昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

学校を休む ・ 1 「 その顔、どしたんな 」

2022年07月13日 10時53分00秒 | 2 男前少年 1963年~

昭和41年 (1966年 ) 10月27日~28日
小学六年生の修学旅行は伊勢へ
ここまでは、元気一杯の生活を送っていた。
ところが・・・・。

斯の写真  調子に乗って 「 チーズ 」 と、言って撮ったもの
二列目 左端に tei  一人おいて 私  私から二人目が本田 ( 帰りの近鉄の駅で共に 『 連れ便 』 をした仲 )
私と tei 共に大東商店街の 「 ハルミヤ 」 で購入したる ダイヤ柄のカーディガンを着ている。
「 同じ服を着ている 」 ・・・と、盛り上がったは 55年前 遙か遠き哉 。
後列左から3番目が 「 友ガキ・舟木 」  6番目が千葉  前列 右端が 佐賀さん

左端に、「 友ガキ・舟木 」
こういうスナップ写真に、彼は よく写っている。
「 すぐ隣りに居ったのに 」 ・・・つくづく、写真運のない私である。


昭和41年 ( 1966年 ) 11月のこと
金曜日の夕方、
新道湯の浴槽カランで遊んでいるところへ、偶々親父が入って来た。
これまで、斯の時間帯に親父が風呂に来ることは無かった。
「 なに しょうるんな 」
間の悪い時とは、こういう時なのであろう。
「 背中を流せ 」 と、親父、
吾 生涯で一度っきり、親父の背中を洗った時である。

深夜
遠くでサイレンの音がして目が覚めた。
サイレンの数が増して来る。
相当数の消防車が駆けつけているのであろう。
東面の窓ガラスが赤い。
「 火事じゃ、何処じゃろう 」

親父が窓を開けると、暗闇の中 東の空が紅に染まっていた。
親父が昂奮の面持ちで叫んだ。
「 鐘紡じゃあ、鐘紡が火事なんじゃあ !!
・・・と、その時
「 幸徳、どしたんな 」
・・・と、私の顔を覗きこんだ。
顔がむくんでいたのである。 それは尋常ではなかった。
人相が変るくらい、むくんでいたのである。
もう、『 対岸の火事 』 どころじゃない。

「 これは、大事じゃ 」
よっぽどの大病
と親父が必死になった。
「 大きなところで診てもらわにゃだめじゃ 」
・・・と そう言って、
暁払い一番、大東町の 「 大道医院 」 へ 走った。
斯の病院、鉄筋コンクリート造3階建で入院も出来る。
町内では 大きな病院と目されていたのである。
ところが 院長
「 腎臓が悪い。 ( 12歳 ) 子供の病気は難しい。うちでは診ることができない 」
・・・と、眉間に皺を寄せて言った。
私は黙ってそれを聞いていたのである。
一時も惜しい。
親父は機敏だった。
大道医院を出ると 直ぐに 市電通りに出た。
そして一直線、高倉町の ツジ病院へ 走ったのだ。
大きな病院であった。
大勢の人が居た。そして長い時間待たされた。
あれだけ むくんでいた顔も いつのまにか引いていた。
やっとのことで、診てもらったところ、
 「 うちでは 診れなない 」
・・・と、同じことを云う。
日赤病院へ行って呉れと 云うのだ。
「 そんなにすごい 病気なのか 」 ・・不安が募った。
「 日赤病院へ行こう 」
親父はそう決意した。然し、此の日は土曜日だった。 昼は過ぎていた。
これから駆け付けても間に合わない。
明日は日曜日、日を改めることができるものか。
一刻も早く治療をしなければ。
「 こうなったら 」 ・・・・と。
普段親父が診てもらっている 毛馬町の 「 吉村医院 」 へ走った。
医師一人、看護婦一人の、所謂・医院である。
「 急性の腎臓炎。 
  風邪を引いたことで、喉から入った黴菌が腎臓に廻ったんだろう。
  タンパクが降りている 」
・・・との診断に
「 風呂で遊びょうるきんじゃ 」 ・・・と親父。
( 今更そんなこと 言われても・・・而も此処で云うか )
「 先生、治りますか 」
既に、二つの病院で 「 診れない 」 と云われている。
平然としておれる親はいない。親父は必死だった。
「 先生 どうか助けやってください 」

・・・・次頁  学校を休む ・ 2 「 闘病とは辛抱我慢すること 」  に、続く。


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