昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

引き潮が 満ち潮に変わる時

2021年09月13日 04時37分34秒 | 3 青い鳥 1967年~


↑ 昭和37年 ( 1962年 ) のテリトリー
『 住吉浜病院 』
昭和34年( 1959年 ) 5歳の頃、
正確に如何いう病院かは知らなかった。
然し、「 肺病の病院 」 ・・・と、先輩達から聞かされていた。
浜辺を歩く寝間着姿の大人の姿を見たことがあった。
なにかしらん 異様なその姿を観て、
「 さもあらん 」 ・・・と、そう想った。
その頃はそうだったのかも知れない。
 仏ケ崎の妹
住吉浜病院へ祖父を見舞う
昭和44年 ( 1969年 ) 10月14日
祖母 ( 母方 ) の見舞に帰郷した。
昭和38年 ( 1963年 ) 海峡越えて大阪へ出てから6年振りのことである。
・・・リンク→「 おばあさん どうやった? 」 ・・・○○○ が 問いかけた

引き潮 から

祖母の見舞が一段落すると、
明日は、住吉浜に行くと母が言う。
住吉浜病院に祖父 ( 父方 ) が入院しているのだ。
想えば、昭和39年 (1964年 ) 伯父の葬式以来 祖父の顔を見ていなかった。
・・・リンク→明日があるさ
曇り空の15日、昼過ぎ。
母と共に、祖父の許へ向かった。
この日の為に、学校 ( 高校三年生 ) を休んでくれた3歳上の従姉が案内してくれる。
従姉の優しきは不変也。
昔のままに ちっとも変っちゃあいないのである。
 
昭和44年 ( 1969年 )            昭和37年 ( 1962年 )
向港の桟橋に立つと、
海峡を挟んだ三ノ瀬港から渡海船が迎えに来た。
昔のように 櫓を漕ぐ舟ではない。
エンジン付のスクリュー船だ。
乗船すると、向港から一直線に三ノ瀬港へと走った。
 向港と渡海船
三ノ瀬港に着くと、
桟橋を上って路に立った。
これから一路 住吉浜へと向かう。
曾て 少年の私が闊歩した路である。
同じ路を 同じ順に歩いた。
なにせ6年振りのこと、どこもかしこも 懐かしい筈である。
然し、そんな心持ちにはなれなかった。
曇り空が重い。
なにか知らん 憂鬱な心持ちであったのだ。
さもあらん、昨日の今日である。
曾て 少年の私が、
あれほど遠い処 と、想っていた住吉浜。
さほど遠くは無かった。
・・・そう、感じた。

祖父はベッドに臥せたまま 口をきいた。
母が、私が、
何を話したかの記憶はない。
唯、
祖父は、傍に居る従姉のことを尋ねた。
さもあらん、祖父にとって従姉は初対面なのだ。
私はそんなことを、
生涯の記憶として覚えているのである。

これが祖父との今生の別れとなった。

吾心も、曇天の空も、晴れないまま・・・帰り路を歩いた。
だから、折角の風景 みちゃあいない。
すれ違う人も 知らぬ顔ばかりである。
もはや、此処では自分等が よそ者になっていることを感じた。
「 もう、故郷はないのか 」
・・・と、そう想った。

丸谷の祖母の所には寄らなかった。
余計な心配をかけたくなかったからだ。
 イメージは1979年
満ち潮 に
三ノ瀬港の桟橋から渡海船に乗った。
船が桟橋を離れた。
これから港を出て海峡を越える。
「 嗚呼、これで三ノ瀬とも おさらばか 」
そんなセンチメンタルな気持に流されそうになっていたその時。
ミヤちゃーん !!  」
と、大きな声で母を呼ぶ声がした。
「 誰じゃろ ? 」
母が振り向く。 私と、従姉も、その姿を探した。
ガンギの上に立ち、こちらに向って手を振る女の人の姿があった。
「 あれは、サユリさんじゃ 」
と、母が呟いた。

その瞬間 とき
なぜか知らん
少し、気が晴れた
そんな気がした


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