昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

鎖縁の物語 「 共に野球部に入ったけれど 」

2024年04月27日 04時16分03秒 | 4 力みちてり 1970年~

高校入学早々の体育の授業で体育館内をランニングさせられたことがあった。
吾々は指示されるまま 黙々と駈った。
「 ピーッ 」 と、笛の音。平野が呼び止められた。
体育教師・黒田先生に呼ばれた平野、 先生と二人でなにやらヒソヒソ喋っている。
なにごとがあったというのか。
戻って来た平野に その由を訊ねると、
「 先生、俺の走り方が変なのに気付いて、その理由を訊かれたんや。
中学の準硬式野球部でピッチャー していたころ、膝が痛うなったことがあってな、
検査したら 膝に結核菌が廻っとったらしい、
もう治ってる 想うて 気にもかけてなかったが、やっぱり ちゃんと走れんみたいや 」

大田幸司 
昭和44年 ( 1969年 ) 夏の甲子園 青森・三沢高校と愛媛・松山商業 との決勝戦は
延長18回でも決着がつかず、翌日再試合となった。  中学三年の私は 此を リアルタイムでみていた。

野球をしたい
「 高校入学したら、野球部に入る 」
ユニホームを着て、スパイクの金具をカチャカチャ鳴らして歩きたい。
其は私の夢であった。平野も亦、同じ想いであったろう。
しかし、互いに体力的に自身が持てず、躊躇していたのである。


私と鎖縁の平野、共に住宅研究部に入って遊んでいた。
リンク→貴ノ花の相撲を見たかったのです
住宅研究部、部室前で平野が戯れにピッチングしているところを、
偶々 通りがかった、建築科の一級先輩・藤原さんの眼に留った。
彼は、軟式野球部のレギュラーの一人だった。
平野の投球フォームは江夏豊そっくり、
スリークォーターの左腕からくりだす糸をひくよな 快速球、揺れながら落ちる
ナックルボール、
「 これなら三振が取れる 」

と、平野の投球を観た藤原さん、一目でその才を見抜いたのである。
「 軟式野球部に入れ 」
勧誘された平野、まんざらでもなかった。
「 軟式野球なら 」
・・そう、心が動いた。

阪神タイガース  ・ 江夏豊
スリークォーターの投球フォームから投げられた快速球は圧巻だった。
1971年7月17日のオールスター戦で、リアルタイムで観た 9連続奪三振は、生涯の記憶である。

「 お前が入るんなら、俺も入る 。お前、ピッチャーになれ。俺はショートをやる 」
彼の入部がこれまで躊躇していた私の背を押すことになったのである。
そして、二人 連れ以て軟式野球部に入部した。
昭和46年 ( 1971年 )、高校二年の4月28日の事である。・・・

滔々、「 野球をしたい 」 という希望が叶った。
「 イザ、ゆかん 」
"力満ちてり、意気は湧けり。 剣とりて、皆勇み立て。闘い抜け、嗚呼俺等の選手達よ。"
・・・と、それはもう意気揚々の私。
そしてこれから、平野との鎖縁の物語がもう一つ始まる・・と、そう想った。

ところが相棒の平野、
練習に参加したのは、初日の たった一日だけ。
『 三日坊主 』  に、二日も満たない。
だから、物語にもならない、・・・のである。
理由は知らない。


野球をしたかった私、
新チーム結成後では、
エースの四番としてデビュー

・・・したけれど
リンク→背伸びした一分(イチブン)

結果的に 彼は
『 私の背を押した 』
そういう運命的な役割を果たした。
これも鎖縁
そういうこと・・・である。

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17才のこの胸に 「 友ガキ・舟木との別れ 」

2024年04月13日 18時39分09秒 | 4 力みちてり 1970年~

17才のこの胸に 「 二人で唄った刑事君 」
の、エピローグ である

因果

ツジ病院で見舞した時、彼の顔を見た。
それは、3年前の祖母と同じ顔をしていた。  (  ・・・リンク→「 おばあさん どうやった? 」  )
「 嗚呼、死相が出ている。 もう、助からないだろう 」
・・・・その時、そう想った。
病院は、学校の傍に在る。
にも拘わらず、私はその後 見舞に行かなかった
哀しい想いをするのが 堪らなかったのだ。

見舞から一週間、4月14日 ( 金 )
友ガキ・舟木は力尽きた。
『 金縛りの夢 』 ・・・から、二週間。 たった二週間である。
まさに、あっという間の出来事であった。
こんなことがあって 堪るものか。
けれど、 こんなことに為ってしまった。

お通夜の日
4月16日 ( 日 )
お通夜の日、昼間に一人訪ねた私。
元気な躰で戻る事 叶わなかった彼が眠っていた。
もう、目覚めることは無い。 永遠の眠りである。
顔に白い布・打ち覆いが掛っていた。
彼の枕元にはお母さんが坐っていた。
「  伸次は、『 帰って、ハナダと 囲碁 するんや 』 と、そう云ってました。
 『  そや伸次、元気になって家に帰ろうな。 帰って ハナダ君と 囲碁しような 』
そう・・・声を掛けて励ましていたんですよ 」 ・・・と、涙ながらに話した。
然し、彼の そんな願いは叶わなかった。
今こうして、冷たい躰になって私の前で眠っている。
私は、打ち覆いをとって彼の顔を見た。
小さくなった顔があった。
それは 別人の顔であった。
どれほど苦しい想いをしたのであらうや。
見なければよかった。・・・そう想った。
( 私は 茲から、生涯打ち覆いはとらないと 肝に銘じた )

告別式の日
17日 ( 月 )
午後、平野と共に教室を移動中、
運動場で担任の木全先生に呼び止められた。
「 オイ 花田、君のお母さんから電話があったぞ。
友達の舟木君の葬式が始まるから帰って来る様に・・と、そう云ってたぞ。
どうするか。帰るか 」
平野は、舟木を知っている。
小豆島の海で私共々過ごした仲である。   (  ・・・リンク→「 小豆島グリーンランド キャンプ場 」 )  ・・・
こん度の悲しい結末も知らせていた。
「 帰りません 」
私はそう、答えた。
ちょうどその頃、
葬儀に出た母は、私が現れるのを 「 今か 未だか 」 と 首を長くして待っていたのである。
然し 私は、葬儀 には出なかった

私は 悲しい場に身を置きたくなかった。
別れを告げたくなかったのである。
然しそれは、勝手な理由をつけて逃げたに過ぎない。
ちゃんと正面から向き合うべきであったのだ。 ・・・ちゃんと。
それが友ガキ ・舟木 に、私が取るべき 洵 だったのである。
然し、私は逃げた。 逃げてしまった。

四十九日
葬式が終わって数日経って、
私は線香をあげようと、仏壇前に坐った。
彼のお母さんが傍に坐って私を見ている。
仏壇には、額に入った顔写真があった。
こういった場合、テレビドラマなら写真の顔が微笑んだりするのであろうや ・・・。
そんなことを考えた。
すると どうだろう、写真の顔が笑いだしたのだ。
それだけではない。
写真の顔 が 姿に変わり、私に向かって歩いて来る。
その瞬間、冷たいものを感じた私。
声なき声をあげた。
「 ウワッー 」

そこで 覚醒したのである。

怖ろしい夢 を見た。・・・と、そう想った。

彼は夢の中に毎晩 現れた。
「 ハナダーッ !! 」
・・・そう言って 階段を上って来る。

夢は、一カ月半続いた。
眠れない・・・


『 逃げた 』 ・・・という 負い目、
彼に対して 『 すまない 』 との悔い、
そんな私の想いが、夢を 拵えるのであらう。

友ガキ・舟木との別れ
毛馬の洗堰に
二人居た。

病気になってしまう。
お前 たのむから、 もう 出んといてくれ。

俺も お前みたいに死んでしまうぞ。


私は、
夢の中で、
そう言った。

友ガキ・舟木が
頷いたか否かは判らない。
けれども、彼は
次の夜から
夢の中に現れなくなった。
ピタッ と。

如何 理解せん・・・

心霊的な所に逃げる気は無い。
自責の念があらばこそ、夢を見たのだ。
夢は、吾 心の現れ・・なのである。
然し、斯くも長期に亘って自責の念に苛まれようとは。
私は、猛烈に反省した。
私は、
此を教訓に
自責の念無きよう
「 洵を盡そう  」
そう、肝に銘じた。
しかし、
死んだ者に、
そんな反省の念・・・届くものか。

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17才のこの胸に 「 二人で唄った刑事君 」

2024年04月07日 17時01分19秒 | 4 力みちてり 1970年~


17才で逝った
友ガキ・舟木伸次君
の為 にぞ歌う
♪ こんな小さな命だけれど
賭けてさすらう
コンクリート・ジャングル
埃まみれの  巷の風が
いつか馴染んで懐かしい
俺も人の子  涙はあれど
泣いちゃならない  刑事くん ♪

♪ 義理も捨てたし人情さえも
捨ててさすらう  
コンクリート・ジャングル
嘘でかためた都会の夕陽  
他人同士になぜ赤い
遠い汽笛はふるさと列車 
呼んでいるのか  刑事くん ♪


「 コンクリート・ジャングル 」 
TV映画 「刑事くん」 主題歌
主演・唄  桜木健一
昭和46年 ( 1971年 ) から始まった斯の番組、
毎週、欠かさずに視ていた。
そしてこの歌 
毛馬の閘門/洗い堰への路行 肩を並べ
友ガキ・舟木 と 二人して
きまって唄ったものである。


洗い堰、共に渡った かんそく橋                             戯れに さい銭 上げし  なに いのる

♪タンタータタン タンタータタン ターンタータタン    タンタータタン タンタータタン ターンターンタタン♪
・・・刑事君の劇中に決まって流れるサウンド。
30分の番組中、之が流れる頃 物語は佳境にはいる。
そして、聴ている者は ブラウン管にカブリツクのである。
私が鼻唄で唄うと、友ガキ・舟木が応じた。
♪タンタータタン タンタータタン ターンタータタン    タンタータタン タンタータタン ターンターンタタン♪
「 なんや、お前も ( 刑事君 ) 視てんのか 」
「 おー 」
そして、二人して唄った。
♪タンタータタン タンタータタン ターンタータタン    タンタータタン タンタータタン ターンターンタタン♪

昭和45 年 ( 1970 年 ) 5月 大川 ・毛馬の 洗堰/中洲/毛馬の 閘門・・中洲で

金縛りの夢
4月2日 ( 日 ) 事である。
「 ハナダーッ !! 」
いつものとおり、彼の声がする。
いつものとおり、階段を上ってくる足音が聞こえる。
日曜日のこと、当然のことよと、朝寝坊を決めこんでの床ん中。
横向け半身の姿勢で以て眠っていた。
彼からすれば背を向けた状態にある。
「 ハナダー 」
・・と、そう云って、背後から近づいてくる。
ところが、
返事しようにも声が出ない、体を向けようとするも、動けない ・・・
「 ハナダー 」
・・・と、耳元で彼の声。
然し、
顔を向けようとするが、動けない・・・
「 ウーウツ 」  唸り声だけで声にならない。
「 ハナダー 」
・・・と、彼の顔が近づいて来る。
然し、
どうしようも、体が動かない ・・・
「 ウーウツ 」
「 ウワーツ 」
・・と
ここで初めて覚醒した。
嫌な夢を見た。

暫くして
「 はなだー 」・・・と
白日の下、今度は本当にやって来た。
「 今朝、お前の夢・・見たぞ 」
「 それも、金縛りにおうてなあ、 ウワッ 言うて 大声だして跳び起きたんやで

「 正夢かも知れんぞ 」
「 なんかあるんかも知れん、お前、気 (い) 付けよ 」
「 怖いこと言うなよ 」
その頃私は、正夢 たるもの・・を、けっこう見ていた。
とは雖も、正夢とてやはり夢は夢、
所詮後付け、話上でのこと・・と、たかをくくった。
まさか
此が 彼の元気な姿を見た最後になるとは、夢にも想わなかったのである。

元気一杯の17才の吾々
明日の悲運を誰が予測しえようか ・・・

此の日
「 来週の日曜、ボーリングへ行こう 」
・・・そう、約束した。

約束の日曜日 ( 4月9日 )
「 アレッ ?  来んな 」
いつもなら、「 ちょっと早いで 」 ・・・と謂う時刻に、
「 ハナダー !! 」 と、只それだけで挨拶もろくにせず、
いきなり玄関戸を開けては、
勝手に二階の私の部屋に上がって来る彼が来ない。
そして、その日 滔々彼は現れなかった。
同級の前川か天野らの処でも行ったのであらう ・・・
あいつ、約束やぶりゃがって 」 ・・・・そう、想っていた。

私との約束
破ったわけではなかった。

10日 ( 月 ) か、
突然、近所に住いする矢野の小母さんが訪ねて来た。
近所ゆえ その顔くらいは知っていた。
とは雖も、これまで挨拶一つしたこともない他人であった。
その矢野さんが我家を訪れたのだ。
舟木とは親戚だと云う。
彼のお母さんから伝言を頼まれてたと云う。
伝言はこうだ。
一週間程前 に入院し、手術した 。
そして、私に会いたがっている 。
もう 危ない。
・・・と。
青天の霹靂、私は愕然とした。
「 えッ 」 ・・・言葉が出なかった。

矢野さんが話を続ける。
腹が痛くなって病院で診てもらったところ、「 盲腸 」だと診断された。
直ちに手術と謂うことに成った。
「 怖いわ 」 と、言いつつ 笑顔で手術室へ入ったくらい元気だった。
本人も、皆も 「 盲腸の手術 」 なら・・・と、たかをくくっていた。
ところが、
「 盲腸ではなかった。 腸閉塞だった 」 ・・・と、術後 医師が云った。
術後、病状が急激に悪化したのだ。
そして、危篤状態に陥った。
・・・と、こう云うのである。
「 ハナダー 」 と言って彼が来たのは、つい一週間前のことである。

私は病院へ駆った。
斯の ツジ病院 だった。 何という巡りあわせであらうか。 ・・・
学校を休む ・ 1 「 その顔、どしたんな 」 
ベッドに横たわる彼を見た。
もう、別人だった。
たった一週間。
如何して、こんなことが 起こる ・・・・
「 祖母が危ないから・・ 」 と、帰郷したことがある。 ・・・リンク→「 おばあさん どうやった? 」 
「 おばあちゃんと同じ顔をしている 」
・・・と、そう想った。

( もう、これ以上は書けない ・・・ )

あっというまの
昭和47年 ( 1972年 ) 4月14日 ( 金 )
友ガキ・舟木 は 逝ってしまった。
私との約束、果せないままに。
凡てを、想い出に変えて逝ってしまったのである。
たった、17才で ・・・・

「 友との別れ 」  なんと 悲しいものである。
この感慨 たとえようもない。

あれはやっぱり 「 正夢 」 だったのか。
( ・・・後付けで想うことである )

♪ 遠い汽笛はふるさと列車  呼んでいるのか 舟木君 ♪

・・・17才のこの胸に 「 友ガキ・舟木との別れ 」 に、続く

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番組タイトル 「 小さな恋 」
『 刑事君 』 昭和47年 ( 1972年 ) 5月1日 ( 月 ) 放送 
昭和46年 ( 1971年 ) 歌手デビューした天地真理。
その売出し中の天地真理が、
婦人警官の役でゲスト出演したものである。

微かな記憶なれど、忘れられない
クライマックスのシーン
・・・・
次の日曜日、デートの約束をした。
「 今度の日曜、青い空 」
ところが、前日 事件に捲き込まれ屋上から突落され殺されてしまう。
警察官の制服姿で屋上から落ちるシーン
「 赤い夕陽が今沈む 」
そして、デートの待合せ場所である 「 日比谷公園の噴水 」 で、一人佇み想いに耽る刑事君
バックミュージックに 「 小さな恋 」 が流れて来る。
♪ たまに会えない日もあるけれど
それでも私は待っている
ひみつの約束指切りは

今度の日曜  青い空
ちょっとこわいの 恋かしら
赤い夕陽が今沈む  ♪

50年 遙昔の、二シーン が 瞼の裏に焼きついている。
タイミングもタイミング、
傷心の最中さなかに存た私には、
身につまされた、なんとも、哀しい 切ない物語であった。
   
リアルタイムで視ていた。
母も、妹も 一緒に視ていた。
その 『 切ない物語 』
妹らの心懐にも沁みたようである。
   
これらのシーン画像、何ひとつ記憶に無い。・・・50 年の歳月は遙遠き ・・である。

青雲の涯に逝った友ガキ・舟木。
此を 視ることは出来なかった。

『 死ぬ 』 ・・・とは、
そういうことなのである。

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スター 誕生

2022年08月28日 08時57分02秒 | 4 力みちてり 1970年~

「 おい 昨日の、あのコマーシャル、見たか?」
「 おおっ、見た 見た 」

 
昭和46年 ( 1971年 )、高校1年の学年末
エチケットライオンのTV・CMが流れた。
♪ いつかきっと、だれかと、キィッス・・・・誰かな?
そこに現れし、同年齢の少女
それはもう 可愛いかった。
クラスの皆も、同じ思いだったようだ。

「 どの時間帯の、あの番組の後に ( 小林稔子出演の ) CM、出るぞ 」
「 ペレ・・というCMにも、出てるぞ 」
放課後のクラブ活動の部室でも、上級生達が、話題にしていた。
やっぱり、皆も、可愛いと思ったのである。

  
小林稔子 17歳
同い年ではないか。
( 実年齢は一つ上とか、クラスの皆の声 )
アイドルの誕生である。

昭和47年 ( 1972年 )
TV・CMに、グリコクリームコロンを摘む小林麻美が登場した。
別品に可愛い
私はポスターを手に入れたかった。
どうしたら手に入るのか分らない
店頭で、「 ポスター下さい 」・・は、恥かしい し

級友・吉田五郎と
「 おい、グリコの宣伝部に、手紙を出したら、貰えるかも知れんで 」
これが、放課後の教室で級友吉田五郎 と、無い知恵を絞った結果、二人で出した結論であった。
「 便箋 と 封筒が要るな 」
「 とにかく、買いに行こう 」
行った先が、JR桜宮駅近くの郵便局
「 郵便局は、ハガキや切手を売る処で、封筒は売ってない 」
そう云われてしまった。
郵便局の職員、
「 君等、二人とも、( 都工の ) 高校生やろ 」
・・・
そう言いたげな顔をしていた。
考えなくても分るくらいの事
しかし、二人とも、そう云われるまで気が着かなかったのである。
二人して
赤っ恥をかいて、退散したのである。

 ・

とびっきり綺麗な訳でもなく、絶世の美人でもなかった。
しかし、可愛いかった。
時代に マッチ したのである。
TV・CM 一本で、
全国の中高生がいっせいに、アイドルとして認めたのである。
世に出る 』 ・・・と、謂う事とは
そういうことなのであらう

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受験番号一番の男 と 人生航路

2022年08月25日 16時55分01秒 | 4 力みちてり 1970年~

「 受験番号 ・ 一番を取ろう 」
受験番号は入試願書の提出順で決まる。  所謂 「 早いもん順 」
高校入試の願書受付が開始されるや否や提出に駈った。
ところが、折角の吾望おもい外れ 受験番号は なんと 二番 であった。
「 一番は誰哉?」

都島工業高校
『 天下の都工 』 ・・そう 呼ばれていた 伝統校である
明治40年 ( 1907 年 ) 5月、
市立大阪工業学校として大阪市北区北野牛丸町 ( 現在の大阪駅北側付近 ) に創立
大正14年 ( 1925 年 ) 12月に 現在の都島区善源寺町に移転
写真は、北区から都島区へ皆が歩いで机椅子を持ち運んだと謂う、伝説の移転の光景と推われる


昭和50年1月15日 撮影の本館                        昭和47年の鳥観
昭和45年 ( 1970 年 ) 3月16
淀川中学校では受験生を集めて、
学年主任の大沢先生が各々に激励して廻った
「心配するな、大丈夫・・」 と
私の番が来た
「お前はなァ、・・・」 と、それだけ 
リンク→進路相談
明けて 3月17日、
大阪市立都島工業高校 入学試験の日である。
私は建築科を受験する。 緊張に包まれ吾身が重い。
私は家を出ると、先づ 淀川神社で参拝、 茲に心身を清めん、褌 ふんどし を締め直した私、
「 いざ 行かん
と、これから戦の始まる戦場へと向ったのである。

国土地理院・・昭和49 年 ( 1974 年 ) 当時の航空写真
徒歩で15分、
学校に着くと、校庭の 「 建築科 」 と 定められた位置に就いて受験番号順に並んだ。
受験番号一番の男
「 一番は誰哉?」
興味津々の私の前に立つは 小柄の坊主頭の男・平野匡勇だった。
一番と二番の出逢い
此が縁 えにし茲に、彼との友情が始まる。
『 共に生きるを、友と謂う 』 ・・
こうして彼とは鎖縁、以後なにくれと行動を共にすることになるのである。
リンク→貴ノ花の相撲を見たかったのです

再会
校庭に並んで居た時、中学校の森洋一先生が顔を覗かせた。
吾々淀川中学校から受験する者の 出欠を確認する為、見廻っていたのである。
私の顔を確認しただけで
帰って行った。 森先生・・・リンク→not only but also
ところが、森先生と入り替わりのタイミングで、中学一年時の担任だった丸山 博先生と顔を合したのである。
一学年終了の昭和43年3月末、異動により淡路中学に転校したのでそれ以来の再会である。
担任の時、私に期待をかけて呉れていた先生であった。 ・・・リンク→先生の親心
此も 巡り合わせと謂うのであろう。
「 建築科を受験します 」
私は、頑張った甲斐あって この位置 ( 建築科 ) に 今こうして居ることを褒めて貰いたかった。
方や 先生は この時、どう想ったのであろうか。
因みに、淡路中学からの受験生・森本とは高校一年生で同じクラスとなった。
これも何かの縁というものなのであろう。
出逢い
試験会場である本館中央二階・東の建築科の教室に入った。
廊下側から一番奥の列、窓際の席に前から順次坐って行った。
一番前が 受験番号一番の平野、次が二番の私、私の後ろは三番・西田・・・
窓の外には、昭和天皇臨幸記念碑に雪がチラついていた。この日に限って寒かったのだ。
「 こいつ、口の周りにカビ・・生えてる 」
直ぐ右の二列目・私の真横に坐った安藤の無精ひげ。( 彼は年齢の割には、髯が特に濃かったのだ )
試験時間の合間に、隣の教室から中学同窓の顔を覗きに来た大土の黒縁のメガネ。
・・・斯の時 殊更、私の目を惹いた。
( 呉津との出逢いについては、改めて別に記しるすことにする )

昭和47年 ( 1972 年 ) 万博記念公園 太陽の塔 前にて    平野
人生航路
中学二年生の二学期から精魂込めて勉強を始めた私、
「 基礎から勉強する、数学の問題は、よく読んで、解けるまで、一つ ひとつ 解いて行く。
英語は、頭で覚えず、自然に手が動くようになるまで書いて覚える 」
これが、できるようになると、成績は上がった。
嬉しくなって、一段努力すると、これまでが低かったので当然のことだが、
成績は上がる は 上がる それはもう、100人以上の ごぼう抜き、遂に、トップに昇りつめた。
・・・とまで 行きたかったが、なにせ時間切れ。
「 勉強始めるのが遅かった、もう一年早く勉強していたらよかった 」 は、後から想うこと。
それでも、勉強することが楽しい、この勢いで以て勉強を続け、
意気軒昂、『 高校では一番になろう 』 と、そう決意したのである。
・・・リンク→がり勉

「 皆の学力をみ観させて貰うぞ 」
入学早々数学のテストが行われた。
問題用紙を配り以て 数学担任の大家おおや先生、
問題の内容は数Ⅰ、中学三年のレベルのものである・・と。
中三の学年末試験の 内容とレベル と謂えば、
採点されたテストを返却し終わって時の数学担任の沢野先生、
「 クラスの平均点が低すぎるぞ、そんなに難しい問題だったとはおもわないが 」
と、如何にも不満の面持ちでクラスの皆を前にして告げたのである。
クラスの平均点が30点以下だと云うのだ。
「 でも、難しかった 」 と、皆は云う。
その時私は81点、学年トップの秀才が92点 (? ・・だったと思う )
「 こんな難しいテストに90点以上とるんか 」
と、学年トップの実力を、学力の差を、見せつけられたのであった。
( ちなみに、学年トップの服部、彼は大手前高校へ入学した )
しかしそれでも尚、意気軒昂、『 高校では一番になろう 』 と、そう決意していた私。
果して、テストのレベルは大家先生の云った通り、中学の学年末程度であった。

採点されたテストが返却されると、83点 「 まあ、こんなもんか 」 と、満足したのである。
ところが然し、クラスの平均点は86点、しかも満点の100点が8人もいると云う。
「 エーッ、俺の83点は平均点にも届かんのか 」
クラスの皆の学力の高さに脱帽、もう・・意気消沈。
『 高校で一番になる 』 との、私の決意は 逸早くも 高校入学早々に沈没したのである。
その時の満点8人衆の一人に平野が存た。
 
昭和46年 ( 1971年 ) 一年生の三学期早々
吾々の専らの関心事は、エチケットライオンのテレビCМにから "スター誕生" した小林麻美。

リンク→スター 誕生
そんな中
クラスの数名が退校すると云う。
「 ナニーッ、やめるー
「 なんでや 、お前 建築士に成りたかったんちがうんか 」
「 なりたいワイ、けど 大学へ行って学んでからでも遅くはないやろ 」
「 ほな、なんで都工へ来たんや 」
「 中三の時は そこまで考えんかったし、成績で振分けられただけや 」
「 大学受験しても、建築学部に合格するのは難しいぞ 」
「 建築、スベッたら どうするんや 」
「 その時は建築諦める 」
「それで、お前、ほんとうにええんか 」
「 おー 」
高度成長期の日本、建築学部は人気で相当の難関である。
そして、一級建築士は世のトレンドだった。
それでもやっぱり、大学で学びたいと云う。何も18歳で働くこともあるまいと云うのだ。
担任・木全 先生は必至に慰留に努めた。
「 君らの考えも解る、中学卒業時の君らの成績が良かったから、そういうふうに考えるのであろうが、
しかし 普通科高校への転校は不可能だし、
といって、この春の受験といっても、工業高校で一年学んだ事が反って ( 高校 ) 受験にはマイナスになる。
現役受験なら合格したであろう普通科高校も今となっては受験するリスクは高いのだ。
一浪して 来年受験為直すには更にリスクが高くなろうし、落ちればそれこそ 元も子もなく成る。
担任としては、素直に "よし頑張れ" とは言い難い 」 ・・と。
人生色々、誰も自分の思うが儘に生きたいものである。
この問題、クラスの皆で以て 真面目に考えた。
大学へ進みたいと真剣に想っているものが吾クラス40人中10人程存在することも分った。
その中には、『 仲間達 』 の 平野、呉津 も、存したことを知った。
西村、大土、寺内、梶、彼等もそんなことを考えていた様である。
みんな 夫々、いろんな想いを持って生きていることを 私は知ったのである。
そして私は、
「 設計士に成る 」 と謂う、10歳の決意
「 一級建築士になって、設計の仕事をする 」 と、中三の表明
一途に 一直線 
初期の目的を貫徹しよう
改めて、そう決意した。
それで十分である・・と、そう想ったのである。

和室の透視図
宿題として着色したものである
教師より指摘された部分が、私のオリジナリティ
16歳の個性 なのであらう
「これが、2万円か・・」 と、眼がくらんだ私
とにかく、こういうものを画くのが、好きな私であった
そして
こういうものを画いている自分が、誇らしくもあった
・・・面白い 面々


  平野君           呉津君
1972年5月・修学旅行で
結局、吾クラスから二名去って行った。
その中うちの 一人は この昭和46年春に合格し、もう一人は 一浪して翌年の昭和47年春、
それぞれ希望する普通科高校へ入学したと、担任より知らされた。
吾々は彼等の希望が叶ったことに安堵の想いであった。
平野と呉津は共に在学することになり、
在学して建築の専門科目も学びながら大学受験の勉強もするという、『 二刀流 』 の路を選んだ。
彼等のこの器用、学力がある故に為せる業であろう、私にはとうてい真似は出来ない。
高校入学時に担任・木全先生が吾々に云った、
「 君らは高校生だ、中学生ではない。君らはもう大人なのだ 」
この言葉に私は感動した。クラスの皆も同じ想いだったであろう。
高校生とは、16歳とは、斯くの如きものかな・・・と、そう シミジミ 考えさせられた。
そんな出来事であった。

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ヤングおーおー

2022年08月20日 19時50分54秒 | 4 力みちてり 1970年~

「 昨日の ヤングおーおー 見たか 」
「 おー、見た、見た 」
「 機械科の三好が、出とったやろ 」
「 出とった、出とった、あいつ よかったなあ 」
「 俺は会場におったんや、一緒にいっとったんや 」
・・・と、同級の下辻。
1972.5 修学旅行
「 ナニーッ 」
「 ほんまかいや、お前もおったんかいや 」
「 なんやお前、なんで俺も 誘うて呉れへんかったんや 」
「 俺も行きたかったなァ 」
月曜日 ・朝一番教室では、
昨日のTV、ヤングオーオーの話題でもちきりだった。

ヤングオーオー
昭和47年 (1972年) ( 高校二年 3学期頃 )
ゲスト歌手は三善英史
会場に偶々居た、同姓同名の人 と、然も 同い年 と謂う
たった それだけの理由で以て
機械科の三好は幸運にも、ステージに上ったのだ。
照れくさそうにして、桂三枝の質問に答えている三好。
彼の学生服の襟には、
吾が校、都島工業高校の襟章が、彼の機械科のMの襟章が見える。
全国の人が、この瞬間を、然も同時に、見ているのだ。
「 あいつ、ええ想いしたなぁ 」 ・・・と。
人生、偶々
こんなことが起る。


三善英史
昭和29年生まれ
謂わば、同級生である
♪ 恋はいつの日も はかないものだから

じっと 耐えるのが つとめと信じてる
・・・雨
記憶に残るフレーズである

昭和47年
毎日新聞 ・ 夕刊のコラムで、三善英史の記事が、偶々目にとまった。
新しいタイプの歌謡曲として
水前寺清子の応援歌でもなく、
北島三郎の演歌でもなく、
艶歌でもなく、また、ムード歌謡曲でもなく
歌も、歌い手も、歌声も変わってゆく ・・・と。
これからの時代は、三善英史の如く、中性化へと向かっていく
・・・と。

時代は進化する
中性化は、きっと 時代の進化の課程なのであらう
「 男女同権 」
・・・と謂う、殊更なる言葉も 今や死語である。
然し、私は
男女差別無き社会は、然りと雖も
男女区別の無き社会は、納得がゆかない
・・・そう、想う 

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貴ノ花の相撲を見たかったのです

2022年07月10日 05時27分59秒 | 4 力みちてり 1970年~

(1970年)昭和45年 高校一年生
私は、同じBクラス3名(平野、山下、西尾)と共に、住宅研究部に入部した
Aクラスから1名(古田)、新一年生は5名の入部であった
先輩達が、T定規と三角定規の使い方、エンピツの線のひきかた等を教えて呉れる
それは、意外と難しかった
真面目な生徒古田
一人、必至で取り組んでいた
いつの時代も、そういう奴が居るものである

文化祭
11月、文化祭が近づいてきた

吾々一年生に、1/100の木造住宅の屋根無し模型を出展せよと謂う

必ず、出展しなければならんぞと

活動の実績がなければ、生徒会から、予算が下りないからだと

模型材料は、学校正門前の文房具店「菅家」で購入する

「菅家」さんは、吾々のOBの実家でもあったおかげで

店主のお父上は、後輩の吾々に親切に対応して呉れたのである

先輩様々である

模型の制作は、つまらなかった

途中で「イヤ」になったのである

文化部において、文化祭が、どういう意味があるのか、一年生の吾々は知らない

我慢できなくなって、とうとう吾々同級生4名は逃亡したのである

・・吾々の様な「ボンクラ」はいつの時代にも居る

これに、上級生が怒った

それでも、吾々は逃げた

放課後、部室へも行かずに帰宅したのである

真面目な生徒古田、一人、残して

写真 下 1973年 (吾々が卒業した年)
吾が住宅研究部の一年後輩によって描かれた鳥瞰図である

031975115

 

 

 

 

 

 

 



逃亡する、吾々に対して上級生(2年生)は、正門で待ち受けていた 

他の3名は捕まって、部室へ連行

他の3名、次の日は通用門をすり抜けた     画面下 右隅

「してやったり」の3人であった

ところが、敵もさるもの

この3人、国鉄環状線で通学している (ほとんどの生徒が利用)

環状線桜ノ宮駅で、待ち受けていた3年生に捕まってしまったのだ

然し 私は捕まらなかった

私は自転車通学だった、さすがの先輩達もそこまで、知らなかったのだ

自転車置場は体育館の右側(裏)にあって

そこから裏通路をグルット周って

写真上 中央の校舎と校舎の間の、裏門から脱出していたからである

 

貴ノ花    売り出し中の、最も勢いのあった頃である

たわいも無い、鬼ごっこ をしたものであるが
確かに、模型作りはつまらなかったけれど
それより 何よりも
私は 相撲 を見たかった
貴ノ花 の 取り組みを見たかったのである

カンネン、した、吾々は、模型を作製し、文化祭に出展したが・・
いものが出来るはずも無からうに

文化祭の当日
「こんな模型、僕でも作れる」 と、小学生
・・・

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バラ色の時 4 「 小豆島グリーンランド キャンプ場 」

2022年07月06日 06時14分45秒 | 4 力みちてり 1970年~

芸術の授業で夏休の課題として、「 海の絵を画く 」 が、出題された。
巷では、西郷輝彦の 「 真夏のあらし 」 が流行っていた夏休み。
級友の平野、水阪、友ガキ・舟木、
平野の中学の同窓・平山、西川 とで、
小豆島のキャンプ場・グリーンランドへ泳ぎに行った。
二泊三日のキャンプ・・・初めての経験であった。
水着や飯盒・フライパンは持って行ったけれども。
絵の具など、誰が持って行くものか。
・・・リンク→茶目っけ

『 波 』 ギュスターヴ ・クールベ 作

昭和45年 ( 1970年 ) 4月1日 ( 水 )
入学式を終えて 新高校一年生。
8日は始業式、私は新品の自転車に乗って 颯爽と登校した。
「 君等はもう、高校生だ、中学生と違う 大人扱いをするぞ 」
と、
担任の詞(コトバ)に、
「 高校生とは、斯くなるものか 」 と、感激した私。

愈々、高校生としての 新たな人生が始まったのである。
8 日 ( 水 ) 天六ガス 爆発事故 ・・・リンク→天六ガス爆発事故 その瞬間(トキ)
9 日 ( 木 )  「 弁当食うのヤメーッ 」 ・・・リンク→力 満ちてり
4月中頃 住宅研究部へ入部 ・・・リンク→貴ノ花の相撲を見たかったのです
4月中頃 宝くじ当たる ・・・リンク→旭屋書店の帰り、宝くじ を買ったら 当たった~
4月28 日 ( 火 ) 「 応援団への自己紹介 」 ・・・リンク→力 満ちてり
5月3 日 ( 日  ) 中学の同窓会 ( 二年生のクラス 会 )
7月頃 ・・・万博見学 ・・・リンク→腕自慢でも敵わなかった万博の大屋根
・・・と、それはもう 感動の連続。
バラ色の日々を送っていたのである。

海へ行こう
期末テストも終って 後は夏休みを迎えるだけ、すっかり解放感の中に居た。
同級生・平野、水阪、 私、
夏休みになったら、三人組で海へ行こうと 盛り上がった。

そして 斯の親父が、
「 褒美 」 と言って、
海へ行くのを認めたものだから どうしやう。
もう 絶好調の有頂天。

「 海 」 と謂えば
若狭湾か和歌山。
「 その中から 何処かエエ所を決めよう 」 ・・・と。
大阪城で集合して、旅行の計画を練ることにしたのだ。 ( 何故か大阪城 )
大阪城は一番櫓で待合せした。
ところが、定刻に平野が来ない、
私は、一番櫓の階段に坐って俟つことにした。 ( 水阪が何処に居たかは覚えちゃあいない )

一番櫓
そこで当時売り出し中の 「 藤圭子 」 の顔が載った 大人のマンガ本を拾った。
( 当時はエロ本と称されていた )
高校一年生の吾々が、書店で容易く買えるものじゃない。


遅れて平野が来た。
来るなり彼は、
「 中学の同窓二人と小豆島へ行くことになった 」 と、云う。
彼は中学の同窓との旅行話に乗ったのである。
そして、吾々も一緒に行かないかと誘いに来たのだ。
「 知らん奴と一緒に行くんか 」
「 小豆島は、チョット 遠いぞ 」
「 瀬戸内海の海、大丈夫か、きれいいんか 」
 ・・・と、愚痴愚痴言ったけれど。
そんなことよりも なによりも、私は自分等で計画を立てたかった。
その上で 「 海 」 へ行きたかったのだ。
だから 余人の立てた計画に乗ることは 気に入らなかった。
肩透かしを食わされた気分になったのである。
だからと謂って 断念なぞ出来るものか。
だからと謂って そのまま 附いて行くのも 癪に障る。
『 男の意地 』 ・・・というヤツ である。
それならば もう一人誰かを誘って、
こちらも三人組の別グループとして同じ所へ行くことにしたのである。
そこで、私の親友、友ガキ・舟木を誘うことにした。

親父に、舟木も一緒に行くことを告げると、
「 平野は行かん 云うたんじゃろが。 ほいで 自分等だけで行くことにしたんじゃろが 」
・・・と、親父。
「 如何して、それが判るんじゃろ 」
・・・と、親父の 『 読み 』 に感心したのである。

何処の港に着いて、何処がグリーンランドキャンプ場かは判らない。
微かな記憶を辿って記したものである 。
そのイメージからすると、「 二十四の瞳 」 の 岬の方向には行かなかったので、
NO1   NO2  が 該当する ・・・哉


結局
小豆島の海

グリーンランドキャンプ場
に、行くことに成ったのである。

支度

阪急百貨店で購入したキャンプ用品、
カートリッジの燃料式の小型コンロ、固形燃料罐、飯盒、食料の罐詰、・・・・等々
TV 『 コンバット 』 の中で、
サンダース 軍曹 他 兵隊達が 食事に 罐詰 一缶をスプーンで食べるシーンを見たことがある。
「 罐詰、便利なもの 」 と、子供心にそう想ったていたのである。
近所の店で買った、「 日清焼きそば 」 と、生野菜のキャベツ、そして 米 ・・・・
確とリュックに入っている。 準備万端である。
費用は 3月のバイト代の残りと、宝くじの当選金1万円の残りを充てた。

出立
8月10日 ( 月 )
朝から快晴の夏空
気分は最高。
ところが、罐詰が失敗だった。
リュックを背負うと これが たいそう重かった。
重くて重くて。もう うんざりするほど重かった。50㎏はあったろうか。
リュックに入り切れなかったフライパンの柄が飛び出ていた。

とにかく リュックが重い。
国鉄大阪環状線 弁天町駅で下車すると、
「 重い。代って呉れ 」 と、リュックを 友ガキ・舟木に渡した。
ところが、なさけなや、彼は背負うことができないのだ。
二人して運ぶのも 格好が悪い。 ( 況や、天秤棒も無い )
結局、弁天埠頭まで長い途のりを、私一人重い目をして担いだのである。
( 右肩に、アザが出来ていた )

弁天埠頭から、加藤汽船に乗った。
この頃、「 田子ノ浦のヘドロ 」 ・・等、
工場から出る排出物が原因で起きる公害が全国的に問題になっていた。
大阪湾の褐色の海を見て、
「 これでは魚一匹おらんやろ 」 ・・・そう嘆いた。
瀬戸内海は吾故郷の海も一つである。

西へ西へと 青い空。 ぽっかり浮んだ白い雲。

キャンプ場到着
瀬戸内海を5時間半、心配した船酔いもせずに小豆島に着いた。
港に着くと、小舟に乗りかえて、目的地 グリーンランドキャンプ場へ向かった。
洋々着いたは夕刻。
へとへとで、とても海に入って泳ぐ気にはなれなかった。
「 明日があるさ 」 ・・・そんな想いを懐いて、
さっそく、テントを張って夕食の準備に取りかかった。
 類似イメージ
初めて飯盒で ご飯を炊いた。やればちゃんとできるものだ。
TV 『 戦友 』 の中で、
兵隊達が飯盒で炊いた飯を頬張るシーンを見て、
「 飯盒で炊いた飯は美味いんじゃ 」
と、親父が呟いたことがあった。
「 そんなに美味いんか 」
母にそう問うと、母は頷いた。
「 飯盒で炊いた飯 は、美味いもの 」 ・・・と、脳裡に刻んだのである。
果して、「 飯盒で炊いた飯 」 ・・・は、美味かった。
そして、親父の云った 「 美味い 」 と、謂う意味を 茲で知ったのである。
料理せずとも食える・・・と、せっかく重い目をして持って来た罐詰は、さほどの感激の味は無かった。
やはり、罐詰は罐詰である。

翌朝、どんよりした明るさの中で目覚めた。 薄暗い。
テントから顔を出し天を仰ぐと曇天、雲が低く垂れさがっている。
雨が落ちてこないのが不思議なくらいだ。
「 雨男は誰や 」 ・・・と、犯人捜ししても詮無い。 只ひたすら 晴れるのを俟った。
然し その日は、太陽が照りつける 夏らしい青空は現れなかった。
「 まぶしいの光の下、空も海も山も、輝いて見える絶景 」
そんな 「 海の絵 」 として適うほどの、景色は現れなかったのである。

←クリックシテ拡大
私、平野             平山              西川                        平野   水阪                       私、右肩にアザが
ところが、そんな天候も どこ吹く風か。
「 お前はカッパ か ? 」
と、云わせるほど
、平野だけは海に入っていた。
潜っては、ヒトデを掴んで上ってきた。
気温が上がらない、だから、気分もいまひとつ盛上がらなかった。

それでも、
昼に拵えて食べた、
「 日清焼きそば 」
これは格別美味かった。
こういう時、こういう所では 「 焼きそば 」 が 一番 合う ・・・と、そう想った。
又、家のフライパンを持って来た甲斐があったと謂うものだ。

友ガキ・舟木
一人砂浜に坐って吾々の泳ぐ様子を眺めていた。
「 せっかく 海にきたんや、泳がいでもええから、海に入れ 」
・・・と、そう言っても、
金づちの彼は、水に浸かろうともしない。
曇天で寒いこともあらうが、彼は泳ぐことそのものが好きではないのだ。
それでも、彼は こうして皆と共に来たこと、それだけで充分満足しているのだ。
そう謂うヤツなのである。( ・・・と、私はそう想っていた )
吾々が海で戯れている時、
何を想ったか、一人岩の上に腹這いになって泳ぐ真似をしていた。
ちょうどそこへ こともあろうに急に 『 波 』 が立った。
打寄せる波の勢いに押された彼は、岩の間に流された。
そして左胸を擦り剥いてしまったのである。
← 直後の写真
「 水のない処で泳いどって、溺れるんか 」
そう言って、皆で笑った。

吾 人生に於て、
バラ色の昭和45年 ( 1970年 ) 。
今 想うと
時を共有し、共に人生を重ね合った、友 との、
この上ない大切な、 宝物のような、 貴重な時間である。

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憂 国

2021年11月25日 15時01分37秒 | 4 力みちてり 1970年~

「 三島由紀夫がなぁ
 自衛隊で、クーデターを起こそうとして
 失敗して 切腹して死んだそうだ
 2.26事件を、想い起こしたよ 」

昭和45年 ( 1970年 ) 11月25日 水曜日
高校一年、一日の授業を終えた後の、ホームルームの時間
担任より
そう  知らされたのである。

三島由紀夫
市ヶ谷台上にて クーデッタを促し
壮絶なる割腹自殺!!

  ・・・
リンク→男一匹 命をかけて

教室は重苦しい雰囲気に包まれた。
クラスの皆も、ショックを受けたようである。
皆が、口々に喋って居る。
皆は、「 三島由紀夫 」 を、知っているのである。

しかし私は、「 三島由紀夫 」 を、全く知らなかった。


↑ 東大全共闘対三島由紀夫

しかし
受けたショックは凄いものであった。
私は、泣きそうに成った。
左翼思想全盛のこの頃
介錯付きの割腹と謂う
日本的な行動に感動した所為である。
私は無垢に、嬉しかった。
重苦しい興奮
血を見た時、心臓がドキドキする あの興奮にも似たものであった。
世の中に無垢で、純粋であった私は、
「 大事件が起きた 」 と、感じたのである。

未だ16歳、
無垢の少年であった私
受けた 「 ショック 」 が、
この時、何であったか解らなかったけれど
それは
私の中に潜在していた、「 自分は日本人 」 と謂う意識
それを、喚起させられた、
私にとっては 「 自我の目覚め 」 でもあり、
「 吾の人生 」
・・・を、初めて意識させた、
人生門出の大事件であったの
である。
・・・リンク→ 男のロマン 大東京 二・二六事件 一人歩き (一)  
         
       三島由紀夫の死 雷の衝撃

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木枯し紋次郎の一膳めし

2021年08月22日 16時02分47秒 | 4 力みちてり 1970年~

「 木枯し紋次郎 」
昭和47年 ( 1972年 ) 一月一日より、フジテレビで放映されたテレビ映画
「 あっしには関わりのないことでござんす 」
は、誰し
も知るところである。

偶々見たる、めし屋 で紋次郎が一膳飯を食う場面

冷や飯に味噌汁と、いかにも粗末なもの
紋次郎・・膳が運ばれるや
冷や飯に味噌汁をぶっかけ、それをササッと箸で混ぜると
カッカカカッ・・・・
一機に腹ん中に流し込んだ
そして、看板の長楊枝を咥え、足早に立去る
・・・と、いうもの


昭和47年 ( 1972年 )
1月6日 ( 撮影・下辻 )
高校二年生の17才

クラブ ( 軟式野球部 ) も、オフの日曜日。
いつも目を覚ますと、昼はとうに過ぎていた。
「 ハラ、へったなあ 」
昼食は終ってすっかり片付いている。
「 いつ起きるか判らんから、仕舞をつけた 」
「 晩ご飯まで待て 」
・・・と、母が言う。
然し、晩ご飯まで、この空腹に堪えることなぞ出来るものか。
この空腹如何して呉れよう
・・・と、覗か
鍋に僅か味噌汁と、
電気釜に冷や飯が残っているではないか。
然し、如何せん残りもん、美味い筈もなからう・・が
は、冷や飯に味噌汁をぶっかけ、それをササッと箸で混ぜると
カッカカカッ・・・・
一機に腹ん中に流し込んだ。
ところが然し
それはもう、美味かったのである


紋次郎の一膳めし
美味い・・・との想い
それは、今も尚、変らないでいる。
卵の入った、じゃが芋とワカメの味噌汁、
これに、刻んだネギを入れ、熱い味噌汁を啜る。
そして、汁が半分弱になった頃合いに、
斯の如く斯の様に食する。
もう堪らない
・・・至福の味わいなのである。

此を、貧しいと、品がないと、吾妻は嫌う。
然し、吾食が大時代の呑百姓 並 であらうとも、
「 うまいもん は うまい 」
・・・のである。

「 余は満足じゃ 」

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ひまわりの小径 ・ 「 セーラー服の後ろ姿 」

2021年07月05日 04時38分16秒 | 4 力みちてり 1970年~


あなたにとっては、突然でしょう

ひまわりの咲いてる径で 出遭ったことを
わたしの夢は おわりでしょうか
もう一度 愛のゆくえをたしかめたくて
恋は風船みたい だから離さないでね
風に吹かれ 飛んでゆくわ
立止まる二人には 交わす言葉もなくて
恋はいつも消えてゆくの
 ・
チェリッシュ
ひまわりの小径
昭和47年 ( 1972年 )

悦ちゃん・・・の
かぼそい声、可愛い声、可愛い容姿に、
一目惚れ

「 こんな  可愛いい 女性ひと に出逢いたい 」
・・・と、そう想った。

昭和47年 ( 1972年 )
私は、
徒歩で通学していた。
そして、必ずや善源寺楠公園内を横切ったのである。

セーラー服の後ろ姿

夏休み
軟式野球部員の私は
高校最後、夏の大会に向けて
日々、練習に精を出した。
されど、真夏の炎天下である。
練習を終えて、くたくたになっての下校は、しんどかった。
その日も快晴・・・暑かった。
私は、いつもの様に、善源寺楠公園内に入ると、
偶々
前方を行く、セーラー服の後ろ姿 を、認めたのである。
ライトグレーのスカートに白い上着、ライトグレーの襟には白いライン。
「 何処の女子高やろ?」
「 クラブ ( 活動 ) の 帰りかな?」

セーラー服の後ろ姿 に
淡い想いを抱いた私
なんて女性は、偉大哉
それまでの、くたくたな私の心身は、
俄然元気に変わった

♪ あなたにとっては、突然でしょう
ひまわりの咲いてる径で 出遭ったことを♪

一度っきりの
『 セーラー服の後ろ
姿 』
の想い出は、
チェリッシュの悦ちゃんの歌声と、
その歌詞が、オーバーラップする。
・・・のである。

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「先生、そんなん言うたらあきませんわ」

2021年06月20日 05時20分18秒 | 4 力みちてり 1970年~

「 コケコッコーーーー 」
「 昼間や謂うのに・・・鶏までのんびりしとる 」 ・・・と。
笑いを取ろうとしての一言。
然し、斯の一言の底地に、
人として冷たいものを、私は感じ取って仕舞ったのである。
・・・余計な一言  から

昭和50年(1975年)1月15日・成人の日
念願の一眼レフカメラ・OM1で いの 一番 に撮ったは
母校、都島工業高校
それが
自分の成人式に相応しいと思った
 ・・・リンク→何シブイ顔して、歩いてんの!?

本館の玄関ホールに斯の鳥観図が展示されてあった。 吾々在席中の学舎である。
斯の鳥観図、作者の名前を見るに、
吾建築科の一期後輩で、亦 クラブ ・住宅研究部の後輩が作成したるもの。
私等が卒業した昭和48年 ( 1973年 ) 、
彼ら3年生の時、住宅研究部で作図したものであろう。
黒川良平とあるは、斯の物語に登場する教師。
吾々が卒業すると同時に 吾ら担任の木全先生も退職された。
木全先生は住宅研究部の顧問先生でもあった。
だから、黒川先生が 入れ替わったのであろう。・・・と、そう推っている。
しかし、不思議な巡りあわせである。
本館3階 左端教室が 斯の物語の舞台である。

   

よくぞ、言って呉れた
昭和45年 ( 1970年 ) 新学期
高校一年・建築材料の時間、例によって雑談ばかりする教師  ( ・・・ リンク→面白い 面々 )
授業よりも楽しいは当然のこと、「 おもしろい教師 」 と、誰もがそう想っていた。
ウケねらいの雑談にいっそう拍車がかかってゆく。
而して
彼はいい気に成って、同僚教師の悪口を垂れた。
勿論悪気はない。
他人を貶おとしめて笑いを取る・・・は、一つのパターン、テクニックである。
大阪人ならそれが理解る・・と、彼はたかをくくっていたのであらう。
そして、皆にウケているからと ついつい調子にのってしまったのだ。
吾々も、笑い以て聞いていたのだから。
ところが然し、
こともあらうに、笑いの種と さげすまされているは、我等が担任教師。
ちょっとまって、今の言葉プレイバツク
此を、黙って聴いて居れるものか。
誰がヘラヘラ笑って居れるものか。
「 先生、そんなん言うたらあきませんわ 」
即座に、席を立ったは

    級友中前

「 よくぞ言って呉れた 」
私はそう想った。
クラスの皆も頷いた。
「 何も君等の担任を馬鹿にするつもりじゃない、親しいが故につい・・ 」
生徒に咎められた教師の弁である。

話の流れに逆らってまで諫言するは、中々し難いものである。
ましてや相手は教師、
生徒が教師に諫言するなぞ出来様ものではない。
然し、其の儘流されて行くのも歯がゆいではないか。
だから
中前が言った
「 そんなん言うたらあかん 」
・・は、吾々の素直な感情、想いの代弁なのである。

中学の想い出 『 余計な一言  』 共々、
溜飲が下る想いをした私である。

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背伸びした一分(イチブン)

2021年06月16日 14時46分10秒 | 4 力みちてり 1970年~

剛腕・江川卓 
私が認める、昭和史上最高の投手である
ストレートで三振を取る姿は圧巻であった。

『 エース 』
・・・とは、一段 高い ステータス。
ヒーローなのである。
そして 
『 エースで四番  』 
・・・は、皆から羨望の的
 
それはもう、カッコウよかったのである。

どうしても野球をしたかった私
「 野球部に入る 」 は、少年の頃からの夢でもあった。
そして、中学の時、ヒーローに成った快感を、忘れられなかったのである。
・・・リンク→ヒーローに、成った
しかし小柄 ( 165cm ) なるが故に、体力に自信の無いが故に、
あの甲子園の高校野球・硬式では儘ならぬ。
これが私の身の程也と、軟式野球部を選んだのである。
想い叶えて、
昭和46年 ・二年生春 入部した。  ・・・リンク→鎖縁の物語 「 共に野球部に入ったけれど 」
軟式ならば、私の実力を持ってすれば、
直ちにレギュラーに成って活躍できる。・・・と、たかをくくっていた。
小柄なれど剛腕
小柄のスラッガー 
を、皆に披露したかったのだ。
その年の秋、新チームが結成された。
私は
『 エースで四番 』

・・・小柄な私を見て
コントロール主体の変化球投手と決めつけた眼で
敵の先頭打者が構える
それは明らかに見下した眼である
私は気にもせず
淡々とウォーミングアップをこなして
マウンド上で大きく振りかぶって投げた第一球は、ストレートの剛速球
ズドーン
ど真ん中の球を茫然と見送る打者
意に反しての剛球に驚いた顔をしている
してやったり!
ドヤ 度肝を抜かれたらう・・・と、得意顔の私

この どんでんがえし のストーリー
これぞ、男のロマン
そう想っていたのである 

孤独のエース
偶々の ツーナッシング
「 よしッ!( 三振をとるぞ ) 」
次は、セオリーと、一球 はずしてみせる。
カウント 2 ― 1
三振を取る ・・は、男のロマン
渾身の力を込めて、ど真ん中へ
うなる 剛速球
ど真ん中 に行かば 打者のバットは必ず空を切る
・・・と

しかし、私の剛速球は、暴れた。
勝負球を外したのである。
「 またかァ ・・」
ナイン全員の心に 「 ホアボール 」 が過ぎる。    (ヨギル)
「 花田、いれんかい!」
ショートの長野が、叱咤する、もはや、激励などではない。
ストライクの入らない私に、業を煮やしてのことである。
「 わかっとるわい 」
敵のクリーンナップは、たいていは大柄な選手で打ち気満々で向ってくる。
だから私がきまって三振を取るのは、バットを振ってくれる彼等からであった。
ところが、7、8、9番の下位打線
・・・バットを振らないのだ。
なんと、打者が打席に立って、
こともあろうに
バットを振らないのだ。
それどころか、
ストライクゾーンを狭くする為に、
背中をかがめて小さく小さく構えるのである。
「 こいつら・・・なんや 」

ベンチから声がかかる。
「 打ってけえへんぞー」
「 花田、ゆるい球でいいから真ん中に投げろ 」
「 ゆわれんでも、わかっとるわい 」
剛腕を理想としたる私、そんな器用な真似などできようものか。

「キャッチー、一点に集中させる為 体を低くしてミットを体の真ん中に構えてやれ 」
・・・
と、顧問先生が 尤もな指導 をする。
がしかし、
ノーコンの私がピンポイントを狙って、適う筈もなかろうが。

背伸びした一分
投げても、投げても はいらない
後から見ていると
その姿は滑稽だったと、長野が謂う
「 剛速球は男のロマン 」
・・・と、必死の投球も、ままならぬ
それでも尚、
大きく構え続けた私
速球スタイルは崩さなかった
頑な までに
それが  俺の一分 
・・・と、そう想いたかったのである

而して
「 ヒーローに成る 」 
・・・の、ロマンは ままならぬ
嗚呼 是、吾人生哉 

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反骨な奴のレジスタンス

2021年06月15日 14時53分37秒 | 4 力みちてり 1970年~

教壇前に立った リーダー格が怒鳴った。
「 弁当、やめーッ 」
機先を制された吾々は、慌てて弁当を片付けた。
「 今から、校歌を教えてやる!先に唄うからよく聞いとけッ!」
そう云って、
上級生全員で大声を出して唄いだした。

ヨドノカワモニハナカゲウツリテユウユウ
タルナガレメグレルアタリ
ソノナモユカシキワガミヤコジマフルキデントウカガヤクレキシ
ミヨワガボコウノスガタヲ

窓も開いていない密閉された鉄筋コンクリート造の教室。
そんなところで、40名が、有りっ丈の声を出して唄っている。
それはもう、やたら大声で怒鳴っている。 ( ・・・としか、聞えなかった )
そんなもん、何を唄っているのか分るものか。
上級生、歌い終わった。
リーダー格、
「 分かったかァ!! 」
分かりません! ・・反骨な奴が居た。
「 何ッ!! 」

恒例の伝統行事、
一級上・二年生に依る、
『 弁当食うの やめー 』 の、くだりである

・・・リンク→力 満ちてり

呉津との出逢い

此処で
「 分かりません!」
 と、云って
反骨な奴が居た・・と、私を感嘆せしめた者こそ、誰あらん呉津。
・・と、私はそう信じている。
此は 素直な心持ちが、咄嗟に出たものではない。
普段から、こう謂う 類 たぐい には、レジスタンスする ・・・そう謂う為人なのであろう。
それはきっと、天性のものであろう。私にはセンセーショナルなものに感じた。
此が、私が彼に抱いた最初のイメージである。

1972年5月・修学旅行・・阿蘇山火口
立っている者全て一年生で同じクラス、杉本以外は 『 仲間達 』 のメンバー

前で・かがんでいるのが、古田・・住宅研究部で3 年間共にしたが、同じクラスになったことがない。
・・・リンク→貴ノ花の相撲を見たかったのです

杉本の髪型
彼は、ハイレベルで有名な進学校、天王寺中学出身、
どうして こんな学力の高い奴が同じクラスに居るのか。
やはり、中学の担任が 心配したのはこう謂うことだったのかと、この時思い知らされたのである。
そして、彼は 中々の論客であった。
肩まで伸ばした髪は彼のセンスを物語るもの、其は ひと際目を惹いた。
ところがしかし
高校三年生の修学旅行前のこと
彼は自慢の肩まで伸びた髪の毛を短くカットして現れたのである。 ( 写真 )
 1972年5月・修学旅行・・阿蘇の旅館で
「 お前、どうしたんや その髪 ?」
「 土木の輩に、切れ 謂うて脅されてな 」
「 お前、それだけの理由で 切ったんか 」
隣の土木科の硬派に眼をつけられ、軟派だと絡まれたのである。
彼等は、"吾はバンカラ" の つもりなのである。
"
切らねば きっと 天誅を下す" は 単なる脅し。なにが バンカラ なものか。
奴等は、自分等に無い スマートさを身につけた彼を 嫉みに想ったに違いない。
しかし彼は誰かの如く、レジスタンス しなかった。
「 そうや、普段偉そうに謂うとっても、俺は根性ないんや 」
と、サラッと答えたのである。
それは、何か知らん私の心に響いた。
「 こいつ、大人やな 」
そう想った。
咎める気持ちなど起るものか。
寧ろ、彼のいさぎよさに感心したのである。

反骨 と レジスタンス、大人の対応
理屈は述べまい
感じた儘を記したまでである

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バラ色の時 1 「 今日の酒は格別 」

2021年06月09日 19時10分18秒 | 4 力みちてり 1970年~

昭和45年 ( 1970年 )
3月
13日 ( 金 )
中学の卒業式。
14日 ( 土 ) 大阪万博開催
16日 ( 月 ) 中学校へ登校。 ( 試験前日の激励 )
17日 ( 火 ) 公立高校の入学試験。
18日 ( 水 ) 上新庄の建設現場で親父の仕事手伝い 初日。
20日 ( 金 ) 合格発表。
4月
1日 ( 水 ) 高校入学式。
7日 ( 火 ) 手伝い最後の日
8日 ( 水 ) 高校始業式
「 桜花咲く 」 頃の、吾スケジュールである。

 昭和46年頃 ?
この頃親父は、
鉄筋コンクリート造 ・3階建マンションの左官工事を請負っていた。
その現場は阪急上新庄駅から徒歩5分の所に在った。

仕事手伝いとは、左官の手元として雑用をすることである。( 普段は手元をする人がいて 彼等を雇っていた )
「 手伝い 」 ・・・は、初めてのことであった。

昭和45年 ( 1970年 ) 5月  友ガキ・舟木
毛馬閘門の中洲で撮影


友ガキ・舟木と二人で、
親父の仕事を手伝ったけれど

一人では心許ない。
それで、友ガキ・舟木を誘った。
仕事は意外にきつかった。
その内容を説明すると こうだ。 
壁に塗る 「 モルタル 」 を拵える準備として。
一袋40㎏のセメント袋を運んで来る。 40㎏は重たかった。 
どうしても 持上げて肩に担げないものだから、腹に抱きかかえて運んだ。
「 よう 担がんのんか。 昔は50㎏ じゃったんど 」 ・・・と、親父が笑う。
山積みになった砂を スコップで掬い 篩ふるいにかける。  これも亦、重たかった。
砂目を均一にし、ゴミ等不純物を取除いた砂を使う為、篩にかけるのである。
準備が出来ると、大きな舟 ( 鉄製の箱 ) に砂とセメント、水を入れて混ぜる。
簡単なようだが、是、コツのいる中々難しい作業であった。
こうして出来上がったものを 「 モルタル 」 と謂う。
次は、この 「 モルタル 」 を 職人の作業場まで運ぶ。
2階、3階への移動だけは電動ウィンチで機械を使うが、それ以降は人力である。
左官職人の手許に置いてある小さい舟 「 トロ箱 」 に運び入れるのだ。
職人はこの 「 トロ箱のモルタル 」 を 鏝板に掬い これで以て壁を塗るのである。
この作業も やはり 力仕事。重いのである。
作業用一輪車に載せるとフラフラして運べない。
結局 天秤棒で一個のバケツを二人で担いで運んだのである。
「 力、ないのー 」 ・・・と、親父は笑った。

友ガキ・舟木、三日坊主にも成れなかった。 ( 18、19 日の 二日で音を上げた )

3月20日は、合格発表の日である。
行く前に、淀川神社で参拝した。
2番 ( 受験番号 )
「 あった! 合格していた!!」  
      
其晩、親父は 「 今日の酒は格別 」 と ばかりに酒を呑んだ。
合格したことを 大に慶んだのである。
ついぞ先の 二月のこと、
中学の担任から翻意を促されて岐路に立った時、「 我を通していい 」 と 背を押して呉れた親父。
「 公立 落ちた時は、私学の清風高校に通わす 」 ・・・そう、腹を据えてのこと。
もちろん、伜を信じてのことである。  ・・・リンク→蛙の子は蛙
「 伜を一級建築士にさせる

・・・それは、
佐官職人である親父にとっても 「 夢 」 で あったのだ。
そして、その登龍門をくぐった。
こんな美味い酒が他にあろうか。 ・・・・親父は、いつもの様にひとり言していた。
この日の夕食は赤飯を炊いた。 そして 鯛の尾頭付き。
そんな御馳走を、友ガキ・舟木も共に食したのである。

4月1日 ( 水 ) は 入学式。
この日も肌寒い日であった。
学校まで徒歩で30分、晴着姿の母と式典に参加した。

半ドンの日、一人での帰り路。
阪急電車上新庄駅から「 動物園前行 」 の電車に乗ると、
セーラー服の女子生徒が晴着姿の母親と並んで、向かいのシートに坐っていた。
そして、膝元の風呂敷包みから教科書を取出して嬉しそうに見ている。
彼女も、母親も、共に幸せそうな顔をしていた。

バラ色の時 ・・・とは、斯くの如きを謂う。

次頁 バラ色の時 2 「 線路の路肩に見付けた つくし 」 に 続く

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