昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

桃花の咲く頃

2024年04月19日 18時32分12秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

ブンブンブン
ハチが飛ぶ

お池のまわりに
野ばらがさいたよ

ブンブンブン
ハチが飛ぶ


生涯で唯一私が知る 桃木
それは 井戸端の傍にあった
そして 桃花が咲く春、ミツバチも飛んで来る
そこから、物語が始まる
昭和35年 ( 1960年 ) のことである
 
写真は、斯の物語の一年後 昭和36年 ( 1961年 )
我家の外にある井戸端で水鉄砲して遊ぶ私の姿である。
そして、見返しの写真は、海へ落ちた頃の妹と私  ( ・・・リンク→海に落ちた妹  )
写真の井戸端から3、4メートル離れた位置に一本の桃の木があった。
ちょうど、私等兄弟が坐っている前辺りになろうか。


桃花の咲く頃
我家の隣に若い女の人が一人住んでいた
でも、家の障子はいつも閉まっていた
「 誰が住みょうるんじゃろ 」
家の前には一本の桃の木があった
偶に 障子窓をあけて 風を入れる
そして その女の人は桃の木を眺めていた
私が そーっと覗くと その女の人は優しく微笑んでくれた
いつも寝床があった
イメージ
桃の木に花が咲く頃、ミツバチが姿を現す
私は開けられた窓に坐り  ( ・・・上記、見返りの写真の様に )
その女の人と 一緒に眺めた
ブンブンブン 蜂が飛ぶ
お池のまわりに野ばらがさいたよ
ブンフンブン ハチが飛ぶ

その女の人が口遊んだ
私も一緒に口遊んだ
なんとなく 薄い日差しの中にいた
そして 季節はめぐらなかった
その女の人は、明るい日差しの中へ帰ることは無かったのだ
荼毘に附される 『 焼場 』 に大勢の人が連なった
私も、尻尾にいた
ふと、
母の従妹である トミちゃんの涙する姿を遠目に見た
友達だったのだ・・・

そして
昭和36年 (1961年 ) 、冬の宵。
私は、母の云いつけで祖母の家に出かけた。
櫓炬燵の灰床を作る為に、祖母の家から炭俵を貰うためである。
今年も櫓炬燵をする季節が来たのだ。

祖母の家からの帰り道、日はトップリと暮れていた。
街路灯などあるものか。
それでも、いつもの慣れた路、ちっとも心細くはなかった。
心細くはなかった とは雖も、冬のこと。
路には人も居らず、閑散としていたのである。
私は、薄明がりの中、炭俵を持って小走った。
松本店前、ていさんの家前、
月刊誌少年画報を購入していた丸本の前を過した。
そして、□□家の井戸が見える所まできた。  ( ・・・□□家は、『 その 女の人 』 の実家 )
其処でなんとなく足を止めて 山の麓にある井戸に目を遣ったのである。
すると どうであろう。
□□家の軒先から、井戸に向かって、
スーッ と 一本の糸を引いて 小さな光が走った。
「 ホタルが 飛びょうる 」
・・・そう呟いた その瞬間、背筋に冷たいものが走ったのである。
怖ろしくなった。
一刻も早く この場を去らんと、駆け出したちょうどその時、
「 幸徳君、ええとこへ来た。ちょっと手伝うて 」
2、3軒 ( ≒5m ) 先の 縁側辺りから、私を呼ぶ声がした。
□□家の 中学生のお姉ちゃんだった。
「 テレビの映りが悪いきん、アンテナの向きを変えようるんじゃ 」
「 一々確かめに行くんも面倒じゃきん、代わりに上って確めてくれんね 」
弾けるような声でそう言ったのである。
勝手知ったるこの家 うち
私は 縁側から上がってテレビの前に坐った。
・・・
我家にテレビが来る前のこと。
私は、この家でテレビを見せて貰ったことがあった。
テレビでは、ザ・ピーナッツ が歌っていた。

そこへ、ターボン (  山本タダトシ・・・リンク→気がついてみたら ) がやって来て。
「 視たか、顔くっつけて唄ようたろうが 」
と、興奮した面持ちで語ったことがある。
その、テレビである

・・・
彼女の顔を見て、弱気の心が失せた。
そして、彼女の元気な声が
私の心に入らんとした邪気を払ったのである。

・・・でも、

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三ノ瀬小学校

2022年07月29日 05時19分05秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年


昭和44年 ( 1969年 ) 10月14日
上蒲刈町向 祖母の家から撮影

海峡こえて
私の祖母 ( 母方 ) は、
この景色を愉しみに眺めてたと謂う。
小学校で学ぶ、見える筈も無い孫の私を眺めていたのである。
「 はなだゆきのりくん 」
・・・と、先生が私を呼ぶ声、
時折、風に乗って、聞えて来る。
それが愉しみだった。
・・・そうである。

三ノ瀬~向を眺る
昭和54年6月19日 
吾母の故郷である

安芸郡
下蒲刈町
 
三ノ瀬小学校
当時の全校生徒数 263名・・と、私は記憶している。
昭和38年 ( 1963年 ) 3月、小学2年生まで学んだ。

昭和36年 ( 1961年 ) 
小学校一年生・七歳の
懐かしき・・想い出いづ
一 
宿題忘れて立たされて

「 ユキ君、今日は宿題ないんか ? 」
佐々木のおばさんが、遊んでいる私に訊ねた。    (丸谷・近所)
「 ん 今日はないんじゃ 」
私は、完全に忘れていた。
そして翌日、
罰として、立たされた。
して、 泪して しまった。
「 ケン なんか 毎日忘れちょる のに、立たされた事がない 」
「 ワシ は 初めてじゃのに・・・」

小学校一年生
宿題を忘れた・・これが最初で最後のこと
宿題を忘れて立たされたことよりも、皆の前で泪した事がなさけなかった。
不覚を執った・・ そう思ったのである。

 
主役になった

吾が 三ノ瀬小学校に
向の小学校の児童生徒を招いて合唱・合奏を披露することに成った。
向の小学校には、
従兄妹の しのぶ ( 4年生 ) や 京子 ( 2年生 ) 
まさるあんやん ( 5年生 )、昇あんやん ( 5年生 ) が居る。

♪ みんなおいで あそびましょうよ
おててつないで 輪になって
まわれまわれ ランラララララン ♪

私は 向の小学生の前で、ソロ で唄ったのである。
しのぶ が 照れくさそうにこちらを見ていた。
私は 鼻が高かった。

写真
玄関の左側
2階の教室には
テレビがあった。
高い処にあって、神棚を仰ぐように、皆して、テレビを見上げたのである。
NHKの番組
「♪ ならんだ ♪ならんだ」
一番の楽しみだった。

印象深いのは
一人の少年が現れ、ストーリー展開していく番組
その中で
時々 折鶴を両手でかかえた少女の像 が出てくる。
それが、何であるのか、私には、分からなかった。
担任の花田日出子先生からの、説明も特に無かった。
小学一年生や 二年生には
「 原爆 」 
授業としての話は、
未だ早い・・と、謂う判断だったのであらう。

写真
玄関右には

二宮金次郎像
が有った。

薪を背負いながら勉強する姿は、
日本人の心を打った。

「 二宮尊徳 」  
明治、大正、昭和ひとけた、の大人達から、
仕事もして、且つ、勉学に励んだ
『 苦学の鑑 』 であると

修身教育の、模範であったと
そう・・聞かされた。 
リンク→偉い人 苦学の鑑・二宮尊徳


苦学

学費を稼ぐために働くを苦学と謂う人もあらう
然し、私は
働きながらも、学問を習得する・・を採る。
金の卵と謂われ
集団就職で上京した若者達は仕事の終った夜間、
学校へ行って勉強したのである。
彼等の心懐に存ったのは、夢、
将来の夢に向かって、努力したのである。


「  いつでも夢を  」
昭和37年 ( 1962年 ) 日活映画
苦学も明るく生きる青年のその姿は日本中に勇気を与えた。
働くことが希望と繋がったのだ。
♪ 北風吹きぬく寒い朝も心ひとつで温かくなる ♪
・・そう、日本中が歌ったのである。
私の過ごした幼年期は、昭和30年代の日本は
そんな時代であった。
・・と、そう想う。

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日出子先生

2022年07月28日 05時40分18秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

村の駐在さんが
自転車オートバイに乗って走っていく。
吾々はその後を追いかけた。
そして、排気ガスを吸った。
堪らなくいい匂いがしたのである。
昭和35年 ( 1960年 ) の、ことである。
 
出逢い
「 おとうちゃんを迎えに行ってきて 」
・・と、母が云う。
六歳の私は、
叔父から借りた自転車を三角乗りして
花田先生宅へ
親父を迎えに行ったのである。
 
平成の花田先生の家

小学校の恩師である先生から

五右衛門風呂を請負っていた親父。
完成してこの日
もてなしを享けていたのである。
案内されて上がると
「 たぶん・・飲めょうるんじゃろうて 」
・・と、母の推ったとおりであった。
親父が独り、先生を肴に得意気に歌を唄っていた。
手もみの手拍子をとりながら、
目を閉じて顎をあげて唄っている親父の姿を観て、
「 だいぶ酔うちょる 」
・・と、そう感じた。
先生は黙って親父の歌を聞いていた。
然し、もて余している様子である。

奥さんが私に何か食べさせようと、
別室に案内しようとするので、「 いらん 」・・と私は遠慮した。
わしは、『 ホイトボ 』 じゃない。
『 ホイトボ 』 ・・と、想われたくなかったのである。
然し、そんなことなぞ気にも掛けずに後ろから抱え上げたのだ。
遠慮したからには、誰がすんなり抱えられるものか。
私は、足をジタバタさせて抵抗した。

それでも、いっこうに構わず、私をムリヤリ別室に連れて行ったのである。
私は抱かえられた事、大に恥ずかしかった。
室には、高学年の男児小学生が二人いた。
ところが この二人、親父が帰るまで私の相手をして呉れたのである。
然し、何を食べたかは まるで記憶しない。

「 花田先生の家はれっきとした武士の家柄で、 剣術指南役じゃったんで。
 大小の二本差し、じゃったんど、 それに比べて、うちの花田は足軽じゃきん
 短い刀しか持てんかったんじゃ 」
「 同じ名字でも親戚じゃない、遠い親戚かも知れんが 」
 ・・親父から、そう聞かされた。

「 我が花田家は脇差し一本では食うてゆけんもんじゃきん、
 左官屋と百姓の二刀流しちょるんか 」
 ・・・と、そう想った。
然し、真実のところは分らない。

人生あな不思議
翌年の昭和36年(1961年)4月
私は三ノ瀬小学校に入学した。  ・・・リンク→想い出る故郷 三ノ瀬小学校
ピカピカの一年生
そして
担任は、おんな先生 
なんと、驚く勿れ
おんな先生こそ、あの時の花田先生の奥さん
日出子先生であったのだ。

2016年の今
日出子先生の御顔
覚えちゃあいない
然し
私が子供の頃から
ずっと心懐にある面影は
映画・二十四の瞳の大石先生こと
高峰秀子さん

・・・そう、
想っている
       

三ノ瀬小学校 昭和54年(1979年)6月20日 向・母の実家より撮影
1階玄関の左横が一年生の教室、次が二年生の教室 昭和36年、37年と此処で学んだのである

♪春の小川は さらさらゆくよ
岸のすみれや れんげの花は
すがた優しく色美しく
咲けよ咲けよと ささやきながら♪

 イメージ
昭和36年 ( 1961年 )
小学校一年生の理科の時間、
教室を出て学習することがあった。
海があり、浜がある。小川があり、田圃がある。野があり、山がある。
そんな自然環境のあるところ。
それならば、住吉浜から大地蔵への山路を歩けばいい。
道行き、皆で唄った 「 春の小川 」
それはもう、楽しいに決まっている。
山路で見つけた
シダ の葉。
帰り道 「 米が なっちょる 」
・・・と言って、刈り取ったはカラスむぎ。
田圃一面ピンク色
♪ れんげの花がひらいた
 
昭和37年 ( 1969年 )の テリトリー

想い出の一風景
今も、私の心懐に在り続けて消えることはない
忘れることはない・・・のである

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サンタは煙突から入って来る

2022年07月16日 06時44分25秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

昭和36年 ( 1961年 ) 12月、
クリスマスツリーを飾ろうと
栄 ・叔父にせがんで、「 天神鼻 」 へ
私は、絵に描いたようなクリスマスツリーが欲しかった。
松林の天神鼻、
・・・有ろう筈も無からうに



テリトリー・
行動範囲に物語が有る

叔父と共に探したモミの木


天神鼻に登り
二人して
当時は無かった天神鼻トンネル付近を暫らく探していると
「 あったどー、これでええか 」
・・・と、手斧を片手に持つ叔父から声が上がった。
それは、私のイメージしたものに近い、小ぶりの樅の木であった。    (モミノキ)
「 えかったのぉ 」 ・・・と、叔父。
切取って持ち帰って呉れたのである。
「 サンタクロースが来ますように・・」
7歳の私は
躍る様な気持ちで、クリスマスツリーを飾ったのである。

写真は
大阪 大川 源八橋のメタセコイヤ 
2007.12.24 撮影

こんな形のクリスマスツリーが欲しかった

サンタクロースは煙突から入って来る
クリスマスの当日
三ノ瀬の町に住む級友達は、サンタクロースからプレゼントが有ったと言う。
大きな靴下を枕もとに置いて寝った翌朝、
中にお菓子が入っている紅いサンタのブーツが入っていた・・と。
「 ええのおー 」
我家には、サンタクロースは来なかったのだ。
「 わしも、靴下置いて寝たのに 」
「 どうしてなんじゃろう ? 」
「 せっかく、クリスマスツリーをこしらえたのに・・・」
「 サンタクロースは、町には来ても、丸谷の者の所には来んのじゃろうか 」  ( マルヤノイナカモンノトコロニハコン )
「 どうして、うちにはサンタが来んのじゃ ? 」
・・・と、母に問うと、
「 サンタクロースは煙突から入って来るんで 」
・・・
と、母が言う。
うちにはサンタが入って来る煙突がないから
・・・と、そう云うのである。
「 フーン 」
私は、我家の 『 クド 』 を観て、納得したのである。

 ←クドのイメージ

和36年 ( 1961年 )
水道も無く、水瓶に溜めた井戸水を柄杓で掬って飲んだ
冬場の暖は火鉢、やぐらコタツ
火種は、木炭や豆炭を使っていた。
ご飯や煮物はクドで焚いた、魚はシチリンで焼いた。
それが日常の、そんな時代であった。
・・・リンク→寄りそいあって生きた時代
金持ちのことを 『 グベンシャ 』 と、謂った。
丸谷に比べて三ノ瀬は町、都会であった。
井戸からポンプアップして蛇口に送水したり、電気こたつで暖を取る。
ご飯は電気釜で焚き、プロパンガスで調理する。
・・・そんな、 『 グベンシャ 』 が、いたのである。

生活レベルが、チョイト違ったのである。

我家にプロパンガス、電気釜が入ったのは、物語の翌年の昭和37年
此れでも、丸谷の周りの家より早かった。

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「こんな と、喧嘩せえ」

2022年07月01日 12時37分58秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年


           三ノ瀬小学校 昭和46年 ( 1971年 )
よそ者
「 三ノ瀬の学校、いい学校、中を見ると、ボロ学校 」
私が母の実家のある、「 向 」 に言った時
こうして からかわれた ものである。

隣村・地蔵の子 が我村に居るのを発見した時
吾々子供は一斉に連呼した。
「 ジゾウの芋食い 」 ・・と。
文句は口コミで覚える・・・不思議に思ったことはない
これを無邪気という。

昭和36年(1961年) 小学校1年生の時のこと
海峡を挟んで 「 向 」 から 私の従姉妹 ( 1歳年上と3歳年上 ) が、遊びに来た。
普段私と仲良く遊ぶ二級上・三年生の岡田 ( 兄・四郎 )
何と
その姿を見つけるなり、『 よそ者 』 として意地悪するではないか。
私が従姉妹と一緒にいるのに
女の子だと思って、チョッカイ している分もあるが
それにしても普段とは うって変わった行動に私は驚いた。
そして
私は、庇った腕が痛かった。

椎の実を採りに
小学2年生、昭和37年 ( 1962年 ) の物語である。
椎の実 ( しいのみ )
我町三ノ瀬・丸谷の山には無かった。
隣村・下島の山でしか、採れなかったのである。
「 下島へ行こう 」
小学二年生の吾々4名 ( 私、今村、宇都宮、島末 )
隣村の下島まで、はるばる 椎の実を採り に、出かけたのである。

 フライパンで 炒って食べる と美味しかった

下島には、着いたものの 椎の実は 何処にあるのやら・・
吾々は 宝探しの様な気分で以て 椎の実を探していた。
「 何しょうる ! 」    ( ナンショウル )
突然であった。
学ラン姿の中学生 (1年生) が 頭 ( カシラ ) の いちみ 5、6人 に囲まれてしまった。
見るからに、どれもが 年長ばかり
吾々が何をしているのか、見張っていた様である。
ここでは、吾々は 『 よそ者 』
よそ 』 へ来ていると謂う 負い目更に囲まれて 気弱 になっている。
意気消沈・・皆、泣きそうな気分であった。

そんな時
「 こんな、と、喧嘩せえ 」
頭 ( カシラ ) が言った。

3年生をやっつけてみい・・と云っているのだ。
相手はグループの中では一番格下の3年生一人、
とは謂っても
2年生の吾々からしたら、3年生は手強い存在なのだ。
吾々の意識の中では、
『 軍隊の階級 』 のように、
何年生というのが、力関係を示す重要な要素でもあり 計りでもあった。
『 一級上 』
は、値打ちがあったのである。
そのうえ、彼の後ろには4年生以上が控えている。
敵う筈も無からうに・・・・

皆、うつむいて黙っている。

私が相手と顔を突き合わせている。

隣の同級生島末
両手の指を組んで、両親指の爪を交互に押し当て、落着かない。
とうとう シクシク 泣きだした。

「 はよせい!」

頭 (カシラ) が喧嘩を焚きつける。


4人の内の一人、
今村君からの手紙の一部

勝負は一瞬に着いた。
相手は3年生とはいえ一人なのである。
子供の喧嘩は啼いたら負け。
その時点で終結なのである。
案じていた、報復はなかった。
それどころか
どういう訳であらうか
頭 (カシラ) から、両手一杯 の 椎の実 を 貰ったのである。
吾々全員、ホウビとして・・・
吾々は嬉しくなって、心晴れ晴れ、帰宅した。
途中、プロパンボンベを運んだ帰りの車に乗せてもらって

下島の3年生、
仲間内での不始末を しでかした罰として
吾々と喧嘩させられたそうな。
吾々は、制裁の手として使われたのである。

後日
下島の3年生と、我町・三ノ瀬の役場の前で顔を遭わせた。
私は、旧知の間柄の様な気分になり、ニャッ と、笑った。
下島の3年生も、ニャッ と、笑った。

 どの辺りが、「椎の実」の山か、記憶は無い ↓ 1979年6月撮影の下島

この年(昭和37年)
出稼ぎの親父が小型のレコードプレーヤーを購入して、帰って来た。
レコードを沢山買って
その時聴いた、橋幸夫と吉永小百合の
「 いつでも夢を 
これまで耳にしたことのない、新しいメロディ が 明るくて、爽やかだった

 星よりひそかに 雨よりやさしく あの娘はいつも唄っている

下蒲刈は、地蔵、下島、三ノ瀬 の 三ヶ村 から成る
小学校までは別々の学区からなり、中学で初めて、一つにまとまるのである
海峡を挟んだ、「 向 」 は、三ノ瀬とは大昔は一帯であったと聞く
今は、上蒲刈として、別の地区である。

画面中央の扇状地の 陸地側の町並みが下島
海側が見戸代  中央の半島から右側の町並みが丸谷~三ノ瀬
海峡を挟んで三ノ瀬の対岸が「向」

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貞子さん(ていさん)

2021年09月14日 15時05分32秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

私は
幼年期 ( 昭和29年~昭和37年 ) を
広島県安芸郡下蒲刈町三ノ瀬 ( 現在は呉市 ) で過ごした。
此は
昭和36年 ( 1961年 ) 7才
小学一年生頃の物語である。

貞子さん ( ていさん )
 「 アッ! 貞子(てい)さん 」
叔父の自転車の後ろに坐っての帰り途、
波止場の端に、
一人腰掛けている
貞子(てい)さんを見つけたのである。
海を見ていたその背中は、
何か知らん 淋しそうであった。

呼びかけようとしたが、
叔父に制止されてしまった。
叔父と貞子(てい)さんは中学一年の同級生、
照れくさかったのだ。
貞子(てい)さんは気づいていない。

貞子(てい)さんは、
8人家族 ( 祖母、父母、二人の兄、二人の弟 ) の一人娘。
父親は肺病で伏せていた。
母親と出稼ぎの二人の兄が家計を支えていた。
日本中が貧しい頃のこと、貞子(てい)さんの家も変わりはなかった。
貞子(てい)さんは、働きに出る母親の代わりに家事をしていた。
「食うもんがないんで、(浜で) あさり採って食うたんよのう 」
想えば中学一年の少女である。
然し、このこと 何も特別のことでは無かった。
周りの皆もそうだったのである。
私の親父も大阪へ出稼ぎしていた。
けれども私は、貧しさというものをちっとも意識しなかった。
日々の暮らしとは、そんなもの・・・と、想っていたからである。

貞子(てい)さんは、私の家に妹の子守で何度か来たことがあった。
おいしいものが食べれる、それが楽しみだといって、喜んで 引き受けてくれたらしい。
冬の寒い中、甘酒 ( 酒粕で作ったもの ) は、御ちそうである。
私は貞子(てい)さんと一緒に甘酒を呑んだ。
貞子(てい)さんは嬉しそうだった。
私も嬉しかった。

この頃は台風がよく来た。
私の村は島 ( 瀬戸内海に浮かぶ、対岸は呉 ) なので、その影響は大きかった。
褐茶の海は白く波立ち、
雲は飛び散っていく、
打寄せる波は道路へ飛沫を揚げた。
幼い私は台風が恐ろしかった。

深夜の事である。
貞子(てい)さんの家の屋根が落ちた。
一家は眠っていた。
貞子(てい)さんと父親が埋もれてしまった。
貞子(てい)さんには大きな梁がのしかかっていたのである。
駆けつけた消防団によって、父親から救助が始まった。
父親は病人
二人同時の救助には手が足りなかったのである

父親を救助しながら
「貞子、まっちょれよ、もうすぐじゃきんのぉ 」
「 ええ・・」
「 まっちょれよ 」
「 ええ・・」
「 がまんせえよ 」
「 ええ・・」
皆は返答する貞子(てい)さんは大丈夫だと思ったのである。

貞子(てい)さんの救助が始まったとき、息は無かった。
目も、鼻も、口も、耳も 泥が詰まっていたという。
苦しかったろうに
早く助けて欲しかったろうに
それでも貞子(てい)さんは、
「 ええ・・」 と、答えていたのである。
こんな状態で、返事をしていたのかと、
皆は その けなげ に胸をつまらせた。

先に救助された父親は数時間後、亡くなった。
「 貞子を先に救助していたら、死なさんで済んだのに・・」
「 もう五分でも助けるのが早かったら 」
・・・
と、皆は悔やんだ。

嗚呼
あまりにも悲しい
貞子(てい)さんの 運命(さだめ) である。

波止場に坐って
海を見ていた貞子(てい)さんの後ろ姿
脳裡に焼きついて 忘れる事は無い。


昭和36年 ( 1961年 )  卒園祝いの品 ・・ アンパンを食う私
道路と波止場の分岐点
私が坐っているコンクリート護岸の先端に
貞子さん ( ていさん ) は坐っていた。

古城


松風騒ぐ 丘の上
古城よ独り 何偲ぶ
栄華の夢を 胸に追い
嗚呼 仰げば侘びし 天守閣

崩れしままの 石垣に
哀れを誘う 病葉や
矢弾の痕の 此処かしに
嗚呼  時代を語る 大手門

甍は青く 苔生して
古城よ独り 何偲ぶ
佇み居れば 身に染みて
嗚呼 空行く雁の  声悲し
・ ・・ 
昭和34年 三橋美智也
貞子(てい)さん 
・・・の、想い出
を偲ぶ時、
なぜか知らん
何時もこの曲が脳裡を過る

追記
ていさん には 姉が存たとのこと
当時既に働きに出ていたので、私の記憶に登場しなかったようだ

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夏の想い出と祖母がつくったアブラメの味噌汁

2021年07月08日 19時30分40秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

松本の店と山口の家の間の小径を少しだけ登ると右手に大きな杉の木があった。
大きな杉の木には、夏になるとアブラゼミが鳴いた。
松本の店で一個十円の桃を買うと、
松本の小母さんが店先においてあるガロン缶に溜めた水で洗って呉れる。
洗い終わると、俟ちきれんとばかりに大きな口を開けて頬張るのである。
いちいち皮など剥かない。
私は、大きな柔らかい桃より、小さな堅い桃の方をいつも選んだ。
其れには、チョットした理由があって。
小さく堅い桃は、甘さは控えめなれど、コリコリした食感が好きだった。 ( 此は、大人になっても変わらない )
しかし、それは真の理由ではない。、
柔らかい実の桃には、ときどき その芯に虫が居たからである。
だからといって、誰が 折角の桃 捨てるものか。
『 桃とはそんなもの 』 ・・だと、そう想っていたのである。

  アブラメを釣った場所からは、ドンコも釣れた

昭和36年 ( 1961年 ) の夏休

朝から魚釣りに出かけた私。
道路から海を覗けば、透き通っていて底まで見える。
いつでも、小魚は泳いでいる。
この日は、気まぐれに松本店前の道端に坐り、釣り糸を垂れた。
釣りの好きな私は、いつもなら波止場での釣りをするのであるが、
偶には、こうして道端から ドンコ釣りをして遊ぶこともあったのである。
一度だけ、25㎝程の スズキ が釣れたこともあって、偶にそんなこともあるのが 亦 楽しかったのだ。
 アブラメの稚魚
アブラメの稚魚ばかりが釣れた。
一人で ご機嫌よろしゅう、釣ったアブラメを提げて祖母の家に持ち帰った。
「 おばあちゃん、アブラメ ようけ釣ったケン 」
「 昼にちょうどえかったワイ、味噌汁に入れちゃるケンノー 」
「 アブラメ ( 稚魚 ) 、喰えるん?」
「 喰える、 喰える、美味いドー 」
果して、食べてみると、祖母の言いうとおり。
これが まあ 美味いこと。
白身の淡白な味が、みそ汁の味にマッチして美味かったのである。

 イメージ
♪ 紅い夕陽よ 燃え落ちて・・・
夏の夕暮れ
海辺に佇み 夕涼みする大人たち
浴衣と下駄ばき姿で尚 はしゃいでいる子供ら
そんな風景を眺めながら、
今日も無事に過ごせたと、一日を惜しむのである


カニの大群
毎年、夏の夕暮れに決まって現れるカニの大群。
サワガニ が産卵の為、山から海に大移動するのである。
「 どこから こんなに、カニが来るんじゃろうか 」
海辺の道路を埋め尽くすカニの大群に、男の児は もう有頂天。
自転車に乗って 疾走したのである。
 イメージ

祖母がつくった味噌汁のアブラメ
たった 一度っきりだけど、それが意外にも 美味かった。
『 意外に 』
・・そのことが、
たったそれだけのことで、

私の生涯の想い出として、今も尚 忘れないでいるのである。
想い出とは、そういうものなのかも知れない。

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満天の空に 星は 星の数ほどあった

2021年07月07日 17時53分33秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

昭和36年 ( 1961年 ) 夏の夜
親父と二人 チヌ 釣り をすることになった。
 イメージ
「 餌を捕っちょけ 」
・・と、親父
引き潮を待って、
水の退いた波止場の床 ( 底 ) に降りて、
波止の脚下に敷かれた波消し岩 ( 基礎 ) の間を掘った。
チヌは 『 虫 』 ・ゴカイの餌だと、食いが悪い。
食いの良い 『 オオ虫 』 ・イソメ を捕る為である。
然し、
『 オオ虫 』 は そう簡単に捕れない。
限られた場所にしか生殖せず、以て ただでも数が少ない。
にもかかわらず、皆が挙って捕るものだから 既に捕り尽くされていたのである。
それだけではない。
五歳の頃 指先を噛まれたこともあって、
『 虫 』  には平気な私でも、『 オオ虫 』 は苦手だったのだ。
『 虫 』 を捕るときのように ホイホイ 手を出せなかった。
そんなことが相俟って、やっぱり 捕れなかった。 
だから、結局この日も 砂浜にいる 『 虫 』 を捕って、此を餌にすることにしたのである。
そして、
いつもの通り
チヌばりに 一度に数匹引掛けて、
これを 『 オオ虫 』 一匹の代用とすることにしたのである。
 
『 オオ虫 』 ・イソメ                   『 虫 』 ・ゴカイ

「 イザ 行かん 」
・・・意気揚々、目指すは丸谷の波止場。
波止場に、灯りなぞあるものか。
だから、提灯を提げて波止路を歩く。・・もう、お手のものである。
そして、波止の先端に陣取ったのである。

「 さあ、釣るどー 」
親父は波止の延長線上に天神鼻に向かって 真直ぐ 仕掛けを投げた。
私は波止に直角に入江側に向かって仕掛けを投げた。
釣り竿なんかは持たない。
 テグス
餌を付ける時だけ提灯を燈す
糸をほどいて、左手にテグスを掴み、右手で仕掛けを投げた。
これが、普段の釣り方 ・・・船で漁師がする釣り方と同じ


真っ暗の中、頼りは星明りだけである。
べた凪の入江の水面に、対岸の家々の灯りが揺らめいている。
私は、この景色が堪らなく好きであった。

コンクリートの波止に直接坐って、
仕掛けのテグスを人差し指の先に掛け、 チヌの当りを待った。
・・・・
が 然し
チヌ が そう簡単に釣れるものか。
・・・・
どのくらい、時間が経ったであろう。
当りなぞあるものか。
退屈の極である。
いつもなら、とっくに眠っている時刻なのである。 況してや星明りの下、さすがに眠たい。
それでも 吾は男の児・・・茲は辛抱我慢と、閉じようとする眼をひっしに堪えていたのである。
が 然し、もう・・眠たくて 眠たくて
ウトウト・・と、していた
・・・将にその時

!!!
猛烈に 糸を引っ張った。
「 スワッ 釣れた 」
と 勇んで糸を引く。 でも、チヌではなさそうな。
引き揚げて見ると、なんと アナゴ であった。

「 アナゴかぁ ほれに飲み込まれちょる 」

満天の星空
波止場の先端に座って
眠たい目を擦りながら、夜空を見あげると そこには、
「 ぶつからないのか 」
と、想うほどの星空があった。
そして いつもの様に、
天の川 を はっきりと、確認したのである。

幼き頃、当然の如く見上げていた夜空
そこに
星は 「 星の数ほど あった 」
しかし、それは 今や
記憶の中にしか 存在しない のである。
叶うものなら
あの頃の私にもどって
もう一度
親父と共に
星空を 眺めてみたい
・・・そう想う私である

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丸谷の波止場 「 サッカン 早よ 助けんねー !! 」

2021年07月06日 06時29分20秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

夏に泳ぐ・・・と言えば 丸谷の波止場
たいていは内海・入江で泳いだ。
海から上がると 波止に腹這いになって甲羅干しをする。
そして 又 海へ飛び込んだ。
 外海と波止場と親父
物語は小舟の辺り
「 船がきたどー 」
仁方港から三ノ瀬港へ向かう巡航船が沖合を通過しているのだ。
「 ソレーッ 」 ・・・と、ばかりに
大きい人達 ( 小学高学年~中学生 ) は 一斉に外海へ飛込む。
船が かき分けた波は、波止場に到着するころには その勢いも衰え ユッタリ した波になっている。
それはまさに 波のゆりかご
そして、ユラリ 揺らめく 心地よいゆりかごに乗るのである。
私のことは語らない。

泳いだ後は、必ずや井戸で水浴びし、躰に着いた塩分を流した。
大きい人 ( 中学生 ) が、海パンの尻を引っ張って、そこへ手押しポンプから出る井戸水を注ぐのである。
母や叔父達が天秤かついで水を汲みに行く 斯の井戸である。
・・・リンク→吾母との絆の証し

「 泳げるようになった 」
道端の階段から波止の階段まで約30m ( 満潮時 )、
この間を、浮き輪なしで泳いだら一人前とされた。
皆から、「 泳げるようになった 」 ・・・と、称されたのである。
此は、島の子にとっては名誉なことであったのだ。
斯の 『 階段~階段 』 までが、吾々にとっての登龍門だったのである。

私は 昭和35年 ( 1960年 ) 6歳の夏、そこを通過した。
然しこれには、からくりがあった。
最後の1、2m程を 10歳年長 ( 16歳 ) の叔父が後押して呉れたのだ。
叔父の手心が加わった成果だったのである。
それでも私は、そんなことはいっこうにかまわずに、
「 泳げるようになった 」  「 泳げるようになった 」 と、得意になって自慢したのである。

泳げるようになったのはこの年の前年 昭和35年 (1960年 ) のことである。
保育所の卒園式を終え 記念品のパンを食う私・・・リンク→丸谷の波止場 と 「 夕焼けとんび 」


弱虫を救った母の必死の叫び声
「 泳げるようになった 」 と、自慢していた私
皆へ それを披露する時が来た。  謂うならば デビュー 戦である。
男前の私、意気揚々、「 イザ飛込まん 」 と、波止路に立った。
ところが然し、そこから海を見遣って驚いた。
「 高い 」 
意外に 高かったのである。
「 飛込むことなぞ できるものか 」
そう、直感した。ヒビッタ。
意気消沈。すっかり弱虫になってしまったのである。
類似イメージ ・1954年頃
波止路の角に尻をついて、かかとを石堤の隙間に入れ、
出来るだけ低くして海へ入ろうとした。
然し、それでもまだ高い。
そもそも、波止の路から飛込むことなぞ 無理だったのである。
二の足を踏んだ。尻込みした。・・・もう、どっちもどっち
大きい人達が 波止の上で腹這いになって甲羅干しをしていた。
その中に、10歳年長 ( 16歳 ) の叔父も居た。
「 早よ、飛込まんかー 」
と、叔父が 腹這いの侭 ハッパをかける。
然し、すくんでしまった弱気の躰が 動くものか。
いつまでも、モゾモゾ していたのである。

弱い心が 災いを引き寄せる
後ろから、 両手で以て背を押された。
無邪気な悪戯をしたのは、トヨ君の弟 ( 私より2歳ばかり年少の幼児 ) 。
ドッボーン
突き落されたのである。
私はたいそう慌てた。  もう パニック 。
自分が泳げることすらも判らない。
徒に、バシャバシャ もがく だけだった。
如何な かっこうで もがいたかは憶えちゃあいない。
もがき以て、波止上で腹這いになった侭、叔父達が私を眺めている顔が見えた。
彼等は目前の出来事を承知しながらも、唯茫然と眺めているのだった。
一時 いっとき 空白の中にいたのであらう。 
だから、「 溺れるかも 」 と、想いつつも  躰が反応しなかったのである。
そんな時、波止路から 母の必死に叫ぶ甲高い声が聞えた。
「 サッカン 早よ 助けんねー !!
母の叱咤は 空白に縛られた叔父を動かしたのである。
忽ち、躰が反応した。
それからの 叔父の動きは如何にも機敏だった。  そして叔父の咄嗟の判断が功を奏した。
近くには停泊する舟もあった。
サッ と、立上るや、波止の上から飛降り、波止路に一番近い舟に飛乗った。
続いて 私に近い舟に渡り、それを私の傍まで動かした。
そして、手を伸ばして私を掴み上げたのである。
海から上がって、 『 一件落着 』。

私は溺れなかった。 ( もがいただけ・・・手前みその基準 )
偶々、水を飲まなかったことが その因である。
然し、偶々、大事に至らなかっただけのこと、生死の境は紙一重だったのである。
『 魔が差す』 ‥一瞬 とき は、こういう場合を謂うのであらう。
「 サッカン 早よ 助けんねー !!
厄を払い、叔父を動かしたものは母の必死の想いであったのだ。

「 あの時、母は何故 波止場に居たのであらう 」
このこと、今 初めて気づいた。
私が母のいる青雲の涯に逝った時、このこと尋ねてみよう。

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い た ん ぼ

2021年06月17日 06時48分35秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年


昭和36年 ( 1961年 )
頃の物語である。

いたんぼ
丸谷の私等家族の住居は、
石垣で段々になった地形に沿って建っていた。
段々の一番下部で、上に2段住居が在って、
更に上は畑と、段々が続いていく。
そして、平屋の納屋も有った。
物置であった中は、私の恰好の遊び場でもあった。
屋根の軒先と、一段上の隣地とは ほぼ同じ高さで
石垣側には壁は無く、私がすり抜けれる程度の隙間が有った。
男の児の私、中の荷物を足場にして、よじ登れたのである。
そして、畑で遊んだ帰りは、石垣づたいに降り、隙間をすり抜けた。
それは、私の、秘密の抜け道、だったのである。

近所に 「つじ」 さん、親子が居て
「 つじ 」 の、お兄さんに、普段から可愛がって貰っていた。
偶々
家に遊びにいった その時、
「 つじ 」 さんの、二階の窓から、納屋の屋根が見えた。
そして
屋根の横に 大きなイタンボ を見つけたのだ。
それは、秘密の抜け道とは、すこし離れた処にあった。
「 あこに イタンボがある ・・」
類似イメージ
翌日
女の子3人、( 年上の女の子含む ) を、引き連れて
「 ( 屋根の ) 上に、イタンボがあるんで 」
男前 の、私

19621

女の子を喜ばしてやろう・・と、男気を出した。
 「 ワシが、採ってきちゃる 」
・・・
そう云って、
揚揚と石垣を上ったのである。

いつものとおり
すり抜けれると想っていた。
・・
ところが
隙間より、私の頭の方が大きかった。
頭が閊えて先へ進めない。

男の児、力を込めた。
しかし、これが悪かった。
とどのつまり ・・

屋根と石垣の間に頭が挟まって仕舞った。
上にも進めないし
下にも戻れない
挟まっている頭が痛い ・・

と謂えども、小学校一年生 ・7歳
とうとう、泣き出して仕舞ったのである。

下で、女の子たちは、オロオロしている。
私は、大声で泣いている。
もう、どうすることも出来ない・・・

と、その時
屋根上を人が走って来る足音が聞こえた。
「 つじ 」 のお兄さん、その人哉 であった。

屋根上から私の頭を グイ と押さえつけた。
頭は簡単に抜けたのである。

「 偉そうに言ようて、泣き出して ・・」
男前に成れなかった。
そして
泣いた事が恥しくて堪らなかった。

昭和54年 ( 1979年 ) 撮影 
当時の我家は無くなっている
グレー色(埋立道路)部分は、海であった↓

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儚い命

2021年05月26日 04時45分31秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

海に落ちた話
もう一つ

昭和36年 ( 1961年 )
の物語である。


儚い命
「 子供が海に落ちた 」

そう聞きつけて、吾々は天神鼻に駆った。
3分程、奔ったであらうか
到着すると既に海から引き揚げられ、母親に抱かれていた。
見れば、私の妹 ( 4才 ) ほどの幼い少女であった。
・・・リンク→
海に落ちた妹
干潮なら砂地の処

アサリを採ったり、ゴカイを捕ったり、する浜辺である。
この時、浜は水に浸かっていたのである。

「 さっきまで、此処で ( 道で ) 遊びょうたのに 」
五年生の兄貴がしょんぼり・・そう、話していた。
目を離した間に居なくなったと言う。

既に息がない。
ヤジウマの一人が声をかけた。

「 ヘソとヘソをくっ付けて三回まわるんじゃ、
まわったら 今度は反対向きに三回まわるんじゃ、
ほいたら、生きかえる 」 

ワラをもすがりたい心境の母親、
助けんが為には何でも試用と
言われるままに、やってみた。
すぐ傍にいた親戚であらう若きオバサン
その様子を見るなり笑い出した。
然し、幼い少女はぐったりしたまま、
なんの変化もなかった。
そんなおまじないで、助かろう筈もなからうに。
今まで笑っていた若きオバサン、終った途端に大泣きに変った。
それは、なんとも異様な光景であった。
吾々は、茫然と佇んで、それを観ていたのである。

結局、少女は蘇生しなかった。


幼き少女のあまりにも儚い命

これも一つの一生・・・運命なのであらう。
然し、我子を殺した・・と
親からしたら、悔やんでも悔やみきれない。
自責の念は消えぬことてあらう。
嗚呼・・・・
言葉にならない。

悲しみも極限を超えると
人は感情をコントロール出来なくなる。
斯の若きオバサンの笑い・・・きっとそうなのであらう。
確かに深い悲しみの中にあった、そして可笑しくって笑った。
然し、その笑いは
悲しみの中から湧き出た絶望の笑いだと

・・・私は、そう想う。

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海に落ちた妹

2021年05月25日 05時02分53秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

夏休み
母は昼食の仕度をしている
親父と私は、花札(コイコイ)をして遊んでいた。

イノシカチョウ・テッポウ、シコオ、ゴコオ、
ナナタン、アカタン、アオタン、
マツキリボウズ、オオザン、コザン、
フケ、イッパイ
ソウガス、ピカイチ、クサ、ニゾロ
ガジ、
・・・・テヤク、ヤクの名称である

小学一年生の私
親父と対等に勝負していた。
「 テッポウじゃ 」
「 イノシカチョウじゃ 」
・・と、盛上っていた。

満潮の海に
 落ちた妹

と、そこに 玄関戸を叩く音
「 ハナダサン、ハナダサン 」
「 ミサエチャンガ大ゴトジャー 」
「 ウミニオチター 」
スワッ大変
親父は家を飛び出した。
私もその後を追っかけた。

この頃、何かに曳かれる如く道から海に落ちることが続いた。
海には魔物が居る・・と
怪我は勿論のこと、命を落した者もいたのである。
 

リンク→ 儚い命   
リンク→
自転車ごと海に落ちた中学生

表の道に出ると、大勢の人が囲んでいる。
それを割って入った。
既に、海から引き揚げられて仰向けに横たわっている。
「 ミサエーッ !!! 」
悲痛な声で母が叫んだ。
「 ミサエーッ !!! 」
「 ミサエーッ !!! 」
叫べど、反応は無い、目を閉じた侭である。
「 息をしちょらんど 」
「 もう、死んじょるんか ? 」
「 心臓の音せんのじゃと 」
・・・と、皆が口々に喋っている。
そんな中で
私は、目の前で起こっていることがピンとこなかった。
妹がどうにかなって終う ・・という危機迫るものがなかったのだ。
只、茫然と眺めていたのである。

ササキの妹と仲よう遊んでいたと謂う。
暫くして
「 ミサエチャンが海に落ちた 」
・・と言って
(ササキの妹が) 家に帰って来た。
家には偶々 ( 漁師の ) ササキのオッチャンが居た。
それは大変・・と
オッチャンとオバサン、二人して家を飛び出した。
海は満潮
道から2m程下が海面である。
海を覗いたら
下駄が浮かんでいる。
手にしていた、玩具が浮かんでいる。
そして
妹が、うつ伏せに浮かんでいた。
髪の毛が水面に拡がった姿で漂っていたのである。
「 もう、死んじょる ・・」
オッチャン その姿をみて、一瞬怖ろしくなった。
そして怯んだ。
軀が固まって 茫然と立ち竦んで仕舞ったのである。
「 アンタッ、跳び込まんネ !!! 」
オバサンの叱咤の声に、軀が反応して咄嗟に跳び込んだのである。


騒ぎを聞きつけて
近所の家々から人が出て来た。
「 ハナダの子が海に落ちた 」
「 ハナダに知らせて来い 」
「 医者じゃ、医者じゃ、医者を呼んで来い 」
誰かが蒲刈病院へ走った。

外では、大騒ぎしている丁度その頃
「 テッポウじゃ 」
「 イノシカチョウじゃ 」 ・・と
親父と私、二人して悦に入っていた。
もう、なにをか況や ・・である。

「 ミサエー、ミサエー 」
・・・と、悲痛な声で母が叫んでいる。

そこへ、蒲刈病院から医者が駆けつけた。
心肺停止の最悪の状況であった。
心臓に注射をうった。
反応がない。
「 先生、助けて下さい 」
リンゲル注射した。
反応がない。

「 もう駄目かも知れん・・」
医者が立ち上がらうとした。

「 先生、最後にもういっぺん、もういっぺん注射して下さい 」
親父に促されて
もう一度心臓に注射したのである。


ウウッ・・・
微かに、妹の呻き声がした。
ゲッ
飲み込んでいた水を吐いた。
ブチユブチュ・・・・
大便がでた。
ウワーン と、泣き声
蘇えった瞬間である。

「 助かった 」
息を吹き返したのだ。
奇跡が起こったのだ。
「 ウワァーッ 」
皆から歓声が上がった。
えかった、えかった、ほんまにえかったのお 」
・・と、皆の安堵の声。

ピンボケの私
そんな、皆の声をよそに
妹がした大便のことが可笑しくってしょうがなかった。
死にかけていた妹にはすまないけれど・・・

それ以後親父は
私がせがんでも花札をしようとしなかった。
 三つ違いの妹よ
昭和36年(1961年)
 の物語である

妹が海に落ちた物語
ここで終わらない

ところが妹
此の後
もう一度落ちたのである。

こんどは
干潮の海に
落ちた妹

翌年 ( 昭和37年 ) のこと
やはり、ササキの妹と遊んでいた。
如何した事か
エーン・・と泣き真似して、海の方に向かって歩いてゆく
「 ミサエチャーン、危ない !! 」
と、言った瞬間海に落ちた。

海は引き潮・干潮で水が全く無かった。
道から、4、5m ほど高さがある。
下には自然石の切石の波除ブロックが敷かれてある。
その岩の上に落ちたのである。
高さからして、大怪我であらうと
打ち所が悪かったら死んじょるかも・・・
誰しもがそう想った。

「 もう、怖ろしゅうて、怖ろしゅうて、足が震えてしょうがなかった 」 ・・・と
近所のオバサンが三人、下に降りて運び上げた。

皆の心配にも拘らず、大した怪我は無かった。

あんな高い所から岩の上に落ちて、たかが、かすり傷で済んだのだ。
顎の下、左足の太ももに傷があったが
暫くして、その傷も治った。

一度ならず二度までも

此を奇跡と謂わずして、なにを謂う・・であらう
皆は妹の運のよさに、生命力に感心した。

「 この子は、死なんようになっちょるんじゃ 」
「 この子は長生きするで 」 ・・・と

危険だからと、道にガードレールが出来たのは
翌年の昭和38年(1963年)のこと
吾々一家が、故郷を離れ大阪に移住した年であった 

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自転車ごと海に落ちた中学生

2021年05月24日 04時25分45秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

半ドンの土曜日
小学校をいち早く帰宅した私
丸谷の波止場にいた。
  イメージ・ボラ
海は引き潮・干潮、水位は低い
波止場からは、入り江に入って来るボラの姿が見える。
その見えるボラを、釣ろうとしているのだ。
ツイ、このあいだは
餌のゴカイを口に入れたのを チャンと確認してテグスを引いたのに
ハリが引っかからなかった。
口から餌が出たのが、はっきり見えたのである。

「 どうしてひっかからんのじゃろ 」
「 飲み込ませてから引っ張りゃよかった 」
やはり、見える魚を釣るは難しい・・と、謂うことか。
然し、誰が諦めるものか
「 今日こそは、ボラを釣ろう 」 ・・・と、
昼ごはんもソコソコに、意気揚々跳んで来たのである。

ところが
せっかく意気込んで来たのに トンダ空回り
ボラの奴
恐怖を予感してか、姿を見せなかった。

 
一部始終を眺めていた
対岸の道路に目を遣ると、帰宅中の中学生の一団。
「 カナアンチャン・・まだかな 」
・・・と、六歳年長の叔父の姿を探した。
目を配っているところ、
三人乗りの自転車を見つけた。
前輪の上に軀をこちらに向けて女坐りをしている。
後ろの荷台には、後ろ向きに跨いで座っていた。
幹線道路とは雖も、島の海岸ベリの道のこと狭い。
道は中学生でいっぱいであった。
その間をヌッテ自転車が進んでいる。
私は、波止場からその状況を眺めていたのである。

三人乗りの自転車
調子に載ってスイスイと皆を抜いて行く
松本の店の前を過ぎた
海へ降りる階段の前を過ぎた
山口の前にさしかかった
と、その時 ハンドルが揺れた
「 アッ !! 」
そして次ぎの瞬間
こともあらうに
海の方に自転車が倒れたのである
前輪に女坐りをしていた中学生
勢い余って
自転車もろ共 海へ落ちて行く
それはまるで
スローモーションを見ているかの如く
然し

アッと謂う間でもあった
うつ伏せの状態で、落ちた

自転車の下敷きになっている
そして、動かない

運転していた長身の中学生が階段を降りて、落ちた処へ向っている
着くと直ちに、体に乗っかっている自転車を取除いた
そして

落ちた中学生を、覗き込んでいる
意識はあるようだ
何やら喋っている
「 ・・・・」
遠くて、聞こえるものか
皆が駈けつけて、道から下を覗き込んでいる
他の中学生も降りた
そして、皆して道まで抱え上げたのである

落ちた所は偶々砂地であった。
他の部分全てが切石の波消しブロックだったのに
不幸中の、せめてもの幸い
とは雖も
歯を数本折る大怪我であった。

まさかの出来事
私は偶然に遭遇した。

そして、その一部始終を眺めたのである。
もう、黙っちゃあいられない
これは、誰かに聞かせんと我家へ跳んで帰った。

「 大事じゃあ !! 」

「 大事じゃあ !! 」
・・・と、
昂奮の坩堝の中

一部始終を、母に語ったのである

この物語は、
フィクションでは無い。
ドキュメンタリー ( 記録 ) でも無い。
昭和37年 (1962年 ) という、遥か彼方の事とて然し
今も尚、私の心懐に在り続ける 「 私の記憶 」 なのである。

「 此処の家の中学生が落ちたんじゃ 」
・・・と、私は、
弁財天神社の崖下に在る家を指差したこと、
忘れずに、ずっと覚えているのである。

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痛ツ !!

2021年05月22日 04時51分12秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年


サヨリの話し
 
            イメージ・サヨリの大群

夏の夕暮
潮が満ちて来ると
丸谷の波止場の入り江には、
決まってサヨリの大群が入ってくる。

網で掬えるかと想うほど近くを周遊するのである。
海面はベタ凪、
水は透き通っていて底まで見えた。

路からその姿が見えるもんだから、もう堪らない。
そこで私は
繋がれた船に乗込んで
普段はドジョー等を捕る網を持ってサヨリが来るのを待った。
「 来たらこれで捕っちゃる 」
暫らく佇んでいると、想ったとおり、サヨリが来た。
「 よーし 」
私は勇んで網を伸ばしたのである。

 
イメージ・サヨリがやって来た

昭和36年 ( 1961年 )
夏休み
サヨリの大群が接岸して来た。
吾々は待ってましたとばかり
ウキ替わりの箸を横向けに浮かせる仕掛けでもって
箸の先端にハリスを 5センチ垂らし、餌のゴカイをつけて精一杯遠くへ投げた。

釣竿は一切もたない、
木枠に巻いたテグスを手に持ち直接投げる

水面すれすれの所に餌を浮かす、それをサヨリに喰わすのである。
こんな仕掛けでも結構釣れるもんだから、
小学一年生の吾々でも必至になったのである。

私は誰よりも遠くへ投げようとありったけの力を込めて ウキを手に持ち、大きく腕を振って放り投げた。
餌のついた仕掛けは、海に向って飛んで行く
・・・筈であった。
ところが
「 痛ッ !! 」
こともあらうに
私の右太ももにハリが引っかかったのだ。

ハリにはかえしがあって刺さると外れないから、さあ大変
近所の皆も集まって
ちょっとした騒動になったのである。


三ノ瀬港 
本土・呉の仁方港への船が往来した
昭和35年 ( 1960年 )
巡視船に乗ってやって来た池田総理大臣も
港の桟橋から上陸したのである。
その姿を私は、
この波止場から眺めていたのである。
・・・リンク→総理大臣が軍艦に乗ってやって来た

 ←三ノ瀬港の桟橋
釣りの好きな私
あっちこっちに出かけては釣りをした。

三ノ瀬港では
波止場でギザミ(ベラ)、どんこ
桟橋の下でチョコセン(カワハギ)を釣った。
 ギザミ チョコセン

丸口 の
お爺さんに助けてもらう
三ノ瀬港の波止場で
同級生の今村道明、金田高好 ( ? ) の三人で釣りをしていた。
内側と雖も潮の流れは早い。
私は普段の仕掛けより、かなり大きな鉛の錘り、
チヌバリを着けた仕掛けを使っていた。

イメージ
吾々子供は滅多に使わない錘である。

餌はゴカイ
餌を買ったことは一度もない。
潮の引いた浜辺に降りて、自分で掘って捕ったものである。
此の日は
大きな錘りを掴んで投げていた。
ところが、その時に限って
何を想ってか、ハリを指先で抓んで投げたのである。
魔がさす』 ・・・は、此を謂うのであらう。
これが、やっぱり拙かった。
遠くにと、殊更力を入れて投げた。
「 痛ッ !!! 」
それは今迄に経験したことのない痛さであった。
右手の人差し指の先っちょ
指紋の有る部分に、まともに刺さったのである。
選りに選って
此の日は、チヌバリの大バリ

 イメージ ・チヌバリ
小学二年生の子供に
かえしのついたハリがまともに刺さって、それを取除ける筈もなからうに。
それはもう、痛くて痛くて・・・我慢なんかできるものか。

二人が丸口のお爺さんを呼んできた。
漁師のお爺さん。
私の指先に刺さったハリに、茶色の太い釣り糸をクルクルッと巻きつけた。
そして、両手でそれを引っぱった。
すると どうだろう
あれだけ どうしようも無かったハリが スルッと 外ずれたのである。
然も、痛くも痒くもない。
それは
マジックを観ているかの如くであった。
「 さすが 漁師のお爺さん 」
・・と、感歎した。

なにごとも無かった様に家に帰ると、
「 どうしたん? 」
「 喧嘩でもしたんか ? 」
・・・
と、母が言う。
鏡で我顔を覗いて見ると、
目の周りがまっ黒に汚れていた。

それは、
明かに泪を拭いた跡である。

痛みを堪え
泣かずんば
朱く腫れた指先の傷は
男児の勲章よと、吾は
男前よと
威張れたものを
余りにもの痛みに辛抱できず泣いてしまった
泣いたばかりに
逆に男を下げてしまったのである

男は泣いたらあかん
是、教訓である

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ドジョウの話し

2021年05月21日 04時22分52秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年


めだかの学校は川の中

そっと覗いてみてごらん
みんなでお遊戯しているよ

書き込みは昭和37年 ( 1962年 ) までの、私の記憶に依るもの
 1962.05.26


ドジョウ

蒲刈病院の西側は田んぼで
その畦道に沿って、
チョロチョロと水が流れる程度の小川があった。
其処に、「 めだか 」 の学校があったのである。

斯の小川
ドジョウも多くいて
網でもって泥の中を掬へば、たいてい捕まえられたのだ。

昭和36年 ( 1961年 )
ドジョウを捕るのが
面白かった。
だから、毎週の如く出かけたのである。
いつも、ドジョウを持ち帰っては、結局 海に捨てた。
海に放すと案外、勢いよく水中へ潜って行く
「 ト ジョウは、海でも泳げるんじゃ 」
・・と、私は、その姿を眺めていたのである。
その後、
ドジョウがどうなったか知らない。

未だ乳飲み子の妹、
白い肌着を着ていた。

何故かしらん

その生後間もない妹と、ドジョウ捕りの小川に居た。

と、次の瞬間

妹が水の中に沈んだ。

スワッ 大変

水の中から助け出そうとしても

なかなか想う様にゆかない

「 妹が・・おぼれ死ぬ 」
 
と、直感した

その瞬間、私は絶望的な恐怖を感じたのである。

 

川底の泥の中から

ドジョウが顔をだして、ニョロニョロ 白い腹を見せながらこっちへ向かって来る。

何とも気持ちの悪い光景であらうか

恐怖で私は逃げた、田んぼの畦道を一目散に逃げた。

すると向こうに、ジョンを連れた要・叔父と出遭った    ( ジョン・・当時祖父母の家で飼っていた犬 )

「 カナアンチャン ・・ 」                   ( 6才年長の叔父 )

と、大声で叫んだのである。

・・・

夢である
遙か彼方、私が記憶する最も古い夢である。

私は
ドジョウを捕るのを止めた。

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