昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

丸谷の波止場 「 サッカン 早よ 助けんねー !! 」

2021年07月06日 06時29分20秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

夏に泳ぐ・・・と言えば 丸谷の波止場
たいていは内海・入江で泳いだ。
海から上がると 波止に腹這いになって甲羅干しをする。
そして 又 海へ飛び込んだ。
 外海と波止場と親父
物語は小舟の辺り
「 船がきたどー 」
仁方港から三ノ瀬港へ向かう巡航船が沖合を通過しているのだ。
「 ソレーッ 」 ・・・と、ばかりに
大きい人達 ( 小学高学年~中学生 ) は 一斉に外海へ飛込む。
船が かき分けた波は、波止場に到着するころには その勢いも衰え ユッタリ した波になっている。
それはまさに 波のゆりかご
そして、ユラリ 揺らめく 心地よいゆりかごに乗るのである。
私のことは語らない。

泳いだ後は、必ずや井戸で水浴びし、躰に着いた塩分を流した。
大きい人 ( 中学生 ) が、海パンの尻を引っ張って、そこへ手押しポンプから出る井戸水を注ぐのである。
母や叔父達が天秤かついで水を汲みに行く 斯の井戸である。
・・・リンク→吾母との絆の証し

「 泳げるようになった 」
道端の階段から波止の階段まで約30m ( 満潮時 )、
この間を、浮き輪なしで泳いだら一人前とされた。
皆から、「 泳げるようになった 」 ・・・と、称されたのである。
此は、島の子にとっては名誉なことであったのだ。
斯の 『 階段~階段 』 までが、吾々にとっての登龍門だったのである。

私は 昭和35年 ( 1960年 ) 6歳の夏、そこを通過した。
然しこれには、からくりがあった。
最後の1、2m程を 10歳年長 ( 16歳 ) の叔父が後押して呉れたのだ。
叔父の手心が加わった成果だったのである。
それでも私は、そんなことはいっこうにかまわずに、
「 泳げるようになった 」  「 泳げるようになった 」 と、得意になって自慢したのである。

泳げるようになったのはこの年の前年 昭和35年 (1960年 ) のことである。
保育所の卒園式を終え 記念品のパンを食う私・・・リンク→丸谷の波止場 と 「 夕焼けとんび 」


弱虫を救った母の必死の叫び声
「 泳げるようになった 」 と、自慢していた私
皆へ それを披露する時が来た。  謂うならば デビュー 戦である。
男前の私、意気揚々、「 イザ飛込まん 」 と、波止路に立った。
ところが然し、そこから海を見遣って驚いた。
「 高い 」 
意外に 高かったのである。
「 飛込むことなぞ できるものか 」
そう、直感した。ヒビッタ。
意気消沈。すっかり弱虫になってしまったのである。
類似イメージ ・1954年頃
波止路の角に尻をついて、かかとを石堤の隙間に入れ、
出来るだけ低くして海へ入ろうとした。
然し、それでもまだ高い。
そもそも、波止の路から飛込むことなぞ 無理だったのである。
二の足を踏んだ。尻込みした。・・・もう、どっちもどっち
大きい人達が 波止の上で腹這いになって甲羅干しをしていた。
その中に、10歳年長 ( 16歳 ) の叔父も居た。
「 早よ、飛込まんかー 」
と、叔父が 腹這いの侭 ハッパをかける。
然し、すくんでしまった弱気の躰が 動くものか。
いつまでも、モゾモゾ していたのである。

弱い心が 災いを引き寄せる
後ろから、 両手で以て背を押された。
無邪気な悪戯をしたのは、トヨ君の弟 ( 私より2歳ばかり年少の幼児 ) 。
ドッボーン
突き落されたのである。
私はたいそう慌てた。  もう パニック 。
自分が泳げることすらも判らない。
徒に、バシャバシャ もがく だけだった。
如何な かっこうで もがいたかは憶えちゃあいない。
もがき以て、波止上で腹這いになった侭、叔父達が私を眺めている顔が見えた。
彼等は目前の出来事を承知しながらも、唯茫然と眺めているのだった。
一時 いっとき 空白の中にいたのであらう。 
だから、「 溺れるかも 」 と、想いつつも  躰が反応しなかったのである。
そんな時、波止路から 母の必死に叫ぶ甲高い声が聞えた。
「 サッカン 早よ 助けんねー !!
母の叱咤は 空白に縛られた叔父を動かしたのである。
忽ち、躰が反応した。
それからの 叔父の動きは如何にも機敏だった。  そして叔父の咄嗟の判断が功を奏した。
近くには停泊する舟もあった。
サッ と、立上るや、波止の上から飛降り、波止路に一番近い舟に飛乗った。
続いて 私に近い舟に渡り、それを私の傍まで動かした。
そして、手を伸ばして私を掴み上げたのである。
海から上がって、 『 一件落着 』。

私は溺れなかった。 ( もがいただけ・・・手前みその基準 )
偶々、水を飲まなかったことが その因である。
然し、偶々、大事に至らなかっただけのこと、生死の境は紙一重だったのである。
『 魔が差す』 ‥一瞬 とき は、こういう場合を謂うのであらう。
「 サッカン 早よ 助けんねー !!
厄を払い、叔父を動かしたものは母の必死の想いであったのだ。

「 あの時、母は何故 波止場に居たのであらう 」
このこと、今 初めて気づいた。
私が母のいる青雲の涯に逝った時、このこと尋ねてみよう。


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