昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

海峡を越えて

2021年02月19日 21時32分37秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

瀬戸は日暮れて 夕波小波
  あなたの島へ お嫁にゆくの

若いと誰もが 心配するけれど
  愛があるから 大丈夫なの

段々畑と さよならするのよ
  幼い弟 行くなと泣いた

男だったら 泣いたりせずに
  父さん母さん 大事にしてね

・・・「 瀬戸の花嫁 」
小柳ルミ子  昭和47年 ( 1972年 )

海峡こえて
私の母は 昭和28年(1953年)
海峡を舟で越えて 父の許へ嫁いでいった。
「瀬戸の花嫁」 ・・である。


「 戦艦大和はここを通れんくらい大きかったんじゃ 」
大人達にそう聞かされて、感心した私、
益々 『 戦艦大和 』 に ロマンを感じていった。

海峡の最も狭い処 ( 並止の先端から、向こう岸・三ノ瀬小学校まで ) の距離は≒220m 
戦艦大和は全長263m
「 さもあらん 」 ・・・そう、想った。 
・・・リンク→三つ子の魂百までも

満潮の海水は、これから干潮に換る。
これから流れが速く成る。
波止場の先端傍には、いつも渦が巻いた。 海峡で最も潮の流れが急であった。
「 落ちたら死ぬ 」
・・・と、そう胆に銘じた。
流れが速い為か、海峡を泳いで渡った人・・・私は知らない

・・・昭和44年 ( 1969年 ) 10月14日  上蒲刈町向  祖母 ( 母方 ) の家から撮影  

海峡こえて

私の祖母は、いつもこの景色を眺めていた。
「 はなだゆきのりくん 」
・・・と、先生が呼ぶ声
時折、風に乗って、聞えて来る。
それが愉しみだった。 ・・・そうである。
そして、
足の不自由だった祖母は、
一人窓辺に 坐って、
見える筈も無い私の姿を見つめていたのである。

  昭和37年 (1962年)
私8歳  妹1歳  従姉 ( 3歳上 ) 
「 しのぶ 画用紙買うて来い 」
偉そうに私がそう言っても、
文句一つ言わずに買って来て呉れる優しい姉だった。

海峡越えて
週末を母の実家で過ごす

日出子先生
半ドンの土曜日。
この日は週末を母の実家で過ごすことになっていた。
だから、母が授業の終りを見計って 迎えにくることになっていたのである。
4時間目は図画工作の時間で、吾々は粘土細工をしていた。
油粘土をコネて定番のヘビを作る者、丸めてダンゴにする者、舟を作ったり・・・・
私は、馬を拵えていた。
それは楽しい時間であった。  そろそろ時間も終りかけた頃。
教室の後ろに居た 日出子先生 に出来上がった馬を持って行くと、
もう一人、馬を拵えた者がいて、見ると 上手に出来ているではないか。
負けず嫌いの私
「 うまく 作っちょるが、ワシの方が力強い 」
そう、心で呟いた。
でも、やっぱりそれは 『 負惜しみ 』 と謂うもの。 
・・・と、分かっていた。
ところが、
日出子先生、
私の拵えた馬を高々と持上げて、
「 ユキノリクンはこんなに上手に ( 馬を ) 作りました 」
 ・・と、言って、皆に見せたのである。
私は、こそばゆかった。
・・・でも、
「 なんか おかしい ? 」
・・・子供心にそう感じた。
振り向くと、
教室に顔を覗かせた 母の顔があったのである。
母が喜んだは謂うまでもない。
「 先生は 『 オベス 』 かいたんたんじゃ 」   ( ・・・大きい声では言えない )
・・・リンク→日出子先生


 類似イメージ
渡海舟
客を乗せる舟は もっと大きい

三ノ瀬~向の海峡を、二隻の櫓を漕ぐ木舟が交互に渡った

船頭は 「 マサニー 」 と 「ヤーニー 」 ・・・皆にそう呼ばれていた
昭和44年10月14日撮影
渡海 ( トカイ )
吾々は そう呼んだ。
吉川の船着き場から向港の桟橋まで、渡海舟に乗って海峡を越える。
渡海舟には、大勢の人 ( 客 ) が乗った。
そして、船頭一人で、「 ギッチラ・・コ  ギッチラ・・コ 」 と 櫓を漕いだのである。
普段は穏やかな海であるが、なんといっても瀬戸、潮の流れはやっぱり速い。
船頭さん、そんな中を ちゃんと 潮の足 を考慮して大きく迂回しながら巧みに進んで行く。
舟が進むにつれて 海面 みなも の表情が変わってゆく。
さざ波が立ったり、渦が巻いたり、べた凪に変わったり、・・・
殊に色 が変る。更に濃くなったり、薄くなったり・・・
「 この海の底には、何がおるんじゃろ 」
曇り空の下での深い藍色は なんとも不気味で恐ろしかった。
「 此処で落ちたら、足を引っ張られる 」・・・緊張して眺めていたのである。
どのくらい時間がかかっただらうか。 向の港に近づいた頃、
実家近くの海岸道路の排水孔から、海に向かって顔を出している従姉 ( 1歳上 ) の姿が見えた。
完成したばかりの海岸道路、排水管に未だ水は流れていない。
その排水孔をトンネル代わりにして遊んでいるのだ。
「 ( 危ない遊びをして ) オハチなんじゃきん、水が来たらどうするんじゃ 」
母は 心配の面持ちで、そう呟いた。

 
映画版 ・黄金孔雀城             母の実家で見た ・白馬童子
「 黄門孔雀城 じゃ 」
昭和35年 (1960年) 頃、NHKラジオで放送されていた 『 黄金孔雀城 』
私は此を聴いていた。否、私に限らず 誰も皆 この放送を聴いていたのである。
私が、そのタイトル 番組名を 「 黄門孔雀城 」 と云ったところから、話が弾んだ。
母の実家の義理の伯母さん ( 母の兄の妻・・・皆から 『 姐さん 』 と、呼ばれていた ) が、
「 うううん、黄金孔雀城 じゃろ 」 ・・・と、糺した。
姐さん、いつものように ニコニコ顔である。
負けず嫌いの私、
「 うんにゃ、絶対 黄門孔雀城 じゃあ 」
・・と、譲らなかった。
それでも、姐さん
「 黄金孔雀城 じゃ 」
と、一歩もひかない。 さりとて、ニコニコ顔も変わらない。
業を煮やして私、
「 ほんなら、ラジオ 聴いてみない !! 」
この問答に、周りの皆は大爆笑したのである。

従姉妹と従兄弟
3歳上の従姉が祖母から字を習っている。
習字しているのだ。
新聞紙を半紙の代りに、筆をとって一生懸命書いていた。
「 大きなったら こんな勉強をするんじゃ 」 
3歳上の従姉の真剣な表情から、
なにかしらん大人を見たような気がしたのである。
 類似イメージ
月刊誌少年画報、『 0戦太郎 』
私は購読していて、
こういったシーンを描いていたのである
南向きの縁側に明るい日射しがそそぐ。
従姉に買うてきてもらった画用紙を廊下に拡げ、ゼロ戦を描いていた。
戦艦大和 や、零戦は 幼い頃から関心のまとだったのである。
続いて、ゼロ戦が敵戦闘機に機銃掃射しているシーンを描き始めた。
私の横では、1歳下の従弟が 四つん這いの姿でそれを覗きこんでいる。
「 巧いじゃろうが 」 ・・・私が 自慢すると。
「 巧いもんじゃのー 」 ・・・感心して、そう応えたのである。
私は得意になって 続けた。 もう、天狗の鼻。
そこへ、4歳上の従兄が現れた。
突っ立ったまま、
「 なんな それ、ション便みたいじゃのー 」
そう言って、冷やかしたのだ。
すると どうだらう、
さっき迄 感心して見ていた従弟が 手のひらを反した。
「 ほんまに、ション便 みたいじゃ 」
そう言って、従兄に付いたのである。
「 こんな、なんなー 」  ( 大阪弁なら ・・・こ いつ なんや )
4歳上の従兄に自慢の鼻を折られ、1歳下の従弟には裏切られ
もう、メンツ丸つぶれ。
頭に来た私、
「 ション便じゃないわい。 機関銃の弾じゃ 、これが判らんのか 」
・・・そう、声を張り上げたのである。

海峡越えて
日はトップリ 暮れている。
これから、海峡越えて丸谷に帰る。
向港の桟橋で小型の巡航船 ・ユーコ を待っていた。
デイーゼルエンジンの客船である。 暗くなって もはや 渡海舟には乗れない。
妹はネンネコの中 母の背中で眠っている。
往きは楽しいけれど、復りは寂しいもの。  感傷的な気分にもなろうというものである。
桟橋傍に一本の電灯があった。
その薄明かりの灯 ともしび が いかにも哀愁を感じさせるのであった。
桟橋に佇むは、吾々親子三人だけである。
・・・・
無言の中
「 ウフフッ 」
と、何やら可愛い声がする。
振り向くと、電灯の脚下 あしもと に小さな人影。
柱の蔭から、同い年くらいの、三つ編みでお下げの少女が覗いている。
「 誰じゃろう ? 」
私が振り向くと、陰に隠れる。
柱の左から右から顔を出したり 引っ込めたりしている。
そんな、お茶目なしぐさを、私は可愛いと思った。

『 一期一会の少女 』
私の生涯で斯のシーンのみに登場した少女、
少年の心に淡い想いを抱かせて退場したのである。


蒲刈大橋
撮影
 昭和54年 (1979年) 6月19日
海峡を越えて
昭和 54年 ( 1979年 ) 蒲刈大橋が海峡を跨いだ。
もう、渡海舟で海峡を越えることはない。


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