時、暴風雨の中を基地に帰って来た。
厚木から来た 「 菊水隊 」 隊長・岩戸の前に立つと、声をふるわせていった。
「 われら !敗れたり・・・・」
この日の夕方、愛宕山では、厚木航空隊の決起に呼応した尊攘同志会の谷川仁ら七人、
国粋同盟会の皆川貞次郎ら三人、計十人の民間人が自刃して果てた。


原文保 著
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終戦への道程 4 『 8月15日 』

2022年06月26日 23時47分33秒 | 9 昭和の聖代


黒崎貞明著
恋闕
承詔必謹  から
前頁 
終戦への道程 3 『 天皇に降伏はない 』 の続き

八月十四日、今夜は終戦の詔勅が宮中で録音せられる。
そして明 十五日の正午には、日本歴史始まって以来初めて、
天皇陛下ご自身のラジオ放送が行なわれることになった。
「 くるべきものがきた 」
軍人としての耐え難い、屈辱感と空しさを味わいながら、お茶の水別館の夜は更けていった。
翌日の午前四時頃、この別館の世話をしてくれている原さんに叩き起された。
「 黒崎さん、憲兵が呼んでいます 」
何事であろうかと階下に降りる。
「 只今、宮城で大本営の幕僚と近衛師団の一部が暴発し、田中軍司令官が鎮圧に向かわれています。
 憲兵司令官が黒崎中佐にすぐきていただきたいとのことで、私がお迎えにまいりました 」
という。
私は直感的に畑中、井田たちの蹶起であろうと思った。
憲兵に聞いたが詳しいことは知らないという。
だが、いったいなんのために私を呼びにきたのであろうかと、一瞬いぶかった。
『 ことによったなら親友の井田、畑中らと対決させるためかもしれない。
 そのときは、あるいは刺し違えることになるかもしれない 』
と思った。
いざという時の用意にと、下着を新しいものに着がえた。
軍服をととのえて、憲兵のサイドカーに乗って乾門に急いだ。
松浦少佐が、俺もついて行こうかといったが断わった。
東部軍司令部の前には同期生の上吉原憲兵少佐が待っていた。
「 司令官が、憲兵司令官室で打ち合わせをしたいとのことだから、俺が案内する 」
司令部に到着すると、
「 司令官は間もなくこられるから待っていてくれ。
 椎崎二郎中佐  畑中健二少佐
 宮中には椎崎と畑中が録音盤を奪取するとかで乱入しているらしい。
井田はこの中ににはいないし、他の大本営幕僚も参加していないらしい 」
と話してくれた。
「 軍刀と拳銃はここに置いてくれ 」
といって上吉原も軍刀を置いたので、
私もそれにならって軍刀と拳銃をそこに置いたまま話していたのであるが、
いつのまにかお茶を運んできた憲兵下士官の手によって、
軍刀と拳銃がそっと持ち去られていたことには気がつかなかった。
「 それでは司令官を呼んでくるから 」
といって部屋を出ていったが、なかなか帰ってこない。
しばらくすると電話がかかったので受話機を取り上げると、
「 黒崎、すまんが、そこで事件が解決するまでしばらく待っていてくれ。
 憲兵司令官は、貴様に何かされると困るので、軟禁したわけだ。悪く思うなよ 」
「 貴様、騙したな、同期生だと思って安心させておいて、やり方が汚いぞ。
 俺は宮中にいって、畑中らと対決するつもりできたので、別の行動なんか考えていない。
すぐに出せ・・・!」
と怒鳴ってみたが、すまぬ、すまぬの一点張りである。
扉は堅く錠がかかっている。
『 俺を危険人物だとみての隔離だろうが、はなはだ見当違いだぞ 』
怒ってみたがどうすることもできない。
それでも上吉原少佐から、一時間ごとに連絡がきた。
田中軍司令官と不破軍参謀の説得によって、事件は鎮圧に向かっていることも知らされた。
「 陸軍省に帰る、大臣に会いたい 」
というと、
「 大臣は今朝 官邸で自決された。遺体は市ヶ谷の高等官集会所に運んだ 」
他には事件は起こらなかったかと問うと、
「 たいしたことはないよ、貴様がやらなければたいしたことはないよ 」
と皮肉をいう。
午前十時頃、ようやく扉があいた。
「 待たせてすまなかった。陸軍省に送れという命令だから俺が送っていく 」
上吉原少佐と もう一人の同期生、小林少佐の二人が送ってくれた。
宮城の状況を聞くと、椎崎と畑中は自決したという。
「 上吉原 !貴様らがみると、無駄な、馬鹿なことをしてくれたと思うかもしれないが、
 この大戦の終末に、本土決戦に真剣に取り組んだ幕僚の中に、
最後まで諦めきれなかった者がいたとしても、当然ではないか。
本当は俺たちの方がダラ幹かも知れない 」 というと、
「 貴様死ぬなよ、まだしなければならないことが沢山あるだろう 」
と両側から手を握りしめてきた。
九段の憲兵司令部から市ヶ谷台上までの十分間、二人の同期生の憲兵にはさまれながら登庁したのである。
軍の終焉の日と、二 ・二六事件の残党と憲兵というこの構図は、
民族のひとつの宿命を表徴するように思われた。
そうだ、私はまだ死んではならぬ、まだまだやるべきことがあるはずである。
まだ軍の武装解除という難事業が残っているではないか、と思い返しながら車を降りた。
二人の同期生はいつまでも手を振っていた。
高等官集会所には阿南陸相、椎崎、畑中の遺体が安置されていた。
身をもって軍の統率を守り、国家の混乱を回避された陸相に最後のお別れをした。
あくまでも本土決戦に殉じて散った 畑中、椎崎の魂魄こんぱくの安からんことを祈って黙祷を捧げた。
残されたという感じが総身を駆けた。

軍事資料部では最後の整理がおこなわれていた。
その十一時頃、吉原政己氏が訪ねてきた。
吉原さんは四十四期で、五 ・一五事件に参加して軍籍を剥奪された人であるが、
現在は陸軍中野学校の教官をしていた。
「 今朝の事件は聞いた。まもなく陛下の放送が始まるらしいが、
 私は放送局に行って畑中らの霊を慰めたいので、放送局に連れていってくれ 」
という。
なんの目的でと聞くと、
「 別に他意はない。だができたら一緒に死んでくれ、俺は今死にたいのだ。
 しかし強制はしない。せめて放送局まで連れていってくれ 」
という。
この人もまた 『 雀百まで 』 でなにかやるつもりらしい。
そのとき、ふと私も死の誘惑にとりつかれそうになった。
畑中らの心情が哀れでならない。大臣も死なれたし、それに軍の長老も承詔必謹を誓っているし、
ここらあたりで死ぬことも、ひとつの死に方かもしれない
と思えたのだ。
思いつめて吉原先輩を連れて、田村町の放送局に向かった。
放送局はすでに一個中隊ほど警戒していた。
警備隊長に 「 状況視察で局に入る。警戒ご苦労 」 というと中に入れてくれた。
中に入った吉原さんは何かを探しているようである。
真剣に玉音放送を阻止しようととているらしい。
「 吉原さん、探してもわかりませんヨ 」
ていったが、まだ諦めきれず歩き回っている。
その時、
「 黒崎中佐はきていないか 」 という声が聞こえてきた。
公用呼び出しである。
「 吉原さん、誰かが私を探している。ここで死ぬのか、脱出するのか、すぐ決めて下さい 」
というと、
「 ここは諦めよう。脱出だ、頼む 」
というので、私は玄関に出て警備隊長に、
「 陸軍省に帰る、ご苦労 」
と挨拶をして、待たせてあった自動車に乗り込んだ。
吉原さんに 「 宮城で自決しますか 」 と聞くと、
「 いや、俺は海軍の小園大佐のところへ行きたい 」 という。
「 それでは、ここで降りて陛下にご挨拶してから行きなさい 」
といって、二人は二重橋で最敬礼をした。
「 ところで吉原さん、あなたの持っているのは爆薬だと思うが、
 一人で持ち歩くことはできないでしょう。私に渡しなさい 」 というと、
「 知っていたのか。もう必要ないから貴公に渡す 」 と手提げカバンのまま差し出した。
私はそれを受け取ると、濠に投げ込んだ。
「 日本が爆発しないように 」
と叫ぶと、吉原さんは憮然とした表情で、
「 考えていると死に場所を失う。今、俺の行くところは小園大佐のところしかなくなった。
 貴公は陸軍省に帰って後始末でもやってくれ。もうこれ以上はおつきあいは頼まぬ 」
憤りの表情ではなく、むしろしんみりと、つぶやくようにいった。
吉原さんを東京駅に送ったときは十二時であった。

玉音放送がはじまった。
雑音が多くてよく聞こえなかった。



陸軍省に帰ると、私を探していたのは親泊大佐であることがわかった。

早速報道部に行く。
上田報道部長と話をしていた親泊大佐は、私の顔を見るなりいった。
「 万事休すだ。
 生きて日本の降伏に直面す。
ガダルカナル島で玉砕していれば・・・・」
といって涙を流した。
琉球の王族の一員であり、その故郷を米軍に蹂躙され、今また日本の降伏に直面して、
慟哭するこの親泊さんの心情は察するに余りある。
私はなにもいうことができず、ただ黙って手を握りしめているだけであった。
べっしつで二人だけになったとき、
「 貴様が、この暮れ頃からやっていたことは俺にはうすうすわかっていた。
 『 ガ 』 島で東條さんの戦争指導に対する批判が高まっていることを貴様から聞かされたときは驚いたが、
俺は最後まで戦うことしか考えないことにした。
だから俺はその一念を押し通すことにしてきたのだ。
貴様はこのことあるを予期して、そのための準備をしてきたのだから、
これからも生きて、日本の将来のために働いてくれ。

俺の義兄の菅波の愛弟子であり、とりわけ親身の情を抱いてきた貴様に
俺の最期の言葉を伝えたくて探していたのだ。

『 ガ 』 島以来の友情に厚くお礼をいう。
後始末もあって大変だろう。俺も後始末があるのでこれで別れる 」
と私の肩を叩いた。
「 親泊大佐殿、死んではいけません。
 まだやることがたくさんあるはずです。
日本はこれから再建されねばなりません 」

「 わかっている。貴様は断じて再興に尽くすべきだ。
 そのために努力してきたのだからなア。
死ぬことより生きる方がむずかしいが生きてくれ 」

これだけいい残して報道部長室に消えた。
これが親泊さんの姿を見た最後であった。
親泊さんは間もなく夫人と子供たちと共に自決された。
・・・リンク→ 殉国 「 愛児とともに是非お連れ下さい 」
沖縄の旧王族の一人として米軍に占領されたままの降伏が堪えられなかったのと
八月十一日陸軍大臣の決裁を得る事なくして大臣告示として出した
「 驀進前進 」 の布告の責任を負ったものと思われる。
 冬来たりなば 春遠からじとは知りつつも
  何故か旅路の急がるゝかも 
という辞世が私に送られてきたのは、ずーと後になってからである。

残務整理は一段落を告げた。
残る仕事は、万一の場合における北白川宮の脱出計画である。
所要資金を三名の同志に分配して待機を指示する。
私はすっかり疲れていた。暑い夜であった。ぐったりと横になった。
日本の一番長い日といわれた 八月十五日はこうして過ぎ去った。

それにしても、
あの日本民族の栄光の象徴であった無敵皇軍というあの巨大な組織が一瞬にして崩壊したのだ。
市ヶ谷台はまさにその虚脱の中にその残骸を横たえているにすぎない。
しかし、その跡では大火の後始末のように、放心した人々が力なく整理を続け、
書類を焼く煙が立上っていた。
わが軍事資料部でも、特殊情報網の整理は二十日までかかった。
お茶の水の別館 ( 片倉邸 ) の返還も八月末と決められていた。
米軍の使用が予定されていてその早期撤去が指令されていたからである。
十七日には例の渡辺祐四郎君がきた。
「 今日は恨みつらみをいいにきたのではない 」 彼は最初に断った。
「 昭和十四年に相知って以来、われわれは同志として行動してきたが、
 最後に貴君と行動をともにすることができなかった理由を、今更弁明するつもりはない。
ことここに至って、われわれのなすべきことは日本再建の一捨石となることである。
生死はそれから決めても決して遅くない。
貴君も私とともに米軍が日本の占領をどのようにするか、
日本をどのように改革しようとするのかを見届けてもらいたい 」
と私は説得した。
「 私は貴方のように冷静にはなれない。また、万一の場合、貴方のように軍刀もピストルもない。
 決して早まったことはしないから、万一の場合のために何かくれませんか 」 という。
私はかねてから私自身のためにと準備していた青酸カリを一瓶渡すことにした。
「 これを近衛さんに分けてあげてもいいですか 」 というので
「 結構です。それだけでも百人分はありますから少しあげて下さい 」
私はもう一瓶を別に持っていたのである。
渡辺君は、
「もう一つ無理をいってすまないが、秩父宮に会いたいから連れていってください 」 という。
「 今更、宮様に会って何をいうつもりか 」 と問うと、
「 いや、なにも申し上げるつねりはない、陛下にお会いして皇室のご安泰を祈りたいが、
 それはできないので、せめて秩父宮にお会いして、ご安泰を心の中で申し上げるだけだ 」 という。
「 死ぬつもりなのか 」
「 いや、死ぬとは決めていない。
 生き残って祖国の再建に役立つ自信と必要を認めたら生きるつもりだから心配しないでくれ 」 という。
私としてもこの深憂に対して、今してやれることといえば、これくらいしかないのだと思って引き受けることにした。
このとき、岩田宙造氏から電話があった。
「 今、近衛さんから私に東久邇宮内閣の司法大臣に入閣のお話があったが、 お受けしてもよいだろうか 
という話であった。
そばで聞いていた渡辺君が、
「 岩田内閣流産の申し訳でしょう。 せめて鈴木内閣に参加させてくれていたらなア 」
とポツリといった。
私は 「 結構ではないですか、日本のためにご奉公を願います 」 と電話を切った。
のちに、この東久邇宮内閣の閣僚の顔触れを見て驚いたことは、
これが津野田事件のとき想定されていた講和内閣の陣容とほとんど同じであった。
---陸軍大臣が石原将軍のかわりに下村定将軍。そして司法大臣に岩田氏という二人を除いたあとは、
すべて同一の顔触れであった---。


渡辺君を連れて青山の秩父宮邸に伺候した。
「 黒崎中佐がご機嫌うかがいにまいりました 」 とつたえると、
「 殿下は奥で写経を遊ばれているが、来意は伝えましょう 」 と事務官は引き下がった。
私は渡辺君に 「 お会いできないかもしれないよ 」 といった。
「 それでも仕方ありません 」 と渡辺君がいった。
このとき殿下が出てこられた。
渡辺君は、「 国家大変の折、どうぞご健勝で・・・・」 といって拝礼した。
殿下は寂しそうなお顔で 「 ウム 」 とうなずかれて答礼された。
私は申し上げる言葉を失っていた。黙って敬礼をした。
門の所で振り返ると、妃殿下が会釈しながら見送っておられた。
蒸し暑い午後であった。
赤坂まできて渡辺君に、
「 くれぐれも早まったことをしてくれるな。
これから私も生き残るとすれば、君を頼りにしているからなア 」
というと、「 わかっています 」 と手を振りながら別れていった。
これが渡辺君との最後となった。
・・・挿入・・・
( 八月 ) 二十三日には、
宮城前で日本郵船明朗会会長 日比和一を始め
渡辺佑四郎、高井忠弘、鈴木忠一、白井幸男ら十一名が、
陛下に対し また 国民に対しても誠に申訳がない、偏に大罪を謝し奉る
とて、真心こめて宮城を遙拝したあと服毒自殺した。
その中には女性一人も交っていた。
・・・リンク→昭和20年8月15日・殉国 『 無窮に皇城を守らむ 』 


十九日になって、軍事資料部の整理は一応完了した。
そしてその夜は日本陸軍としての最後の送別の宴であった。
さすがに万感胸に迫って、涙に始まり涙に終わった。
誰もかれも皆泣いた。

多分二十日であったと思う、東條大将と会うこととなった。
外務省の平沢和重君と東京新聞の山口正幸君が訪ねてきたのである。
是非頼みたいことがあるという。
この和平派の同志の頼みとはなんだろうと思っていると、その要旨はこうである。
「 まもなく戦争裁判が始まる。
 そして占領軍が戦犯と称して戦争指導に関与したものを逮捕することになると思う。
これも勝者の権利で致し方ない。
しかし問題は、この裁判が天皇に及ぶとなると大変なことになる。
そこで、この戦争の全責任を東條さんに引っかぶって貰って、天皇の防波堤になってもらいたいのだ。
東條さんは自決されては困るのだ。
生きて生き抜いてもらって裁判で全責任を負ってもらいたい。
その勧告の役目を貴方にやってもらいたいのだ 」 ということであった。
私は即座に断った。
「 貴君たちのいうことはわかる。だがこれは私には不適任だ。
 第一、私は皇道派に属する人間で、
二 ・二六事件では ときの関東軍憲兵司令官東條少将に手ひどくやられている。
また津野田事件のときも、私が暗殺事件を未然に防いだといって、
富永次官に礼をいわれたこともあったが、
あれは事実は東條さんを助けようと思ってやったのではないことは、東條さん自身よく知っている。
どちらかといえば、反東條系の私とはおそらく東條さんは会ってはくれないだろう 」
しかし平沢らは、
「 私が行っても駄目なので君に頼むのだ。なんといってもきみは軍人だ、会えぬはずがない。
 私は日本再建のために、それだけは東條さんにやってもらわなければならないと思う。
また理由のいかんを問わず、あなたにも、当たって砕けろで、やるだけやってもらわねばならぬ 」
と頑強に迫ってくる。その熱意に私は負けた。
「 よし、引き受けましょう。東條さんは私の嫌いな人だ。
 私の尊敬する皇道派の先輩を排除して、日米戦争に突入させた人だと思ってはいるが、
あの人はあの人なりに、日本のためだと思ってやったことだろう。
『 陛下のため 』 というのは、あの人の口ぐせであった。
だから、これが陛下に対する最後のご奉公といえば、たとえそれが好ましくない私の意見でも、
通じないことはあるまい。
東條さんを刺せ!といわれるより難しいかもしれないが---」
こうした事情で、私は東條大将を訪問する破目になった。
私は東條さんの家に行ったことはないが、多分この大事なときだから、
用賀の自邸にいられるだろうと思うと、その実行について案を練ることにした。
二十一日の夜、用賀の東條邸を訪れた。
日本最高の顕官であったが、軍人出身であるがゆえに、
その邸宅はこれがあの東條さんの家かと思われるほど、質素なものであった。
暗い夜であった。
まず玄関で案内を乞うた。
「 元陸軍省軍事資料部部員黒崎中佐、閣下にお願いがあってまいりました 」
東條さんは、『今頃なんの用か 』 と驚いた様子であったが、応接室に招じてくれた。
家人もあまり多くはいないようで、静かであった。
記憶力の旺盛な東條さんは、さすがに私のことを覚えていたらしい。
・・・挿入・・・
東條司令官の言葉は冷ややかであった。
「 黒崎中尉、不逞の輩と気脈を通じたこと不届きである。
東京に護送するから司直の裁決を受けよ 」
と いう
ムカッとした私は、
「 不逞の輩とは承服できません。私は叛乱を起そうと思ったことはありません 」
と 抗議すると、
「 なにを今さらいうか。厳重な裁きを受けろ 」
と 怒鳴りながら席を立った。
その後ろ姿をしばらく睨みつけた突っ立っていたら、
かたわらにいた憲兵が、"もうよいではないか。
おとなしくしたほうがよい" と 心配そうにいいながら私を連れ出した。
・・・
「 富永から聞いたことがある。二 ・二六事件の黒崎中尉だな 」
「 はい。今夜は閣下に対し、今生のお願いがあってまいりました。
 閣下の忠誠心を信じ、最後のご奉公をまっとうしていただくため、
是非とも生きたまま戦争裁判を受けていただきたいのであります 」
という切り出しで、平沢君らとの会談ま趣旨を簡単に申し上げた。
「 死ねという者もあり、生きろという者もある。
 貴様は俺が生き恥をさらしても生きるのが忠義だというのか 」
私に関する限り、初めて見る東條さんの人間らしい口調であった。
「 お願いします。陛下のために 」 と、あとは言葉にならなかった。
「 よし、わかった。俺もそう思っている。
 辛いがそうすることが私のつとめであろう。
もし、私が死んだら、それはよくよくのことがあってのことだと思ってくれ。
貴様は生きて祖国再建のために尽くせよ 」
この言葉には優しさが感じられた。
電灯も消えた星も見えない暗い夜道を一人で帰りながら、
「 ああ、この人も悪い人ではなかったのだ 」 と思うと嬉しさがこみあげてきた。
私の帰りを待っていた山口君にこのことを知らせると、彼も心から喜んでいた。

のちに、東條さんが自決しそこなったとのことを聞いた私はショックであったが、
МPに土足で踏み込まれたとき、プライドの高い東條さんの絶望的なショックを想像した。
東京裁判における堂々たる東條さんの答弁をみて、その中途でなにがあったかは別として
「 最後の忠節 」 をひたすら考えて終始した東條さんは、
やはり日本人の真骨頂を示されたものとして感謝している。
 

二十六日以降米軍が上陸してくるというので、
それまでに東京から二十里以内に武装した兵がいてはならないという達しがあり、
この実行にわれわれは懸命であった。
米軍にいわれなき非難の口実を与えてはならない。
われわれの手で自らの武装解除をし、粛々と一糸乱れず忠良なる市民に還元するのだ。
しかし、武装なき軍隊の悲哀をこのときほど惨めに感じたことはない。
そのうちに、果せるかな、自決の悲報が続々と伝わってきた。

二十三日夕刻には、明朗会の日比和一氏以下 十数名の同志が宮城前で青酸カリで自決したという。
尊攘同志会の谷川氏らは、芝 ・愛宕山で自決した。
親泊大佐も前に述べたように 家族四人とともに自宅で自決した。
二十四日には大東塾の塾生十数名が代々木で自刃して果てた。
杉山元帥も田中静男大将も、吉本大将も、そして本庄繁大将も、敬愛する老先輩長老が次々と自決された。
晴気少佐もこのとき自決した。
なかでも、民間の志士で、私の同志である渡辺四郎の自決は悲しかった。
 大君のしろめす国慕いつゝ
  あやめも分かぬ  旅路をぞ行く
の辞世が届けられたのは、それから二、三日してからであった。

特攻機のプロペラが外され、反撃の機をなくす強行措置がつぎつぎに実施されていったが、
国民は少しずつ平静をとりもどしつつあった。
皇軍の堂々たる解体ぶりによって、その秩序の根源である天皇に対する米国の認識が、
徐々に変化しつつあることがうかがわれた。
このぶんならば、皇室抹殺などがあり得ないのではないかと思われてきた。
二十三日夕刻、大岸頼好さんがやってきた。
「 貴公が心配していたことは、どうやらないようだ。
 松浦君から聞いたが、あの件は、この際中止した方がよい。
東久邇宮に解除の暗号指令をラジオで放送していただこう。
敵が上陸してからではやりにくいから 」
とすすめてくれた。
松浦さんもそのほうがよいというので、一緒に首相官邸にうかがった。
殿下も無腰の軍服でおられたが、私が、
「 皇室のご安泰ということが日本再建の第一眼目と存じますが、殿下のご判断はいかがでしょうか 」
と申し上げると、
「 心配はないと確信している 」
「 それならばその確信をラジオで三回、今夜、殿下ご自身で放送して下さいませんか 」
とお願いすると、
「 なにかあるのか 」 と聞かれたので。
「 この際、どうしても必要がありますので 」 と答えると、
「 わかった、三回だな 」 と念を押された。
この夜、殿下は約束通り三回、
「 皇室のご安泰は確信がついた 」 と放送された。
一般の人々には、何のことかわからなかったのであろうが、
これは私たちの秘密工作の中止指令であったのだ。

二十七日、米軍が日本に進駐を開始した。
そして日本占領は驚くほど平静裏に進められていった。
問題は、外地にある軍の派遣軍将兵の復員作業であった。
このための対米交渉は難行をきわめた。
また、米軍が本土上陸作戦遂行のため、
日本の周辺に投下敷設されていた機雷の除去なども大きな課題として残されていた。
陸軍省、参謀本部の課員、部員たちはこの処理のため残留していた。
これらの処理が一応完了した十月末、大本営は完全に解散となり、
わたしも妻子待つ益子村へかえることになった。

次頁 
終戦への道程 5 『 残った者 』  に続く

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終戦への道程 3 『 天皇に降伏はない 』

2022年06月26日 20時07分33秒 | 9 昭和の聖代


黒崎貞明著
恋闕
承詔必謹  から
前頁 
終戦への道程 2 『 阿南惟幾陸軍大臣 』 の続き

ポツダム宣言
1945年7月26日
一 吾等合衆國大統領、中華民國政府主席及グレート、ブリテン國總理大臣ハ
      吾等ノ數億ノ國民ヲ代表シ協議ノ上日本國ニ對シ今次ノ戰爭ヲ終結スルノ機會ヲ與フルコトニ意見一致セリ
二 合衆國、英帝國及中華民國ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリ自國ノ陸軍及空軍ニ依ル數倍ノ増強ヲ受ケ
      日本國ニ對シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ 
      右軍事力ハ日本國ガ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄同國ニ對シ戰爭ヲ遂行スル一切ノ聯合國ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ
三 蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ對スルドイツ國ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本國國民ニ對スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ 
      現在日本國ニ對シ集結シツツアル力ハ抵抗スルナチスニ對シ適用セラレタル場合ニ於テ
      全ドイツ國人民ノ土地産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廢ニ歸セシメタル力ニ比シ測リ知レザル程度ニ強大ナルモノナリ 
      吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本國軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スベク
      又同様必然的ニ日本國本土ノ完全ナル破滅ヲ意味スベシ
四 無分別ナル打算ニ依リ日本帝國ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍國主義的助言者ニ依リ日本國ガ引續キ統御セラルベキカ
      又ハ理性ノ經路ヲ日本國ガ履ムベキカヲ日本國ガ決定スベキ時期ハ到來セリ
五 吾等ノ條件ハ左ノ如シ

     吾等ハ右條件ヨリ離脱スルコトナカルベシ 右ニ代ル條件存在セズ 吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ズ
六 吾等ハ無責任ナル軍國主義ガ世界ヨリ驅逐セラルルニ至ル迄ハ
      平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本國國民ヲ欺瞞シ
      之ヲシテ世界征服ノ擧ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ
七 右ノ如キ新秩序ガ建設セラレ且日本國ノ戰爭遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確證アルニ至ル迄ハ
      聯合國ノ指定スベキ日本國領域内ノ諸地點ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スル為占領セラルベシ
八 カイロ宣言ノ條項ハ履行セラルベク又日本國ノ主權ハ本州、北海道、九州及四國竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ
九 日本國軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復歸シ平和的且生産的ノ生活ヲ營ムノ機會ヲ得シメラルベシ
十 吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ國民トシテ滅亡セシメントスルノ意圖ヲ有スルモノニ非ザルモ
      吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戰爭犯罪人ニ對シテハ嚴重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ
      日本國政府ハ日本國國民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ對スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ
      言論、宗教及思想ノ自由竝ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ
十一 日本國ハ其ノ經濟ヲ支持シ且公正ナル實物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルベシ
      但シ日本國ヲシテ戰爭ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラズ
      右目的ノ爲原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ區別ス)ヲ許可サルベシ
      日本國ハ將來世界貿易関係ヘノ參加ヲ許サルベシ
十二 前記諸目的ガ達成セラレ且日本國國民ノ自由ニ表明セル意思ニ從ヒ平和的傾向ヲ有シ
         且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合國ノ占領軍ハ直ニ日本國ヨリ撤収セラルベシ
十三 吾等ハ日本國政府ガ直ニ全日本國軍隊ノ無條件降伏ヲ宣言シ
         且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適當且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ對シ要求ス
         右以外ノ日本國ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス
・・・外務省仮訳文


詔書

朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑々帝国臣民ノ庸寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ階ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ眷々措カサル所
曩ニ米英二国二占宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ
他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス 
然ルニ交戦己二四歳ヲ閲シ 朕カ陸海将兵ノ奮戦 朕カ百僚有司ノ励精 朕カ一億衆庶ノ奉公
各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス 世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚交戦ヲ継続センカ終ニ我民族ノ減亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯クノ如クハ朕何ヲ以テ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ
是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協カセル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク
且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル
然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カント欲ス
朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常二爾臣民ト共ニ在リ 若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ
或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム
宜シク挙国一家子孫相伝へ 確ク神州ノ不滅ヲ信シ 任重クシテ道遠キヲ念ヒ 総力ヲ将来ノ猿設ニ傾ケ
道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ
御名御璽
昭和二十年八月十四日
各国務大臣副署


昭和二十年八月九日、
長崎に第二の原爆が投下された。
北満のソ連国境からは、怒濤の如くソ連の進撃が開始された。
もっとも危惧されたソ連の参戦である。


日本の敗北は決定的となった。
これでは満洲はおろか朝鮮や、本土とても危険である。
「 ソ連が日本列島を侵さないうちに、米軍と手を打つよりほかはあるまい 」
私は直感的にこう感じた。
十日夜、大臣官邸に阿南陸相を訪ね、
「 本土決戦の準備も着々と進んでいるようであり、国民の抵抗意識もまた信頼するものがありますが、
 ソ連が本土に手をつけるとなると、この状態では一変する可能性があります。
ドイツのごとく分割されると日本の再建はむずかしくなりますので、
この間の事情を十分にお含みの上、終戦指導をお願い致します 」
と進言した。
ポツダム宣言の受諾をめぐる会議で忙殺されている陸相は、
「 皇国護持、ただそれだけだ。軍の統制をみだすなよ。俺を信じてくれ 」
と言って、早々に追い返された。
大臣の思いつめたような眼光に私は思わず、息をのんだ。
この夜、丸山少佐、大西大尉、伊藤中尉等をよんで憲兵情報を聞いた。
重臣、右翼、左翼それぞれの動静を偵諜監視している憲兵情報には、まだ特別の事態は起きていない。
海軍はあきらかに和平派と抗戦派に分かれているが、
陸軍の態度を凝視しているというのが彼らの一般的情勢判断であった。
そして大西憲兵中尉が、
「 それよりも、警視庁ではあなたの動静を一番マークしていますよ 」
と注意してくれた。
二 ・二六事件ばりの事件でも起こすと思っているのだろうか。
去る七月二十七日に発表されたポツダム宣言が日本に伝わって以来の情勢については、
私は東京を離れていたので、九日の夜になって親泊大佐からこの間の事情を聞くことができた。
そして現在なお、この宣言受諾かどうかをめぐる会議が宮中で行われているという。
この会議に出席中の阿南陸相が、どのように対処しておられるかということについて心配であった。

『 あくまでも戦って皇国を護持する 』
という精神主義には、心情的に一番弱いのが阿南陸相だからである。
しかし、今となっては陸相を信じて静観する以外に方法はない。
親泊大佐は
「 あくまで抗戦。本土決戦を実行して、講和のチャンスを獲得するのみだ 」
と相変わらずの強気である。
「 ソ連が参戦した今もですか 」
「 まだまだ、関東軍と朝鮮軍は持ちこたえられる。俺は悲観していないよ 」
口をはさむこともできない雰囲気であった。
八月十一日、
「 全国将兵宜しく一人を余さず楠公精神を具現すべし。
 而して時宗の闘魂を再現して、驕敵撃滅に驀直前進すべし 」
という陸軍大臣布告が新聞に発表された。
これは報道部の主任部員であった親泊大佐が、軍の動揺を抑えるため独断ではっぴょうしたものであった。
しかし、さいわいなことには、この布告は海外には伝わらなかった。
ときの同盟通信外信部長であった長谷川才次氏の適切な配慮によるものであった。
しかし、この布告に現れた軍、特に軍務、軍事課の幕僚を中心とする楠公主義は、
陸相の行動に相当な影響を与えたことは事実である。
畑中健二
十一日、畑中少佐が私の部屋にやってきた。
「 黒崎さん、あなたはまさか私たちの意見に反対ではないでしょうね。
 今ポツダム宣言を受諾して降伏することは、皇国を滅亡させることになる。
軍は今まで一度も決戦なるものをしていない。それで降伏することは軍のとるべき態度ではない。
死中に活を求めて、皇国日本を護持する聖戦をともにしてくださん 」
これに対して、私は次のように反論した。
「 私はソ連がこの戦争に深入りしてこないうちに対米決着をつけるべきだと考えている。
 ソ連参戦までは、私も貴公と同じ考えであった。だが今は違う。
私は陸軍大臣を信頼することにした。従って私は動かない。
二 ・二六事件当時、私は 『 順逆不二の門 』 と称して忠義の途に二つあることを信じた。
そして私の先輩同志は逆臣として葬られた。
しかし、それはその同志かせ陛下の御意思を知らずにやったことだった。
彼らは最後に天皇陛下万歳を唱えて死んでいった。
けっして天皇に失望したのではない。
私はいま、天皇を信じ、大臣を信じようと思う。
私は貴官のその考え方をいかんという自信はない。
しかし同調するわけにはいかないのだ 」
「 わかりました。もう貴殿とは相談しません 」
彼は憤然として去った。
その直後、畑中を崇拝する部付将校 ( 共に平泉門下 ) が二人来た。
そして、私が裏切者だから斬るというのである。
私は重ねて、大令に従うべきであり、軍が暴走すべきでないと説得したが、
彼等は国体護持のためには戦い抜くほかはないと主張し、
「 天皇に降伏はない 」 と自説を固執する。
段々と声が高くなり、周囲には人も集まってきて、二人はますます興奮してくるので、
私は屋上にこの二人を連れだした。
「 陛下が真実に 『 玉砕しても日本に降伏はない 』 とお考えになっておられるなら、私は勿論お供をする。
軍は天皇御親率の軍である。
死ぬも生きるも お上と共にしようと私は決心している。
君たちの忠誠心を私は疑っていない。私も降伏などしたくない。
しかし玉砕することが皇国を守る唯一の途かどうか。
ソ連が参戦した以上勝利が確実でない限り、いくさは国体護持の途を益々不利にする。
だから、ここは阿南陸相の決心に従おうではないか 」
私は話しているうちに、感極まって涙が出た。相手も泣きだした。
「 私たちも、もう一度考えてみます。あなたももう一度考えてみて下さい。
 あなたを斬ることはやめました 」
立ち去る二人を見送りながら、私の心は阿南陸相の上にあった。
軍事課と軍務課の数名が、戒厳令を遂行すべきだと主張して草案を作成している。
参謀本部と陸軍省の課長会議も行われている。
御前会議の情報は刻々と伝わってはいるが、
それは陸軍大臣からの伝言であって、具体的な情報ではなかった。
課長会議は昼夜何回となく開かれているようであるが、これも結論が出ないようである。
私はふと、幕僚のうちでもっとも強硬論者である宮崎作戦部長の動静が気になったので、
そっとその部長室をのぞいてみた。
宮崎部長は机の前に正座して瞑想のままであった。
「 なにしにきた 」
「 いま、閣下がなにをお考えになっていられるかと思ってまいりました 」
「 貴公は同なのだ 」
「 大命のままに 」 部長の顔をじっと見つめた。
「 そうか。一番危険な奴だと思っていた貴様がなア 」
そして、
「 一戦だけは自信がある。そのために心魂を傾けてきた。だが、その後がなア・・・・」
唇を噛みしめて天井を睨んだまま、再び口を開かなかった。
この不屈の将軍の胸中を去来するものがなんであるか、私にはわかるような気がした。

十三日、松浦少佐が大岸頼好、菅波三郎、末松太平の三人を連れてきた。
いずれも二 ・二六事件の先輩同志である。
聞けば、陸軍省の嘱託だといって門をくぐったそうだ。
この時期に旧同志の 『 揃い踏み 』 とはいささかできすぎた演出であった。
「 何事ですか 」
「 日本の大事にあたって、何かわれわれにできることはないかと思って様子を見にきた 」
という。
私はポツダム宣言以来の概略を話して、阿南陸相の決定に従うことにしているというと、
「 他に途はないのか 」
というので、
「 軍が二つに割れて、片や皇軍、片や官軍ということになると、収拾がつかなくなるし、 分断占領も、革命もあり得る 」
と所信をのべると、
「 天皇を擁してあくまで戦うことはできないのか 」
と迫ってくる。

これは誰かから、軍の中堅将校が阿南陸相に進言したが、
梅津参謀総長がこれに反対したという情報をきいて、とんできたものらしい。
「 たしかにこの際、天皇に無理にでも市ヶ谷台にお連れして本土決戦を行い、
条件講和にもって行こうという考え方があったことはたしかであるが、
それは省部の大勢ではなかった筈だ 」
と説明し、
むしろその後われわれはいかにして国体を護持して、
日本の再建の方途を考えるべきではないかと思うとのべた。
このとき、松浦少佐は、いきなり私の拳銃を取って飛び出した。
何をするのだろうと呆気にとられていると、しばらくしてから悄然として帰ってきた。
「 俺は二 ・二六事件でも死に損なった。
 あの失敗が支那事変を拡大し、そしてこの大戦となり、 今、日本は無条件降伏を迎えようとしている。
われわれが倒そうとした軍閥がいま、このような形で倒れようと思ってもみなかった。
俺は貴様ほど利口ではない。ただ死に場所を見つけたいと思った。
俺が、梅津総長と刺し違えれば、なにか別の途が開けるかも知れないと思って、
総長室に行って見たが、総長は宮中に行ったあとだった。俺はまた死に損なった 」
といってボロボロ涙を流している。
その純粋さには思わず頭が下がった。
基本的な考え方や手段方法についてはそれぞれ異なるであろうが、
この日本の重大な難局にあたって祖国のために死に場所を得ようと決心することは得難いことでもあり、
尊いことでもある。
「 とにかく、ここは大本営陸軍部のなかです。 場所をかえてお茶の水別館に落ち着きましょう。
あそこでも十分情報は得られますから 」 と私は先に立って案内した。

この頃から、事態を憂えた同志の往来がはげしくなって来た。
明朗会の渡辺祐四郎もきた。
「 日比会長は、日本の天皇が無条件降伏を承知されるはずがない。
 あくまで側近の敗北分子を一掃して天皇の真意を明示せられるよう努力願いたい 」
と強硬に申し入れてきた。私は、
「 昨年の津野田事件以来、皇室および重臣の動向はすでに一貫して終戦に向かって動いている。
 軍は皇室の存続を敵が認めるなら、陛下のお考え通りに従うつもりである。
日比さんの誠忠には敬意を表すけれども、このさい自重するよう伝えてくれ給え 」
と回答した。
これを聞いた日比和一氏は 「 黒崎中佐を見損なった 」 といって憤慨したという。
ともあれ、二 ・二六事件の残党ということで、私に対する右翼系からの期待が相当強い。
大東熟からも尊攘同志会からもそれぞれれんらくがあった。
しかし、この人たちが、軍内の一部中堅将校と結んで一斉に動き始めたという情報を得ている私は、
少なくともこのような動きに同調することは慎むべきだと考えていた。
『 裏切者 』 だとか 『 見損なった 』 とかいわれることは苦痛ではあったが、
この際はどのようなことがあろうとも堪え忍ばねばならぬと決心した。

この夜も、お茶の水別館には地方からの同志がひそかに参集してきた。
大岸さんたちも口をそろえて、軍内部の中堅将校と共に一か八かの行動がとれぬものかと詰め寄ってきた。
私も若干動揺はしたけれども、この際、冒険はすべきではないという信念は曲げなかった。
---戦後のある日、私は末松太平さんに、あの日のことをふれて、
「 あなたは、本当に何をするつもりでこられたのですか 」
と聞いてみたことがある。
「 どうすれば日本のために一番よいかということは事実わからなかった。
 しかし、日本が今滅亡しようとしているとき、ただじっと座っているわけにはいかなかった。
適当な死に場所はないか、と思って貴様のところに駆けこんだのだ 」
という返事が返ってきた---

この日は、東京に第三回の原爆投下のデマがとんだ。
この夜のお茶の水の寮にいた軍事課の竹下中佐が、
まだ死ぬ時ではないから、今夜は防空壕で寝ようと誘ってくれた。

十四日午後、
阿南陸相の訓示があるから大講堂に集合せよ、という通達があった。
いよいよ大臣というよりも、陸軍の統率者としての阿南大将の決心を公式に発表するときがきたのだ。
六月以来、阿南大将が和平については原則的に諒承しながらも、
国体護持の一点でなお動揺していることを知っている私は、
いまもなお本土決戦による一撃によって和平を、と叫ぶ省部の中堅将校の意見を抑えて、
今ここでどのような決意を表明されるのであろうか。
不安と期待の交錯した複雑な気持ちで私は講堂に急いだ。
一同を前にして陸相は、
御前会議の経緯と陸相としてのとった行動を説明したのち、
次のように結んだ。
「 勝利の確算がなく、ソ連が参戦した現在、陛下はこれ以上国民を犠牲にするに忍びない。
 降伏しても日本民族が存続する限り、その途がいかに嶮しくとも再建の途があることを確信し、
陛下ご一身の危険を覚悟して、是非この際、ポツダム宣言を受諾するようにと仰せられ、
とくに、『 阿南、頼むぞ 』 と仰せられた。小官は謹んで聖慮に副い奉ることを言上してきた。
『 軍人としての気持ちはよくわかる 』 と仰せられ、軍の忠誠と努力に御心をお留め遊ばしながら、
小官に軍の統率を命ぜられた以上、小官は謹んでこれに従う決心である。
しかしながら、玉砕をもって悠久の大義に生きるも忠、瓦全して大御心に従うもまた忠である。
諸君の中には小官の命に従うことをいさぎよしと思えぬ者もあるだろうが、
私は、陛下にお約束した以上、この決心を変えることはできぬ。
どうしても私の決心に不服であり、なおポツダム宣言受諾を非と信ずる者は、
まず小官の首を刎ねてしかるべきのちにことを行え。小官の生あるかぎり断じてこれを許さぬ 」
この断固たる宣言には盤石の重みがあった。
私は、はからずも皇軍最後の日に、軍の統率者としての真髄をみたのである。
この宣言によって、大臣を擁してなお抗戦を続けようとしていた省部の企図は潰滅した。
一同は大きく息をしながら三々五々持ち場に散った。
私も軍事資料部に帰ると全員集めて、大臣の示達の概要を説明することにした。
部長は省部の局 ・部長会議のため不在であったので、私が代行したのである。
「 残念ながら、日本はポツダム宣言を受諾し、軍は無条件降伏することになった。
 今日まで艱難かんなんに耐え、一糸乱れず戦ってきた全軍の将兵の心中は察するに余りある。
われわれはことここに至っては整々として軍を解き、武装は解かれても無言の圧力を持して、
国体護持と再建に努力しなければならない。
なお、当部としては、部内の整理を行うので、最後まで団結して統制ある行動をお願いする 」
一同は途中から嗚咽しはじめた。
私も涙がこみあげて言葉につまった。

機密書類の整理や焼却も始まった。
部内は俄然忙しくなってきた。
私はお茶の水に急行した。
ここでは特別の任務をもった人々に対する処理が残されていたからである。
次々に連絡にくる特別任務のこれらの人々は組織の解散を伝えた。
松浦少佐には、万一の場合の例の皇統温存工作のための北白川宮擁立工作を一任した。
こうした最中にまた渡辺祐四郎君がきた。
「 いよいよ無条件降伏らしいですね。 
 しかし、日比会長以下私どもはどうしても耐えられない。
もう一度、天皇陛下にお願いして考え直していただくようにしたい。
航空士官学校の生徒が上京して陛下に戦争継続をお願いするといっているから、
私たちはこれに参加して、撃たれても撃たれても宮城に向かって前進する。
是非参加してもらいたい 」
どうしても諦めきれないから、君も同調せよというのである。
「 世界を相手にしては勝つ見込みはないから陛下もご決心なされたのだし、
 陸軍大臣もこれに従うことになった。
一度このように決定したからには、今、誰が何をやってもそれは一時の騒動にすぎない。
そして、それがある程度成功したとしても、片や官軍となり、
その混乱は敵にさらに苛酷な条件を示される素因をつくるだけだ。
その上 革命の危険をさえ伴うことになる。
決して忠義とはいえない。
武人としては無条件降伏は耐えられない。
しかしそれは耐えて日本の再建のための方途を探そうではないか 」
それでもまだ承服しない。
「 今までなんのために陸軍は本土決戦を準備してきたのだ。
 原爆の一つや二つがなんだ。腰をぬかしたのか 」
「 いや、原爆は現在のところそう多くはあるまい。
 しかし陛下が一度決定され、内閣が承詔必謹と決め、各総軍司令官が服従を誓った以上、
組織ある抵抗は不可能なのだ。
私は敵が占領してから、そのやり方次第では生命を投げ出す必要があると思っている。
が、今は何をする気もない。君も死に急ぎをしてくれるな 」
と必死に説得をこころみる。
「 それでも私は承服できない。しかし、あなたの考え方はよくわかった。
 どうもあなたと私は意見が違うようだと感じていたが、やはりそうだったのか。
もうあなたと一緒にやることは諦めた。会に帰ってもう一度相談することにする 」
彼は憤然として帰った。
傍らでこのやりとりを見ていた松浦少佐が、
「 貴公は殺されるのかと思っていたよ 」 といったが、私もあるいはと思っていた。
渡辺君の見幕には殺気がみなぎっていた。
民間のうちでもっとも信頼していた渡辺君に殺されるならば致し方がないと覚悟していたが、
彼は手をふれずに帰っていった。
『 殺す価値もない 』 と判断したのだろうかと思うと少し寂しかった。

・・・次頁 終戦への道程 4 『 8月15日 』  に続く

コメント

終戦への道程 2 『 阿南惟幾陸軍大臣 』

2022年06月26日 10時53分06秒 | 9 昭和の聖代


黒崎貞明著
恋闕
承詔必謹  から
前頁 終戦への道程 1 『 東條を斃さねば、日本が滅びる 』  の 続き

サイパン陥落後、本土決戦がいよいよ現実の問題になってきた。
明治建軍以来の日本軍隊の戦略構想は、外征型であって、
戦場を日本国外に求めることを基本として想定されたものであった。
従って本土決戦などということはあろうはずがなく、
神国日本に夷狄いてきの侵宼しんこうするはずがなかったのである。
ところが、それが現実となって日本を脅かしつつある。
防衛課はこの場合に対処するため、法令の準備、すなわち、連合軍が侵攻した場合、
混乱を防ぐための治安維持対策を確立する方策を立てねばならなかった。
それには戦略の当事者である参謀本部、そして海軍との連絡交渉はもとより、
民間治安の総元締である内務省との連繋も重要となってきた。
だが、いろいろな研究はしたものの、
日本国土を戦場とした場合、もっとも緊要なものは国民の低意識ではないか。
そしてそこにはもはや、軍人も官吏も民間も区別なく、それこそ一億火の玉の団結しかないはずであって、
まちまちの法令など律しきれるものではない。
私はこのとき初めて、中国民衆の苦悩と憤激を痛いほど感じさせられていた。
日本を始め諸外国の鉄蹄に蹂躙されながらも面従腹背、
断固として敵に屈することのなかった中国民衆の抗日闘争の中に、果して官制の、
頭から押えつけるような闘争のための法令があったであろうか。
こう考えたとき私は、本土決戦に際しては特別な法令を準備する必要なしとの結論に達し、
戒厳令施行規則の整備程度でよいのではないか、という意見を村上高級課員のもとに提出した。
そしてこの付帯事項として、決戦予想地区における住民の退避要項について、
各軍司令官と各地区知事に示達する案について作業を進めていた。
その作業が終わったのは十九年の末であった。

その十二月、上田防衛課長は少将に進級と同時に軍事資料部長に転出された。
するとまもなく私も中佐に進級し、軍事資料部主任部員兼参謀本部第二部員に命課された。
軍事資料部は陸軍大臣に直轄する組織で、一方においては陸軍中野学校を掌握し、
その組織を通ずる特殊情報を管理するとともに、
軍の組織以外の各情報をも併せて比較検討する任務をもつものである。
私の就任と時を同じくして、三笠宮殿下が航空本部付となられたことは、
さきの津野田事件となんらかの関連性があったのであろうか。


東條内閣から代わった小磯 ・米内連立内閣の陸相には杉山元帥が就任した。
富永次官はフィリピンの第四航空軍司令官に転出し、後任には若松只一中将が任命された。
この頃軍は、マッカーサーとニミッツの連合軍の東京侵攻を阻止するため、
フィリピンのルソン島を頽勢たいせい挽回の足がかりとすべく、主要決戦場として準備していた。
ところが、ソロモン、ニューギニア作戦と同様、敵がレイテを直撃したため、
これも予期せざる方面で決戦を強いられ、兵力の逐次投入という拙作によって、
その戦勢挽回の企図は潰滅したのである。
盟邦ドイツ戦戦においても、態勢は日に日に悪化し、七月二日、ヒットラー暗殺計画が発覚し、
期せずして総統と国防軍との相剋が表面化し、戦争指導と作戦指導の両面にわたって亀裂を生じ、
すでに敗戦濃厚の様相を呈していた。
このころ、私の親友であった東京新聞社の山口記者が
坂井鎬次中将の 「 ドイツ第一次世界大戦始末記 」 という著書を持ってきた。
これは第一次世界大戦によるドイツ帝国の崩壊と、ルーデンドルフ将軍の戦争指導の悲劇を謳ったものであるが、
真意は明らかに東條大将の戦争指導の批判書であった。
山口君はいった。
「 日本軍はルーデンドルフの道をたどってはならない。
 今上天皇を安徳天皇にしてはならないのです。
これをいえる人はあなただけしかないと思いますので敢ていいます。
ルーデンドルフになるなかれです 」
大本営の屋上で二人は堅く手を握り合った。
「 ニ ・二六事件の同志は、天皇の怒りにふれて代々木に散った。
 それでも彼らは天皇陛下万歳と叫んで死んだ。
今あなたは、皇室と日本を崩壊させようとしている軍閥の中にいる。
あなたのかつての同志が打倒しようとした軍閥は、このような悲しい事態の中に解体しようとしているが、
せめてその最期だけは、皇室の安泰と日本再建の余地を残すことによって飾ってもらいたい。
軍の面目にこだわっていると、日本そのものが滅んでしまう。
辛いだろうが、これがあなたの最後のご奉公ですよ 」
この山口君の諫言はひとつひとつ胸にこたえた。
津野田少佐事件や、この山口君の言葉が、私に与えてくれたことは、
「 あの万斛の涙をのんで刑死した青年将校の生きざまと死にざまを、今この難局の中で私に示せ 」
ということである。
黒崎よ、おまえが真にかつての青年将校ならば、
それにふさわしい生きざまと死にざまをはっきりさせよ 
私は自分自身に幾度もそう叫んだ。
こうしたある日、六本木の陸軍省別館に、山本勝市経済学博士が訪ねてこられた。
博士が陸大時代からの恩師であることについては、すでに述べたとおりである。
山本博士はズバリと直言された。
「 小磯、米内の連立内閣ができたが、戦争指導は少しも変わっていない。
日本の生産は統制経済の強化によって、その指向する方向とは反対に、
ますます跛行はこう状態となり能率向上どころ下降の一途をたどっている。
今、日本で一番必要なものは航空機生産だ。
その分野にかぎって統制をはずしてみたらどうか。
軍が国民を信頼すれば日本の活路はまだある。
同時に、戦争は必勝か死かではない。
それは戦場指揮官としては立派だが、国家の命運はそのような単純な考え方をしてはならない。
日本が連合軍を撃滅させることが不可能な現在、その最善の策は講和以外にはない。
君が感じているとおり、皇室と日本民族と国土を保持することができれば、
この戦争が不幸にして敗れても再建の途はある。
天皇が最後まで戦えといわれるならば、一億玉砕を覚悟で戦うもよかろう。
日本民族が、一人もなくなってしまうこともないであろうから。
しかし、そうではないとするならば、いな、たとえそうであっても、
最後に敵と交渉し得るものは、軍人そのものではなく、軍がもっとも敵視し排撃してきた
いわゆる愛国的自由主義者と称せられる人びとではないかと思う。
さいわいにして、君はそういう人たちを温存しようと思えばできる立場にある。
よく考えてくれないか 」
たしかに、山口君にしろこの山本博士にせよ、私を買いかぶっている。
しかしその当否は別として、私としてはぜひやりとげなければならないことなのだ。
第一線で戦うべき身が、この東京にいる意義はここにあるのだ。
私ははっきりと自覚し決心した。
そして、私にとって一番必要なことは、いわゆる上司が口ぐせのようにいう
" 軍隊本然の業務 " などという抽象的なものではなく、本然の業務を逸脱することになるかも知れないが、
軍とその母体である国家そのものを救い得る 「 起死回生 」 の終戦への工作ではないのか。
これが私の終戦工作に対する開眼であった。
私のエネルギーはそれに向かって流れ始めた。
そして、その一つの現れが終戦内閣の模索であった。

すでに明朗会の日比和一氏、渡辺祐四郎君、山本勝市博士等は、早くもこの小磯内閣に見切りをつけ、
この次の内閣こそこの大戦に結末をつける終戦内閣でなければならない。
そのためには、その首班は軍と正面きって対決し得る剛直の士でなければならないと、よりより協議していた。
そして私にも協力してくれといってきた。
この人々は年来の同志であり、日本の革命防止に最後の生命を賭けようというのである。
私にことわる理由はない。
いよいよ私も津野田少佐の轍を踏むか。
決心を固める。
この首班の選定について、貴族院議員の井上清純男爵らを新たに加えて協議した結果、
貴族院議員で法学博士であり、在野法曹としては令名はあったが、
一般的には無名に近い岩田宙造氏を推すことにした。
岩田宙造
そこで彼の意見をたたくため、二十年の正月、
私は日比氏、山本氏に伴われて青山高樹町の岩田邸に赴いた。
一見痩身のこの紳士は温厚で闘志の相はなかった。
私は率直にいった。
「 先生、最後には阿南大将と刺し違えてもよいというお覚悟がありますか 」
「 私は捨て身でこの戦争を終結する人間の一人でありたいと念願している。
 だが、一人ではできない。数名の同志が団結すればできないことはないと信じている。
もし、私にその一人になれといわれるならば、私は喜んでその一人となって命を捧げるつもりだ 」
岩田氏は外貌に似合わず、凛然としていい放った。
それからニ、三日後、私は単独で三鷹にある阿南大将の私邸を訪れた。
大将は私を快く引見してくれた。
私は軍内の情勢と終戦工作の必要を力説し、
そのためには阿南大将の陸相就任を一致して熱望していること、
特に軍の暴走を抑えるために、宮廷も重臣もこぞって大将の出馬を期待していることをつけ加えた。
「 軍事資料部の情報収集は、中野学校関係者以外では君が独自でやっているようだが、
 その情報は陸軍大臣にそのまま報告されているのか 」
と質問された。
「 いえ、上層部にそのまま報告すると、間違った判断や処置をとられることがありますので、
 私の一存で処理いたしております。
だが閣下が大臣になられたら、私はそのことごとくを報告して御判断を仰ぐつもりでおります 」
と答えた。
大将は軍に対する巷間の批判に対して、
軍に降伏はない。終戦は政府が行なうものだ。
 われわれは陛下の大御心に遵いに奉って忠誠の誠を尽すのみである。
ところで、貴公の来意の本旨はなにか 」
私は東條大将の戦争指導に対する反対の系譜、
中野正剛事件、津野田少佐事件、塚本中佐の場合等をあげて説明した上、
「 国体を護持して、光栄ある戦争の終結を行うために最後の陸軍大臣になって頂きたく、
 その内閣の首班として擁立されつつある岩田宙造氏、ならびに近衛公にも会って頂きたいためであります 」
大将はしばらく瞑黙しておられたが、
「 よし、会うだけでよいなら会ってみよう。岩田さんはまったく知らない人だが、 近衛さんの岩田評はどうか 」
「 " なかなか気骨のある人だ " と近衛公は評しておられます 」
と答えると、大将はしばらく考えこんでおられたが、ややあって、
「 時に陸軍省で他の連中にこの件を話したか 」 と ぽつりと語を継いだ。
「 いえ、誰とも相談しておりません。もし犠牲者がでるとすれば、私一人で十分だと考えたからです。
 戦争の終結は陸軍大臣の為さるべき問題で、私たちはその命令に従うのみです。
ですから私たちは閣下が大臣になられることを命がけで熱望しております 」
「 海軍はどうなのか 」
「 海軍は米内大将ということが圧倒的ですが、私の得た情報では長谷川大将が立派な人だと聞いております 」
「 よし、わかった。近衛さんと岩田さんに会う段取りは貴公一人でやれ。
 それから終戦という言葉は使うな。またそのために必要だと思う人々に対する配慮も、
貴官一人でできる限りのことをやれ。
そのため必要なことの相談は私以外にしてはならぬ。
万一の場合には貴公一人の責任とすることを十分承知し覚悟しておくのだぞ。
よし、話は終わった。これから飲もう 」
阿南惟幾大将
大将は起ち上がって、家人に酒の用意を命ぜられた。
二人だけの酒宴となった。
だが、陸軍きっての酒豪と聞こえる大将の敵ではなかった。
私はその場で前後不覚になった。
翌朝、目をさましたときは、令夫人の心尽しであろう立派な夜具の上にあった。
大将より一足先に失礼して、陸軍省に登庁したが、二日酔いはなく、その足も軽かった。
" これで日本は救われる " と、思わず快哉を叫びたいような気持であった。
三鷹下連雀のあの阿南邸の一夜は、私にとって生涯忘れ得ぬことのひとつである。

戦局の悪化は眼を覆わしむるものがあった。
山下将軍のフィリピンも、ついに日本の本土に対する防波堤になり得なかった。
陸軍きっての勇将と謳われた山下奉文将軍も、参謀長武藤章中将も、
今やルソン島の山中を彷徨する敗残軍の群れと化しつつあつた。
それでも軍上層部は依然として 「 必勝か、死か 」 を唯一の信条として荏苒じんぜんとして日を送っている。
戦争の終結は上御一人の御裁断であり、戦闘の停止は大元帥陛下の命令なくば、
という明治建軍以来の軍の建前論の中に、真の国家を想う公正な良識が埋没されているのである。
天皇を輔弼し奉り、大元帥を輔翼するのは陸軍大臣、参謀総長ではないか。
この輔翼の如何によって、天皇の御聖明は一段と光を放つのが日本の国体ではなかったのか。
それには、善は善、悪は悪、理は理、非は非という 理非直曲を明確にしうる輔翼の大道が必要なのである。
明治の将星にはそれがあった。
君臣水魚の交わりがあった。
しかし昭和に至って あまりにも君臣の間に開きがありすぎた。
ただそこにあるものは、平板な血の通わない統帥系統のみではないか。
このように考えると、私は夜も眠れぬほどであった。

こうした一方、岩田、阿南の終戦内閣の樹立を急ごうという要請が日比和一氏からあった。
彼らの信条は、終戦とは、国体護持を条件とする 『 条件付き講和 』 ということであって、
無条件降伏ではないということであった。
近衛公と岩田氏とはすでに了解済みであり、
木戸氏にも近衛公からそれとなく話が進められていたようであった。
そこで残るは岩田、阿南会談ということである。
私は岩田氏を数回訪れて、この会談について打診したが、
岩田氏は阿南氏との会談については足が重いようであった。
しかし、そのようなことを恐れていてはとても終戦工作などできるものではない。
私は思い余って、航空総監室に阿南大将を訪れて、会談の件を申し入れた。
そして、 「 よし、会おう。ただしなんの条件もなく、個人対個人との話にしてくれ 」
との応諾をとりつけた。
まもなく渡辺祐四郎君の先導によって、岩田氏は三鷹の阿南大将邸を訪れることになった。
このときの会談の内容については私は知らない。
ただあとで岩田氏から、
「 阿南さんは立派な人物だ。日本の光栄ある終戦に、もし私が一役仰せつかることがあれば、
私は阿南将軍と一体になって御奉公ができると感じた 」
と聞いた。
また阿南大将から、
「 岩田さんはなかなか骨のある人らしい。
 貴族院にもあんな人がいたのだなと、つくづく思ったよ 」
との岩田評を聞いたとき、この会談は一応成功だったと感じた。
一方、近衛公と岩田氏との会談も、山本博士、日比和一氏等の斡旋によって順調に進み、
二月下旬、その会談は成功裏に終わった。
近衛公は、
「 日本の終戦を無事に実現させ、皇室のご安泰を守り抜く決意があることを了承し、
 岩田 ・阿南内閣の実現に強力しよう 」 と約束をした。
三月に入り、小磯内閣の退陣が表面化するにつれて、
岩田 ・阿南内閣擁立の動きも一段と活発となり、すでに閣僚の人選にまで進んでいたようであるが、
私はそうしたことには介入しなかった。
一騎当千の大人物が集ってくれれば・・・・と思うだけであった。

四月に入り、敵は台湾を素通りして沖縄への侵攻をめざしてきた。
ソ連は日ソ中立条約の延長をしないことを通告してきた。
これによって、参謀本部でひそかに企図していた 「 ソ連を仲介とする和平工作 」 は事実上不可能に帰した。

小磯内閣はソ連の対日通告の日、和平工作の行き詰まりを理由に総辞職した。

さてこそ 岩田内閣の誕生かと期待していたが、その期待は見事裏切られて鈴木貫太郎内閣が出現した。
木戸内大臣はやはり鈴木大将を押したのだ。
この日、例の渡辺祐四郎君がやってきた。
救国の大事についに敗れんとす
  希ねがわくば臣をして死処を得さしめ給え
という辞世を私につきつけた。
どうするのだと聞くと、
「 今までの苦労が水の泡となったので、これから鈴木大将に会いに行って 刺し違えて死ぬ。
 そうすれば岩田内閣ができるかも知れぬ、あとを頼む 」
というのである。
「 いま、鈴木大将を殺してもそれが岩田内閣誕生とは限らない。
 この工作は宮中の深いところで行われる。近衛公も一枚嚙んでいることだろうから 」
と止めてはみたが、
「 やってみなければわからない。彼は重臣の一人であり、二 ・二六事件で殺され損なった人物だ。
 日本の重臣で忠義を心得ぬ人はあるまいが、私はその忠義の質を問題にしている。
東條さんだって忠義については人後に堕ちぬと考えているだろう。
私は私の信ずる忠義の途に殉じようと思う。それでよいのだ。私に死処を与えてくれ 」
いつも冷静な好漢渡辺だが、今日はいささか異なって凄まじい気魄がこもっている。
「 それほどいうなら好きなようにしたまえ。しかし君の思ったとおりにことが運ぶとは限らないが、
 そのときでも迷わず成仏できるか 」
「 日本の大事に死ぬことで満足だ。成否は天にまかせる 」
彼はきっぱりいいきった。
私はだまって私のピストルを渡辺君に渡した。
夕暮れの中を鈴木邸に向けて去っていった渡辺君の後ろ姿に、ふと次の句がうかんだ。
風蕭々しょうしょうとして易水寒し・・・・・
「 君も俺も最期だな。もし渡辺君が決行したら、私は阿南大将の許にかけこんで事情を話し、
 善処を要望して自決する以外に途はない 」

その夜は、さすがにまんじりともせず時を待った。
深夜、意外にも渡辺君は憮然たる様子で帰ってきた。
「 会えなかったのか 」
私の声は思わず高走っていた。
「 あった。そして二時間ばかり話したが、ついに撃てなかった。
 私は今、あの人物に賭けてみようという気になった。
あの鈴木さんはいったよ。
『 私も帝国軍人である。この非常の際に喜んで大命を拝したわけではない。
 私自身決死の覚悟である。皇国を保全し、この戦いを終らせるには、
軍民一体、不退転の決意と決死の覚悟でもってことに当たらねばならぬ。
その覚悟ができたので大命をお受けしたのだ。
もしもこの私の言に偽りがあると思ったら、いつでも私を刺しに来い 』
それから日清戦争のときの話までいろいろ聞かされ、すっかり俺は感動してしまった。
俺はついに撃てなかった 」 
彼は男泣きに泣いた。
「 そうか、それでよいではないか。君も私も今日は死ぬ日と定めたのだ。
しかし、天はまだ私どもに死を賜わらぬ。最善を尽くして天命を待とう 」

翌日、阿南大将に会い、
「 鈴木大将が首班と決定した以上、これで最善を尽くすほかはありません。
 海軍大臣はできますれば長谷川大将を推してください。
必ずかっかのよき協力者となるでしょう 」
と進言した。
阿南大将が陸軍大臣になられたことが、われわれ唯一の頼りであった。
数日後の夜、阿南大将に呼ばれた。
「 俺は陸軍大臣をお受けすることにした。
 海軍大臣には長谷川大将をといったが、鈴木大将は、耳の遠いふりをして聞き流された。
あとで 『 米内君にするから承知してくれ 』 といわれたが、上奏後だというので承知するほかはなかった。
貴官は軍事資料部で今までどおり俺の内助をしてくれ。
軍はこの重大な時機に立って一糸乱れず、最後の御奉公を致すべきである。
俺はひたすらこれに向かって邁進する。
大臣としての公式のこと以外はいっさい貴官の責任においてやれ、覚悟はよいか 」
過分の信頼を頂いた上は、私はこの終戦工作 ( 阿南大将はこの言葉を使うなといわれたが )
条件付き講和に向かって一身を捧げるときが来たのだ。
はっきりと己自身にいいきかせながら私は分室に戻った。


戦艦大和の最期 昭和20 年4月7日

皮肉なことに、鈴木内閣はその成立にあたって終戦内閣の烙印をおされることになる。
この日、わが連合艦隊の最後の虎の子である 戦艦大和 以下が沖縄の戦闘に参加して潰滅した。
もはや誰の眼にも耳にも終戦の鼓動が感じられるようになった。
この鈴木内閣に岩田宙造氏等が顧問として発令された。
岩田 ・阿南内閣出現に一役かった近衛公が顔を立てたのであろう。
日比氏も渡辺君も、この人たちを助けて せめてもの御奉公ができると喜んでいた。
これと前後して、吉田茂 ・ 殖田俊吉 ・岩渕辰雄の三氏が逮捕された。
昨年以来、和平工作をやっていたことは軍の上層部にもわかっていたが、
近衛上奏文の起草に参画したという疑いが決定的な原因となったのであろう。
私はまさか検挙まではと思っていたので、しまったと思った。
もし、この検挙が拡大すると、
近衛、木戸を中核とする和平派---小林海軍大将、真崎大将、小畑中将、石原中将 及び鳩山一郎氏等、
いわゆる民間愛国的自由主義が一網打尽となり、戦争終結のための対米 ・英交渉の立役者を失うことになる。
そっそく阿南陸相を訪ねて、これ以上検挙の拡大をせぬようお願いした。
検挙はこれで打ち切りとなった。
私は、軍の暴発を大臣が未然に防止することのできるよう監視と工作をすることであった。
この頃、軍事資料部の嘱託として、かつての二 ・二事件の先輩である松浦邁少佐を招いていた。
彼の工作活動はわれわれの施策に大きく寄与した。

五月七日、ドイツの無条件降伏を知った。
そのとき参謀本部のロシア課の重宗中佐に会って、ソ連の対日戦の可能性と時期について質問した。
「 ソ連が参戦したら、現在の関東軍ではどうにもならない。
 やがて本土に襲来しとくることも覚悟しなければならない。
私はソ連が参戦しないよう、するとしても一日でも遅からんことを祈るのみだ 」
「 それは課長以下全員の判断ですか 」
「 そうだ。しかし誰も公式にそれを発言しない。従ってねこのことも君だけに止めておいてくれ 」
すでに対ソ戦については絶望的な観測である。
五月の中旬、私は作戦部長に呼び出された。
真田少将に代っての作戦部長は宮崎周一少将であり、 「 ガ 」 島の軍参謀長であった人である。
「 俺はいま来るべき本土決戦に備えて、今度こそは上陸軍に一大鉄槌を加えて、
ガダルカナルで果たせなかったことをここで実現したいと思っている。
九州と関東地方は予期する敵に対して準備は万全だ。
今度こそは自信がある。
しかし、近衛公等の重臣がそれまで戦う意思を持っていてくれぬと、一億火の玉がくずれることになる。
貴公はこの方面で骨を折ってくれ 」
と半ば命令口調であった。
この将軍はけっして負けることを受け付けない人である。
あのガダルカナル
での惨状にあっても、最後の最後まで反撃を捨てなかった。
井本方面軍参謀が撤退命令を持ってきたときも、「 増援の時機が遅い 」 と叱咤し、
撤退命令を聞くや、玉砕を主張してとことん頑張った人である。
作戦部長となった今でも、ガダルカナルの復讐を口にする人で、その闘魂は見事なものである。
従って、本土決戦にかける部長の執念は、すさまじいものがあった。
「 ソ連が参戦してもその決心に変更はありませんか 」
「 関東軍と北部方面軍に時間を稼いでもらうほかないが・・・・
 しかし上陸する米軍に対する一撃だけは絶対やれる 」
と、腕を組んで天井を睨んだ。
「 わかりました。近衛公に会って、閣下の意のあるところを伝えます 」
作戦課からの所要の資料をもらうと、それを暗記して、その資料はすぐ焼却した。
極秘の資料を持つべきではないからである。
数日して近衛公が萩外荘で会うという。
当時和平派といわれる人々には憲兵が監視していたので、私は私服で行った。
私が行動派の末流であり、二 ・二六事件の関係者であることを知っていた公は、
割合うちとけた態度であった。
「 軍はいかなる事態に当っても、公が心配されるような革命にくみするものはいないこと。
 従って、近衛公及びその他の重臣を抹殺しようという考えはないこと。
ただ、軍の念願とするところは、米軍の本土上陸に対し有力なる一撃を与えることによって、
条件付き---皇室の安泰---講和の前提としたいこと。
作戦部長もこれについては十分なる成算をもっていること。
われわれはこの最後の一戦によって全員戦死する覚悟である。
この一戦のうち、公等が講和のために最善を尽くされるならば、軍としてはもはやなにもいうことはない。
このときこそ公の排撃される軍閥はなくなるのであろうから 」
などについて力をこめて説明した。
そしてこれこそ市ヶ谷の軍中央の総意であるとつけ加えた。
近衛公は 「 本当に勝てるのか 」 と念を押してきた。
私もこれには困った。
「 所詮、戦いはやってみなければわかりません。しかし今までの島嶼とうしょ作戦と違って、
 本土では軍の総力を結集でくます。
予想する敵七十五万に対し、われわれは二百万をもってこれに当たり、全員戦死の覚悟です。
砲兵と戦車ならびに航空機については、少なくとも敵に匹敵するものは集中できます 」
「 君のいうことはわかった。よく考えることにしよう 」
二時間に及ぶ会談は終った。
私は今でも 「 本当に勝てるのかね 」 と繰り返し詰め寄ってきた近衛公の姿を、
はっきりと想起することができる。
その後、種村佐幸大佐が近衛公と会見したらしいが、それが陸軍大臣の命令か、
作戦部長の指しがねであるか、はっきりしなかった。
 ・
六月のある日、
内閣顧問となっていた岩田さんと日比さんが会いたいといってきた。
岩田邸にうかがうと、
「 近衛公のところへ行ったというが、どうでした 」 という。
「 勝てる見込みがあるか 」 ということを繰り返し聞かれたというと、
「 それは国民全部の心であろう 」 と岩田さんはつぶやいた。
「 否 !陛下には降伏はない。ひたすら光栄ある講和あるのみです 」
と横から日比さんが、ひったくるような勢いで返事をした。
日比氏の信念はまさに天皇宗の信仰からくるものである。
皇太后ならびに皇族の動向を知っている私は、此の日比さんの絶叫には返事のしようがなかった。
勿論、私とても陛下が断固として戦うと仰せられたならば、
最期の一兵まで戦って悠久の大義に生きる覚悟ではある。

この夜、東京は幾度目かの大空襲を受け、宮城の一部が炎上し、帝都の過半が焦土と化した。
私は大本営の屋上から炎上する首都の姿を見た。
この憤激はどこにもって行くべきであろうか。
すでに市ヶ谷周辺も火の海で、火の粉は大本営の屋上を乱舞した。
同期生の塩見中佐が焼夷弾で死んだのもこのときであった。
翌日、東京新聞の山口記者が訪ねて来た。
屋上で焼け野が原と化した首都を眺めながら語り合う。
「 酒井閣下があなたのことを気にしていましたよ。あの本を読みましたか 」
「 読んだよ。ところで酒井閣下は、
この間の近衛さんと私の会談のことを聞かれたと思うが、なんといっておられたか 」
「 あれは軍の要望として受け取られたようです。
 近衛公としては、軍人の気持ちはわかるが、そう軍人が考えているようにはことは運ぶまい、
といっておられたようです。ところであなたはどうするおつもりですか 」
「 前大戦のドイツの二の舞をさせないで、しかも軍の面目をも立てたい。
 これはできない相談かもしれないがネ 」
「 そう伝えておきます。くれぐれも阿南さんを、ルーデンドルフにしないようにして下さい 」
山口君の姿を見送りながら私は考えていた。
軍が分裂しない限り、右翼は単独では動かないたろう。
さいわい軍は陸軍大臣を中心に乱れはない。
軍の混乱さえなければ、左翼も民衆も、今これといった事態にはなるまい。
九月か十月の初めに予想される敵の上陸まで、じりじりとこの態勢で推移するのだろうか。

六月半ば、阿南陸相には次のとおり報告した。
「 宮中、重臣は依然として和平の途を求めているようですが、取り立てて表面的な動きはありません。
 民間の右翼団体も、軍が大臣を中心にまとまっている限り、特別な動きはないものと判断されます。
民衆は米の端境期を迎えて、食糧事情が逼迫して苦しいようですが、
厭戦えんせん、反軍の目ぼしい動向はありません。
しかし、新たに動員されて本土決戦に充用される兵員の質の低下は相当警戒を要するものがあります 」
軍事課の竹下中佐 ( 阿南陸相の義弟 ) が大臣の命を受けて、
山形県鶴岡市に閑居している石原莞爾将軍を訪ねたということを聞いた。
石原将軍は津野田事件の計画でも陸相に擬せられた人物で、
戦勝の見込みのないこの戦争に最初から反対していたのである。
阿南陸相としては、あまり反軍的な言辞を吐かないようにとの要請であったらしいが、
石原将軍は依然として激しい口調で、終戦の必要を説いたと聞いている。
津野田事件も吉田茂事件も、その後決着がついたのか逮捕者は釈放された。
しかし、津野田少佐は免官となったとの報告を受けていた。
私は憲兵に対し、今後津野田に追い打ちをかけないよう依頼したのがせめてもの配慮であった。

この頃、二十年の初夏に入って私たちは民族再建のためのある工作を思い立っていた。
連合国軍としては、敗戦後の日本を徹底的に無力化する方策として、
民族の中心的存在である皇室の抹殺をはかるかも知れない。
このことが一番気にかかることであった。
そのためには、あくまでも皇室の種を残すことである。
皇統を温存することである。
私は同じ考えをもっていた松浦邁 と計って、その工作に乗り出したのである。
『 皇族の中で一番目立たない存在を選んで、この人を温存することにしよう 』
そこで北白川宮永久王の遺児を擁立して、長野か四国の剣山に隠れようと考えた。
私と松浦少佐が中心となって、極秘にこの工作を始めたのは六月末であった。
まず本土決戦が行なわれる場合と行われない場合を規定して計画を練った。
七月に入って、
関西方面の情勢視察と第二総軍 ( 広島 ) との連絡のため公用出張ということにして、
京都で具体的な協議に入った。
京都での同志は上賀茂神社の吉田宮司であった。
私の京都出張を聞いた山本勝市博士が、
「 京都では佐々木惣一先生に会って話を聞くとよい。あの方は近衛さんの憲法の先生である 」
といって紹介状をくれた。
やはり山本博士も戦後のことを考えていたのである。
下賀茂神社のそばにある佐々木惣一博士の自宅を訪ねた。
佐々木博士はまことに短軀ではあるが、冒すべからざる気品が漂っていた。
この博士は人も知る、美濃部達吉博士と並んで日本の憲法学会を二分する碩学せきがくであった。
山本博士の紹介状を出して、博士との関係を細かく説明すると、
「 それでは、何を話しても差し支えないのですね 」 と念を押したのち、
「 日本を滅亡させないために、近衛さんが動けるよう協力してもらいたい。
 軍は速やかに陸海軍大臣現役制を中止して、軍の政治介入を中止する姿勢をとること。
統帥権の問題は軍政の大問題で、これも日本の不幸な問題であるから別に考えること 」
と熱をこめて語られた。
「 今で間に合うでしょうか 」
「 間に合わないかも知れません。しかしこれは日本の将来のために必要なのだ 」
と重ねて強調された。
この佐々木博士が、戦後の日本国憲法の改正を起草されることになるなど、
このときはまったく考えもしないことであった。
日本にもまだ立派な人がいるなア と少し気が軽くなった。
その足で郷里四国に渡り、私淑する中学時代の恩師一宮末次先生に、皇統存続の件について相談すると、
「 身命を賭して強力しよう 」 と快諾された。


それから広島の第二総軍に着いたのは八月四日の夜であった。
ここには 「 ガダルカナル 」 でお世話になった井本熊男参謀もおられるし、
同期生の李公殿下もおられる。そして、なによりも私の畏敬する鈴木主習中佐もいる。
この日夜 私は鈴木中佐と会食した。
その席上には島根から召集で来ていた田中大尉もいた。
田中大尉は県会議員で翼賛壮年団の幹部でもあった。
話題はすべて本土決戦と終戦につながる。
私はつとめて冷静に東京中央の空気をつたえることにした。
鈴木中佐は、
「 いずれにせよ幕は下りようとしている。われわれは過去において多くの誤りを冒してきた。
 ここに至っては天皇親率の軍隊らしく進退を決することにしよう。
さいわい、阿南陸相は立派な人である。一糸乱れず最後の御奉公を果すように心魂を傾けてくれ。
今までの荒軍が皇軍として面目を一新するとき、戦いの勝敗を越えて、日本の悠久があると信ずる。
軍は再建できるが、国体は再建できないからなア 」
あの諭すように語った鈴木中佐の言葉が、いまもこの耳に残っている。
一同は 「 海ゆかば 」 をうたって散会した。
想えば鈴木中佐も田中大尉もこれが最後であった。
翌々日、あの原子爆弾がこの広島をすべて灰にしてしまったのである。
五日の朝、司令部に出頭して正式の挨拶と情報連絡を終った私は、
前夜の痛飲がたたったのか、少し体が変調をきたしていたので、
白石中佐と本土決戦の打ち合わせが終ると、宿舎で休むことにした。
しかし、どうしても今晩中には李公にお会いしたくて殿下の宿舎にうかがった。
士官学校時代、ひそかに挑戦独立の夢を語られたこの殿下の現在の心境をうかがおうと思ったが、
さすがにこれには触れられなかった。
殿下は最後に、
「 最善を尽くして、日本をまもる。今はただそれだけ 」 といわれた。
「 明朝、島根を回って帰京します。御健康を祈ります 」 と挨拶すると、
「 駅まで送ってやろう 」 といってくださったが、私はそれを固辞して、馬だけ借りることにした。
これが李公殿下との最後になった。

翌六日の朝は、七時すぎから敵襲襲来というので警戒警報が発令されていた。
白石中佐が、
「 警報が解除になってから出発しては 」
といってくれたが、七時三十分発の松江行き急行に乗る予定があったので、
公からお借りした乗馬で広島駅まで飛ばした。
かなり遅れて発車した急行列車が、広島の北側の山を越えてまもなくのことであった。
ピカッ という光と、なんともいえない爆発音が列車を揺るがした。

これが原爆投下だったとは、もちろんそま時は知る由もなかった。
このとき、広島には空襲らしい気配はなかったので、近くの弾薬庫が爆発したのだろうという程度に考えた。
午後松江に着くと、島根県知事の使いが出迎えてくれた。
「 広島が爆撃されて大変のようです 」
原子爆弾だったのだ。
思えば、李公殿下をはじめ広島で会ったすべての人々と、
この山一つ向こうとこちら、生死を別にしてしまったのである。




道中、グラマンの攻撃を受けながら、東京に着いたのは九日午後であった。
その足で陸軍省に登庁すると、
「 なんだ、貴様は広島の原爆で死んだものと思っていた 」
と皆からいわれた。
そうだ。まさに危機一髪のところであった。
人間の生と死は、まことに紙一重である。
まだ天は私に死を与えない。
私には最後の御奉公が待っているのだ
はっきりとそれを感じた。

昭和二十年八月九日、
長崎に第二の原爆が投下された。

・・・次頁 
終戦への道程 3 『 天皇に降伏はない 』 に 続く

コメント

終戦への道程 1 『 東條を斃さねば、日本が滅びる 』

2022年06月25日 11時22分18秒 | 9 昭和の聖代


黒崎貞明著

恋闕
終戦への鼓動  から



 
太平洋戦争                          欧州戦戦                            山本五十六
昭和十八年四月十八日、山本五十六連合艦隊司令長官の戦死

                五月二十九日、アッツ島玉砕
                七月二十九日、キスカ島放棄撤退
                十一月二十五日、タラワ、マキン島玉砕
南太平洋においても、敵の追撃はついにニューギニアの北岸に達し、
トラック島は海軍基地としての機能を失い、グアム、フイリツピン等が脅威にさらされるようになっていた。
欧州戦局では、スターリングラードの独軍降伏をもって独ソ戦争は決定的な段階を迎えている。

アフリカ戦線でも、知将ロンメルの敗退によって、北アフリカは米英ぐんに制圧されている。
戦意を失ったイタリアは、七月ムッソリーニの失脚とバドリオ政権の出現、そして九月には無条件降伏した。
こうして日独伊三国同盟の一角は崩壊した。
連合国はすでに戦後経営についての協議を始めている。
カイロ会談、テヘラン会議がそれである。


昭和十六年十月十八日、
東條内閣誕生

昭和十九年二月、
東條大将は戦争指導の軍政、軍令ならびに一般の統治権との一体化をはかるため、
総理大臣兼陸軍大臣兼参謀総長という顕職を一手に掌握した。
まさに東條幕府の出現であった。


昭和十九年三月初め、突然、富永次官に呼ばれた。
「 兵備課における貴官の仕事は一段落したという報告を受けている。
 貴官にはここで別の任務を与えたい。
軍務に課と防衛課の補強を考えているので、畑中少佐と貴官を充当する。
貴官はどちらを希望するか 」 という。
不意のことで私は啞然とした。
その頃の私は次のように考えていた。
「 隣邦支那と結んで北方ソ連の脅威を排除し、
日本海の安全と自立自存の道を推進しようとした皇道派を排除して、
第二次大戦に突入したのは統制派ではないのか。
この断末魔に近い日本にとって最も重要なことは、国体の護持と革命の防止である。
国内騒動の防止である 」
そして、二 ・二六の前科者で、明らかに皇道派の残党と目される私を起用するということは、
軍上層部がおぼろげながら万策尽きたことを自覚しはじめ、国内革命防止のためにも、
私を使おうとしているのではなかろうかと考えた。
私は即答をさけて一日の猶予を願った。
「 よし、ゆく考えて明日返事しろ 」 と次官はニッコリ笑った。
富永恭次
二十五期の逸材で
東條首相の腹心といわれているこの将軍にも、
こんなに人なつこい面があったのか。
次官室から軍事課に廻って井田少佐を訪れた。
「 いま次官から話があったが、貴様が推薦したのか 」 と聞く。
「 竹下、稲葉両中佐と相談して、貴様と畑中を兵備課に置くよりも、
 もっと適処で働かすべきだとの結論になって、次官に進言下のだ」 という。
井田も畑中も平泉澄門下の逸材である。
かつて、二 ・二六事件については、痛烈な批判を革新将校側に投げていたのであるが、
皇国護持という信念については堅固なものをもっていて、一歩も譲る者たちではなかった。
具体的方針らついては異なる意見をもってはいたが、お互いに敬意を払っていた仲である。
一晩中熟考した結果、私は防衛課を希望することにした。
革命防止を最後の御奉公と確信している私にとって、防衛課こそ業務上恰好の場所と信じたからである。
翌日、次官に
「 私は防衛課で、これから治安と思想問題に献身したいと存じます 」
と答えると、次官は
「 そうか、貴様は軍務課を希望すると思っていたが、防衛課を選んだか。よし 」
と、うなずいた。
皇道派の流れをくむ私を、憲兵に関する事項を含む治安と戒厳令の主任に指名するとは、
いささか皮肉である。
これも時局のしからしむるところか。

三月一日付で防衛課に移籍した。
これから軍内外の思想問題に取り組むことになった。
上田防衛課長は同郷の先輩でもあり、ポーランド駐在武官を経てこの職につかれた人で、
ロシア革命の研究家でもあった。
「 貴官のことは人事局長から聞いている。防衛課での貴官の任務の重点は、
 治安に関する国内一般情勢の的確な分析である。
必要な限り憲兵を使ってよいから、万全を期して課長を輔佐してくれ 」
型どおりの事務引きつぎのあと、私は情報収集についての具体的な方法について検討した。
まず、民間右翼関係の情報は、明朗会の渡辺佑四郎と東京憲兵隊の伊藤、大西の両中尉、
民間左翼関係については鍋山貞親と東京憲兵隊の左翼調査のベテラン丸山大尉、
ジャーナリストの動向については東京新聞の山口君というスタッフである。
従来の接触から見て、この人たちの情報が比較的公正であると信じたからである。
この情報収集のため省外にアジト ( 連絡所 ) を設けることとし、
上田課長の諒解のもとに、六本木にある森脇将光氏の別邸を借用した。
森脇氏はこの別邸に 「 陸軍省別館 」 という表札を掲げることによって、
強制疎開を免れるために積極的に軍に提供を申し出たのであったという事はあとでわかった。
さすがに抜け目のない男だと関心もした。

そうこうしているうちに那須兵務局長から特別の命令があった。
「 軍務局軍事課の井田少佐、建築課の鎌田中佐 ( 建築技師 ) と共に長野に出張 」
であった。
本土決戦に備えて徹底戦を戦い抜くために、大本営を東京から信州 ( 神州 ) に移す計画の秘密指令である。
私服で何食わぬ恰好で東京を出発した私たち三人は、防衛、連絡、補給、建設の各要求を調整しながら、
建設地点の選定を急いだ。
上高地の入口。
善光寺の附近。
松代地区がそれぞれの特徴を持っていて候補にあがったが、
最終的には、企図の秘匿と建設の難易の両面から松代が良いだろうとの結論に達した。
この間現地調査と検討には二週間の時日がかかった。
予め図上で研究した上での調査であったのにも拘らず、
現地に行って見ると色々の長所短所が眼につき、また本土決戦の長期化を観念してみると、
なかなか結論がまとまらなかったのである。
その後この松本大本営の主任は井田少佐と鎌田中佐が担当し、
私は本来の防衛課の本土決戦準備作業に専念する事になった。
信州出張から帰ると、予め準備したスタッフに新に私の常時輔佐として、
敬愛する
松浦邁少佐 ( 四十四期 )を迎えて、いよいよ独自の情報収集を開始した。
松浦邁 ( マツウラツグル ) ・・・昭和十九年三月、依願退職
・・・リンク→
 現下青年将校の往くべき道 

昭和十九年二月、東條大将は
戦争指導の軍政、軍令、ならびに一般の統治権との一体化をはかるため、
総理大臣兼陸軍大臣兼参謀総長という顕職を一手に掌握した。
まさに東條幕府の出現であった。
軍上層部では、このことによって反東條の機運の醸成されることを虞れていた。
しかし、この時点ではあまり表面的な怨嗟の声は聞かれなかった。
戦う戦時内閣だという声にかき消されていたのであろうか。
ところが、太平洋ならびにニューギニア地区における相ついでの悲報と、
海軍力、航空力の不足という事実が逐次明らかとなるにつれて、
日本の敗退は必至ではないかという機運が、まず重臣の間で囁かれ始め、
東條内閣の戦争指導に対する批判となって現われ始めたのである。
従来からも東條内閣の言論統制と批判の封殺についてはかなりの非難はあったが、
この頃では、「 戦争目的 」 に対する批判が高まりつつあった。
「 東亜の安定、自立自存のため 」 の戦争が、
いつのまにか 「 鬼畜米英の撃滅 」 ということにすりかえられていたからである。
この戦争を講和によって終結させようと念じている人々にとっては、
この米英の撃滅ということは、東條内閣と軍は、敵を撃滅するか日本が撃滅されるか、
という二者択一しか考えていないのではないかと危惧されたのである。
これでは、米英が欧州において決定的な敗北を喫する以外に
日本の戦争の終結はないということになるだろう。
このありさまでは日本は滅亡するしか方法はない。
だからなんとしても東條内閣の更迭をはからねばならないという動きが、
重臣の政治家、学者の間に広がり始めた。
この情報の処置について私は苦慮した。
これをこのまま上司に報告すれば、上司は必ずその情報の裏付けを要求する。
となると、そこに浮び上がった人々は憲兵によって一網打尽となるであろう。
これでは日本の講和への途は完全に消滅することになる。
そこで私は、この一連の情報を作為して、上司に報告することにした。
「 戦争指導と戦局に対する不安が知識層といわれる人々の中に散見しつつある。
 一般大衆の中にも戦争の先途に対する不安はなくはないが、
大部分の国民はいまだ軍の報道を信頼し、いつどこで反撃が開始せられるかを期待している 」
しかし戦局がさらに悪化し、
トラック島、ケザリン島があいついで撃破され、グアムが攻撃され、
ついに山本長官についで古賀連合艦隊司令長官までが戦死するという事態に直面しては、
いままで軍に対して強力的であり、一億玉砕を叫び、戦争遂行を叫んでいた右翼団体までが、
東條内閣の更迭を主張しはじめた。
戦争の前途に見切りをつけ、講和によって日本を救済しようとする愛国的自由主義者、
敗戦にともなう混乱に乗じて日本の社会的革命を期待する左翼思想者、
そしてまた最後の戦争勢力の砦に拠る右翼までが、
反東条を主唱しはじめたということは、日本の国内情勢の一大変化だといわねばならない。
六月になると、連合軍のノルマンディー上陸作戦の成功によって、
ドイツはついに東西両面方向からの攻撃にさらされた。
太平洋方面においても、いよいよサイパンが強襲されてその陥落は目睫もくしょうに迫っている。
こうした事態に直面したとき、反東條の狼煙のろしはその牙城である陸軍から打ち上げられた。
その一つが塚本中佐の場合である。
塚本清彦中佐 ( 四十三期 ) は俊腕剛直の士であった。
彼は日本軍をもっとも的確に掌握し得る陸軍省整備局戦備課の高級課員であった。
日本の相対的生産力の現況から判断して、
日本の戦争指導の大転換について腐心していたのであるが、
ついに意を決して単身東條首相に面接して、日本の安泰を計るための戦争指導の転換を進言したのである。
東條首相にその意思のないことを知った彼は、さらに追い打ちをかけるように、
木戸内大臣に面接して東條内閣の更迭と戦争指導の転換を養成した。
この時点における木戸内府は、まだ東條大将を信頼していたようである。
東條に代わる戦争指導者はないと読んでいたようである。
木戸は、塚本中佐の来意をそのまま東條に電話で通報した。
これを聞いた東條大将は、烈火のごとく怒り ただちに彼の放逐を命じた。
塚本中佐が陥落寸前のサイパンにある第十九軍参謀に転出させられたのは、その翌々日であった。
この事実を知った私は塚本中佐を訪ねた。
彼は沈痛な面持ちで、
「 ついにやられたよ。犠牲者は私一人でよい。だがこれからはたいへんな事になる。
 戦争指導は転換しなければならない。いったい誰がやってくれるのであろう。
それを思うと残念だ 」 そういい残して出発した。
塚本中佐は、米軍の上陸作戦が敢行されているサイパンに着陸できず、やむなく、グアム島に着任して玉砕した。
という事実を知ったのは、それからまもなくであった。
私は彼の英姿に対し謹んで哀悼の意を表した。
いい知れない口惜しさがこみあげてきた。
私がこの木戸内大臣と塚本中佐とのやりとりを聞いたのは、
民政党の領袖であった江木翼氏の子息である江木少佐からである。
江木少佐は、木戸内大臣を 「 叔父さん 」 といって木戸御免のような気軽さで会うことのできる間柄であった。
私の同志でもあり、宮廷関係の情報源の一つでもあった。
もともと江木は、石原莞爾将軍の東亜連盟論の信奉者である十河信二氏 ( のちに国鉄総裁 ) と親しかった。
江木と私の仲をとりもったのは、当時陸軍省経理局員であった土屋博靖主計少佐であった。
土屋少佐は私が二 ・二六事件後の停職中、預けられていた徳島歩兵第四十三聯隊の主計官であった。
その頃からの友人である。
土屋少佐が、「 貴公の宮廷方面の情報収集にふさわしい人物を紹介する 」
と言って、連れて来たのが江木少佐である。
それまでの江木は私を敬遠していたのであるが、
塚本事件を契機として二人は急速に同志的関係をもつようになった。
「 徹底抗戦派と目していた黒崎少佐が、実は講和派であった」
というのが彼の述懐であった。
彼は真剣になって宮廷情報を提供してくれた。
そこで二人は協議した。
「 今やわれわれの為すべきことは、国体護持 ( 天皇制の保全 ) を唯一の条件として講和を結ぶことにある。
 戦争指導はこの一点にしぼって考えなければならない。
そのためにはまず、陸軍大臣に人を得ることだ。
山下大将か阿南大将の陸相就任を希望する。
しかし、これはへたに動くと塚本中佐の二の舞いになるばかりでなく、
徹底抗戦を呼号する陸軍をして、戒厳令を布く口実を与えることになる。
まず、宮廷、重臣の動静、的確に把握しつつ気を待とう 」
江木少佐の発案で、石原将軍の親友で各方面の情報にも精通し、
人物も信頼し得るという十河信二氏を、深夜、小石川の自邸に訪ねた。
すでにこのとき、十河氏の身辺には、反東條派ということで憲兵が目を光らせていたので、
この会談の運びは伊藤憲兵中尉に一任したのだ。
十河氏はいった。
「 このままでは日本は勝ち目はない。へたをすると東條さんの一派は、
昔の平氏のように天皇を背負って壇ノ浦の露と消えるまで戦うかも知れない。
石原将軍か真崎将軍が要路に出ることができればなア 」
「 そこまでは無理でしょうが、せめて山下、阿南さんを出したい 」
というと、
「 あまり急いで、塚本中佐の轍を踏みなさるな 」
と忠告を受けた。
親泊大佐は、いまだに東條大将を信頼したいるらしく、塚本中佐転出の件を持ち出すと、
「 今われわれは、この態勢で遮二無二対米決戦の場を求める。
 必勝か、死だ。そのための火の玉一丸だ。
今、弱気を出してはいかぬ。塚本には気の毒だが止むを得ない 」
この好人物には、まだ心底を話す段階ではないと引き下がった。
江木少佐の連絡によると
「 海軍は嶋田海軍大臣を更迭することによって、東條内閣を揺さぶろうとしているらしい。
 岡田、近衛等の重臣の動きが慌しい 」 ということであった。
一方、危惧したごとくサイパンの戦闘は七月六日、
「 われ、玉砕、以て太平洋の防波堤たらん 」
の電文を最後に自刃じじんした、陸軍の斎藤中将、
それに海軍の南雲中将の最後をもって事実上の終幕を閉じた。
大本営は、サイパンの喪失を七月十八日になって発表した。
 7.19 報道   斎藤中将
塚本中佐のグアム島での戦死を聞いた木戸内府は残念がっていたということを聞いた。
しかし、このときには重臣工作によって、東條内閣は退陣し、小磯内閣が成立していたときであった。
「 今頃残念がるなら、なぜあのとき善処してくれなかったか 」
憤慨してみたが、後の祭りであった。

津野田少佐事件 ( 東條首相暗殺計画 )
忘れもしない、この日、
昭和十九年七月十六日、私は時ならぬ電話に夢を破られた。
電話の主は意外にも、
当時参謀本部に勤務しておられた三笠宮崇仁親王であった。
 三笠宮
「 至急話したいことがあるから、すぐ来てもらいたい 」
殿下直々のお召しの電話である。
「 ただ今は深夜で車も見つかりにくいから、明朝おうかがいいたします 」
という返事を抑えて、
「 こちらから車を差し向けるから、それに乗って来るように 」
と殿下まお言葉がかえってきた。
宮家差し回しの自動車で青山表町の三笠宮邸に到着すると、
すでに玄関前に待機していた事務官の案内によって、そのまま殿下の居室に通された。
見れば殿下はまだ軍服のまま、机に向かって瞑想されていたが、私の姿を見ると、
「 このような深夜に呼び出してまことにすまないことをしたが、どうしても相談したいことができたので 」
といいながらなおしばらく空を見つめられたままであった。
「 私にできますことでしょうか 」 と問いかけると、
「 それはわからぬ。が、最善を尽くしてもらいたいのだ 」
「 いったいなにが起こったのですか 」
「 貴官は津野田知重少佐を知っているか 」
「面識はありませんが、五十期の俊英と聞いていますが 」
「 われわれは東條大将の戦争指導は間違っていると思っている。
 もはや、この戦争は勝ち目はない。せめて国力、戦力が多少なりとも残存している間に、
 終戦にしないと日本は破滅すると考えている。
そこで、どうすれば事態を転換することができるかと苦悶していたとき、
たまたま支那派遣軍時代 ( 三笠宮はその在任中若杉参謀と称していた ) に知り合った津野田少佐が訪ねて来て、
『 この事態転換のためには東條を退陣せしめる以外にはない 』 と意見書を持って来た。
しかし東條は尋常の手段では倒すことはできないので、非常手段としては、東條暗殺によるクーデターを起こし、
われわれの期待する内閣を樹立して、これによって国難を打開し、皇国の保全を求めることにするといってきた。
ここにある文書は津野田少佐、牛島辰熊、浅原健三等によってつくられた意見書である 」
このときには私も愕然とした。
それは首相暗殺という計画そのものではない。
重臣顕官の暗殺はクーデターにはつきもので、あえて驚くにはあたらない。
問題はこの計画書が、直宮じきみやすなわち皇弟の手許にあるということである。
あの二 ・二六事件といえども、" 革新のプリンス " と知られていた秩父宮との関連は、
ついに風説以上のものではなかったのだ。
だが、今の場合は違う。
しだいにたかぶってくる感情を抑えながら、つとめて平静をよそおいながら私は聞いた。
「 それで殿下は、いかがなされるおつもりですか 」
「 それで貴官に来てもらったのだ。実は皇太后陛下からも厳しい御忠告があったし、
 憲法に最も忠実な天皇に、かえってご迷惑をかけるばかりでなく、
・・合法手続ならば裁可する、其れが立憲国の天皇の執るべき唯一の 途である
その結果が果して日本のためになるかどうか・・・・」
殿下は見るからに苦悶の御様子であった。
皇太后としては、二 ・二六事件の秩父宮といい、
また 中野正剛の東條排撃運動にも
高松宮が関連されているという噂を聞かれると御心中おだやかではない。
理由はともあれ、直宮がそろって天皇の重臣を倒すようなことは、お国のためとはいえ重大事になりかねない。
その御懸念から、三笠宮に対しても言動にくれぐれも注意するようにさとされたのであろう。
そしてこの皇太后のご忠告によって、深夜に私を招致するということになったのであった。
「 それでは殿下から直々に津野田少佐に、中止を命ぜられてはいかがですか 」
「 それができるくらいなら貴官を呼びはしない 」
この実行計画は津野田が担当しているので、津野田に伝える以外に方法はないのであるが、
今、津野田は桂林作戦指導のため中支に派遣されている。
また津野田の不在中に他の同志によって決行されるかどうかもはっきりしないので、
一刻も早く津野田を呼んで中止するよう伝えたい。
といって、津野田の上司でもない私が、作戦行動中の彼を召還すめ権限はない。
この辺の苦衷を察して善処してくれないか 」
「 この極秘の大事を私ごとき者に御相談下さった御信頼に対して謹んでお礼を申し上げます。
 戦争指導の一大転換を要すること、今より急を要することはありませんが、
殿下が中止を御決心された以上、多少の犠牲を出しても、これを未然に防ぐ以外にないと思います。
そのためにはまず、なにをおいても津野田少佐を召還することです。
その方法については、今夜一晩考えたいと思いますので御猶予下さい 」
「 よろしく頼む 」
心なしか、殿下はすこし安堵された表情で、辞去する私を玄関まで見送られた。
帰宅した私は、殿下から預かった一件書類をむさぼるように読みふけった。
なかでも、津野田少佐経由で三笠宮に奉った浅原健三の意見が胸をうった。
いずれにしても、これは不発に終わらせることにかぎる。
そのためには、極秘裏に津野田を召還せねばならぬ 」
しかし私はその権限はない。
これをできるのは津野田の直属の上司である参謀次長だけである。
が、その参謀次長の許可を得るためには、その前に私の上司である上田防衛課長にだけは、
このいっさいの事情を打ち明けて、協力を要請する必要がある。
私はようやく決心した。
夜の明けるのを待って、私は再び三笠宮邸に伺候した。
「 殿下、まずこの件について事情を御存じの皇族の代表として、
 東久邇宮殿下にもあらかじめ予想し得る結果についての御了解を得ることが必要だと思いますが 」
「 よかろう。私も一緒にお伺いしよう 」
こうして私は三笠宮に同行して東久邇宮邸に直行した。
すでに三笠宮から連絡があったとみえて、東久邇宮はあらかじめ待機されておられた御様子であった。
ここで私が口をきった。
「 三笠宮殿下から承りました本件は、極秘に最小限の犠牲によって処理いたすことにしたいと思います。
 なお、これが皇室に累を及ぼさないように細心の注意を致しますが、
なにぶんにも私の一存では到底できませんので、少数の上司と相談いたすことにいたします。
その際、殿下方の御尊名を全然秘匿することは不可能でありますので、
あらかじめ御了承賜りたいと存じます。
もちろん、犠牲者の生命には別条なきよう努力いたします 」
東久邇宮はしばらく瞑黙のまま、大きな呼吸のあと、静かにおおきくうなずかれた。
宮邸を辞去する私の心は憂鬱であった。
その足で陸軍省に登庁した私は、上田防衛課長とさしで密談にはいり、
昨夜来の顚末を要領よく説明するとともに、その指示を仰いだ。
「 よし、その方針で極秘に処理する以外に方法はあるまい。
 ただ参謀次長の " 津野田少佐召還命令 " の発動には兵務局長の諒解をとりつける必要がある。
君も一緒に来い 」
二人は兵務局長室に向かった。
上田防衛課長の報告を聞いた那須義雄 ( 三十期 ) 兵務局長は、よほど驚いたとみえて、しばらく声がなかった。
やおら、彼は、
「 これは、大臣、次官にも報告しなくてもよいのか 」
「 いえ、今のところその必要はありません。
 事件はまだ発生したわけではありませんし、その中心人物である津野田少佐を召還すればこと足りると思います 」
と、私が答えると、
「 うむ、そのことを貴公から直接、参謀次長に申し上げろ 」 といいながら、
那須少将は上田課長と私を従えて次長室の扉をたたいた。
秦彦三郎参謀次長 ( 二十四期 ) は三人の報告を聞いたあと、
「 よしわかった。すぐに津野田少佐を召還しよう。その後の処置は陸軍省に一任する 」
このように津野田召還の件はここまでは順調に運んだ。
これで事件は未然に防げるのであろうし、この事情処理も隠密裏に結末をつけることができる。
なんの犠牲者も出さずにすんだと私は安堵した。
しかし、その安堵は少し早かったようである。
兵務局長はあくまでも事件として処理する肚であったようだ。
局長室に帰ると那須局長は、本件を東京憲兵隊に一任すると言った。
私は、「 津野田が帰って来てことなきを得たならば、別に事件にしなくてもよいと思いますが 」
と反論した。
「 いや、陸軍としては一応事件として処理することがこの際必要なことだ。
 イタリアの降伏以後、日本でもバドリオ政権が取り沙汰されている。
この際、操作を実行し、必要な処断は断乎として行なう 」
といって、自ら東京憲兵隊長に電話した。
局長からの電話によって飛んで来た憲兵隊長は、東條側近の一人として知られていた四方涼二大佐であった。
局長から事情説明をうけた四方隊長は、
「 たいへんなことになりましたなァ。
 だが、宮様も御存知となると、事件は泰山鳴動して、ネズミ一匹ということになりませんか 」
と冷然としていった。
「 本件はそれでよいのです。事件が確実に不発に終われば、ネズミ一匹も出ない方がよいのです。
 ことを荒立てて、事件となって表面化したらそれこそたいへんですから。
その辺のところを十分気をつけて下さい。
それから津野田少佐は帰還後ひとまず参謀本部に登庁させた上で憲兵隊に引き渡しますから、
それ以前に途中で逮捕しないように願います 」
と、私は念を押した。
四方隊長は、薄笑いを浮かべながら、
「 わかりました。とにかく善処しましょう。ところで、貴官が三笠宮殿下からお預かりしている一件書類をお渡し下さい。
 一件落着の上はお返しします 」
上田課長は、その文書を四方隊長に手渡した。
上田課長は部屋に帰るなり、
「 おい黒崎、事件男の貴様が来るとなにか起こると思っていたが、案の定起きたなア。
 しかし、あとは憲兵隊にまかせてしばらく静観だぞ 」
と、念を押すことを忘れなかった。
こうして、この時局転換のためのクーデター計画は、
東條首相暗殺未遂の刑事事件として、隠密裏に処理されることになったのである。
七月十七日の午後、私は津野田少佐の同期生である参謀本部の久米少佐の来訪を受けた。
皇太后のもと女官であったという久米少佐の母から、津野田のことを聞き、彼の身を案じて来たのであった。
「 さあ、どうなることか、私にもわからぬ。東條内閣が続くとすれば相当のことになるかも知れない。
 この際事件の被害を最小限にとどめるようにしたいから君も手伝ってくれ 」
「 ハイ、なんでもやります 」
「 よし、それでは今夜、津野田の家に行こう。たしか母堂お一人であったなア 」
「 そうです、私が案内します 」
「 だが、私服だぞ。憲兵が監視しているはずだから顔を見られないように用心しろよ。
 時間は七時、渋谷駅前のハチ公前で落ち合おう 」
私と久米少佐は予定通り渋谷の津野田家を訪れた。
すでに久米少佐が連絡したであろうか、母堂は二人の不意の訪問にも驚いた様子はなかった。
このたびの件につき、津野田少佐の被害をできるだけ少なくしたいという二人の申し出に対して、
津野田の母は答えた。
「 知重は殿下に特別に親しくして頂いており、なにか重大なことについて御相談したらしいことは承知していました。
 知重も父 ( 日露戦争当時、乃木将軍の参謀として旅順で活躍 ) の血を受けている身、
皇国のために身命を捧げているからには、このことがどのようになろうとも、
決して女々しい振る舞いはしないと信じています。
このことが皇室に御迷惑をかけないよう、知重ともども最善を尽くしますから御安心下さい 」
静かな語らいであったが、そこには凛呼として冒おかすべからざる明治の気魄が、二人の胸を打った。
「 すでにお宅は憲兵が監視しており、いつ家宅捜索を受けるかも知れませんから、
 なるべく余計なものは整理してください。
津野田少佐はたぶん、一両日のうちには帰還し、参謀本部に登庁の上逮捕ということになると思いますので、
母堂からもあらかじめこのことを本人に伝えてください 」
そのほか二、三名の打ち合わせをしたのち、二人は津野田家を辞去した。
翌十八日、久米少佐から津野田少佐の帰宅の連絡を受けたので、私は再び久米少佐とともに津野田家を訪れた。
私たちを出迎えた津野田少佐は、すでに覚悟を決めていたものとみえ、平然としていた。
「 残念ですが、ことここに至るのです。女々しいことは致しません。
 宮様に御迷惑がかかるようなことは致しません。
日本の前途については、よろしくお願い致します 」
言葉少なに語って瞑黙する。
「 決行についてどうなっていたのかそれがよくわからなかったので、表面化せざるを得なかったのだ 」
「 私が桂林から帰ってからやるつもりでした 」
津野田はいかにも口惜しそうな表情を見せた。
「 いずれ軍は解体する。そのうちに軍は新しく生まれかわるのだ。
 日本の戦争指導が間違っていたことは、心ある者は十分感じとっているのだが、誰も正面きっていえないのだ。
これから日本にはいろいろなことが起きてくるだろうが、
われわれとしては、それが日本の崩壊につながらないよう身命を賭すつもりだ。
津野田少佐、君の生命には別条はない。
くれぐれも体に気をつけて他日を期してくれ給え 」
私の声も涙になり、久米少佐はそばで泣いていた。
肩をならべて辞去する二人の心は暗かった。
見上げる空もまた黒かった。
「 オイ、久米君、静かな東京の夜もいましばらくだぞ。
 やがて日本列島は空襲で火の雨が降るぞ。
いよいよわれわれの正念場が近づいてくるぞ 」
「 なんとしても日本を残さなければなりません。
 軍人としての私は、ただその日その日の最善を尽くすしかないのです 」
そういうと久米は声を挙げて泣いた。
私も泣いた。

だが、なんという皮肉だろう。
この日、東條内閣は総辞職したのである。
翌十九日の朝、津野田少佐は参謀本部に帰還の申告をすべく家を出た。
それはまた憲兵隊への道でもあった。
このとき津野田少佐は、たまたま彼の家に寄宿していた軍務局軍事課の資材班長中原茂敏中佐 ( 三十九期 ) と同行していた。
二人が道玄坂にさしかかったとき、
「 ご同行願います 」
と 現れた憲兵に逮捕され、そのまま憲兵隊に連行された。
この事実を知った私は激怒して参謀次長室にかけこんだ。
「 次長閣下、約束が違うではありませんか。
 津野田は閣下の部下ではありませんか。
現行犯ではないものを、なぜ途中の直接逮捕を許可されたのですか。
士道 地に堕ちたりとは、このことです 」
私の権幕が仰々しかったので次長も驚いたようであったが、「 指示が不徹底だったのかな 」
と言葉を濁した。
後の祭りであった。
当時、中央省部では、武断政治の権化のようにいわれていた東條の側近に
「 三奸四愚 」 あり、ということが囁かれていたが、
少なくともこの四方憲兵隊長はその一人であったことはたしかである。
彼は東條大将が関東軍憲兵司令官当時に、中佐副官として仕えて以来、
東條の腹心として東條に忠誠を励んでいた。
おそらく、退陣する親分東條に対する最後のご奉公のつもりの忠義だてが、
この津野田少佐の直接逮捕となったのである。
リンク→ 條首相暗殺の陰謀
・・・次頁 
終戦への道程 2 『 阿南惟幾陸軍大臣 』 に続く

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昭和20年8月15日・阿南惟幾 『 一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 』

2022年06月24日 14時54分13秒 | 9 昭和の聖代

一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル
昭和二十年八月十四日夜
陸軍大臣阿南惟幾 あなみこれちか

神州不滅ヲ確信シツ ヽ 
大君おおきみノ深キ恵ニ浴ミシ身ハ
言ヒ遺コスヘキ片言モナシ
昭和二十年八月十四日夜
陸軍大臣惟幾

和紙を支度したのは、陸相秘書官を務めた林三郎大佐である。
前夜、林は阿南から
「 半紙を用意してくれ 」
と頼まれたとき、不安を憶えた。
案の定、阿南は墨書したあと、徐に筆を擱き、短刀を手に取って自決した。

それを林が目の当たりにしたのは、玉音放送があと六時間で為されるという瀬戸際で、
ちょうど皇居を揺るがした叛乱が生起し、( 陸相 ) 官邸の警護に急行したときだった。

門を抜けて玄関へ廻ろうとした際、にわかに止められた。
阿南の義弟にして軍務課内政班長の竹下正彦中佐だった。
何事かと問えば、閣下がお腹を召しておられるのです、と。
林は仰天した。
庭先へ眼を馳せれば、軍務課員の井田正孝が尻餅をついて哭泣こつきゅうしている。
その視線の先、硝子戸の閉められた縁側に、割腹中の阿南が見えた。

時すでに遅い。
陸軍省の医務局から衛生課長の出月三郎大佐が駈けつけたときには、もはや絶命していた。
出月は、
「 七時十分、絶命。 下腹部臍下一寸の所に、左から右へ向かう刀創あり 」
と検視した。

玉音放送の後、阿南の遺体は、林や竹下らによって市ヶ谷台の陸軍将校集会所へと運ばれ、
猛烈な慌ただしさで通夜が営まれた。

阿南の心境について、さまざまに憶測された。
降伏を支持しつつも陸軍の暴発を食い止めるための腹芸であった、
講和を有利に運ぶための最後の一撃を期待していた、
などだが、真実かどうかは、阿南に近侍していた林ですらわからなかった。
・・・・・・・・・・・

( 昭和二十年 ) 七月二十六日にポツダム宣言が発表され、
翌二十七日には最高戦争指導会議と閣議が開催されたが、
広島と長崎への原爆投下、ソ連参戦と最悪な道を辿ってしまった。

ところが、事ここに至っても尚、会議は迷走していた。
宣言を受諾しないというのではない。
受諾の条件について、國體護持のみに絞っている外務大臣の東郷茂徳に対し、
阿南と参謀総長の梅津美治郎と聯合艦隊司令長官の豊田副武の三名が、
國體護持、保障占領拒否、自主的武装解除、自主的戦犯処罰の四条件に拘こだわり、
これが認められなければ徹底抗戦、本土決戦あるのみと主張し、
まるで決着がつかなくなっていたからだ。
そこへもって陸軍部内で叛乱の兆しありという情報まで囁かれ始め、
いきり立った将校らの阿南に対する突き上げは狂気すら孕はらみ始めていた。
東郷はついに無条件の宣言受諾を打ち出したが、
阿南 ・梅津 ・豊田の三名は、國體護持だけは譲る気配を示さなかった。
だが、膠着していた事態は、八月十四日午前十一時の御前会議において一挙に打開された。
御聖断である。
『 世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、
 戦争を続けることは無理だと考える 』
昭和天皇は白手袋で涙を拭われつつ、宣のたまわれた。
その瞬間、御文庫附属室を漂っていた緊張は頂点に達し、そこらじゅうで嗚咽が漏れた。
重臣たちが戦争に敗れるという現実を骨の髄まで自覚した瞬間だった。
至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい
というご指示を最後に、昭和天皇はご退席されたが、
阿南たち重臣の慟哭は尽きなかった。
陸軍省に戻った阿南は、待ち構えていた中堅将校らに対してこのように告げた。
「 御聖断は下された。
 承詔必謹。
皇軍はあくまでも御聖断に従って行動する。
以後、一切の妄動は許さぬ。
それでも、おまえたちが未だ徹底抗戦を主張するのなら、おれを斬れ、
この阿南を斬ってからやれ 」
・・・八月十四日
その夜、阿南には、にわかな来客があった。竹下正彦である。
竹下中佐は宣言の受諾反対を掲げ、
当夜、部下の畑中健二少佐と椎崎二郎中佐が宮城占拠の叛乱を企てる中、
単身、陸相官邸へ赴き、決起を促さんとしたのだ。
ところが、阿南の 「 なにしに来たかっ 」 という一喝と、
すぐ後の 「 まあ入れ 」 という懇ろな促しに気を削がれ、一献、酌み交わす内に自刃の覚悟を知らされた。
そこへ、もうひとり、現れた。
井田正孝である。
井田は、国史学の権威、平泉澄きよしが開いた 『 青々熟 』 で竹下や畑中と出会い、宮城占拠を企てるに至った。
國體とは、神聖にして侵すべからざる、天皇が永久に統治権を総攬するというもので、
これを護持せんとしたのが平泉であり、阿南であり、かれを尊崇してきた将校だった。
 井田正孝
井田が陸相官邸を訪れたのは、午前四時を回ったあたりだった。
座敷に上がると、阿南は諸肌を脱いで晒布を巻き、抜き身の軍刀をかたわらに置き、端然と腰を下ろしていた。
阿南は井田をふりかえることもなく、こう告げた。
「 ---これより説伏して、お詫び申し上げようとおもう。どうかァ 」
井田は思わず塞き上げ
「 わたしも、閣下のお供をいたします 」
と叫んだ。
その途端、阿南のびんたが飛んだ。
そして
「 馬鹿をいってはいかん。死ぬのは、わしだけでよい。
 おまえたちは、この国を建て直さねばならん。
だから、死んではならん。よいか。わかったか 」
と告げるや、粛々と切腹の支度にかかった。
昭和天皇から下賜されたシャツを纏い、いったんは軍服の袖に手を通したが、
やはり丁寧に畳んで、三男惟晟の遺詠を乗せて袖で包んだ。
そして 「 これで一緒に逝ける 」 と呟き、短刀を手にした。
時は、午前五時に近かった。
若松只一
阿南の臨終を見届けるや、竹下は朦朧とした足取りで陸軍省へ赴き、
陸軍次官の若松只一中将に詳細を報告した。
若松が、
「 大罪とあるが、それはなにを指しているのか 」
と質ただした。
竹下は・・
「 大罪なる言葉について、特に質問はしませんでした。
 しかし、おそらくは、満洲事変以後、国家を領導し、大東亜戦争に突入し、
ついに こんにちのごとき事態に陥れてしまった我が軍の行為に関し、
代表してお詫び申し上げたのではないかと推察いたします 」

歴史街道  「 昭和の陸軍 」 光と影 から

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聖代の終焉・3 『 一死以奉謝大罪 』

2022年06月23日 05時45分14秒 | 9 昭和の聖代


聖代の終焉 ・3
『 一死以奉謝大罪 』


八月十五日

軍の動揺つづく
阿南陸軍大臣はこの朝
「 一死以奉謝大罪 」  「 神州不滅を確信しつつ 」
「 大君の深き恵みにあいし身は云ひ残すべき片言もなし 」
の辞世や遺書をのこし、義弟竹下中佐のみとりをうけて、
官邸、といっても戦災のため秘書官官舎の陋屋るやで割腹自決を遂げた。
自決の直前 近衛師団の騒乱をきいて、これも一緒にお詫びしようといったと伝えられている。
大城戸中将が、近衛兵乱を報告のため、午前四時頃官邸を訪問したときは、
丁度、陸相の自決寸前であり、竹下中佐に事態の伝言を依頼して辞去した。

「 ・・・幸福の場合は叛乱は必然です。総理大臣に成算はありますか、軍隊叛乱の情報は次々に入ってきています。
 もはや生死することはできません。 禁足を命ぜられていた青年将校の大部分は、禁を破りぞくぞく動き出しています。
政府はこの際断乎としてアメリカへ再照会すべきです。因循姑息判断に迷っていると、政府は一挙に転覆しないとは限りません。
軍は降伏を願っていない。今後何百人の日本人を殺す覚悟でいます。
総理大臣はただの大臣ではない。兵隊の気持ちを誰よりも御存知のはずだ。
私は大臣を脅迫に来たのではありません、憲兵として報告にかけつけてきた。
もはや事態は逼迫しています。」
耳を傾けていた総理は、向き返って将官を正視し、いと静かに、
「 あなたの言うことはよくわかった。しかし私の考えは違う 」
といったまま、今まで誰と話していたか忘れたような、あまりの静けさに、あっけにとられた将官をあとに、
首相は閣議室に消えた。・・・・児玉誉士夫 著  『 日本敗れたり 』

寡聞にして私は斯の事実を知らない。
多分、事は十三日か十四日のことだろうが、憲兵将官といえば、大城戸中将より外にない。
果して大城戸中将が、憲兵司令官として鈴木首相に、このような脅迫的意見を具申したかどうか疑わしい。
大城戸中将はこんな軽挙をする人柄ではないと思うのだが、
もし、ありとすれば、幕僚の懇請に一役買ったものか。
とにかく、陸軍幕僚の十四日廟議決定までの、戦争継続の勢いはすさまじいものだった。
十四日午後三時頃、内閣総合計画局長官 池田純久中将は、
新聞記者から迫水書記官長に手渡されたという大本営発表原稿を、迫水よりうけとり、
閣議室より阿南陸相を呼び出してこれを大臣に見せた。
これを見た阿南陸相は、色をかえ、『 誰がやった、何奴の仕業か 』 と早速、陸軍省へ電話した。
その原稿には、
「 皇軍は今や新たに勅命を拝し、米英ソ支連合軍に対し、全面的作戦を開始せり 」
とあった。
この大本営発表はくいとめられたが、抗戦派幕僚の当時の空気を伝えるものがある。
このような奔馬の如き幕僚を御して終戦決定に持ち込んだ阿南大将の苦衷は、
今においても惻々として人々の胸を打つものがある。

さきの航空士官学校の上原大尉はどうして上京し、この兵乱にまぎれ込んだものだろう。
すでにこの学校にも十四日頃からけわしい空気がながれていた。
航空士官学校、航空特攻のたまごを鍛えあげるこの学校では、
生徒隊の中隊長、区隊長といった連中は、志気極めて旺盛な元気ものの集まりだった。
十四日頃から東京の情勢を知って、中央の軟弱にいきどおりをたぎらせていた。
十五日朝、青年将校の一団は学校本部に押しかけ、
校長や幹事に対し戦争終結絶対反対を叫び、校長の善処を求めていた。
なかには抜刀して校長を威迫する、すごい中尉もいた。
だが、学校当局としては、これを始め学校本部の職員は、
次々に押しかける青年将校によって、軟禁同様の情態におかれていた。
急報によって駈けつけた豊岡憲兵分隊長、柄沢勇太朗中尉が学校についたときは、
彼らは、自動車を無断使用して、大挙、東京に出かけ、
軍中央部に向ってデモ行進を行って圧力をかけようと準備し始めていた。
校長も幹事も、誰一人彼らを説得するものはなかった。
激昂せる彼等を刺戟することが、却って流血の混乱となることを恐れたのであろう。
全くの拱手傍観の態度であった。
わずかに副官の手で自動車の運行を不能にする手配が進められていた。
このような空気の中で、上原大尉は無断上京し、
東京情勢を偵知しつつあったとき近衛師団立つの風評を耳にし、
夜中師団司令部に駈けつけたのである。
当時の学校長は日本航空生みの親、徳川好敏中将であった。

学校に駈けつけた憲兵分隊長は、学校の要請で青年将校の説得を試みようと、
大部の若い将校が屯していた、生徒隊の、とある将校室にはいった。
拳銃を擬した一将校は、『 分隊長何しにきた、撃つぞ ! 』 と銃口を向けた。
『 撃つなら撃て、だが、その前にオレの話をきけ 』 分隊長は平然と彼らの仲に入った。
なかに、『 よおし、それなら話をきいてやろう 』 と憎々しげに発言するものもいた。
憲兵は心の中でしめたと思った。
これならなんとかなると自信をつけた。
二、三十分もその暴挙を戒めた。
もう、わかった、帰ってくれと、その一人が叫んだときは、彼らの激昂はかなり静まっていた。
間もなく正午、天皇の勅語は、全校にひびきわたり、静寂の中に、ただ玉音が力強くこだましていた。
玉音はおわったが、彼等は涙も見せない虚脱を示していた。
だが天皇の放送を転機として学校も静まった。

十五日夕刻、上原大尉は悄然と帰校した。
学校当局はこれが処置に迷ったが、大尉の同期生たちが彼を保護した。
そして熟議の上 彼を自決せしめることとし、本人に勧告するところがあった。
上原もまたいたく責任を感じその言葉にしたがった。
十六日夜、学校の一隅にある航空神社の前に、自決場所をしつらえ、
同期生荒熊大尉の介錯によって、上原は潔く一命を絶った。

近衛師団の兵乱の最中、横浜地区憲兵隊長から
「 横浜警備隊所属の佐々木武雄大尉、横浜工専の学徒七名の一団は、
 トラックにのり京浜国道を東京に向い前進中なるが、彼らは徹底抗戦派にして首相官邸襲撃の企図あり 」
との報告があった。
私は早速、隊司令部に待機せしめていた本所分隊長堀江少佐に憲兵二十名を付し、
佐々木大尉一行の逮捕を命じたが、堀江少佐は事毎に逮捕の機を失し、彼らの後を追いつづけていた。
彼らは首相官邸玄関にガソリンをまき放火し、ために官邸玄関を焼き、
さらに首相を追うて本郷丸山町の鈴木私邸、また枢密院議長平沼男を西大久保の私邸に襲ったが、
その不在のため放火して引き上げた。
憲兵は午後三時頃漸く彼ら一味を逮捕したが、
取調の結果、和平絶対反対の彼らは首相を暗殺して局面の転換をはかろうとしたが、
首相ほ捕捉し得ず、放火したにすぎなかった。

越えて十六日夜、水戸航空通信学校学生隊 杉少佐を先頭とする将校以下数百名は、
近く連合軍の進駐を予期し、天皇を守護し奉らんと意気込んで、
大挙上京し、宮城前に至ったが、近衛師団の宮城占拠はすでに事敗れ退散のあとだったので、
後退して上野の台上
を占拠した。
身とからは、続々と上京参加し、十七日に至ってはその数四百名に及んだ。
だが、彼らは大挙上京はしたが、どうするというのではなかった。
航空本部長寺本中将以下航空関係者は、挙ってこれが撤退説得に当たっていたが、
彼らは頑として応じなかった。
近衛師団事件によって憲兵隊に拘留されていた石原大佐は、自ら説得を願い出て、
許され上野山に赴いたが、ここで杉少佐を説得中 傍らにあってその状況を見ていた水戸上京隊の林少尉は、
いらざる説得にいかり、拳銃をもって石原少佐を射殺した。
杉少佐は瞬間 林少尉をその場で射殺するという、まことに異常な昂憤の渦きの中に二人の生命は失われた。
こんな事態ではあったが、時がたつにつれ上長の説得も功を奏し、馳せ参じた将兵も無意味の上京を知って、
ボツボツ引き上げるものも出て来た。
かくて、杉少佐も残余を引率して、なすことなく学校にかえったが、
その夜、これらの首謀者、杉、岡島両少佐、荒牧、浜田両中尉らは、
水戸護国神社前で、壮烈な自決をとげてその責を拭うた。

帝都の混乱
すでに八月十一日夜、
新橋、赤坂に手榴弾さわぎがあり、
しかもそれが軍の幕僚に糸を引く右翼分子であったことは、すでに述べた。
軍務局抗戦派の一派は、国体護持のために、ポツダム宣言受諾を不可とし、
鈴木首相を始め重臣の暗殺によって、日本におけるバドリオ内閣を倒そうとたくらんでいた。
これは、後日警視庁より連絡を得たことであったが、
八月十二、三日頃、
抗戦派幕僚の畑中少佐は警視庁二課長 ( 右翼担当 ) 石岡警視を訪ね、
「 一部の右翼を使って若干の重臣を葬り去るつもりだが、大きな治安を保つために、
 小さい問題として見逃してもらいたい。
今のところ鈴木首相、米内海相、平沼枢相、木戸内府の四人を狙っている。
このことは絶対に口外されぬよう願いたい。」
と申入れた事実があった。
ある右翼とは、十九年結成された尊攘同志会の一味であった。
八月十六日早朝四時頃、
青山の木戸邸に十数名の暴漢があらわれ、木戸邸を隈なくさがしたが、
木戸内大臣は見当たらなかったので引き上げたことがある。
このとき、彼等はわれわれは憲兵特攻隊だというので、折柄私服警戒中の憲兵が、
『 何をいうか、俺は憲兵だが、憲兵特攻隊とは何か 』 と詰問すると、
いや、われわれは国士だと這々の態で撤去した。
その翌日にも夜半に木戸邸の焼跡の前にあった木戸の弟、和田小六邸を襲い、
三宝に短刀と斬奸状をささげ持ち、木戸がいるだろう、出せと迫ったが、
木戸内府は宮中にいたので目的を達しなくてかえった。
これがさきの畑中少佐らに密絡する、尊攘同志会、のちの尊攘軍の一派であった。
彼らは軍と相携えて蹶起し、専ら重臣を狙うて国内和平派に弾圧を加えることを目的としていたが、
近衛師団兵乱も僅か数時間にして鎮定され、首謀者の自決により、その拠りどころを失い、
愛宕山を本拠として策動をつづけていた。
その同志の一人 稲垣好太郎が新橋駅前で、終戦反対のビラを貼っているところを、
警視庁につかまり、その取調によって特高二課の活動となり、その本拠愛宕山に一斉逮捕に向ったが、
彼らは手に手に手榴弾、拳銃をもち、警察官に対抗し、警視庁も武力発動もならず、
ここに、睨み合いの数日をすごした。
東久邇内閣ができ、敵の進駐を迎えようとするとき、なんとか早く、かたをつけなくてはならない。
坂警視総監は東部軍に赴いて、軍隊による鎮圧を懇請したが、
軍は今更国民の怨府となることを好まなかったので、高島参謀長は、ていよくこれを断った。
そこで憲兵隊にも強力の希望があり、隊司令部高級部員塚本誠大佐が赴くことになった。
八月二十日午後一時、
塚本大佐は、警視庁石岡第二課長と共に山に登り、
飯島与志雄、谷川仁、擢建富士夫らと会った。
そこで塚本より終戦における御前会議の模様、近衛兵乱の失敗などを語り、
彼らの翻意をすすめたが、成功しなかった。
そこで、とうとう、二十二日
警視庁決死の一隊は、愛宕山を包囲し
夕方五時すぎ包囲隊が一斉に攻撃に移ろうとした瞬間、
山の張譲六角堂に終結していた彼等は、手榴弾による自爆を遂げた。
ただ一人爆風のため山の中腹まで飛ばされたものを除き全員の自決であった。
尊攘同志会の飯島与志雄ら七人、国粋同盟会の皆川貞次郎らの三人、
彼らはその後 厚木航空隊の反抗と相呼応しようとしていたが、
事ならず死を以て天皇にその罪を謝したのであった。

それから数日のあと、
八月二十七日未明
若い女性三人が、山上に血にまみれて倒れていた。
擢建、稲垣、毛呂の夫人たちで、お互いが拳銃でうち合って夫君に殉じたのであった。

このように愛宕山の尊攘義軍は悲惨な集団自決で平定したが、
翌二十三日には、
宮城前で日本郵船明朗会会長 日比和一を始め
渡辺佑四郎、高井忠弘、鈴木忠一、白井幸男ら十一名が、
陛下に対し また 国民に対しても誠に申訳がない、偏に大罪を謝し奉る
とて、真心こめて宮城を遙拝したあと服毒自殺した。
その中には女性一人も交っていた。
二十四日、
影山正治の主宰する大東塾は、
正治応召不在のため、正治の父 影山庄平を中心に野村辰雄、牧野春雄、篠原正忠など塾生十四名、
ことに庄平のごときは老体にて大八車に乗って、代々木練兵場に至り、
一同割腹自殺して、天皇、国民にお詫びした。
・・・リンク→
昭和20年8月15日・殉国 『 無窮に皇城を守らむ 』 

この日 ( 二十四日 )、航空予科士官学校の教官、区隊長らは、その生徒二十数名と共に、
埼玉県川口市にある海外向けの放送所を占拠した。
彼らは、学校疎開で埼玉県寄居附近に疎開していたのであったが、
夜間演習と称して離校し 行軍によりこの無線所に到着、占拠に出たものであった。
同地区憲兵隊長 長政刈三徳中佐は、急をきいて駈けつけ、
彼らを説得、撤退せしめようとしたが頑として聞き入れない。
隊司令部より塚本大佐、藤野中佐らが赴いて説得した。
彼等はアメリカ軍進駐せば全世界に向って、これが反対宣伝に従うのだから、
それ迄は断じて撤収せずと意気込んでいたが、藤野らの懇ろな説得に、漸く意をひるがえして撤収帰隊を始めた。
丁度、そこへ東部軍司令官田中大将が来場し、すでに企図に就こうとしていた彼らを呼び戻し、
諄々とその非をさとし日本の将来につき訓話した。
田中静壱大将
田中軍司令官は、その夜第一相互ビルの軍司令官室において、拳銃自決された。
田中大将はすべて計画通り自決の存念を果した。
略綬を佩用し安楽椅子に腰をかけ、前に机を置き、その上に恩賜の軍刀、帽子、白手袋、
明治天皇像、恩賜の煙草、観音経、甘露の法雨、入歯、杉山元帥はじめ各軍司令官直轄部隊長、
高島参謀長、塚本副官及び家族へ五通の遺書がならべられ、
別に十五日近衛師団の宮城占拠を取鎮めたあと、
天皇からいただいた御嘉賞の御言葉--「 御上の言葉 」 一通が机上に置いてった。
大将はこの日の午後五時御文庫において天皇に拝謁し御言葉をいただいたことを、
武人無上の光栄とし、自ら三通を認め一通は郷里兵庫県竜野に送り、一通は物入れに、
一通を遺書と共にならべていた。
その 「 御上の言葉 」 とは
「 今朝ノ軍司令官ノ処置ハマコトニ適切デ深ク感謝スル、
 今日ノ時局ハ真ニ重大デイロイロノ事件ノ起コルコトハモトヨリ覚悟している。
非常ノ困難ノアルコトハヨク知ツテイル。
シカシカクセネバナラヌノデアル。田中、コノ上トモシツカリヤツテクレ 」


自決といえば
杉山元帥夫妻も自決したし、
海軍特攻生みの親 大西海軍中将も自決した。
陸軍三長官を歴任した軍の長老、第一総軍司令官杉山元元帥は、すでに終戦と共に自決を決意していたが、
九月に入って横浜アイケルバーカーの呼出しに、敗軍の将としての苦悩をつつんで面接したが、
その二、三日後、総軍司令官室において、四發の拳銃弾を心臓に打込み自決し敗戦の罪を謝した。
このしらせの電話をうけた啓子夫人も、すぐ仏間に入り短刀をもって夫のあとを追うた。

地方の動揺
混乱は帝都だけではなかった。
東京に近くも厚木には徹底抗戦に狂奔する海軍航空隊があったし、
さきの尊攘同志会の一派は松江市の島根県庁を襲うたし、
その他、私の知る限りでも、熊本、鹿児島にも不穏の動きがあった。
敵の上陸近しとの情報に軍はもとより、官庁、団体、会社に至るまで、書類の焼却に忙しかった。
東京の空は雲烟ただようて暗かった。
十六日の昼頃 わが戦闘機一機低空を飛んでビラを撒いていた。
そのビラは、
国民諸子に告ぐ    海軍航空隊司令
赤魔の巧妙なる謀略に翻弄され 必勝の信念を失ひたる重臣閣僚共が、

上聖明を覆ひ奉り 下国民を欺瞞愚弄し、遂に千古未曾有の詔勅を拝するに至れり。
恐懼極まりなし。
日本の天皇は絶対の御方なり、絶対に降伏はなし、天皇の軍隊に降伏なし。
我等航空隊の者は絶対に必勝の信念あり。
ポツダム宣言を履行する時は戦争を継続するより何百何十倍の苦痛を受くること、
火を見るよりも明なり。
今や、大逆無道の重臣共は、皇軍により禊祓はれつつあり。
かくして国内必勝の態勢は確実に整備さるべし。
今こそ一億総蹶起の秋なり。
と かかれていた。

航空隊司令とは、厚木三〇二空指令小園安名大佐であった。
彼は、十一日 政府がポツダム宣言を受諾したことを知って憤慨し、
断乎抗戦を決意し 部下またこれに応じ挙隊戦争継続に邁進する態勢を示して気勢をあげていた。
十五日聖勅を拝しても、
「 大詔渙発により一旦大東亜戦争は週末を告げるとはいえ、再度戦争継続の大詔を拝すること必然なり。
 国体護持のため、今後余は戦争継続に反する如何なる上司の命令を拒否し、
飽く迄戦争を継続する覚悟なるを以て、全員本職に続け 」
と部下全員に訓示し、天皇の録音放送を拝したあと海軍部内全般に向け、
戦争継続の激励電報を打電したが、それでもなおおさまらず、
前記のビラを関東一円から、北は東北地方、南は九州地方に亙って撒布したのである。
三〇二空は小園大佐のもと団結もっとも強く、横須賀鎮守府や海軍首脳部の説得にも応じなかった。
海軍は小園大佐の司令を解いて横鎮司令部付を発令したが、彼は依然として部下を指揮していた。
この三〇二空の前には相模原航空隊があり、比較的平静であったが漸次小園部隊の行動に刺戟され、
下士官は徹底抗戦を主張し 幹部の優柔不断に憤り、決起を上官に迫っていた。
十八日午後
勅語奉読式後部隊は大混乱に陥り、司令は下士官の要求を入れ抗戦意思を表明することによって、
漸く事態は収まった。
十八日 小園大佐は精神に異常を来し、二十一日海軍病院に入院したが、
これから漸く部隊も平静になり、高松宮が、副司令以下を諭されたこともあり、
副司令以下の上級幹部は、その非をさとり、部下の軽挙妄動を戒めることになった。
だが下級士官らは、上長の軟化に一層激化し、
岩戸中尉以下、士官次室士官二十五名それに下士官五十七名は、
このまま武装解除せらるるに忍びない。
むしろ志を同じくする陸軍部隊に合流しようと、児玉、狭山両陸軍飛行場に向って一斉に飛び立った。
この陸軍航空兵団でも若い将校がいきり立ち雷撃機を勝手に飛ばすなど危険な部隊であった。
こうして二十一日朝以来、三〇二空は、あとに残った数千名の隊員も、手あたり次第、物をもって退散し
翌々日の二十三日には、掠奪りゃくだつのあとの空屋と化していた。
リンク→昭和20年8月15日・厚木航空隊事件 『 神州不滅なり !』 

南国の熊本には尊皇義勇軍の動きがあった。
熊本市長石坂繁を中心に、右翼の北原一穂、中島淑人、工藤誠一、荒木精之、河野玄七らの有志は、
十五日夕 藤崎神宮に集まった。
熊本に天皇をお迎えして最後の決戦をやろう。
兵をあげて熊本の伝統を守るのだという決意に固まった。
尊皇義勇軍と名のることにきめた。
ところが翌十六日には熊本市内には、重慶軍が上陸してくるといったデマが飛んで混乱した。
警察は婦女子に避難を勧誘していたがそのさ中に、藤崎神宮には続々と日本刀をもった青壮年が集まってきた。
なかでも、大学や高等学校の学生が目だって多かった。
そして、そこへは、米や罐詰などの食糧から毛布まで軍のトラックで運び込まれ決戦の気分は盛り上がっていた。
これらの物資は第六師団司令部から持ち出されたのであった。
同志の一人荒木精之が書き下した宣言文がガリ版で刷られ市内の要所要所に貼られたし
工藤誠一は街頭に出て、義勇軍参加を市民に呼びかけたのが功を奏し、
少年や婦女子を交えた一段まで、藤崎神社につめかけた。
この日、義挙を伝え聞いた球磨義勇軍二十数名が、トラックで人吉市から馳せ参じ、
藤崎神宮では一段と気勢があがった。
藤崎神宮は尊皇義軍の本拠となり社頭にはその大のぼりが風にゆらいでいた。
神宮社務所では幹部が密議していたが、先ず、バドリオ降伏政権の犬、土橋師団長、平井熊本県知事を斬殺して、
烽火をあげることにきまって、学生たちによって、その切込み隊が編成されることになった。
だが、行動を起こすには、天下の形成を知る必要があるというので、工藤は軍の飛行機で上京した。
この騒ぎを知った西部軍は、高級参謀がとんできて説得した。
終戦における御前会議の模様もしらせて、承詔必謹 を説いた。
これで尊皇義軍の結束も動揺してきた。
何より致命的だったのは、頼みにしていた軍隊が続々と復員したことだった。
これではどうにもならなぬというので、籠城十日にして退散した。

お隣の鹿児島県にも九州独立論がおこっていた。
鹿児島県知事拓植文雄は、鹿児島だけは最後まで戦う覚悟で、薩摩、大隅駐屯の軍隊とも連絡をとり、
県庁の若い役人をもって切り込み隊を組織していた。
福岡にあった九州地方総監戸塚九一郎は、これを聞き早速、副参事官の鈴木栄一を鹿児島にやり、
知事を説得せしめたが成功しない。
とうとう総監自ら自動車をとばして来県し、知事を説得してやっと翻意せしめた。
これは八月十四日のことだった。
十五日、玉音放送を聞いたが、
第六師団では、『 師団は独自の立場で戦争を継続する 』 と、西部軍に打電した。
軍司令官横山勇中将は驚いて参謀を急行せしめ説得するという始末。
軍司令官の官邸には元気のよい将校が入りかわり、たちかわり押しよせて、
西部軍の交戦決起を強訴した。
中には、九州独立論もあった。
天孫降臨の地、九州に天皇をお迎えして最後の決戦をいどもうとするもの、
九州政府は横山軍司令官を首相とし、九州にある要人を以て閣僚とするなど、
笑えない真剣さであったが、横山中将の指導により事なきを得た。

このように九州では不穏な情勢だったが、事は未発におわった。
だが、中国島根では治安騒乱となった。
さきの愛宕山尊攘義軍は地方同志にも檄をとばして決起を促した。
この本部の指令に応じて、松江市居住の尊攘同志会員岡崎功ら十四名は、
八月二十四日早朝
島根県庁、知事官舎、発電所、新聞社、郵便局など数カ所を襲撃した。
彼らは皇国義勇隊と称し、全国民の総決起を促した上、
陛下に米英ソ支四国に再度宣戦の詔勅を仰ぐことを目的に、決起したものであった。

すべて、これらは混乱と動揺の中に発生したもの、
今日からみれば、笑うべき悪夢のあがきとしてうつろうが、
国家民族の永遠を維持しようとした愛国の熱情と
その気魄きはく は、高く買うべきだと、私は信じている。



大谷敬二郎著 
昭和憲兵史 から

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聖代の終焉・2 『 玉音放送の録音盤を奪え 』

2022年06月22日 05時39分09秒 | 9 昭和の聖代


聖代の終焉 ・2
『 玉音放送の録音盤を奪え 』


八月十四日夜半の空襲のあと間もなく、
私は近衛師団長森赳中将の殺害と、同師団の不穏な情報を得て、急ぎ登庁した。
十五日午前二時すぎであった。
隊司令部部員、九段憲兵隊に非常呼集を命じ、先着した将校をもって、
近衛師団司令部、宮城外囲に向け二組の将校斥候を派遣し事態を偵察せしめ、
また 九段分隊長には宮城の警備と事態の真相をつかむことを命じた。
いくばくもなく、わたしは、偵察将校の報告によって、近衛師団司令部の師団長室には、
師団長と、ほかの一人の参謀が殺され、宮城は近衛兵によって固められ、
何人も入門せしめない厳重な警備をとっていることがわかった。
昨日来、軍においても警戒怠らなかった不穏の事態が突発したのであった。


 畑中健二少佐
あくまでも戦争継続に固執していた、軍務課員畑中健二、椎崎二郎等数名の幕僚は、
すでに十日聖断が下り阿南陸相からも、越軌無統制の行動を戒められていたが、
初志を枉げず十三日よる 官邸に大臣を訪い、たとえ、逆賊の汚名を受くるとも国体護持のため、
全軍は徹底抗戦に出づべく、大臣はその先頭に立つべきことを進言したが、
いれられず、却ってその妄動を戒められた。
だが、彼等は東京部隊を徹底抗戦の拠点として決起し、
全軍に呼びかけて、政府の無条件降伏による終戦決定をくつがえそうとした。
そこで十四日午後には、東部軍司令官田中大将の説得を試みようとしたが、
一喝のもとに拒否されるや、かねて連絡のあった、近衛師団参謀いしはら貞吉少佐、賀尚少佐と通じ、
近衛師団を擁し宮城を占拠守護しつつ、全軍抗戦の原動力となろうとした。
森赳中将
彼等は前夜来、近衛師団長森赳中将を訪い、師団の決起を要望したが、
師団長は大義名分を説き、すでに聖断が下った以上、断じて師団を動かすことはできないと峻拒した。
いかに説得懇請しても聴きいれなかった。
いつの間にまぎれ込んできたか、埼玉県豊岡にあった航空士官学校の区隊長 上原大尉は、
傍らからこれをみて軍刀に手をかけて師団長に迫った。
そこには第二総軍参謀の白石中佐が同席していた。
中佐は森中将の義弟、第二総軍司令官畑元帥が元帥会議のための上京に随行してきていたのである。
この白石中佐は森中将をかばって軍刀に手をかけようとした瞬間、上原の一撃は白石の左肩をきった。
白石は右手で軍刀を抜いたが、左手がきかず前にのめった。
上原の二の太刀が白石の右首に飛ぶのと同時に、畑中のピストルは森中将の左胸部を撃った。
倒れかかる森中将の右肩めがけて、上原の第三の太刀が走った。
森師団長は白石中佐の上に重なり倒れた。
 井田正孝少佐
一方、水谷師団参謀長室には、畑中らの同志井田少佐が、水谷大佐を説得していた。
水谷は師団長室の兇変を知って、急ぎ東部軍司令部にかけつけ事態を急報した。
彼らは師団長をたおし、参謀長の不在を機に、すでに、集めていた各隊命令受領者に対し、
古賀参謀は要旨次の命令を下達した。
一、諸般ノ情勢ヨリ察スルに米軍ノ本土上陸ハ近日ノウチト判断セラル
二、師団ハ主力ヲ以テ宮城ヲ、一部ヲ以テ、放送局ヲ遮断シ、陛下ヲ守護シ奉ラントス
三、近歩一聯隊ハ一部ヲ以テ半蔵門以西ヲ警備シ、主力ハ兵営内ニ待機スベシ
四、近歩二聯隊ハ更ニ一大隊ヲ禁闕守衛ニ増強シ、前任務ヲ続行スルト共ニ宮城内通信網ヲ遮断スベシ
五、近歩六聯隊ハソノ主力ヲ以テ大宮御所ヲ守衛スベシ
六、近歩七聯隊ハソノ主力ヲ宮城広場ニ終結シ、ソノ一部ヲ以テ放送局ヲ占拠スベシ
七、爾余ノ諸隊ハ頓営ニアリテ後命を待ツベシ
各隊はいささかも疑うことなく、この命令によって動いた。
禁闕守衛は平常の場合大隊長の指揮する二中隊であったが、
空襲警報下令のときは、さらに一コ大隊を増強されることになっていた。
だから、この命令によって芳賀聯隊長は、聯隊の大部をあけて宮城内に入った。
首謀者は宮城守衛隊本部に位置していたが、この夜おそく、天皇の終戦詔書の放送を録音した、
下村情報局総裁以下放送関係者八名は、兵によって捕えられ守衛隊本部に監禁され、
録音盤捜索が始められた。

近衛師団の諸部隊が偽命令とも知らず、その命令を実行したことについては、
たいへん軽率なことであったが、その善意は信じられている。
しかし、宮城内外の通信網を遮断したり、皇居警察を軟禁して兵の警備に代えたり、
録音盤の捜索にしたがったことはいささか芳賀連隊長の軽率ではすまされないものがある。
彼に抗戦派幕僚に通ずる意思があったのではないかの疑いもないではなかった。
だが、宮城に入った芳賀聯隊長の許には、畑中、椎崎の陸軍省幕僚がいきて、
「 師団長も同意されて、やっと師団命令の下達となった。
 阿南陸相も近くここに見えられることになっている。」
と、まことしやかに、全軍が天皇を奉じて徹底抗戦に決起することを信ぜしめていたのである。
情勢にうとい第一線指揮官としては、中央部幕僚を信じていたのである。

私は夜空のしらみかけた午前四時前、
自ら自動車を駆って近衛師団の状況を視察した。
先ず 九段坂を登って竹橋兵営に入ろうとすると、道路に近く立哨していた二人の歩哨にストップをかけられた。
下車して理由をただすと、『 近衛師団将兵の外一切の出入は禁ぜられている 』 という。
しかし歩哨の態度から見て、かつての二 ・二六事件のような殺気はいささかも感じられない。
そこで、歩哨をして聯隊本部に連絡せしめた結果、渡辺第一聯隊長さし向けのサイドカーの誘導で、
私は兵営に入り渡辺大佐と会った。
渡辺大佐は私の同期だった。
かれも偽命令だとはつゆ知らず、一部配兵して大部は兵営内に待機させていた。
私の注意に彼はこういった。
「 命令によって配兵はしたが、どうもおかしいと思った。
 そこで、師団司令部に行って師団長の意図をはっきりたしかめようとした。
ところが師団では師団長はいま不在だという。
どこへ行ったかと聞いてもわからなぬといい、師団長に会わせようとしない。
態度もよそよそしい。やむなく部隊にかえったが、どうも気がかりだった。」
渡辺は私の注意で事態を知り副官を呼んで一部派遣の部隊に撤収を命じた。
その時である。副官は、
「 只今東部軍から連絡があった。今朝の命令は偽命令であるから従ってはならぬ。
 間違いのない命令受領者を即刻軍司令部に差出せといってきた 」
旨、聯隊長に報告した。
私はこの調子ならば事態はすぐ収拾されるであろうと安心して引きあげた。

東部軍司令官田中大将は夜明けと共に、自ら近衛師団、宮城に乗り込んで、
首謀将校を説得し、午前八時頃には事は終熄した。
一に田中大将の身を挺しての説状が功を奏したのであった。

一方、放送局には将校の指揮する二十数名の一隊が、午前四時半頃押しよせてきた。
放送協会員六十名ばかりを第一スタジオに集め放送停止を命じた。
始めは罐詰にしていたが、その後、外部との連絡をしないことを条件にスタジオから解放した。
五時半頃、
畑中少佐ら五名の将校が乗り込み、幹部にピストルをつきつけ、決起主旨の放送を要求したが、
空襲警報中は東部軍の許可なくては出来ないと断られた。
協会は東部軍にこの旨報告すると、軍参謀は本人を電話口に呼べという。
畑中少佐は軍参謀に放送許可を要求したが、軍は許さない。
長い押問答がつづいたが、畑中もあきらめて、『 仕方がない、解散 !  帰ろう 
』 と兵を徹し引き上げた。
なお、この騒ぎの最中、朝の六時すぎ、わたしのところに高島参謀長より電話があった。
正午 陛下の放送予定の録音盤が紛失した。
憲兵の手で捜索してもらいたいというのである。
果して正午の放送に間に合うかどうか危ぶまれたが、早速憲兵を宮城に差し向けた。
だが録音盤は、叛乱軍の手にも入らず、侍従の手で金庫にしまわれていることがわかり、この捜索は中止した。
事が失敗した畑中、椎崎はしばらく行衛がわからなかったが、
十一時頃、宮城から日比谷附近に 『 国民総蹶起 』 のビラをまいたものがあった。
『 国体護持ノ為 本十五日早暁ヲ期シ蹶起セル吾等将兵ハ、
 全軍将兵ニ国民各位ニ告グ。
吾等ハ敵ノ謀略ニ対シ天皇陛下ヲ奉ジ国体ヲ護持セントス。
成敗利鈍ハ吾等ノ関スル所ニアラズ。
唯々純忠ノ大義ニ生キンノミ。
皇軍全将兵 並ニ国民各位 願クバ吾等蹶起ノ本義ヲ銘心セラレ、
君側ノ奸ヲ除キ謀略ヲ破砕シ、最後ノ一人迄国体ヲ守護セラレンコトヲ 』
畑中、椎崎らの行為だった。
それからしばらくたって十一時五十分頃、彼等は宮城二重橋前で拳銃自殺した。
また、近衛師団古賀参謀も、師団長室で、森中将の霊に大罪を謝したあと拳銃自決した。
こうして事件はおわったが、近衛師団参謀石原少佐は憲兵隊に連行された。

・・・次頁 
聖代の終焉・3 『 一死以奉謝大罪 』 に続く


大谷敬二郎著 
昭和憲兵史 から

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落日の序章・2 『 津野田知重少佐事件 』

2022年06月20日 10時29分33秒 | 9 昭和の聖代


東條首相暗殺の陰謀

支那派遣軍総軍に津野田知重という少佐参謀がいた。
中支に勤務する前は、北支山西地区のある兵団の参謀だった。
参謀長は未だ新太郎大佐、いうまでもなく今田は石原の直系、浅原とも昵懇じっこんの間柄だった。
東亜聯盟運動推進者の一人である。
この若い参謀は、今田参謀長のもとでいろいろと教えられたが、
なかでも東亜聯盟思想については、たいへん啓蒙をうけた。そして、これに共鳴し堅い信者となっていた。
ところが、中支への転任にあたっては、
総軍参謀として板垣総参謀長の下で聯盟運動に活躍していた辻正信参謀に紹介され、
また、上海には、同志 浅原健三に会ってその教えに接するよう指導された。
こうして津野田少佐は南京に赴任し 辻の指導をうけ、また、上海に浅原を訪ねその意見を聞いた。
当時、浅原は実業家ではあったが、在上海支那財閥とも交際をもち、
現地軍の占領行政指導には強い批判的態度をもっていた。
もともと、彼は政治家であり、政治がすきなこととて、するどい政治感覚に恵まれていたので、
東條政権の対支政策ないし国内政治にも、何かと意見をのべた。
津野田は浅原の識見に敬服したが、これから得たものは、つよい反東條意識であった。
こうして津野田は東亜聯盟同志の一人として、対支政策の現実を見るにつけ、
中央のあり方、東條政府の政治そのものに、批判的となっていた。
 ・
その頃、三笠宮も参謀として勤務して居られたが、軍の対支政策、占領政策には批判的であられ、
津野田参謀も三笠宮に知遇を得ていた。
この津野田は総軍勤二カ年にして参謀本部転任となった。
十九年六月のことである。
だが彼のかえってきた東京は、
東條のために骨抜きにされた東條独裁の政治、東條の苛酷に近い部内統制と武断政治であった。
彼の反東條の意識は一層深刻化し、
東條の強権政治におののく国民は、すでに政府への消極的協力にとどまり、
人心つと離れ、このままでは絶対に戦争遂行は困難だと見た。
どうしても速かに東條政権を倒して、ここに広く人材を求めて、
新しい協力内閣をつくらなくては この難局の打開はできないと考えた。
そして彼は、このため要すれば東條を抹殺するクーデター決行を決意していた。
だが、津野田は何を目的として東條政権を倒して強力内閣をつくろうとしたのであろうか。
彼が六月東京に着任後間もなくつづった 「 大東亜戦争戦局に関する観察 」 によると、
「 戦勢は危急を告げている。サイパン必敗せば米軍は硫黄島に来攻し 本土空襲、本土蹂躙の公算は大きい。
 しかるに上層部は無力無策に終始している。
この際、強力なる宮様内閣をつくり軍部独裁を排し、速かに敗北にあらざる和平策を確立することを要する。
もし、軍内閣が退陣を承知しないならば、敢えて断乎、東條首相を抹殺してこれを倒おす。」

ことを要旨とするもので、これは敗北にあらざる和平の道を開こうとするものであった。
津野田は総軍以来御知遇を得、また、志を同じくせられると信じていた参謀本部部員 三笠宮に、
この案をお渡しした。
そしてこの際 陛下への上奏を強くお願いし、またその機会は早ければ早い方がよいと附け加えたといわれる。
三笠宮はつとめて戦局の前途を達観して、和平に心を砕いておられたことは時事で、
種村佐孝氏の 『 大本営機密日誌 』 ( ダイヤモンド社二十七年刊 ) には、十九年八月二十四日の項に、
「 本日第二部御勤務中の三笠宮に御前会議の要旨を説明したところ、
 聞き終った殿下は鉛筆で私の書類の裏に、
『 帝国は速かに大東亜戦争を終熄せしむ 』 という文句をかかれて此方針、如何ですかといわれた 」
と書いている。

七月七日サイパンとは連絡がとだえた。
津野田はあせった。
彼は上司に病気と偽わり休暇を得た。
そして山形県鶴岡に隠捿中の石原中将を訪れ、計画書の閲を乞い意見を求めたし、
東京では小畑敏四郎、十河信二らにも会って、宮様内閣が成立したあとの援助を願った。

七月十八日東條内閣は総辞職した。
政局の転換により彼はしばらくその策動をやめた。
小磯内閣が成立してから一ヵ月の八月中旬、彼は作戦地視察のため大陸に飛んだ。
ところが彼の不在中に、さきの計画書は三笠宮から兵務局の黒崎貞明中佐に渡された。
津野田が一週間ばかりの旅行をおえて帰京したとき、そこに待っていたものは彼の逮捕であった。
九月二日彼は出勤途上を渋谷駅附近で憲兵に同行を求められ、そこに留置され、
十月四日定職、九月軍法会議に送られた。
だが、彼の計画書はどうして三笠宮から黒崎中佐に手交されたのであろうか。
これについて、当の黒崎は戦後次のように手記している。 ( 「 ヨハンセン事吉田茂の検挙 」 文春三一年一二月号 )
「 ---三笠宮は津野田からその意見書をうけとり東條内閣の相談を働きかけられた。
 そこで三笠宮は七月のある日に黒崎を呼ばれ、その計画を話され始末してもらいたいとたのまれた。
計画の進捗状況をきくと、進んでいるかもしれないし、いないかも知れない。
しかし危険な状態にあることだけは事実だといわれた。
とに角、津野田を捕えなければ事情が解明しないらしいし、
計画が実行に移されては皇族に累を及ぼし、一大事になるおそれもある。」
こうして黒崎は熟考の上 津野田を犠牲にすることを承知の上で上司に報告し、
九月津野田の逮捕となった。
しかしこれには津野田事件を通じ杉山大臣や首脳部に、
和平については皇族も真剣であることを知ってもらうことを狙ったのだと黒崎は言う。
私はこの事件には直接干与していないので、黒崎のいうように、
この検挙によって皇族も和平に真剣であることを
首脳部に知らしめようとしたものであったかどうかは知らないが、
ともかくも事の発覚は三笠宮が黒崎に知らせたによることは事実である。
・・・リンク → 終戦への道程 1 『 東條を斃さねば、日本が滅びる 』

反東條系への報復

津野田の武力による政権交代の構想は未熟杜撰なものであったが、その要点は、
一、東條首相を暗殺する。
 これがため東條の外出中を要撃することとし、
警視庁柔道教師牛島辰熊 ( 浅原の乾分 ) と その配下 二、三名をこれにあてる。
二、東條の暗殺によって東條政権崩壊せば東久邇宮を擁立し、
 広く人材を求めて、真の挙国一致の強力内閣をつくる。
三、陸軍の大粛正を行う。
 現在の軍の陣容を一掃し、真に有能な若手人材を起用する。
陸軍大臣は明示していなかったが、石原中将又は小畑敏四郎中将を腹案としていた。
ともかくもこの案は石原中将の同意を得たので、津野田はいよいよ実行にとりかかり、
先ず牛島らと東條暗殺の時期、場所、方法など密儀を重ねていたが、
東條内閣は倒れたのでこの計画は自ら中止した。

ところで、黒崎からこの報告を得た東條系の那須兵務局長は、
これを憲兵隊に移し、厳重な捜査を要求した。
四方憲兵隊長も東條政権倒壊の余憤の折とて、部下に徹底した捜査を命令した。
津野田少佐の東條暗殺陰謀そのものは、極めて単純なものであったが、
この取調中、津野田が思想的影響をうけたと思われるものに、上海の浅原健三があった。
憲兵は、飛行機で上海にとび浅原を捕え東京に拘引した。
そして浅原を追及したが、津野田と浅原との上海での関係は明らかになったが、
これを以て、浅原を、この事件の背後者とか、共犯至教唆と見るわけにはいかなかった。
なぜなら、津野田のこの決意は、彼が東京にかえってから、全く、自己の発意においてなされたもので
彼は上海では反東條だったというにすぎない。
この事件の因果関係を、浅原にまで遡及することはできないことだったのである。
だが、四方隊長に命令された東京憲兵隊の捜査官は、その取調をおわって、
主犯津野田と共に浅原を共犯者として軍法会議におくった。
浅原は軍刑務所に収容されたのである。
ことにひどかったのは、浅原の事件送致書の捜査官の意見には、
恰も浅原が主犯なるかのように曲筆されていて、憲兵の常識を疑われるようなものだった。
その上、浅原の処置に関し、しばしば憲兵将校は軍法会議にハッパをかけ、
兵務局長の陸軍省法務局への圧力と共に、浅原をこの機会に葬り去ろうとしていた。
たしかに、それは、反東條系につながる一常人への報復的弾圧であった。

軍法会議は、憲兵隊や兵務局からの浅原起訴の要求には、ほとほと困惑していた。
事実を調べれば、それは法律的には不可能なことだ。
その年十二月始め 軍法会議は杉山陸相に、事件の中間報告を行い、
同月末、浅原は不起訴と決定、翌二十年一月初め釈放された。
牛島などの実行組も、その後まもなく不起訴となり、
津野田だけは公判にまわり懲役二年執行猶予二年の判決をうけた。
この場合、石原中将は、津野田少佐のクーデター案を閲しその原案の冒頭に
『 全然同意す 』 と書いていた。
全然同意というのは、この案の実行には、全く賛成だということである。
その上、津野田案の欄外には、石原の意見なるものが書かれていた。
東條首相の暗殺の項には 『 必要なる犠牲はやむを得ざるべし 』 と筆を入れ、
後継内閣に東久邇宮とある項には、『 不同意、皇族内閣は適当ならず 』 とあった。
そこでは、石原もまた、この少佐の同志として、あるいは有力なる後援者として、
その計画原案に対して、全面的に検討し その可否を考察したあとが歴然たるものがあった。
だから、指導といえば指導、教唆といえば教唆、
何れにしても、この計画が実行に移されたならば、
石原としても、嫌が応でも、年貢をおさめねばならぬ破目にあることは、はっきりしていた。
石原は、この年十二月軍法会議の召喚に応じて上京した。
彼は、軍法会議で、どのような陳弁をしたものか、
その日のうちに開放され、東亜聯盟同志会本部に顔を出していた。
ともかくも、この事件には、浅原健三も、たいへんなとばっちりをうけたものだが、
上海に落ちつき、十五年秋頃迄は、もとの軍人関係とは交際もたっていたようだが、
その後、彼の所在がわかるにつれ、かつての満洲組、
それに石原を中心とした東亜聯盟同志との交際も始まり、
このため津野田事件に連座するに至ったのであるが、
かつて、満洲グループと浅原との関係を絶ちきろうとした浅原事件も、
その処置のあいまいであったため、再びここに、そのつながりを確認せざるを得なかった、
当時の憲兵としては、はなはだ心痛いことだった。


大谷敬二郎著 
昭和憲兵史 から

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落日の序章・1 『 中野正剛の自刃 』

2022年06月19日 05時54分07秒 | 9 昭和の聖代

 北家の応接間の祭壇に安置された 北、西田の遺骨に香をたいていた つね は、
黙然としてしばらく座っていたが、突然 伏して腸はらわたをふりしぼるようにして泣いた。
堪えに堪えて、堪えぬいた涙である。
かたわらで黙ったまま、頬をつたう涙をぬぐっていた中野正剛は、
つね のやせた肩に手をかけて
「 お母さん、泣かれる気持はわかりますが、泣いてはいけません。
貴女は後世に名の残る子供を生んだお方です。
不肖 中野が生きている限り必ず西田君を世に出します。絶対に出してみせます 」
と、力強い声で慰めた。
しかし、その中野正剛も、
それから六年後の昭和十八年十月二十七日、
時の首相 東條英機の圧政に憤怒し、
悲壮な割腹自殺をとげたことは周知のとおりである。
・・・西田税 ・ 悲母の憤怒

 

私の記憶 ・『 中野正剛 』
上記は、
昭和・私の記憶 『 二・二六事件 』 ・・・西田税 ・ 悲母の憤怒 のなかの
処刑された北一輝と西田税の葬儀に於て、『 中野正剛 』 が西田税の母つねに語った一節である。
そして下記は、私の実体験の中で 一人の老人の口から出た 『 中野正剛 』
「 ほう・・・、それで、親孝行とは如何ですか 」
・・・・
問答が始まった。
戦前は中野正剛に師事していたと言う斯の老人、さすがに百戦錬磨の長者である。
而も、温和で魅力ある中々の人物に見えた。
その魅力に、誰もが引き込まれて行くのであらう・・と、そう想った。
・・・ほう・・・、それで、親孝行とは如何ですか 

私の生涯に於て、 『 中野正剛 』 との関りは、この二つだけである。
しかし私は、上記の体験以前から 何故か知らん 『 中野正剛 』 なる人が存したことを知っていた。
しかし、その出逢いが何処であったかは確認できない。
記憶を辿るも 蘇らない・・・・。

昭和十六年十二月八日の夕刊

宣戦布告の詔書


東條政権と右翼の反撥

大東亜開戦は、国民の知を沸き立たせた。
ことに、明治以来敗戦を味わったことのない国民は不敗を信じ、緒戦の戦勝に喜び、
これまで国内で対立相剋していたものも、挙国一致で勝たねばならぬと考えた。
右翼も、また、その例外でなく、南進派も北進派も政府絶対支持を強調し、
今こそ必勝体制確立のため赤化分子の掃蕩、新英米の打倒が必要だと叫んでいた。
しかし、右翼と東條内閣は、必ずしも友好的であったのではなかった。
さきの推薦選挙では、右翼の赤尾敏、笹川良一、佐々井一晁、満井佐吉、中野正剛らは、
すべて推薦候補の選に洩れ、または、推薦を辞退していることは、これを物語っている。
中野正剛
ことに、
中野正剛の率いる東方会は、
全面的に推薦を拒否し、まさに東條の一敵国をなしていた。
それはひとり東方会だけではなく、石原莞爾の東亜聯盟同志会、
天野辰夫の率いる勤皇まことむすびの一派も、同様に東條にとっては、強い批判勢力であった。

東條内閣は、
反軍的、反東條的な動向に対しては、憲兵網及び警察特攻網を以て細心の注意を払い、
その時に応ずる弾圧は強化されていた。
さきに興亜同盟ができ、一切の民間運動は国論を統一するという建前で、
ここに、右翼団体が加入指定をうけたが、一部の団体が、これを拒否しつづけていたことは、
すでにのべた。
十七年三月、言論出版結社等臨時取締法ができ、
これによって四十余の右翼団体が、結社禁止の処分をうけたのであった。
反東條的信条をもっていた、中野正剛をちゅうしんとする東方会と橋本欣五郎の赤誠会、
それに石原の東亜聯盟同志会は、それぞれの立場から、この東條の命令を拒否し闘争したが、
興亜同盟への強制参加を要求されついに、東方会も、赤誠会もこれに参加するに至ったが、
ひとり東亜聯盟のみは孤塁を守り、反東條的存在として重きをなしていた。

十七年夏、敵の反攻に戦勢漸く傾きかけると政府の右翼に対する弾圧も強化され、
国民運動は完全に禁止された。
もちろん、その頃になると青壮年層の殆んどは召集され、国民運動などやろうにもやれない状態ではあったが、
反政府の右翼もその弾圧のために、表面、戦争に強力する態度を示さざるを得なかった。
しかし、このように政府、すなわち、東條の強権的独裁施策が強化されるにしたがい、
これに反撥し、反政府感情を醸成して、右翼は、その志向を非合法直接行動へと向けた。
このとき、さきの平沼国務相狙撃の七 ・五事件の公判が始まり、その関係者勤皇まことむすびの会の一派は、
国体の本義顕揚を名として公判闘争に、その尖鋒を向けた。
機関誌 「 維新公論 」 は毎号尖鋭な筆法を以て、東條政府に筆誅を加え、
直接行動による昭和維新を主張し、発禁処分を受けていた。
その結果、十八年十月二十一日 東方会と共に、勤皇まことむすびの会の一斉検挙となった。
これと同時に、大日本同志会、東方同志会なども一斉検挙をうけたが、
これらは共に、反政府、反東條のためであった。

これより先、六月二十日には、拓大生による東條首相暗殺予備事件があり、
次いで九月三十日には、皇道翼賛青年聯盟による不穏計画が発覚し、
それぞれ警視庁で検挙されている。
漸く東條独裁と強権弾圧に対する反撥が見られることになった。
さらに、十二月十一日には、大日本赤誠会の不穏計画が発覚した。
赤誠会員本部訓練部員中野大志ら十八人による排英的帝都擾乱陰謀であった。
即ち、十二月二十四日赤誠会本部に行われる大会開催当日を期して、
英米大使館を焼打し、かつ帝都の主要部を襲撃しようとし、
その武器をひそかに収集しつつあったところを検挙されたものであった。
越えて、十九年五月には、大東塾同人による、古賀元帥葬儀妨害事件が発生したし、
七月には、陸軍将校らによる東條首相暗殺陰謀が企てられたが、
・・・『 津野田知重少佐事件 』
・・・
『 東條を斃さねば、日本が滅びる 』
これらの事件は斉しく東條の独裁に反撥し、敗戦への傾斜と共に尖鋭化されたものであるが、
警察及び憲兵の強力な取締によって、敗戦に至るまで、現実に不詳の事態を見ることはなかった。

昭和十九年二月、
東條政権は決戦非常措置要綱を発表し、
国内決戦体制の強化をめざし、ことに、トラック、サイパン、インパールと次々の敗戦による国内の反政府、
反東條の動きには、憲兵、警察一体の厳重な監視網によって、
きびしい弾圧政策をもって臨んだが、ついに七月十八日総辞職した。

ミッドウェー敗戦と反東條分子の封殺
十七年六月のミッドウェーの敗戦は、
ひたかくしにされていたが、この戦争の前途に暗影を投げたものであった。
ミッドウェーで、わが無敵海軍は大敗北を喫したのである。
還送された負傷者は、ことごとく横須賀海軍病院に罐詰にされて、外部との接触は一切遮断されていた。
陸軍省でこの悲報を知った者は、東條ほか、数人の幕僚であった。
統帥部は六月十一日の新聞が、ミッドウェーの海軍戦火を派手に取扱っているのに
苦々しい思いで 憂愁深いものがあった。
兵務局長田中隆吉は、東條に向って、
『 真相をかくさず国民にしらせる方がよい、日本国民はよきにつけ、あしきにつけ泣いて戦う国民だ、
 真相を知らすことは国民の志気を鼓舞する最良の途だ 』
と 切言したが、東條は
『 国民は愚昧なものだ、真相を知らせると却ってその志気を挫くじく 』
と 田中の進言をいれなかったと、田中は戦後、書いている。
田中のことだから真偽は明らかでないが、
すでに東條は政治に一かどの自信をもち、独裁者となっていたので、
国民は政府のいうがままになるもの、
きかなければ権力弾圧を加えても、いうことを聞かせるとの強気だった。
しかし、このような権力政治家の東條も、戦局の暗さと国民重圧のはねかえりは、ひしひしと感じていた。
そこで東條はいかにしても戦局の転換を期さねばならぬし、
この間、国民を強圧下にしばり上げておくことが絶対に必要だった。
このため反東條の動きには極めて鋭敏であったし、その弾圧も常に用意されていた。

さきに書いたように、東條の一敵国は東方会ことにその首領の中野正剛であった。
彼は重臣をかけ廻り 倒閣に動かそうとしていたし、その片棒として潜行していたのが、
東方会代議士の三田村武夫であった。
中野はすでに十七年十二月二十一日、日比谷公会堂の壇上に立って、
『 天下一人を以て興る 』 と題して長口舌をふるった。
この演説は戦局の悪化を警告し、官僚統制の失敗を攻撃したものだったが、
彼の獅子吼に群衆は酔い 彼と共に興奮し、彼と共に喜び、かつ悲しみ、
壇上檀下全く一体となって、二時間にわたりあくことがなかったといわれた。
東條政府はこのような反政府言論に対処するに戦時刑法特別法の改正をもって、言論の全面的禁止を行った。
翌十八年一月一日、
かれ ( 中野正剛 ) が東京朝日新聞にのせた 「 戦時宰相論 」 は、
東條を激怒せしめた。朝日新聞はたちまち発禁となった。
いうところの 「 戦時宰相論 」 とは、
「 非常時宰相は絶対に強きを要する。されど個人の強さには限りがある。
 宰相として真に強からんがためには、国民の愛国的情熱と同化し、
時にこれを鼓舞し、時にこれを激励することが必要である。」
とて、国民の愛国熱と同化することを説き、
「 大日本帝国は、上に世界無比なる皇室を戴いている。
 忝けないことには、非常時宰相は必ずしも蓋世の英雄たらずとも、その任務を果たしうるである。
いな、日本の非常時宰相は、たとえ英雄の質を有するも、英雄の盛名を恣ほしいままにしてはならない。
日本の非常時宰相は殉国の至誠を捧げ、匪躬の節をつくせば、自ら強さがでてくるのである。」
と、宰相は英雄の盛名を恣にすることなく尽忠の至誠を捧げよといい、
さらに、諸葛孔明の遺事を引いて謹慎にして廉潔なれと説き、
最後に日露戦争における桂公の天下の人材を活用した事例を示しつつ、
「 桂公は横著なるかにみえたが、心の奥底に誠忠と謹慎を蔵していたので、
あの大幅な人材動員となってあらわれたのである。
難局日本の名宰相は絶対に強くなければならぬ、強からんために誠忠に、謹慎に、廉潔に、
面して気宇広大でなければならぬ。」
と結んだ。
東條に対する、するどい風刺であり、警告であった。

すでに中野は三田村武夫を使って重臣工作なるものを進めていた。
それは東條を総理に推薦したのは重臣たちであるから、
重臣はその責任において東條内閣を打倒せよというのであった。
三田村は近衛にも会い 岡田にも会っていた。
しかし、近衛は東條の武断独裁を憤っていても、これを打倒する勇気はなかったし、
岡田にしても、まだ日和見だった。
十八年八月中旬三田村武夫は、翼賛政治会を脱退してその声明書を全国に配布した。
彼は重臣の動きを察知し、この声明によって東條政権の幕府的性格をあばいて、
東條不信の空気をつくろうとしたものだったといわれる。
だから、これが問題にならぬ筈はない。
警視庁は、九月始め三田村を検挙し、
声明書配布の手続き上の問題と、出版法違反容疑について追及した。
もちろん、三田村の重臣歴訪の意図を知ることにあったし、
中野正剛の反東條の実体を捕捉しようとしたのかも知れない。
次いで十月二十一日未明 警視庁は、
天野辰夫の勤皇まことむすびの会と東方会の中野正剛らの一派に対し一斉弾圧に出た。
渋谷区代々木本町の中野邸もおそわれて、彼は警視庁に連行された。
中野に対する犯罪容疑は、軍事上の造言蜚語罪であったが、警視庁の取調では、
なお、そのキメ手となるものをつかんでいなかったし、
この捜査について検事局と警視庁との間もしっくりしていなかった。
そこで、二十四日の午後、
首相官邸で、
東條を交え、安藤紀三郎内相、岩村通世法相、
松阪広政検事総長、警保局長町村金五、警視総監薄田美朝、法制局長森山鋭市、刑事局長永田克、
それに、東京憲兵隊長四方大佐らを集めての大評定が行なわれた。
代議士中野正剛の捜査会議にしては大げさなものだったが、
これは東條が、事件関係者にハッパをかけるためのものだったのである。
東條は
政府に対する反対運動も平時ならとも角、戦時においては利敵罪を構成すると思う。
検挙以来取調べているが、あのままで令状を出し起訴し、社会的に葬るべきだ、
と、検事総長の同意を求めた。
しかし松阪検事総長は
『 いままでの警視庁の報告程度では起訴できないし、こんな小さい事件で代議士を拘束して、
 議会に出席させないでおくことは適当でない 』
と 反対した。
だが、東條はどうしても中野を議会に出したくない。
そこで、大麻唯男国務大臣を、急いで官邸に呼びつけ
『 どうしても事件にならないならば、行政検束で留置しようと思うが、
これで議会が騒がぬようにして貰えないか 』
と 相談した。
だが大麻は
『 そんなことをすれば、憲法政治にそむく、議会中、政府の反対派を行政検束すれば、
 政府賛成者だけになって、どんな法案でも通るわけだ。
議会の常識として許されない 』 と けってしまった。
それから東條と松阪との間に、感情的な応酬があったが、議会は二十六日開かれるので、
明日一日の余裕がある、もう一度調べたらということになったが、
司法側の提案で、議会その他の手続がいるから、
明二十五日午前一杯に自白がなければ釈放しなければならないということに落ちついた。
こうしてこの大評定も二十五日午前一時頃解散となったが、東條は、薄田総監と四方大佐を呼び、
薄田総監に 『 君の方で二十五日午前中に中野をおとすことはできないか 』
と聞いたが、総監は自信がないと答えた。
そこで東條は四方に向って 『 どうだ 』 というと、四方は 『 わたしの方でやりましょう 』 と、はっきり答えた。

中野正剛の自刃
十月二十五日午前四時半、
中野は警視庁から憲兵隊に移された。
憲兵隊では大西和男中尉が主任となって直に取調にかかった。
正午やや前、検事総長は、憲兵隊で中野が自白したとの報せを受けた。
検事総長は地検の中村登音夫思想部長に取調を命じた。
中野は憲兵隊から検事局に移された。
中村は中野と、中野事件の参考人だった二人の東方会員を取調たが、
中野は憲兵隊での取調通り淡々と供述した。
そこで、検事総長は事件を予審に回附することにきめ、
起訴前の強制処分によって中野を拘留しようとした。
だが、部内で、この拘留状をめぐって、検事と予審判事とが揉めた。
中村検事は強制処分を請求したが、予審判事は、これを却下してしまった。
二十五日午後十一時三〇二空分であった。
こうなれば中野は釈放しなければならない。
中村検事は、中野に対し釈放を言渡した。
そこで中野は検事局から警視庁に戻った。
警視庁では彼をもはやとめ置くことはできない。
そこで、取調官は、中野を説いて、明日の議会には出席せぬよう求めたが、
彼はあっさり、これを承諾した。
そこで、係警部は誓約書をかかせ、いよいよ釈放する段になると、
今夜は遅くなったので、明朝帰ってもらい度いといい、
宿直室にベッドを入れ、中野をここに泊めた。
明くれば、二十六日朝、
係警部に送られて中野は警視庁の玄関に立った。
だが、そこには、四方大佐の乗っていた憲兵隊の車が横づけにされて待っていた。
私服を着用して車中にあった四方は、『 さあお乗りなさい 』 と訳もなく中野を車の中に入れた。
そのまま、車は動いて憲兵隊についた。
それから午後二時頃憲兵二名の附添いで、中野は代々木の自宅にかえった。

ところで、この朝、五時頃、東條は官邸に大麻国務省を呼びつけている。
そこには、星野書記官長、坂警視庁官房主事、四方大佐が揃っていた。
東條は、
「起訴は間に合わなかった。わたしがこの場で裁断する、中野は出す、私が負けた。」
と敗戦宣言をした。
立派な演技である。
だが、その直後四方は中野を警視庁に拉致して再度憲兵隊に連行している。
憲兵は東條の密命をうけて、なお中野に執拗に食い下がっている。
あく迄も彼を議会に出すことを拒んだのか、彼を自決に追いやろうとしたのか。
憲兵の護衛附でわが家に帰った中野は、その夜十二時、
「 決意一瞬、言々無滞欲得三日閑、
 陳述無茶、人ニ迷惑ナシ、忠孝父母、母不幸 」
と遺書して自刃した。

中野の自決は、今日まで謎とされているが、
一体、その事件というのは何だったのか、中村検事が裁判所に対して強制処分請求をした、
被疑事実というのには、
「 被疑者は大東亜戦下たる昭和十八年二月上旬、東京市渋谷区代々木本町八百八番地、
 被疑者宅に於て、洲崎姜次郎 及 泉三郎 両名に対し、何等確実なる根拠なくして、
大東亜戦争における陸軍及海軍の作戦に不一致あり、右不一致の為、ガダルカナルの会戦は作戦に失敗し、
数万の犠牲者を出したるものなる趣旨の言説を為し、以て陸軍及海軍の軍事に関し造言蜚語を為したり 」
とある。
すなわち、陸軍刑法第九十九條の軍事上の造言蜚語罪なのである。
来訪した、右の二人の東方会員に、このような話をしたかどうか、二人は聞いたと証言しているのだが、
中野は、警視庁では否認し、憲兵隊ではあっさりこれを認めたということになる。
なぜ、中野はこれを認めたのであろうか。
憲兵隊で中野を取調べた大西中尉は、当時のことを、こう語っている。
「 取調がすんでから、中野は、隊長に会いたいから取計ってもらいたいというので、
 私はこれを取次ぎました。
そこで、間もなく、応接間で、四方隊長と中野が会ったのですが私も立会っていました。
中野は、
『 これまでいろいろと自分の過去を考えてみたが、
私はこの際過去一切のいろいろのいきがかりをすてて、
とも角も、この戦争遂行のために軍に強力して行こうと思う。
ついては、貴方の方でも、この私の決心に対して、
これ迄のいろいろな問題を一切御破算にしていただきたい 』
と申入れました。これに対し四方隊長は 『 考慮いたしましょう 』 と 答えました。」
これが事実とすれば、中野がこの申出をしたのは、どうした心境によるものなのだろう。
それから、二十六日午前、再び憲兵隊に連れ込まれた中野は、大西中尉に、
「 さきに、隊長へお願いしたことは、どうなりましたでしょうか 」
と聞いた。
大西は別に隊長から何も聞いてはいないし、また、そんなことは聞かなくても、
わかっていることだった。
東條の厳命でなんとしても彼を司法処分にするのが狙いだったのだから、
隊長も東條に中野の助命など出来ない相談だ。
「 さあ、それはまだ隊長から何も聞いていませんが、多分ダメじゃないでしょうか 」
この時、中野は名状しがたい、さびしそうな表情で、じっと俯向いたままだったが
「 フーン、そうですか 」 と沈痛な一言を吐いた。
「 あのときの中野の名状しがたい、落胆のありさまは、
今でもありありと、私の眼底にくっついて離れません 」
と、この中尉は述懐していた。

中野の帰宅を喜んで迎えたのは、三男の泰雄君だった。
この泰雄君の述懐によると、
「 あとで考えれば、父はすでに家に帰ったときから自決を決意していたと思われる。
 家についてきていた国正憲兵伍長も、事が起こってから、
わたしもこうなることは予期していましたといっていた。」 
と、いうから、中野の自決の決意は、彼が自宅にかえる前、
すなわち、警視庁か憲兵隊かにおいてなされたということになる。
監視の憲兵がこれを予期していたというからには、その監視を命ぜられたとき、
その上官から自殺のおそれがあるかも知れないと注意されていたとも考えられる。
すると、やはり、中野の死の決意は、憲兵隊での最後の瞬間ではなかろうか、
このように推理すると、さきの憲兵隊での彼との問答が気にかかる。
そこで大西中尉に、もう一度聞いて見よう。
「 中野が、なぜ、死を決意したか、 それは私にはわかりません。
 ただ、取調を通じ、彼は、
いま、世田谷の部隊にいるとかいう、二男のことを、たいへん気にしていたようでした。
これは確かなことです。
そこで、私の全くの想像ですが、息子のことを心配していたというのは、
自分はいま軍にたてつく反軍者として烙印を押されようとしている。
すると、この愛する息子にそれがどう響くかを考えたのではないだろうか、
父が軍にたてつく反軍者では、この息子の肩味が狭いことだ。
この父の悩みが、憲兵隊で罪状を肯定したのではないだろうか。
だから警視庁では頑強に否認しつづけても、憲兵隊にきて心境の変化をきたし、
あえて自白したというのが、本当ではないでしょうか。
だからまた、過去をすてて軍への強力を誓って、すべてを水に流すことを希望したが、
それも容れられなかった。
これが彼の 『 断 』 に導いた動機ではないでしょうか。」
というのである。

設をなすものは、また、憲兵隊が引続き取調べるために、議会中だけ監視付で家庭にかえし、
議会もすめば、新たな事件で拘引するだろう。
この場合、彼はその事件が、ある宮様に迷惑を及ぼすことをおそれて、
自ら生命をたったのではないかというのである。
たしかに造言蜚語罪は決着はついてはいないが、強制収容ができないぐらいの軽微なものだ。
だから憲兵が引続き取調を予定して、身柄をその監視下に置いたことは、
他に有力な犯罪容疑をつかんでいなくてはならない。
その有力な犯罪容疑とは何だったのか、四方大佐が他の犯罪容疑について、
彼に暗示を与えたことが、彼を死に追いやったのだと伝えるものがある。
この場合憲兵はなお彼に対する捜査は断念していなかった。
会期の三日がおわり次第取調の続行を予定していた。
そこで二十七日には検事局に憲兵調書の返却を申込んでいる。
この調書をもとにして更に追及しようとしたのだ。
この調書にはさきの流言飛語の外に、
東久邇宮と近衛を前にして中野が東條政治を痛罵したことが記録されていたが、
ここから、中野の不敬罪容疑とか、
中野が宮様に迷惑を及ぼすことを恐れたといった流説が流れ出ていたのである。
何れにしても、中野の自決の決意は憲兵隊にあった。
四方大佐がのちに一杯気分で、中野を殺したのは俺だと豪語したと、
「 細川日記 」 に書かれているが、
四方が、この自決に何等かの動機をもっていることは確かなことであろう。

中野の死は、
東條の弾圧、憲兵の執拗な強権に屈服したものか、
一身を捨てて反抗をあえてした憤死なのか、
その何れにしても、東條の一敵国はこうして潰えた。
東條の恐怖政治、東條憲兵のあくなき強権発動は、反東條分子を悚服せしめたが、
反東條へのうつ勃たる憤りは地下に潜行して東條打倒に結集されて行くことになった。

なお、この事件に、東條の不満を買った 東京地検の中村登音夫検事には、
間もなく赤紙が来た。
歳すでに四十三、国民兵に編入されていた彼は
検事の職を追報されて一兵士となって戦場にかり出された。
東條の国権濫用による報復であった。


大谷敬二郎著 
昭和憲兵史 から


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敗戦への導火線 ・アメリカの対日戦略 『 ロンドン軍縮会議 』

2022年06月18日 05時58分14秒 | 9 昭和の聖代

『 敗戦の導火線 ・ロンドン条約 』
林逸郎 著
新人物往来社 昭和31年2月

吹きすさぶ軍縮の嵐
わが国が、陸の二十四ケ師団、海の八八艦隊の整備を急いでいるとき、
アメリカの海軍作戦部長ウィルバーは、わざわざ太平洋岸まで出かけてきて演説し、
「 太平洋の対岸には両立しがたい国家がある。
 日本にしてわれらの言葉に従わないかぎりは、頭上に鋼鉄の洗礼をうけることを覚悟しなければならない 」
と 恫喝した。
A級先般として巣鴨プリズンで淋しく散って行った快男児池崎忠孝君は、
これに対し 著書 『 米国怖るるに足らず 』 をあらわして、警鐘を乱打した。
しかしながら、笛吹けども人踊らず、
わが国の政界には、池崎君の卓見を受け容れるだけの智能はなかった。
それをよいことにして、米英はワシントン会議を招集し、
わが国の主力艦及び航空母艦の保有量を、米英の五 ・五 に対し三の比率に切り下げることを提唱した。
このときにもまた米英の野望を看破するものはおらず、易々として、これに屈服した。
建造半ばの巨艦は次々に打ち砕かれ、奄美大島古仁屋の要塞は一瞬にして爆破せられるに至った。
大正十一年 ( 1922年 ) の出来事である。

ワシントン条約の締結により点火せられた米英の日本後略は、漸次その鋭鋒をあらわしてきた。
大正十三年 ( 1924年 ) 七月一日成立した 日本人移民上陸禁止法 は、
アメリカの戦争への露骨な挑みかかりであった。
されば、万一の場合をおもんばかり、
スミス、ナイルス、ネルソン、ウェートなど優秀な飛行家を派遣して、
空から わが国の防備を撮影せしめた。
それを宙返り飛行を只で見せてくれる親切なものがあればあるものと、
ポカンと口をあけて眺めていたことこそ、誠におめでたい限りである。

必敗の海軍から、せめて対等に戦い得る海軍に練り直そうとする、いわゆる艦隊派の将兵の、
それからの苦心は並々ならぬものであった。
そして生まれたものが月月火水木金金の猛訓練であった。
摩耶、愛宕、鳥海、比叡級の巡洋艦、伊号潜水艦などの完成であった。
驚いたのは英米である。
折角主力艦を制限しても、補助艦が急速に進歩し、
戦闘意識が天をつくに於ては、容易たやすく 併吞へいどん することはむずかしい、
と気が付いた。
海軍兵学校の生活を如実に描いた山岡荘八氏の小説 『 御盾 』 が、翻訳せられて、
アメリカ海軍の教科書とされたのは、そのためだ。
昭和四年十月四日から三日間にわたるイギリス宰相マクドナルド、アメリカ大統領フーバー、
同じく国務長官スチムソンの三巨頭のブルーリッヂ山に於けるキャンプ生活も、そのためだ。

かくして、同年 ( 昭和四年 ) 十月七日 イギリス外務省の名で、
日米英仏伊の五ヶ国に、海軍軍備縮小会議開催の正式招請状が発せられた。
このときすでに、矢は弦を離れたのだ。
名を軍備縮小に借りてはいるが、その実は日本併呑の毒牙を振わんとするものであるから、
かような招請に対しては、電報一本で断ってしまえば、それで何もなかった筈だ。
それを 『 相模太郎の胆たんおうの如し 』 というのだ。

奇怪な若槻全権不起訴理由書
しかるに、浜口雄幸首相は、それができなかった。
その翌八日 ( 昭和四年十月 ) 閣議を開き、
打てば響くように、会議に出席せしめる首席全権として若槻礼次郎氏をきめてしまった。
それには、こういう訳があるからだ。
同年 ( 昭和四年 ) 九月十二日には、前賞勲局総裁天岡直嘉氏が勲章を売ったという事件で収容せられ、
同月二十七日には、前鉄道大臣小川平吉氏がいわゆる鉄道疑獄で収容せられた。
それのみならず、越後鉄道事件というものが捜査線上に力強くのしあがって来た。
越後鉄道は、昭和二年三月三十日若槻礼次郎内閣で買収が決定し、
翌昭和三年九月十二日田中義一内閣で千二百四十一万八千五十円と査定せられて
久須美東馬氏から買い上げられたものだが、
その買収がどうみても臭いという事件が、この時はからずも起こってきたのだ。
その結果として、同年 ( 昭和四年 ) 十一月二十一日には前鉄道次官佐竹三吾氏が収容せられ、
( 昭和四年 ) 十二月六日には前鉄道次官降旗元太郎氏が収容せられ、
十二月十日には前商工大臣俵孫一氏が取り調べを受け、
翌昭和五年三月八日には前文部大臣小橋一太氏が起訴せられている。
この大騒動の真っ只中に、
当面の責任者と目される若槻礼次郎氏を国内に置くことはどう考えても面白くない。
よろしく国外に出ていて貰わなければならなかったようだ。
というわけは、十一月二十六日に渡辺司法大臣が
「 前内閣総理大臣若槻礼次郎氏が久須美東馬氏に十万円を要求した件を起訴せざる理由 」
という奇妙キテレツな発表をしたことで容易く判断できるところだ。
本日小山検事総長から左の通りの報告を受取ました
『 若槻全権に関し同氏が疑獄事件と何等か関連あるかの如く報道せる新聞紙の記事は
 司法事務上黙過することができないのみならず 外交関係上にも重大なる影響があるにつき
全権の出発せらるる前に於て事実の真相を明かにする必要あり
検事に於て詳細に調査を遂げたるところ 若槻氏が昭和二年十二月中旬
立憲民政党の顧問として久須美東馬氏に対し
書面を以て次の総選挙の際 十万円を立憲民政党の為に選挙費の寄付方を申出たる事実あるも
右は罪となるべきものにあらず云々  』

果せるかな、
刑法第百九十七条
「 公務員その職務に関し賄賂を要求若しくは約束したるときは三年以下の懲役に処す 」
という法律を学んだ者らをして 啞然、かつ呆然たらしめた。


弱腰外交に怒る海軍
それとは別に、
輝く首席全権若槻礼次郎氏は令息有格氏、愛婿田原和男氏らを従え、
海軍全権財部彪大将は稲子夫人を従え、
あたかも大逆犯人を護送する場合のような厳重な警戒裡に、威風堂々と出発した。
昭和四年 ( 1929年 ) 十一月三十日のことである。
アメリカは国務長官スチムソンを首席全権に、海軍長官アダムスを海軍全権に決定すると共に、
ブラット、ジョーンズなど、海軍の首脳を顧問に加えた。
スチムソンが、排日悔日の指導者的立場にあることは、特に記憶を新たにしなければならないところだった。
更にアメリカは、暗闇の外交官と呼ばれるキャッスルを密使として送り、
内大臣牧野伸顕伯、外務大臣幣原喜重郎男、外務次官吉田茂氏らを訪問せしめて、
個別爆破を試みさせた。
他方イギリスは、最後通牒のごときものを発して
「 日本が英米の対案に属さなかった場合には英米の対日空気は悪化する。
 又 製艦競争はどんどん始まるであろう 」
 と 恫喝している。
外務当局は、塩をかけられたなめくじの如く縮みあがった。
徳富蘇峰先生は東京日日新聞で、
「 霞ケ関の外務省は英国の外務省であるか、幣原外相はいづれの国の外相であるか、
 我々は改めて吟味する必要を感ずる 」
と、大胆に痛罵せられた。

アメリカは、日本が怒って戦争となることを非常に怖れた。
「 若し反対するのであれば空から征くぞ 」
と、優秀な飛行家、プロムリー、アッシュ、ハードン、バングボーン、ケッテイ、コスト、リンドバーク
らを続々送り込んで、日本の防備をことごとく写真機に収めしめた。
西南から飛んだプロムリーは淋代さびしろの海岸から姿を消した。
東北から飛んだリンドバークは台湾から姿を消した。
それでも、日本の政治家らは、依然としてポカンと口を開けて空を眺めて関心しているばかりだった。
もともと、わが国の兵力量を決定するには海軍を代表する軍令部長の同意が必要なのだ。
そこで若槻全権が出発する際には、浜口首相は、軍令部長加藤寛治大将と共に参内して、
英米の一〇に対しわが国は七の比率の補助艦を保有することを必要とする旨を回答することを奉答して御裁可をうけた。
ところが英米としては、それでは到底勝算がないのでテコでも承知しない。
昭和五年 ( 1930年 ) 三月二十一日、
若槻全権から この儘では進退極まる、どうしたらよいか、
という請訓が来た。

浜口首相は、六割の比率で降伏しようと決意し、
( 昭和五年 ) 四月一日午前八時、
加藤軍令部長を官邸に招致して、
軍事参議官岡田啓介大将と共々、その同意を求めた。
加藤大将は厳然として必敗の回訓には絶対に反対する旨を明言すると共に、
海軍省に帰り軍令部次長末次信正中将らと、極力その不当を強調した。
そればかりではなく、
加藤大将は、かかる回訓を決定してはならないと、身を以て帷幄に上奏しようと決心したが、
不幸にしてそれは実現できなかった。

この間の消息を条約を結んで帰国する財部大将を途中で刺そうとして果さず、
恨みを呑んで自決した 草刈英治少佐 の遺言によって表現すると、こうだ。
「 鈴木貫太郎は軍令部長として加藤大将の帷幄上奏を為さんとするを阻止し 」
かような経緯があったにも拘らず、
浜口首相及び幣原外相は議会で
「 兵力量の決定権は政府にあり 軍令部の意見は単にこれを斟酌しんしゃくすればよい 」
と 答弁した。
ところが条約が枢密院の諮詢によると、枢密院は
「 兵力量の決定には軍令部長の同意を要す 」
という意見を堅持して譲らなかった。
そこで浜口首相は議会の答弁を翻し
「 軍令部長の同意を得たものである 」
と豹変した。
ある顧問官の如きは、
「 然らば加藤軍令部長を連行せられたい 」
と詰め寄ったとさえ伝えられている。
・・・リンク
・ 統帥権と帷幄上奏 
・ 鈴木侍従長の帷幄上奏阻止
・ ロンドン条約をめぐって 1 『 米国の対日戦略 』 
・ ロンドン条約をめぐって 2 『 西田税と日本国民党 』 
・ ロンドン条約をめぐって 3 『 統帥権干犯問題 』 
・ ロンドン条約問題の頃 1 『 民間団体の反対運動 』 

運命の 『 必敗 』 の比率
かくして海軍の補助艦を必敗の比率に切り捨てる回訓は、
海軍の絶対反対を押し切ってロンドンに向け発送せられた。
いわゆる倫敦国辱条約はたちどころに締結せられた。
財部全権はシベリヤ鉄道により帰路につき
京城で斎藤実朝鮮総督、谷口尚真呉鎮守司令官と協議して
加藤軍令部長、末次軍令部次長の追い出しを策して、( 昭和五年 ) 五月十九日帰朝し
「 帝国の海軍は量が減らされたのであるから質に於てこの量を補え 」
という珍無類の訓示を出して物笑いの種を撒いた。

若槻全権は海路をとり六月十八日関門海峡で、メッセージを発し
「 今回の倫敦会議に際しては幸に国民の支援と政府当局の宜しき支持鞭撻を得て
 大体その目的を達成し重大なる任務を果たし云々 」
と自慢した。
このとき、猛然たる暴風が吹き起こって、全権を乗せた北野丸は木の葉の如く揺り動かされた。

( 昭和五年 ) 五月二十七日の海軍軍事参議官会議は
「 倫敦条約の結果日本の保有する海軍力を以て国防を支持することを得るや 」
との御下問にに対し、
「 大正十二年御裁定の国防方針は帝国現下の国情に適応する最善の方策なり、
 然るに今次の倫敦条約の限定によれば右既定方針に基づく海軍作戦計画の維持遂行に兵力の欠陥を生ず 」
と、ハッキリと奉答した。
「 戦えば必ず負けます 」 という率直な意思表示である。
万事休す !
勝ち誇ったアメリカはブラットに代ってスタンレーが作戦部長に就任し、
全米に呼びかけて海軍の大拡張を計画した。
わが国に於ては、山下源太郎大将、山川健次郎先生など、
国を思う念の誰よりも厚い諸先輩が、この条約の締結を憤り悲しんで長逝せられた。

倫敦条約の締結を契機として、米英と和蘭とは急速に結んだ。
米英の蒋介石政権への援助は露骨となった。
長江沿岸を中心とする支那人の侮日排日は愈々熾烈となった。
いわゆるABCDの日本包囲陣は初めて完成した。
時こそ至れりとアメリカは、二十九年の久しきにわたる友好を断ち切って日米通商航海条約を破棄した。
実に昭和十四年七月二十六日のことだ。
その翌年には、アメリカは太平洋で対日大演習を行い、イギリスはシンガポールに東亜軍総司令部を新設した。
アメリカは日本への屑鉄の輸出を禁止し、オランダは日本への石油の輸出を禁止し、
イギリスはビルマ ・ルートから蒋介石に武器を与えた。
その翌昭和十六年に至るや、
アメリカは日本への石油の輸出を禁止し、資金を全面的に凍結すると共に艦隊をハワイに終結した。
米英蘭はマニラで軍事会談を行い、英蒋はシンガポールで軍事会談を遂げた。
準備が全く整うや、アメリカ海軍は、昭和十六年十二月七日午前六時、
わが特殊潜航艇を無警告で撃沈した。
真珠湾攻撃に先だつこと実に一昼夜である。

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