昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

貞子さん(ていさん)

2021年09月14日 15時05分32秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

私は
幼年期 ( 昭和29年~昭和37年 ) を
広島県安芸郡下蒲刈町三ノ瀬 ( 現在は呉市 ) で過ごした。
此は
昭和36年 ( 1961年 ) 7才
小学一年生頃の物語である。

貞子さん ( ていさん )
 「 アッ! 貞子(てい)さん 」
叔父の自転車の後ろに坐っての帰り途、
波止場の端に、
一人腰掛けている
貞子(てい)さんを見つけたのである。
海を見ていたその背中は、
何か知らん 淋しそうであった。

呼びかけようとしたが、
叔父に制止されてしまった。
叔父と貞子(てい)さんは中学一年の同級生、
照れくさかったのだ。
貞子(てい)さんは気づいていない。

貞子(てい)さんは、
8人家族 ( 祖母、父母、二人の兄、二人の弟 ) の一人娘。
父親は肺病で伏せていた。
母親と出稼ぎの二人の兄が家計を支えていた。
日本中が貧しい頃のこと、貞子(てい)さんの家も変わりはなかった。
貞子(てい)さんは、働きに出る母親の代わりに家事をしていた。
「食うもんがないんで、(浜で) あさり採って食うたんよのう 」
想えば中学一年の少女である。
然し、このこと 何も特別のことでは無かった。
周りの皆もそうだったのである。
私の親父も大阪へ出稼ぎしていた。
けれども私は、貧しさというものをちっとも意識しなかった。
日々の暮らしとは、そんなもの・・・と、想っていたからである。

貞子(てい)さんは、私の家に妹の子守で何度か来たことがあった。
おいしいものが食べれる、それが楽しみだといって、喜んで 引き受けてくれたらしい。
冬の寒い中、甘酒 ( 酒粕で作ったもの ) は、御ちそうである。
私は貞子(てい)さんと一緒に甘酒を呑んだ。
貞子(てい)さんは嬉しそうだった。
私も嬉しかった。

この頃は台風がよく来た。
私の村は島 ( 瀬戸内海に浮かぶ、対岸は呉 ) なので、その影響は大きかった。
褐茶の海は白く波立ち、
雲は飛び散っていく、
打寄せる波は道路へ飛沫を揚げた。
幼い私は台風が恐ろしかった。

深夜の事である。
貞子(てい)さんの家の屋根が落ちた。
一家は眠っていた。
貞子(てい)さんと父親が埋もれてしまった。
貞子(てい)さんには大きな梁がのしかかっていたのである。
駆けつけた消防団によって、父親から救助が始まった。
父親は病人
二人同時の救助には手が足りなかったのである

父親を救助しながら
「貞子、まっちょれよ、もうすぐじゃきんのぉ 」
「 ええ・・」
「 まっちょれよ 」
「 ええ・・」
「 がまんせえよ 」
「 ええ・・」
皆は返答する貞子(てい)さんは大丈夫だと思ったのである。

貞子(てい)さんの救助が始まったとき、息は無かった。
目も、鼻も、口も、耳も 泥が詰まっていたという。
苦しかったろうに
早く助けて欲しかったろうに
それでも貞子(てい)さんは、
「 ええ・・」 と、答えていたのである。
こんな状態で、返事をしていたのかと、
皆は その けなげ に胸をつまらせた。

先に救助された父親は数時間後、亡くなった。
「 貞子を先に救助していたら、死なさんで済んだのに・・」
「 もう五分でも助けるのが早かったら 」
・・・
と、皆は悔やんだ。

嗚呼
あまりにも悲しい
貞子(てい)さんの 運命(さだめ) である。

波止場に坐って
海を見ていた貞子(てい)さんの後ろ姿
脳裡に焼きついて 忘れる事は無い。


昭和36年 ( 1961年 )  卒園祝いの品 ・・ アンパンを食う私
道路と波止場の分岐点
私が坐っているコンクリート護岸の先端に
貞子さん ( ていさん ) は坐っていた。

古城


松風騒ぐ 丘の上
古城よ独り 何偲ぶ
栄華の夢を 胸に追い
嗚呼 仰げば侘びし 天守閣

崩れしままの 石垣に
哀れを誘う 病葉や
矢弾の痕の 此処かしに
嗚呼  時代を語る 大手門

甍は青く 苔生して
古城よ独り 何偲ぶ
佇み居れば 身に染みて
嗚呼 空行く雁の  声悲し
・ ・・ 
昭和34年 三橋美智也
貞子(てい)さん 
・・・の、想い出
を偲ぶ時、
なぜか知らん
何時もこの曲が脳裡を過る

追記
ていさん には 姉が存たとのこと
当時既に働きに出ていたので、私の記憶に登場しなかったようだ


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