昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

バラ色の時 1 「 今日の酒は格別 」

2021年06月09日 19時10分18秒 | 4 力みちてり 1970年~

昭和45年 ( 1970年 )
3月
13日 ( 金 )
中学の卒業式。
14日 ( 土 ) 大阪万博開催
16日 ( 月 ) 中学校へ登校。 ( 試験前日の激励 )
17日 ( 火 ) 公立高校の入学試験。
18日 ( 水 ) 上新庄の建設現場で親父の仕事手伝い 初日。
20日 ( 金 ) 合格発表。
4月
1日 ( 水 ) 高校入学式。
7日 ( 火 ) 手伝い最後の日
8日 ( 水 ) 高校始業式
「 桜花咲く 」 頃の、吾スケジュールである。

 昭和46年頃 ?
この頃親父は、
鉄筋コンクリート造 ・3階建マンションの左官工事を請負っていた。
その現場は阪急上新庄駅から徒歩5分の所に在った。

仕事手伝いとは、左官の手元として雑用をすることである。( 普段は手元をする人がいて 彼等を雇っていた )
「 手伝い 」 ・・・は、初めてのことであった。

昭和45年 ( 1970年 ) 5月  友ガキ・舟木
毛馬閘門の中洲で撮影


友ガキ・舟木と二人で、
親父の仕事を手伝ったけれど

一人では心許ない。
それで、友ガキ・舟木を誘った。
仕事は意外にきつかった。
その内容を説明すると こうだ。 
壁に塗る 「 モルタル 」 を拵える準備として。
一袋40㎏のセメント袋を運んで来る。 40㎏は重たかった。 
どうしても 持上げて肩に担げないものだから、腹に抱きかかえて運んだ。
「 よう 担がんのんか。 昔は50㎏ じゃったんど 」 ・・・と、親父が笑う。
山積みになった砂を スコップで掬い 篩ふるいにかける。  これも亦、重たかった。
砂目を均一にし、ゴミ等不純物を取除いた砂を使う為、篩にかけるのである。
準備が出来ると、大きな舟 ( 鉄製の箱 ) に砂とセメント、水を入れて混ぜる。
簡単なようだが、是、コツのいる中々難しい作業であった。
こうして出来上がったものを 「 モルタル 」 と謂う。
次は、この 「 モルタル 」 を 職人の作業場まで運ぶ。
2階、3階への移動だけは電動ウィンチで機械を使うが、それ以降は人力である。
左官職人の手許に置いてある小さい舟 「 トロ箱 」 に運び入れるのだ。
職人はこの 「 トロ箱のモルタル 」 を 鏝板に掬い これで以て壁を塗るのである。
この作業も やはり 力仕事。重いのである。
作業用一輪車に載せるとフラフラして運べない。
結局 天秤棒で一個のバケツを二人で担いで運んだのである。
「 力、ないのー 」 ・・・と、親父は笑った。

友ガキ・舟木、三日坊主にも成れなかった。 ( 18、19 日の 二日で音を上げた )

3月20日は、合格発表の日である。
行く前に、淀川神社で参拝した。
2番 ( 受験番号 )
「 あった! 合格していた!!」  
      
其晩、親父は 「 今日の酒は格別 」 と ばかりに酒を呑んだ。
合格したことを 大に慶んだのである。
ついぞ先の 二月のこと、
中学の担任から翻意を促されて岐路に立った時、「 我を通していい 」 と 背を押して呉れた親父。
「 公立 落ちた時は、私学の清風高校に通わす 」 ・・・そう、腹を据えてのこと。
もちろん、伜を信じてのことである。  ・・・リンク→蛙の子は蛙
「 伜を一級建築士にさせる

・・・それは、
佐官職人である親父にとっても 「 夢 」 で あったのだ。
そして、その登龍門をくぐった。
こんな美味い酒が他にあろうか。 ・・・・親父は、いつもの様にひとり言していた。
この日の夕食は赤飯を炊いた。 そして 鯛の尾頭付き。
そんな御馳走を、友ガキ・舟木も共に食したのである。

4月1日 ( 水 ) は 入学式。
この日も肌寒い日であった。
学校まで徒歩で30分、晴着姿の母と式典に参加した。

半ドンの日、一人での帰り路。
阪急電車上新庄駅から「 動物園前行 」 の電車に乗ると、
セーラー服の女子生徒が晴着姿の母親と並んで、向かいのシートに坐っていた。
そして、膝元の風呂敷包みから教科書を取出して嬉しそうに見ている。
彼女も、母親も、共に幸せそうな顔をしていた。

バラ色の時 ・・・とは、斯くの如きを謂う。

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