昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

ヒーローに成った

2021年04月25日 06時35分34秒 | 3 青い鳥 1967年~

昭和41年 (1966年 )  淀川小学校六年生の一学期
体育の授業に野球 ( ソフトボール ) が科目に成り
野球少年の私
意気軒昂、
日頃の成果を見せようと、俄然張り切った。
そして、その実力たるや、クラスでは群を抜いていた。
果たして、体育の通信簿は 「 5 」
生涯で、たった一度だけ、手にした栄冠である。

都島球技大会
小学校六年生の二学期
運動会の後、
都島区の小学校対抗で、野球 ( ソフトボール ) の競技大会が行われることに成った。
クラスごとに 2名 7クラス総勢14名 選手候補が選出された。
その中の一人に、私も居た。
私は、3人のピッチャー候補の一人であった。

「 都島球技大会に出る人は運動場に集まって下さい 」
一度だけ、職員室のマイクで、そう呼びかけたことがある。

放課後の練習を通じて、9名のレギュラーが選出される。
私は、エースに成れず、セカンドで7番 と、告げられた。
代表メンバーを見て、
「 これは、1組~7組までの各クラスを配慮したな 」 ・・・と、そう想った。
しかし、それでも、私は
9名の、学校の代表選手の一人に選ばれたのである。
「 代表に
成る」 は、名誉な事ではあった。

私は、大した活躍は しなかったけれど、
チームは優勝した。


イメージ画像は 昭和49年 ( 1974 ) 年8月
3年時のソフトボールの競技は、ブルーのダイヤモンドで行った。 ( プールが出来た為 )

「 ヒーロー 」 に、成った
昭和42年4月1日 ( 土 ) 、入学式を終えて中学生に成った。
吾 淀川中学校では、
新学年、新学期に、先生方、担任が各々家庭訪問、家庭調査をする。
その二日間、午後の授業を割愛して、
男子はソフトボール、女子はバレーボールで、クラス対抗戦を行った。
何せ、半ドンで昼からは遊べるとあって、選手組も、応援組も、共に喜んだのである。
競技は、全7クラスのトーナメント方式で、3回戦で行われた。

脇役だった一年生
昭和42年 ( 1967年 ) 中学一年生
メンバー選びを取仕切ったのは、都島球技大会優勝チームの主軸選手であった 菅、諏訪。
背が高く体格の良い二人、
しかも、菅はエースとして優勝に貢献した大の立役者、皆が一目置く存在であった。
「 花田も都島球技大会に出たなぁ 」 と、諏訪、
守備の人 として、三塁手 として、選手に選ばれた。
「 都島球技大会・代表メンバー 」 として、顔は立てて呉れたものの、
7番・セカンド の印象は、額面通り、薄かったのであらう。
エースの菅 率いる、吾々5組は優勝候補であった。
ところが、無名の平凡投手多田のチームに、初戦であっさり敗れてしまったのである。
私は、試合に参加したが、戦ったという 実感はしなかった。
優勝候補に勝った多田のチーム、勢いに乗って、優勝してしまった。

一躍 ヒーロー
に、成った二年生

昭和43年( 1968年 ) 中学二年生
偶々、クラスに有力メンバーが存なかったこともあって
私は、エースで4番
そして、メンバー選びを取仕切ったのである。
「 打たして捕る野球をするぞ 」 と
中学では軟式野球部の、西・山本を、それぞれ、キャッチャー、レフトに配置して、要所を締めた。
作戦は私の思い通りの展開に成った。
「 レフト、行くぞ!」
・・「 オーライ!」
レフトに 凡フライのヤマ、を築いたのである。
レフトの山本、活躍できて、たいそう ご満悦であった。
ホームランを打ちたい という相手の気持ちを、巧くコントロールしたのである。
遣ること、為すこと 全てが旨く行った。
センターがえしで、頭上を越えるであらう打球を瞬時に手を伸ばし捕球し、
「 オオー !! 」 、観戦の横山先生を感嘆せしめた。
投げて良し 守って良し・・
この試合、私は、
4打数4安打、3ホームラン、1三塁打、11打点
それはもう、大活躍であった。
・・打って更に良し
「 花田 単りにやられた 」 ・・・コールド負けした6組の岩出
「 あいつがおれへんかったら・・勝ってたんや 」 と、負け惜しんだ。

私の勢いは、とどまることなく、更に続いた。
決勝は昨年の優勝投手多田のいる7組
ここには、野球部でエースで4番の萩田 が存た。
絶好調 の私は 調子に乗って、
バッターボックス を 右から左にスイッチした。
バットを寝かせ、地面に水平に成る様に構えた、そして高めの球を待ったのである。
果たして、狙い通り、
おもいっきりスイングした打球はライトの頭上を超えた。
なんと、左打席での 初打席初ホームラン であった。
このホームランで試合の流れが変わった。
もう絶好調、遣りたい放題の私である。

極めつけは是
三塁走者は私、三塁を守るのは、野球部のエースで4番の萩田
ここで、三塁ゴロ
軽快に捌いた萩田、セオリー通り、走者の私を見遣って、一塁へ送球しようとした。
走者の私、ゴロを補給した彼と、私の位置関係を 咄嗟に把握した。
この距離なら、タッチプレーまで、手が伸びない、届かないだろうと
送球しようとする瞬間にホーム へ スタートする振りをして見せたのである。
奔る気はない、唯、セオリー通り、野手を牽制したのである。
咄嗟に体が反応したのであらう 萩田
タッチプレー しようと振向いたのである。
しかし、
タッチプレー 及ばず
しかも もはや、一塁送球も 間に合わない。
送球できずに、一塁セーフとしてしまったのである。
「 あ・・あ 」
応援する彼のクラスから溜息が漏れた。
「 ウワーッ!」
吾がクラスの応援から歓声があがった。
してやったり
私の勢い、とどまるところなし
是、まさに絶頂の瞬間である。

名を上げた
「 お前、右でも、左でも、ホームラン打ったらしいな 」
小学校の岡本先生
「 花田君が凄かった と、女子生徒が云うとったぞ 」
私の派手な活躍振りは、小学校の旧恩師達まで轟いたのである。
「 見られている事 」
そして
「 凄いと思わせしめた事 」
唯々、野球をすることが楽しくて、ゲームに没頭していたから、
気にもかけていなかったが

而して 私は、名をあげた

「 あいつは凄い、あいつには敵わない 」 ・・・と、皆に認識せしめたのである。
「 野球部にスカウトして来い 」
キャッチャーを務めた、野球部で三塁手の西
三年生にそう云われたそうな


優勝候補
の、三年生

昭和44年 ( 1969年 ) 中学三年生
「 こんどの大会、花田がピッチャーで出るのんか?」
「 いや、ピッチャーは多田や 」
去年、決勝で戦った多田にピッチャーを譲ったのだ。 ( ・・同じクラスに為った )
余裕を示した私である。
「 それなら、チャンス あるかな 」
大会前、2組・西崎がそう呟いた。
今度の大会、何故か野球部の連中は参加しないと言う。
吾がチームには
「 こいつ、野球大丈夫かな、できるんかな?」 
と、想う者もいて、この顔ぶれでは、勝てる とは思えなかった。
しかし他のクラスは、
私の存在 = 優勝 と、見做していた。
「 名をあげる 」 ・・・とは、こういう事なのであらう。

勢いはつづいていた
エース 菅 率いる3組との対戦
相変わらず、彼の投げる球は速い。
あの、都島球技大会で優勝に導いた、あのスピードボールは健在であったのだ。
しかし彼は、一年、二年と、勝てなかった。
私は、それが不思議で為らなかった。
「 彼は、何故勝てないのであらうか 」
彼の実力を持ってしても、優勝するという事は、至難の業なのである。
私は、驚異的な活躍をした二年生の時程では無かったが、引き続いて活躍できた。

私は、菅のスピードボールを、苦も無くセンター前に弾き返した。
更に、ボールを捕球したセンターが、
不用意にも、ピッチャーへ返球するのを見て、一塁ベースを蹴って二塁に走った。
 「 してやったり 」
思惑通り、二塁を奪い取ったのである。
「 どや!」 と、得意満面の私
これで、チームは、俄然 勢いづいたのである。

一人椅子に腰かけて、
一部始終を観戦した男性教師が存た。
3組担任・坂谷先生である、
先生は
私が所属するテニス部の顧問でもあった。
「 花田、あの速い 菅の球、よう打ち返せるなぁ 」
「 凄いなぁ 」 ・・・感心したと云う。
これ以上の誉め言葉、他にあるものか。

テニス部の私、
至近距離から、おもいっきり打ち下ろしてくる 「 ボレー 」 と、まともに対峙する場面がある。
「 テニス、の球のほうが速いから 」
・・・と、ニヤリ。
かっこう を、つけて得意顔の私であった。

「 青い鳥 」 の目の前て゛
青い鳥 の存る 2組との対戦。
私は三塁を守っている。
私と差向えに、2組を応援する彼女の姿があった。
バレーボールの選手の筈、競技が終わってのギャラリーなのか、
それとも、競技の合間か、いずれにしても
「青い鳥が見ている 」
そんな時に 限って亦 打球が転がって来る。
私の晴れ姿を彼女は一度も見たことがないだらう
ええかっこしたい ・・・
嗚呼

ところが、まさかのトンネル
あれを、トンネルするとは思わなかったと、後ろで守るレフト
レフト線を転がって行くボールに、追いつけなかった。
とうとう、打者はホームイン してしまったのである。
こともあらうに 私は、
青い鳥 の、目の前で大失策をしでかしてしまった。 


試合は、逆転して勝った。
トンネルをした汚名も返上した。
併し

「 その時 既に 遅かった 」
ギャラリーに、彼女の姿は無かったのである。


折角、
優勝したのに。



人生、
思いとおりになる。
これ正に、
至福の時である。

一年生の大会で、
「 エース・菅 」 が、その実力とおり、思惑とおり、優勝していたら、
彼は二年、三年の大会に於ても優勝したに違いない。
ところが、『 勝利の女神 』 の 気まぐれか、彼は負けてしまった。
その 負けたことにより、 「 菅 = 優勝 」 という 図式が崩れたのである。

二年生の大会で、
私の驚異的な活躍、これはもう神懸かりという外はない。
私の人生に於いて、稀有なもの。
然し そんな稀有なことが起ってしまったのである。
私は
ヒーローに成り、名をあげた。
そして、
「 勝ち抜く時の勢い 」
・・・というものを肌で実感するという、貴重な体験をしたのである。
「 勢いは、ヒ-ロ-のみが創り得る 」
長島茂雄の気持ちが分かった様な気がした。

三年生の大会でも優勝した。
「 私の存在 = 優勝 」 ・・・是で以て優勝したもの。 ( そう想っている )
ところが、
肝心なところで 大失敗をした。
こともあらうに、「 青い鳥 」 の目の前で、トンネルするという大失策。
これはもう、『 穴が有っても 這入れない』 ・・・そんな心境だった。

やっぱり
人生、思いとおりには ならない。
・・・ものである。


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