昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

右翼青年

2022年08月21日 14時51分07秒 | 5 右翼青年 1974年~


1970年代  左翼思想全盛の頃、こんな光景もあった

時代は進化する
果して
令和御代の日本人は
この光景を、如何に観るのであらうか


21歳(1975年)昭和50年頃、
友・平野との会話

「 ソ連が攻めてきたら、どうする?」
「 戦争反対、唱えるしかないな 」
「 北海道に攻め入ってきて、
日本人が殺されているんやで、
それでも、戦争反対唱えるのか ? 」
「 俺は戦いに行く 」
「 勝ち目ないで、ソ連には敵わん 」
「 日本人が殺されるのを、手を拱いて視とけ、言うのか ?
占領されたら、どうするんャ 」
「 白旗挙げて降伏する。
戦ったら死ぬデ、死んだら終わりヤ、
死んで、残った家族どうなるんャ
降伏しても、命までは取らんヤロ
「 ソ連の奴隷になれ言うのかァ 」
「 死ぬよりましヤデ 」
「 お前、本当に、そう思っているのか ?・・・」

視点が違う二人、話が咬み合わない。


「 ヒューマニズム 」 と 「 大和魂 」
・・難しいことは、分らないが
家族、同胞の生命を守るため、己の生命を懸ける
家族、同胞の為に生命を懸けた先達の歴史の上に、今の吾々の生命が存在しているとしたら
「 白旗を挙げて降伏する 何よりも、己の生命が大切 」 
とは、いってられないだろうに

・・・その頃の私の意見
右翼的だと批判され、異端視扱いをされた。
どうして、批判されるのか、分らなかった。


1991年、ソ連は崩壊した。
共産ソ連は民主ロシアに変わった。

ソ連が攻めて来る事はない
・・が

『 歴史は繰り返す』
がしかし
人も国家も、
根本は
少しも変っちゃあいない
変らないもの
・・・と、
私はそう想う
 

コメント

「サークル」

2022年07月17日 04時58分52秒 | 5 右翼青年 1974年~

昭和45年 (1970年 )、中学3年生、3学期の頃である。
私は、赤旗系の 『 サークル 』 への入会を誘われた。
同級生も、既に何人かは入会していると謂う。
だから、「 あなたもどうか 」 ・・・と。
同年代の男女が集まって、活動していく ものだと謂う。
『 サークル 』 と謂うもの、私は何にも知らなかった。
無知故の関心のなさ で、勧誘を断ったのである。 ・・・が然し。
「 男女が集まって 」 ・・・の言葉が、心の片隅に残った。

1969年1月18日 東大安田講堂事件 
いくら無知であった私でも知っている、記憶に残っている場面である

真友 ・長野から
「 今度の日曜日、仲間10人程でソフトボールするから来いよ 」
・・・と、誘われた。

昭和50年 (1975年 ) 5月18日 ( 日曜日 )
この日は、朝7時に起きた。
バスで、1時間もかけて西淀川の出来島へ。
そして、更に車で20分かけて、グランドに到着した。
着くと
学会の皆でソフトボールをするのだと聞かされた。
彼等は 私の仲間でも何でもない。
私はいきがかり
○○学会・西淀川地区主催の
『 ソフトボール大会 』 に、参加する羽目になったのである。
午前9時から競技は始まった。

その日の晩
その時の想いを
かきなぐったもの
である

そこには、健康な若い男女が集まっていた。
誰も皆、笑顔一杯。
嗚呼、これが 『 サークル 』 と、謂うものなのか。
なんと !
今の若者層のサンプルがそこに居るではないか。
それは、俺の想うイメージ、そのものであった。
俺は観た。
今の日本の若者のサンプルを。

女のてまえ、イキガッタ男。
それに愛想笑いする女。
なんとチャラチャラしている。
このての人種、俺は気にくわない。

軟派でも、 腕力 強かれば 憧れもしよう。
腕力 弱くても、インテリならば 尊敬もしよう。
しかるに、見る限り、彼等は普通の男女である。

なんと女の子の声援がシラジラシイ。
嗚呼 ・・・こんな女、俺はいらない。

何だ これは。
わざわざ、朝早く起きてまで、彼等と付き合わねばならぬのか。
くそ、おもしろくない。
こういった集まりには、必ず存る 「 出しゃばり野郎 」
俺に指図する。
無神経極まりなく、俺に指図する。
野郎・・・
無邪気にはしゃいで。

( 我慢も限界を超え、大会途中で、誘った長野と二人退場したのである )

はしゃいでいる彼等は、何も悪くは無いし何の責任も無い。
唯、俺は偏屈なる人間をめざしている。
而も、頑ななまでに。
その俺の信条と、彼等の行為に、ギャップがありすぎたのである。

最近の若には夢がない 」
俺は、常づね そう発信していた。
ところが
彼等も討論会で そう言っているんだと。
行動しない若者が増えた 」 ・・・と、嘆いているんだと。
嗚呼・・・
夢とは ロマン のこと
究極の行動とは 殉じる こと
彼等は それを知らない。

彼等は、真剣に 「 憂国 」 を、語り合っているんだと。
軽々しい。
憂国 とは 同胞の為に殉じる こと
相当な覚悟をもって、発言すべく事柄であらう。
彼等が、そんな覚悟を持っている筈は無い。
なにが 憂国か 
なに
が 幸福か
なにが 自分たちは活動している だ
所詮、 ままごと ではないか


左翼系だけに限らなかったが

「 サークル 」 と謂う活動をよく耳にした。
イデオロギーの時代の名残りかとも想う。
この頃の吾 関心は、
専ら
「 ナレは功を為せ、ワレは忠を為す 」 


又、斯の日 斯の事を、
真友 ・ 長野は自筆の 『 小冊 』 で、こう述べている。
・・・・・・
 S50.5.18日曜日、
□□学会・西淀川地区主催のソフトボール大会に未入会らもかかわらず、
未入会の H と二人して参加した。

会場となっているグランドには、
色とりどりのカラージーンズの若者達が思い思いのことをしながら集合の合図を待っていた。

9 : 00AM頃 ようやく集合の笛がなり、
その後大会宣言、選手宣誓、準備体操 その他のプログラムを消化し、9 : 30AM頃プレイボール。

----女の子の黄色い歓声、
5ガロン缶をたたいての声援、手拍子、口の減らないはりきり小僧、

3本のストライプの入ったジャージ姿の女の子の、
ホームからセカンドへの Niceスローのあとの あの得意そうな顔つき、
ボールを満足にスローイング出来ないライト、三振する人----Etc---。

その試合の結果を知ることもなく、また知りたくも思わず、
グランドを去ったのは 10 : 30 AM 頃だったろうか。

それからぼくは考えている。
----この大会に集った多くの若者
そして この大会そのものは いったい何なのか!?
 ほんとうの若者らしさとは、ほんとうの行動とは。   S50.5.18 Sun  」

5月18日の このソフトボール大会と この記録とは、思わぬところで関係してる。

ぼくは5月18日の記述のとおり考えた。
この日の一コマ一コマを再現しながら、一語一語を思いおこしながら。
------------
「それならば、オマエ自身はどうなのか。
オマエ自身は何をしていると言い切れるか。」
という、この頃きまっての重苦しい結論がそこに待ち受けていた。

この時ぼくは 「それならば オマエ自身は----」
という自問に どうしようもなく答えられなかった。

答えられない自己への憤りが、
「それならば オマエ自身は----」 を増巾し 

さらに新たな そして大きな憤りを生んでいくという袋小路へと、ぼくを追いたてていった。
そして この記録 ( その時は エッセーと呼んでいた ) を書くという思いつきは この時おこった。
この記録のいちばん始めに 「何故エッセーを書こうと思ったのか」 という見出しで、
5月18日の自分を振り返りながら、袋小路に追いつめられたあの時のぼくは こう書いている。
創価学会主催、ソフトボール大会
何故エッセーを書こうと思いたったのか
ソフトボール大会に中途半端なかたちであれ参加し、

その後 この大会に参加した多くの若者を偽善者を見る眼差しで見つめ、
大会そのものを偽善的行為ときめつけた。

5ガロン缶をたたいての声援とか手拍子、
女の子の黄色の歓声、大会宣言とか ラジオ体操
----その他もろもろの行為が、

ぼくの目には しらじらしくうつろいやすい、
もうどうだっていい、ある空しさを伴って写ったからだ。

しかし そんな眼差し、
いろんな事に対して空しさを伴った眼差しで自分のまわりを見わたしてみると、

全対象に 「空虚」 というレッテルを貼らざるを得なくなることに気がついた。
と同時に この 「空虚」 の裏側に 「充実」 がかくされていることに気がついたのだ。
空虚な眼差しで自己の世界をみわたせば 
世界は空虚な存在となって ぼくの心に横たわる。

これはあたかも色メガネをかけて世界をみたようなものである。
水色の色メガネをかけて 真赤なバラの花を見たことしよう。
そこに見えるは真赤なバラではなく水色で偏向された どす黒いバラだ。
水色の色メガネの世界は、水色で汚された 嘘の色の世界である。
ところで、空虚という特殊色メガネで 
ソウトボール大会を見たとき 空虚さで汚された世界の裏側に

「充実」 の世界の存在に気づいたのは どういうわけだ。  S50.6 」
以上のことを書いているときのぼく、
そう袋小路に追いつめられたときのぼくは、
"充実さを感じる自己" ではなく、

"空虚さを感じる自己" を否定する自分でしかなかったと思える。
・・・・

此が、真友 ・長野の為人である。

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尊 皇 討 奸

2022年07月02日 18時00分00秒 | 5 右翼青年 1974年~

『 尊皇討奸
昭和維新の象徴である。
神達は是を、合言葉に使った。
二十歳の私 は
どうしても、神達と逢いたい
そう想ったのである。

昭和維新の春の空
昭和49年 ( 1974年 ) 11月25日
念願の 山王ホテル に、遂に来た。
「 オオーッ 」

昭和11 ( 1936年 ) 2月27日、
山王ホテルに
尊皇討奸旗 が、たなびいた。
爾来38年
私が、夢に見た 山王ホテルは、当時の姿のままであった。
是ぞ 昭和維新
私は、昭和維新の風を肌で感じた気に為ったのである。

昭和49年(1974年)11月25日撮影

ところが、何故かそこに
警備の警察官が立っている。
何故であらう
写真が撮れない・・・
「 普通に、普段とおりに行動するんだ 」
・・・
と、自分に言い聞かせ、
警察官に尋ねた。  

「 中に入って、写真を撮りたいのですが 」
 「ここは今、アメリカの将軍が泊まっていて、ホテルは治外法権に成っている、入れません 」
「 そうしたら、駐車場からの撮影だけでも、構いませんから 」
「 写真を撮りに、大阪から来たんです 」
「 それなら、自分はもうすぐ、警備の時間が終わるので、一緒に入れて上げます 」
「 そうですか、ありがとうございます 」
「 それまで、外から写真を撮って構いませんか、外なら良いでしょう 」
「 外からなら、構いません 」

警察官の対応が以外であった。
 「こんな、警察官も居る 」
東北なまりの警察官。
私は、その素朴な人柄に心をうたれ、嬉しく為った。


 昭和50年11月24日撮影


 
正義に結ぶ丈夫が
名残は尽きないも、次の目的地へと向かう。

溜池からの道
「・・・・・二月二十六日午前四時、各隊は既に準備を完了した。
出発せんとするもの、出発前の訓示をするもの、休息をしているもの等、まちまちであるが、
皆一様に落ちついた様の見えるのは事の成功を予告するかの如くであった

・・・・・村中、香田、余等の参加する丹生部隊は、
午前四時二十分出発して、栗原部隊の後尾より、溜池を経て首相官邸の坂を上る

その時俄然、官邸内に数発の銃声をきく。いよいよ始まった。
秋季演習の聯隊対抗の第一遭遇戦のトッ始めの感じだ。
勇敢する、歓喜する、感慨たとへんにものなしだ。
(同志諸君、余の筆ではこの時の感じはとても表し得ない。とに角云ふに云へぬ程面白い。
一度やって見るといい。余はもう一度やりたい。あの快感は恐らく人生至上のものであらふ。)

余が首相官邸の前正門を過ぎるときは早、官邸は完全に同志軍隊によって占領されていた。
・・・・・磯部浅一 行動記 」

 ・
雪の日、神達が首相官邸を目差し 踏みしめたる 路である。
神達と同じく、溜池からの路を登って歩かば
私も
「 官邸内に数発の銃声を聞く 」 ことが、出来るやも知れない。
・・と。
 

そして、遂に
昭和維新の中心、首相官邸・正門に着く
予想はしていたが
正門には警備の警察官が二人立っていた。
その横にも居た。
向うにも居る
官邸内にも一個小隊、居る。

胸裡百万 兵 足りて散るや 万朶の桜花

私は、構わず、正門の中央に立った。
「 なんだ君は ! 」
30歳代の警察官、凄い剣幕であった。
取押えられるかと想った。
「 どこから、来たんだ ! 」
「 2.26事件の関係で、写真を撮りに来ました 」
「 学生か 」
「 いいえ、社会人として働いております 」
こんなこともあらうかと、
会社で作って貰っておいた、身分証明書を警察官に見せた。
「 ここは、2.26事件では、本拠地となった処なので、写真を撮りたいのです 」
「 大阪から、わざわざ、来たんです 」
ここで、ようやく
警察官の厳しい顔が緩んだ。

「 今、山王ホテルへも行って来たところです 」
 「そうか、あそこは、本拠だったからな 」
「 ここからなら、撮って構いませんか 」 

19741124

 

 

 

 

 

 

 

 


警察官の凄い剣幕で怯んでしまった私、挙句の写真が是
是だけで、精一杯であった。
けれど
何故かしらん、正門が開いたまま

「 もしも
私が いきなり
正門を突っ切って官邸内に入らんとしたなら
実現したであらうか・・」

それは、一つの物語り
そういうのも、あったかな・・・とは、後で想うもの
もしも は 夢物語也 である。

政治が混乱した、この年
田中角栄 総理大臣
金脈問題で追及を受け、11月26日・辞任を表明した。
その、前日なのだから
首相官邸の警察官の緊張も至極当然の事なのである。
そんなことも知らなかった 私 
もう・・無鉄砲と謂おうか 暢気と謂おうか
何をか況や である。

首相官邸の尊皇維新軍旗
林八郎少尉 は、
二六日の午後
倉友音吉上等兵を供に、銀座の松坂屋に買物に出かけた
蹶起将校たる白襷をかけ
人々の視線の中、颯爽と店内を歩いた
林少尉は、
晒布、墨汁、筆 を購入し、首相官邸に帰ると
「 尊皇維新軍 」
と、大書した幟を作って、
高々と掲げたのである

・・・リンク→ 林八郎少尉 『 尊皇維新軍と大書した幟 』

昭和
11年2月26日、神達は蹶起したのである。
昭和維新を目指して蹶起した神達、
その面影を、
どうしても訪ねて見たいとの一念が私を駆り立てた。
蹶起から38年後の昭和49年、
二十歳の青年である私は、
独り、
意気揚々と、
昭和維新の地を踏みしめたのである。
山王ホテル 然り
首相官邸 然り
溜池からの道 然り

そこで私は
昭和維新の風を肌で感じ、神達の面影を見た。
・・・
そんな気に為った。 ・・・のである。

・・・リンク→男のロマン 1975

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生涯一の大風景

2021年11月24日 11時54分28秒 | 5 右翼青年 1974年~

昭和49年 ( 1974年 ) 11月25日
大東京は大快晴であった。
昭和維新を訪ねて独り
皇居二重橋から桜田門に向かった。
渡櫓門横に石段がある



上ってはならない との、立札があった。
「 上りたい・・」
「 上って、見たい 」
「 ・・・」
「 上ろう 」

意を決して 上って                 (ノボッテ)
塀超しに見た風景は、素晴らしきものであった。

Photo_2

 

 

 

 


二十歳 にして      (ハタチ)
それは
生涯一の大風景であった

大東京の重々しい空気
冷たく突き刺さる様な空気
神達の存た
警視庁が、内務省が、国会議事堂が、三宅坂台上
私は、そこから
昭和維新を一望したのである
「 なにかやれる 」
「 自分にも、何か大きな事がやれる 」
一生一大の偉業 ・・
そんな気持ちが、込上げてきたのである 
是が 男のロマン と 
そう、感じたのである

2_2

 

 

 

 

 

この日は
三島由紀夫憂国忌が行われた
大東京
東京の大きさを
つくづく、思い知らされた
私である

・・・リンク→男のロマン・生涯一の大風景

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5 右翼青年 昭和49年(1974年)~

2021年08月12日 11時50分38秒 | 5 右翼青年 1974年~

右翼青年
昭和49年(1974年)~
左翼全盛の頃
「君は右翼か」・・・そう言われた
「日本人です」・・・そう応えた

己が心懐の
日本人たるDNAを物語る

目次
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私の DNA
1970年代
「本を読む」・・は、ステータスであった頃
通勤の車内で以て、文庫本を読むのも、日常の事であった
吊皮片手に本を読んでいる者も当りまえの如く居た
「なにも、この朝の忙しい時に・・・」

十九歳の私
「文学少女には成れない」 と、諦めた中学以来
「本を読む」 に、縁遠い存在であった

昭和49年(1974年) 年頭
会社の帰り、先輩に伴い大阪梅田の旭屋書店に立ち寄った
先輩に つられた訳ではないが、書棚に目を遣っていた
そして
並んでいる本の中に、目を引く物を見つけたのである
「天皇制の歴史心理」
それは、偶然の如く か、必然の如く なりしか
私は、「天皇」 と、出遭ったのである

最初の一歩を踏み出した私
以降、勢いついて、止まらない
「自分とは何ぞや」・・・を、発見していったのである
それは、私にとっての 「歴史上の大発見」 と、いうものであった
読みたい、との想いは
必ずや
読みたいもの、と出遭う
そう、実感した私である


男一匹 命をかけて
「静聴せよ、静聴、静聴せい」
「静聴せい、静聴せい」
「静聴せいと言ったら分からんのか、静聴せい」
「おまえら聞けぇ、聞けぇ!」
「静かにせい、静かにせい!」
「話を聞けっ!」
「男一匹が、命をかけて諸君に訴えているんだぞ」
「いいか、いいか」

「それでも武士かぁ!」
「それでも武士かぁ!」 ・・・自衛官からの野次
    
昭和45年(1970年)11月25日
市ヶ谷台上で 天皇陛下万歳を三唱 して
壮絶なる死を遂げた、三島由紀夫の 「死の叫び聲」 である
軍隊とは、武士の集団であろう ・・と
武士なる、自衛隊と信じて 蹶起したのである
であるが・・
もはや、武士の魂 を 抜取られた、時代の申子 自衛隊
「檄」 を、飛ばせど
三島由紀夫の意志など、通じる筈も 無かったのである
されど
三島由紀夫の 飛ばした「檄」は、「死の叫び聲」は
私の中に潜在した 「吾は日本人」 と謂う 意識を喚起した
これぞ
私のDNA なのである

左翼思想全盛の昭和45年(1970年)に於いて
素直に そう 掬び付くことは、稀有な存在 であった
今も尚
吾々のDNA は、凍結されしまま 眠っている
これから日本が、世界の中で生存しようとするなら
凍結されし、吾々のDNA  を、解凍し
吾々のDNA に眠る
武士の魂 を 喚起する
そこれこそ
吾々日本人に求められているもの
と、私は想うのである

二・二六事件と私
昭和40年(1965年)11才                                       
「陸海軍流血史・五一五から二・二六」 との出逢いは、
何かしらん重々しいものを感じたものの、如何せ11才の私、それは幼稚なもの
昭和45年(1970年)16才                                       
市ヶ谷での三島由紀夫の自決は、16才の私の潜在意識を喚起させた
然しそれは、未だ漠然としたもので核心までは至らなかった
そして、
昭和49年(1974年)19才
『自分が日本人である』 という潜在意識の核心を はっきりとを自覚した私
『日本人とは如何』・・・この追究が、二・二六事件の蹶起将校との運命的な出逢いとなった
それは、逢うべくして逢ったのである
蹶起の青年将校こそ、『純真無垢の日本人である』・・そう確信したのである
神達の言動を知るにつき
それらは、私自身の昭和の記憶 として
宛も私自身の実体験の如く蓄積されていったのである

四-1
超国家主義

多感であった19歳の私が、亦、自分を磨かんとして磨いていた私が、これ等と出遭い
憧れを感じる程に、素直に受け入れたのである
これ等は、慾すればこその出逢い、と謂えよう

私は、これ等を 慾するところ慾するが儘に読んだ
そして、私はこれらを精読、浄書することで、私の中に眠るDNAを読み取っていたのである
まさに、どこをどう読むかは、その時点に於ける私自身の資質、素容そのものと謂えようか
しかし、これ等を何故そんなに 憧れたのか
亦、素直に受入れることができたかは、私自身説明できない
それは私のDNAとしか 謂い様がないのである
四-2
一つの写真との出遭い
 ・ 

歴史との出逢い

目的地は直ぐそこ哉、気が逸る・・・・
そして
「ああ・・あった」
一人 声無き歓声を上げた私
「神達と逢いたい」 との、夢が現実のものと成りし瞬間である
やっと、辿り着きし
二・二六事件慰霊像
神達の処刑跡地に建立されし、慰霊像
昭和49年(1974年)8月7日
二十歳の私 昭和維新の神達 と、初めて、直接接点を持ったのである
言い替えらば
歴史 との、記念すべき感動の 出逢い であった



祖父 の 遺伝子

西田 税 の、乃公自作の真理は、52年後の昭和49年(1974年)、19歳の私に届いた
「意を得たり」
これが、私の実感であった
而して 私は
祖父の遺伝子 を、しかと確認したのである



祖父の訓育
昭和49年(1974年)、二十歳の私が出遭ったもの
やるなら拳骨でやるんだ」

正々堂々を信条に、卑怯な真似はするな
此が祖父の訓育・・と、素直に『よし』とし、肝に銘じたのである

何シブイ顔して、歩いてんの!?
若き二十歳
私は眉間を寄せて、街路を歩いた
「何シブイ顔して、歩いてんの !?」  (カッコウ付け過ぎヤヨ)
バス停に向かう途中の路で、〇〇〇が、そう声をかけた
「男がヘラヘラした顔して、歩けるか」
私は、そう云い返した


尊 皇 討 奸
昭和維新の象徴である
神達は是を、合言葉にも使った
二十歳の私 は
どうしても、神達と逢いたい
そう想ったのである
昭和49年(1974年)11月25日
念願の 山王ホテル に、遂に来た
「オオーッ」
  
昭和11年2月26日
あの、尊皇打奸の旗 が、たなびいた、屋上搭屋は当時の姿のままであった
こそ 昭和維新
昭和維新の風を肌で感じた気に為ったのである
 


生涯一の大風景
  
意を決して 上って
塀超しに見た風景は、素晴らしきものであった
二十歳 にして
それは
生涯一の大風景であった
 
十一
覚醒しても尚、覚えている夢
徴兵制が復活した
こともあろうに 私は、最初の出征兵士となったのである
日本国最初の兵士

任期は一年
「最初だから まさかこの1年の間に戦争は起らないだろうし、そのまま満期除隊となるだろう」
 と、たかをくくっていた私は、暢気に構えていた
ところが、戦争が起きてしまった
そしてとうとう、東南アジアに派遣されることと成ったのである

十二
右翼青年

21歳(1975年)昭和50年頃の、友・平野との会話

「ソ連が攻めてきたら、どうする?」
「戦争反対、唱えるしかないな」
「北海道に攻め入ってきて、日本人が殺されているんやで、それでも、戦争反対唱えるのか?」
「俺は戦いに行く」
「勝ち目ないで、ソ連には敵わん」
「日本人が殺されるのを、手を拱いて視とけ、言うのか?、占領されたら、どうするんャ」
「白旗挙げて降伏する、戦ったら死ぬデ、死んだら終わりヤ、死んで、残った家族どうなるんャ
  降伏しても、命までは取らんヤロ」
「ソ連の奴隷になれ言うのかァ」
「死ぬよりましヤデ」
「お前、本当に、そう思っているのか?・・・」
十三
「サークル」

夢とは ロマン のこと
究極の行動とは 殉じる こと
彼等は それを知らない
彼等は、真剣に 「憂国」 を、語り合っていると謂う
軽々しい
憂国 とは 同胞の為に殉じる こと
相当な覚悟をもって、発言すべく事柄であらう
彼等が、そんな覚悟を持っている 筈は無い
十四
あの時はもう帰らない

昭和50年(1975年)11月24日
神達の面影を求めて、一人、大東京へ

霞ヶ関ビル
エレベーターで昇るにつれ、気持ちが昂ぶってゆく
何と、地上150mから、大東京を見渡す
是、素晴らしき風景哉
「オオッー」
「万歳、万歳、万歳」

十五
男のロマン 1975
男のロマン 大東京
二・二六事件 一人歩き

次頁
6 バブルの頃 昭和62年(1986年)~昭和64年(1988年)
に続く
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祖父の訓育

2021年06月23日 07時44分51秒 | 5 右翼青年 1974年~


幼年学校当時のもの

河野寿は明治40年 ( 1907年 )月27日、佐世保で生まれた。

父は海軍少将 河野左金太で剛直質実な人柄で、人一倍忠誠心の強い軍人であった。
寿が小学校四年の春 (8才か9才) 、熊本の碩台小学校に転入した。
通学早々の三日目のことだった。
寿が編入されたクラスに一きわ身体の大きいいかにも強そうな子がいて、
 教室内ではおとなしいのだが、遊び時間になると滅法に傍若無人ぶりを発揮していた。
どこでもあるように、弱い者をいじめてはお山の大将をきめこんでいる。
転校したての寿には、それがまことに苦々しい光景とうつったらしい。
その日の放課後の帰り道、またその子の乱暴がはじまって、弱い子がいじめられている。
寿は我慢できなくなって、その子供との間にわりこんでいった。

「 よせ ! 」
寿が大きな声で一括したのに、一たんはおどろいたその子も、
それが新入の寿であることを知って、にわかに強気になった。
帰りがけの子供がパラパラと駆けよって、
三人をとりかこむ中で、その餓鬼大将は、
自分より身体も小さく未だ勝手もわかっていない新入生がなぜ自分に抗争をいどむのか
理解できないふうににらみかえしながら、
「 何だ、生意気な 」
と履いていた下駄をすばやく片手握って戦闘姿勢をしめした。
寿は顔面を蒼白にしながら、
「 君、可哀想じゃないか。弱い者いじめはやめ給え 」 と言ったが
「 ドサを使うて何かッ。喰わすっぞ 」 といきなり下駄を振り上げた。
ドサは東京弁の意味で、喰わすっぞとは殴るぞという熊本弁である。
寿の東京言葉は、その子の反感をさらにつのらせたのだろう。
振り上げた下駄が寿の横面に鳴った。
寿は一歩後退すると、
肩からかけた鞄をはずし、そこにさしてあった竹の物差をとって、
ふたたび襲いかかる下駄をはらいのけた。
そして、そのまま竹の物差で相手の眉間をピシャリと打ったのである。
額に手をあてて退るその子の顔に赤い血が走った。
その日の夕方、学校の受持訓導から父へ、学校へ出頭するようにと使いが来た。
学校で一部始終を聞いて帰った父は、座敷に坐ると寿を呼んだ。
どんなに叱られるかと、寿はおずおず父の前に正座した。

「 今日のおまえのしたことを、お父さんは叱るつもりはない。 しかし物差でやったのは悪い。」
父の訓戒はそれだけだった。

そして、それが父だった。

・・私の二・二六事件 河野司 著から リンク→ 河野壽 ・ 父の訓育 「 飛びついて殺せ 」 

昭和49年(1974年)、二十歳の私が出遭ったもの
「 やるなら拳骨でやるんだ 」

正々堂々を信条に、卑怯な真似はするな
此が祖父の訓育・・と、
67年後の私も亦素直に 『 諒 』 とした
肝に銘じたのである
 

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二・二六事件と私

2021年06月04日 10時25分28秒 | 5 右翼青年 1974年~

昭和40年(1965年)11才                                       
「陸海軍流血史・五一五から二・二六」 との出逢いは、
何かしらん重々しいものを感じた。 ・・・リンク→話せば分る・・問答無用
昭和45年(1970年)16才                                       
市ヶ谷での三島由紀夫の自決は、16才の私の潜在意識を喚起させた
然しそれは、未だ漠然としたもので核心までは至らなかった。 ・・・リンク→憂 国
そして、
昭和49年(1974年)19才
『吾は日本人である』 ・・・此が潜在意識の核心であった。
そして、『日本人とは如何』 ・・・この追究の過程に於いて 昭和維新に殉じた人達を知った。
それは、運命的な出逢い。
まさしく、逢うべくして逢ったのである。
そして 彼らこそ、『 日本人である 』 ・・ そう確信したのである。 ・・・リンク→男のロマン 1975

私は 斯の人達の言動を知るにつき、
それらは、
私自身の 「 昭和の記憶 」 として

宛も私自身の実体験の如く蓄積されていった。

・・・リンク  クリック すると、頁が開く)
昭和 ・ 私の記憶 『 二・二六事件 』 
憲兵大尉 大谷啓二郎の 『 二 ・二六事件 』
三島由紀夫二 ・二六事件と私

磯部浅一・安藤輝三・西田税の写真
昭和50年 ( 1975年 ) から、今も尚 私の懐中に存する

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歴史との出逢い

2017年08月12日 15時31分55秒 | 5 右翼青年 1974年~


茨城 ・東海村の浜は
波が高く、遊泳禁止

千葉 ・九十九里の浜も波が高かった。
さすがに太平洋である。
打寄せる波の所為か、人影も疎らであった。
稀に来る大波、その反す波は、沖まで一機に引くと謂う。

「 都会もんは、沖に流されまいと、岸に戻ろうとする 」
「 だから、反す波に 負けて溺れてしまう 」
「 そういう時は、逆わらずに沖に出て、じっと しとったらええのに 」
地元の漁師が、そう呟いた。

 8/4 水戸 偕楽園
昭和49年 ( 1974年 ) 8月3日 ~ 7日の 4泊5日
高校の同窓4人 ( 3人は電気科卒 ) で、夏の旅行をした。
東海村原子力発電所~水戸偕楽園~九十九里浜~渋谷・銀座 の、スケジュールであった。

8月7日の最終日は、私の希望する 「 渋谷 」 に行く
それは、私の要望であった。

東京駅で下車すると、吾々は皇居へ向かった。
昭和44年 ・中学の修学旅行以来の皇居 ・二重橋である。 

歩くと、腹が減った。
丸之内、立派な建物ばかりである。
けれども、 食事する処が、分からない
東京駅なら、レストランがあるだろうと、一旦 駅へ戻る も
田舎者の吾々
東京駅構内 探せど レストランが見つからなかったのである。
「 大阪なら、食べるところ、何処でもあるのに 」
「 東京のもん、どこで 飯し 食うとんやろ 」
「 喫茶店も無いなぁ 」
 右端のドームに食堂を見つけた。

しかし
中に入ると、「 美味いもん 」 などとは、ほど遠い雰囲気であった。
嫌な予感がした。
吾々は、「 焼き飯し 」 を注文した・・・が
やっぱり 不味かった。
「 これで、金 とるんか!」
悪いとは、想ったが
吾々全員 最後まで食べることが出来なかったのである。

でも、悪いことばかりでも無かった。
ウェートレスの女性の初めて聞く、シャキシャキした歯切れ良い言葉づかい
それは、私には新鮮で心地良かった。
「 江戸っ子の気立ての良い女 」
・・・
彼女みたいな女を、謂うのであらう。
「 掃き溜めに鶴 」
・・・とは、旨く謂ったものである。
聞けば、高校生だと云う
焼き飯し 」 は不味かったけれど
美人で しかも、気立ての良い女 と、遭えた為らば
想い出では、一つである。

旅先での食事は それはもう 不味かった。
殊に、九十九里浜の、
真っ黒い汁のうどん は
生涯の想い出 に成った。

「 大阪は 美味い 」
・・・
つくづく、
そう想った吾々であった。

ちなみに、
銀座の喫茶店では、「レーコ」 「コールコーヒー」 
・・・通じなかった。

私は、ウェートレスの彼女に、渋谷までの道順を尋ねた。
地図上の位置は しっかり把握しているものの
皇居を中心に周っている東京の路線は、複雑であった。
何せ、東京は初めて
しかも、「 渋谷を目指す 」 は私だけ、他は 伴の者である。
頼りにしては為らない
彼女は親切に 教えて呉れた・・・のだけれど
せっかくの親切を無駄にした。
彼女の言う、
「 駅を出て直ぐの地下鉄の階段 」 を、降りなかったのである。
路線を乗り継いで、皆を引率して行くには、どうしても自身が持てなかった。
不安であったのだ。
結局のところ
駅を出て直ぐに居た、タクシーに乗ったのである。
「 許されたし 」 ・・・と 

「 渋谷区役所へ 」
「 シブヤ・・ 」
「 このタクシー大丈夫かな ・・・」
「 NHKホールの前 」
そう言い替えすと、タクシーは出発したのである。 

タクシーはNHKホール前交叉点に着いた。
目の前に大勢の若者が居て、それは、祭りの如く賑やかであった。
然し、肝心要の渋谷区役所が判らない。
斯の道路向にパラソルの露店をみつけた。
売り子に尋ねてみようと、( わざわざ ) 道路を渡ったのである。

「渋 谷区役所は何処ですか?」

「後ろですよ」

「後ろ?」

なんと 私は 渋谷区役所を背負っていたのである。

私の脳裡には、目的の位置は、しっかり焼付いている。
渋谷区役所の隣りが 渋谷公会堂、
更に渋谷税務署と続く

渋谷公会堂での、有名歌手のコンサートに由り、若者が集まっていたのである。

目的地は直ぐそこ哉、気が逸る・・・・
そして
「 ああ・・あった 」
一人 声無き歓声を上げた私
「 神達と逢いたい 」
・・・との、
夢が現実のものと成りし瞬間である。

やっと、辿り着きし
二・二六事件慰霊像
神達の処刑跡地に建立されし、慰霊像
昭和49年 ( 1974年 ) 8月7日
二十歳の私
昭和維新の神達 と、初めて
直接接点を持ったのである
言い替えらば
歴史 との、記念すべき感動の 出逢い であった。
・・・リンク→男のロマン 1975
22602

 

 

 

 

 

 

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祖父 の 遺伝子

2016年06月02日 04時22分11秒 | 5 右翼青年 1974年~

男と女

「女は恋するものである。そして男は恋せられるものである」

これが自然らしい

近ごろ女権尊重の声が高くなり、また女そのものが威張りだしてから
・・・・男も次第に移ってかえって女のようになった奴が多いが
・・・・この標語がヒックリ帰るようになった。

これが男女間のすべての問題を紛糾させる根本原因である。

女は依頼すべく男はせらるるものである。

そして女が依頼せんとするものにその全き愛を捧ぐるのに対し、
男は全力をあげてこれを庇護してやるということが
必要でありかつ十分なことである。

男女同権はあり得ない。

ここに男女を混同する理由は一つもない
・・・・ただただ同じきはその愛情のみだろう

今日のようにこんがらがってはいけない、国家は保たない。

見給え、かかあ天下の家や国が保てた例しなしだ。

男は社会的である。ここに活動の基礎がある。

これが家庭的な内的女と化し去った日にはどうじゃ?

日本の現実はこの誹りを免れ得まい。

男性的な、いかにも英傑らしい、
天下国家でも負って起とうという風な意気な男は女から好かれる。

一心をぶち込むような恋を投げかけられる、・・・・女もまたそうなくてはならぬ。

これが真の男たる本領である。

  ※ 意気と粋とは大分違う 諸君誤るなかれ

女のように装ってめかしてそして女に惚れられよう
・・・・とかいう男や、またこんな男ばかりを狙っている女など、こ
れじゃ現在の国家社会を滅ぼすのみならず全くろくな子孫ができやしない、・
・・・日本をよくよく御覧じろ。

性じゃ愛じゃ、それ心中じゃ何じゃと騒ぎ回っている、若い男女の群れ
・・・・にはそのほかのことは頭にはいらない、
ひどいのになると弄びものにしている手輩もあるらしい、博士もある、・・・・性欲博士が。

またひどいのは「社交です、運動です」とぬかしくさって、
夜明けまで異性相抱擁してお互いに臭い肉体を嗅ぎまわし捻りまわして
おどり狂ういわゆる若い紳士淑女がある。

もうこのくらいまでゆくと恋愛の神聖もない、男性的もなければ女性的もない。

これが男女相抱擁して滅亡するというものじゃ。
いやこれで国家が心中の憂目に逢うというものじゃ。

大きな拳骨でもお見舞い申そうか。

「男は恋せられるべく女は恋すべきものである

・・・・・ただしこれは乃公自作の真理でござる。

あまり世の中が騒々しいからちょっと御紹介申し上げます。

・・・夢眼私論 西田 税 超国家主義 現代日本思想体系31 から

夢眼私論
青年将校運動の指導者 西田税が、大正11年 ( 1922年 ) 春、
21歳の青年期、病床で記した感想録である。

 

西田 税 の、乃公自作の真理 
は、52年後の 昭和49年 ( 1974
年 )、19歳の私に届いた
「 意を得たり 」
これが、私の実感であった
而して 私は
祖父の遺伝子 を、しかと確認したのである

青年・二十歳の私
自分は、かくなる人間なりと
「 女は 飯を炊け 」
初対面の女性には、必ずそう云ってのけた。
その反応をして、相手を観る指標にしていた。
果たして、誰もが皆
私の予想したとおりの、反応だったのである。

時代は進化する
しかし、明治武士の気概・心意気を ロマンとして懐き続ける 私
今もなお、この認識は変わらない
変わらないことが 私のロマン でもある

そして
夫婦は恩愛あって相離れず
男女は差別あって相乱れず
これが
二十歳の私が 肝に銘じた 真理 なのである 


19歳の私
「 祖父の想い 」 として、これをを継承しようと誓った。
継承する とは、何を以て謂うのであらうか
19歳の誓い は、果せなかった。
吾が想いのみに留まり、後継者を持てなかったこと
私の人生に於いて、痛恨の極みである
残気に堪えない

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何シブイ顔して、歩いてんの!?

2016年05月31日 05時45分36秒 | 5 右翼青年 1974年~


♪ 

生まれた時が悪いのか
それとも俺が悪いのか
何もしないで生きて行けたら
それは たやすい事だけれど
天知茂の 「 昭和ブルース 」
TVドラマ、「非情のライセンス」
の、エンディング曲である
・・・天知茂
眉間を寄せた顔はニヒルであった


若き二十歳

私は眉間を寄せて、街路を歩いた。  (マチ)

「 何シブイ顔して、歩いてんの ! ? 」  (カッコウ付け過ぎヤヨ)
バス停に向かう途中の路で、
〇〇〇が、そう声をかけた。

「 男がヘラヘラした顔して、歩けるか 」
私は、そう云い返した。

         
三島由紀夫に倣え・・と
二十歳の私が精読したものである
・・・リンク→ 私の DNA
・・・リンク→
などてすめろぎは人間となりたまいし
・・・リンク→ 最後に守るべきもの

「 カッコウをつけていた 」 ・・・と、いう事
一生懸命、精一杯
自分を、頑張っていたのである

昭和50年 ( 1975年 ) 1月15日、成人の日
念願の一眼レフカメラ・OM1で、
いの一番 に撮ったは 母校、都島工業高校
それが、自分の成人式に相応しいと思った。

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一つの写真との出遭い

2016年05月21日 19時59分24秒 | 5 右翼青年 1974年~

私が小学四、五年生の頃、  ( 昭和39、40年 (1964、1965年)  )
「 戦前の日本には 『 国士 』 が存た 」
そう、聞かされた。
私は、親父が謂う 『 国士 』 という響きに、
なにかしらん
ロマン・・と謂うものを、感じ取ったのである。

昭和5年 ( 1930年 ) 
東京駅で浜口雄幸首相を襲撃した
佐郷屋留雄

昭和50年 ( 1975年 )、
私は、斯の写真と出遭った。
偶々は、逢うべくして 遇った と、同じ意
少年の頃、親父から聞きたる  『 国士 』 とは、
此を謂うのであらうや ・・・と、そう想った。
そして、
『 日本人の面構えは斯くの如き 』
・・・と、そう感じたのである。
然し、
その理由は、説明できない

そして更に
 
西田税 
斯の写真との出遭いは衝撃であった
これぞ
日本人
私の理想とする、日本人の面構え ・・哉
それは真まさに、『 国士 』
・・・と、そう確信したのである
私は 斯の写真に
私のDNAの中に存する、
『 国士 』 への憧憬をみたのである

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覚醒しても尚、覚えている夢

2016年05月12日 20時04分47秒 | 5 右翼青年 1974年~

私は毎日、夢を見る
夢を見ない日が、無い
途切れない記憶は、中学一年の頃まで遡る
昭和42年 ・1967年から、もう半世紀見続けている事になる。

1975年2月に見た夢
徴兵制が復活した。
こともあろうに
私は、最初の出征兵士となったのである。
日本国最初の兵士
任期は一年
「 最初だから まさかこの1年の間に戦争は起らないだろうし、そのまま満期除隊となるだろう 」
・・・
と、たかをくくっていた私は、暢気に構えていた。

ところが、戦争が起きてしまった。
そしてとうとう、
東南アジアに派遣されることと成ったのである。
出発に先立ち、
現地の状況を8ミリフィルム映像で見ると多くの兵が死んでいた。
驚いたのは、多くの兵士が泣いているのだ。
大のおとなが、
子供の様に 泣きじゃくっている。
恐怖からなのか ・・・
その、異様な光景に何とも言えぬ恐怖を感じたのである。

私は、不安でならなかった。
死ぬんだ
戦いに行きたくない
しかし、逃げることも出来ない
どうしやう ・・・

ジャングルでは、既に戦闘が始まっている。
否応も無く、吾々は戦地に赴いたのである。
恐怖の中、
最初に敵を発見したのは私であった。

皆は、それぞれ散らばり、敵に立ち向かった。

敵が自動小銃で撃ちながら近づいて来る。

私の小機銃は、引きがねを、ひいても、ひいても、弾が出ない。

どうしたというのか

敵は近づいて来る

焦るも、弾は出ない

・・・殺ラレル

もう駄目か・・・と、堪念したが

不思議なことに、敵の弾が私にあたらないのだ。


隣に居た兵士 ・平野 ( 中学の同級生 ) が、
拳銃で敵を撃ち、
間一髪難を逃れたのである。
敵が倒れた・・目の前で平野がとどめを刺す。

平野が言った。
「 安全装置を外せ 」

弾が出なかったわけである。
安全装置を外すと、暴発したかのごとく弾が飛び出した。
列縦隊で次々と襲ってくる敵を、一瞬のもとに私独りで殺ってしまったのだ。

戦闘が終わり帰営する。
味方は3人死んだ。
その中の一人に 「 足 立 」 がいた。
・・・と。

覚醒すると
夢ん中で見たものは、ドンドン消えて行ってしまう ・・・けれど
こうして、完全に消えないものもある。

戦地に赴く前の、どうしょうもない不安、死に対する恐怖
逃げたくとも従うしかないとの絶望感
然し、これら全てを
戦闘中の死にものぐるいの境地は、超越するのである。
戦い終えて戦友の死に、何とも言えぬ切なさ、空しさ、悲しみが込上げる
然し、それよりも なによりも
自分は生存ているという、安堵感が勝るのである。      
(イキテイルトイウ、アンドカンガマサル)

夢ん中のこれらの想い
覚醒しても尚、忘れない。

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嗚呼 あの時はもう帰らない

2016年03月19日 22時45分34秒 | 5 右翼青年 1974年~



いつかきた道  あの街かどに
ひとり求める 想い出いずこ
ああ  一度だけ  恋して燃えた
ああ  あの時はもう帰らない
かなうはずない  虚しい祈り
さすらい歩く  悲しみの街
「 面影 」
・・TBS系テレビ映画・Gメン75の主題歌

「 面影 」
聞かば、益々想いが募る
昭和50年 ( 1975年 ) 11月24日 (日)
神達の面影を求めて、大東京一人歩き

「 元気、元気、元気 」
日比谷公園に向かう、歩道橋の階段を、2段づつ駆け上がる。
「 元気、元気 」 ・・・そう言いながら

大東京一人歩き
内務省 ( 当時自治省 ) 交差点へ着いたが、
感激の坩堝の中で
フィルムが切れてしまった。
( 想定より、撮り過ぎたのである )

日曜日である
休日ならずとも、こんな処に、フィルムを売る店など在ろう筈もない
「 どうしやふ 」
咄嗟に閃いたのが、日比谷公園の売店
想い・・通りであった。
果して、フジカラー 36枚撮りフィルムを2本、購入したのである。
霞ヶ関・永田町、人通りは無い
天気は良い
思う存分、夢中に、撮影したのである。
「 神達のあの日と同じ 」 ・・・と、感激しながら


内務省交差点  11.2.26 / 50.11.24

「 なんや、交差点の写真ばっかりやナ 」
・・・
と、後で事務所の先輩 ・東さんに冷やかされたが
私は、その、 『 交差点 』 が、目的であったのである。

大真面目、
其処には、
男のロマン  が在る、と、信じていた。
・・・のである。

・・・リンク→男のロマン 1975

霞ヶ関ビルの展望室 ( 36階 ・最上階 ) から眺望
東面の窓に 皇居の撮影は、「 禁止 」 と 掲示されていた。
そこで、
素直で正直な私は気が惹けながらも、
東・南コーナーの南面窓から、皇居を撮ったのである。


霞ヶ関ビルの展望室

36階に上がるエレベーターで、
九州から来たという、
一家3代の家族連れと一緒になった。
その中の坊主頭の中学生、
嬉しそうに笑みを浮かべ、
「 
東京タワーを見てきた 」
・・・と、言った。

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晒を巻いて

2015年03月25日 15時19分17秒 | 5 右翼青年 1974年~


昭和49年 ( 1974年 ) 5月25日
我が赤崎建築事務所では、
江戸時代豪商の町 ・奈良の今井町見学会を行った。
ある お寺では その住職から、
今井町の歴史、建築物、町並の特色等々について説明を受けた。

此写真は、
その直後撮ったもの。( もちろんのこと、斯様な処で撮ったのは私一人 )
ボタンダウンのカッターシャツの下には晒を巻いている。

究極の行動とは
殉じる こと
憂国とは
同胞の為に殉じる こと 
 ・・・サークル」

19歳の私、
「 死ぬときは割腹して はてたい 」
そんなことを考えていたのである。


筑摩書房  橋川文三 編集 解説
現代日本思想体系 31
超国家主義
行動  遺書と辞世歌  影山庄平 ほか

大東塾の塾生十四人が集団自決を決行したのは、
昭和二十年八月二十五日午前三時頃、
マッカーサー元帥が厚木に着陸する五日前のことであった。
自決は当時の代々木練兵場の通称十九本欅と呼ばれる木立の辺で行われ、
割腹の自刃であった。
十四人のうち介錯者二名も終了直後に自刃した。
・・・
「 道の峻厳なる、随神かんながらの厳粛なる神はかかる陋劣を許し給わず、
最も悲惨の極に至りたる正に神国として当然 」
として、国内革新なき外征がこの挫折をとげたのは当然のこと。
斯の自決は、
神意奉行において至らなかった自らの罪穢けがれをみそぎによって潔め、
神々への復奏かえりごととしてとり行われた。
しかもそれは、それ自体が神道の信仰儀礼として、ごく自然におこなわれた。
こうした信仰上の自決という異常な行動形態は、
おそらくはとおく 神風連の行動を最後として、
その後いわゆる国家主義運動の中にはほとんど見出しえないものであろう。
二 ・二六青年将校の場合には、「 戦闘綱要おける独断専行の論理によって、
天皇の意志を先取するという合理化が認められるが、
大東塾の場合には、その神典 ・古典 ・歌学の研修による影響が大きく、
より正統な信仰的形態に近いという印象である。
・・・解説から
  
・・・リンク→ 昭和20年8月15日・殉国 『 無窮に皇城を守らむ 』 

昭和20年8月25日午前3時頃、
「 清く捧ぐる吾等十四柱の皇魂誓って無窮に皇城を守らむ」
そう遺書して自決した斯の人達。
29年後の
昭和49年 ( 1974年 ) 4月2日、
19歳の私は、斯の人達と出逢い斯の人達を知った。
そして、斯の人達を
 『 
これぞ国士 そして殉国者なり 
と、そう想った。

三島由紀夫の自刃然り  ・・・リンク→憂 国
「 死の叫び声 」 朝日平吾の自刃然り  ・・・リンク→超国家主義
私が素直に斯の人達の思想、行動を受け容れた因は、
私の中に潜在していた日本人として魂が、
斯の人達と同一の魂だったのである。
・・・・と、そう想う。

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超国家主義 『吾人は人間であると共に、真正の日本人たるを臨む』

2015年03月23日 06時09分48秒 | 5 右翼青年 1974年~


現代日本思想体系 31 編集・解説 橋川文三 筑摩書房

超国家主義 
昭和49年4月2日 大阪旭屋書店にて購入した書籍である

そして、死の叫び声/朝日平吾 
無眼私論/西田税 
日本愛国革新本義/橘孝三郎
これ等は、その中に編集されていたものである
 ・
多感であった19歳の私が、
亦、自分を磨かんとして磨いていた私が、これ等と出遭い
憧れを感じる程に素直に受け入れたのである

まさに これ等は、慾すればこそゆえの出逢い、と謂えよう
だから私は、これ等を 慾するところ慾するが儘に読んだ

そして、私はこれらを精読、浄書することで、私の中に眠るDNAを読み取っていたのである
まさに、どこをどう読むかは、
その時点に於ける私自身の資質、素容そのものと謂えようか

しかし、これ等を何故そんなに 憧れたのか
亦、素直に受入れることができたかは、私自身説明できない
それは私のDNAとしか 謂い様がないのである

斬姦状
奸富安田善次郎 巨富ヲ作ストイエドモ富豪ノ責任ハタサズ、
國家社會ヲ無視シ 貪欲卑吝ニシテ民衆の怨府タルヤ久シ。
予 ソノ頑迷ヲ愍ミ 仏心慈言ヲモッテ訓ウルトイエドモ改悟セズ。
ヨッテ天誅ヲ加エ世ノ警メトナス。
大正十年九月
神州義團々長 朝日平吾

死の叫び聲
日本臣民ハ朕ガ赤子ナリ
臣民中一名タリトモ ソノ堵ニ安ンゼザル者アレバ コソコレ朕ノ罪ナリ・・・・・・
トハ 先帝陛下ノオ仰セナリ。
歴代天皇モコノ 大御心ヲモッテ國ヲ統ベサセタマイ、
今生陛下モ等シク コレヲ體シタモウモノニシテ、
一視同仁 ハ 實ニ ワガ神國ノ大精神タリ。
サレド 君側ノ奸 陛下ノ御徳ヲ覆イ奉リ、
自派權力ノ伸張ヲ計ルタメ 各々閥ヲ構エ党ヲ作シ
コレガ軍資ヲ得ンタメ 奸 富ト賊誼ヲ結ビ、
奸富ハ利權ヲ占メンタメコレニ應ジ、ソノ結果ハ理由ナキ差別トナリ、
上ニ厚ク下ニ薄ク 貧シキ者 正シキ者 弱キ者ヲ脅シ 窘虐スルニ至ル。
コレハ歴代ノ内閣スベテ然ラザルナク、
元老ソノ範ヲ示シ政界ノ巨星等シクコレガ元凶タリ。

元老範ヲ垂レ、元凶政事ヲナス。
スナワチ知ル可シ、
藤田ハ伊藤博文ノ命ニヨリ紙幣ヲ僞造シテ男爵トナリ、
大倉ハ石塊ノ鑵詰ヲ納入シ得タル不淨財ノ一部ヲ献金シテ男爵トナリ、
山本權兵衛ハ軍艦ヲナメ、シーメンスヲ演ジテ巨財ヲ作リ、
大隈、山県、ソノ他老星ノ豪奢ハ在閣當時ノ惡徳ニアリ。
憲政會ニハ岩崎控エ、政友會ハ満鐵ト阿片トニテ軍資ヲ調達シ、
ソノ他ノ政治家顯官コトゴトク奸富ト通ジ私利ニ汲々タリ。
シカシテ コレアリテ 
濁富ヲ得シ者ニ三井・岩崎・大倉・淺野・近藤・安田・古河・鈴木ノ巨富アリ、
ソノ他ノ富豪ミナ然ラザルナシ。

上流ノ混濁ソレカクノゴトシ、何ゾ下流ノ清澄ナルヲ得シヤ。
宝塚事件ノゴトキ、
鐵道省小役人ノ瀆職事件ノゴトキ、
税務吏ノ収賄ノゴトキ、
東京市ノ疑獄事件ノゴトキ、
ソノ他 會社重役ノ背任ノ責任横領ノゴトキハ
皆上流階級ノ惡感化ノタメ世ヲ擧ゲテ道徳観念ノ消滅セル證 左ニシテ、
マサニ正ニ正義ハ亡ビ 愛國心ハ消え失セントスルニ至ル。
コノ秋ニ当リ 危イカナ、ワガ國體ト相容レザル惡思想大擧シテ來リ。
彼ラ特權者ノタメ永年虐遇脅迫セラレシ貧者ノ深刻ナル怨恨心ヲ煽動シ、
冷カナル笑ト怨メシ氣ナル眼ハマサニ凶暴ト殺氣トヲ表シ、
自暴ノ極ハ國家ヲ願ミズ、聖慮ヲモ輕視センズ傾嚮ヲ醸成シツツアリ。
アアソレ イヨイヨ高ク イヨイヨ厚キ大御心ハ
一部ノ權力者ニ壟断セラレ、
慈心渉ラズ恩澤局限スルノ奇現象ヲ呈セシメシハソモソモ誰ガ罪ゾ・・・・・・
過労ト 不潔ト 榮養不良ノタメ 肺病トナル赤子アリ。
夫ニ死ナレ 愛児ヲ育ツルタメ 淫売トナル赤子アリ。
戰時ノミ國家ノ干城トオダテ上ゲラレ、
負傷シテ不具者トナレバ 乞食ニ等シキ薬賣リヲスル赤子アリ。
イカナル炎天ニモ雨風ニモ右ニ左ニト叫ビテ 四辻ニ立チスクム赤子アリ。
食エヌツラサニ微罪ヲ犯シテ極理ニ苦悩スル赤子アリ。
コレニ反シ大罪ヲ犯スモ法律ヲ左右シテ免レ得ル顯官アリ。
高等官ヤ貴族ヤ顕官ノ病死ハ三段抜キノ記事ヲモッテ表彰サレ、
國家交通工事ノタメ惨死セシ鐵道工夫ノ名誉ノ死ハ呼ビ捨テニテ報道サル。
社會ノ木鐸ナリト自稱スル新聞雑誌ハオオムネ富者ノ援助ニヨルガ故ニ眞個ノ木鐸タルナク、
吾人ノ祖先ヲ戰死セシメ兵火ニカケシ大名ハ華族ニ列セラレテ遊惰淫逸シ、
吾人ノ兄弟ラノ戰死ニヨリテ將軍トナリシ官吏ハ
自己一名ノ功ナレガゴトキ傲然トシテ忠君愛國ヲ切賣リトナス。
マコトニ思エ 彼ラ新華族ハ
吾人ノ血ヲススリシ仇敵ニシテ
大名華族ハワレラノ祖先ノ生命ヲ奪イシ仇敵ナルヲ。

吾人ハ人間デアルト共ニ 眞正ノ日本人タルヲ臨ム
眞正ノ日本人ハ陛下ノ赤子タリ、
分身タルノ榮誉ト幸福トヲ保有シ得ル權利アリ。
シカモ コレナクシテ
名ノミ赤子ナリトオダテラレ、干城ナリト欺カル。
スナワチ
生キナガラノ亡者ナリ、
ムシロ死スルヲ望マザルヲ得ズ。

ワレラノ實存ハ祖先ノ實存ニシテ 
ワレラノ血液ハ祖先の血液ナリ。
然シテ ワレラノ實存ハ子孫ノ實存ヲ實證シ、
ワレラノ血液ハ子孫ノ血液ソノ物ナリ。
故ニ ワレラノ生ソノモノハ直チニ子孫ノ生ニシテ、
ワレラガ生レシ日本國ハ子孫ノ永遠ニ生キ可キ地ナリ。
然シテ ワレラハ ワレラノ生ヲ確保シ子孫ノ永續ヲ希ウ、
天賊ノ要求ヲ充スタメ日本國ノ隆昌ナランコトヲ希ウモノナリ。
日本國ノ隆昌ハ七千萬國民ノ眞ノ和合ト協力ニヨラザルベカラズ、
眞ノ和合ト協力ヲ計ルニハ一視同仁ノ善政ヲ布キ、
眞正ノ日本人タル恩澤ヲ差別ナク欲セシメザルベカラズ。
シカルニ 前述ノゴトキ現下ノ社會組織ハ 
國家生活ノ根元タル陛下ト臣民トヲ隔離スルノ甚ダシキモノニシテ、
君民一體ノ聖慮ヲ冒瀆シ奉ルモノナリ。
シカシテ コレガ下手人ハ 
現在ノ元老ナリ、
政治家ナリ、
華族ナリ、
顯官ナリ。
サラニ 
カクノゴトキ下手人ニ油ヲ注ギ糧ヲ給スル者ハ
實ニ現在ノ大富豪ナリ。
從ッテ 
君側ノ奸ヲ靜メ 
奸富ヲ誅スルハ
日本國隆昌ノタメノ手段ニシテ

國民大多數ノ幸福ナル
ト共ニ
眞正の日本人タル ワレラ當然ノ要求ナリ、
權利ナリ。

吾ラ十年來造次ニモコノコトヲ忘レズ、
ツブサニ肺肝ヲ砕キ家ヲ捨テ親ヲ忘レ 
東ニ西ニ孤獨流轉シ、スデニ數百名ノ盟友ヲ得タリ。
サレド吾人ハ、論議ノ価値ナキヲ知ルガ故ニ
敢エテ言ワズ、叫バズ、動カズ、組マズ、
黙々ノウチニ胆ヲ練リ 機ヲ窺イテ悠々自適セリ

カノ 何ラ實行ノ眞劍味ナキ無政府主義者ト唱シ 共産主義者ト唱スル輩トハ
ソノ根底ニオイテ全然相容レザルガ故ニ、彼ラノゴトク妄セズ論ゼザルノミ。
サラニマタマタ吾人ト共鳴シ得ル國家社会主義者ノ一團アルヲ知ルモ、
コレトテタダ無用ノ論議ヲナスノミニテ
直チニ血ヲススリ肉ヲケズリ合ウニ足ルモノニアラザルヲ知ルガ故ニ、
近ヅカズ計ラザルナリ。

昨夏予ガ組織セシ平民青年党ノゴトキ、
今春計畫セシ神洲義團ノゴトキハ 實ニコレガ實行機關タラシムル眞意ナリシモ、
軍資貧乏ニシテ維持スル能ワズ、
シカモ予ノ盟友タリ配下タル者ハスベテ白面の若輩ニシテ、
スベテノ計畫モ資金調達モ予ノ苦策ニヨラズンバ立案スリヲ得ザリシナリ。
スデニシテ再度ノ計畫ナラザリシニヨリ、表面社會事業を標榜シ、
仇敵タル富豪ニ出資セシメ
徐々ニ一味ノ結束ヲナス目的ヲモッテ 「勞働ホテル」 ノ建設ヲ畫策シ、
澁澤子爵ヲ動カシ資金調達ニ半蔵ノ努力ヲナセシモ、
自己ノ利益以外ニハ何ラノ國家観念モ社會的責任モナキ彼ラ奸富ハ事業ノ良否、
効果ノ有無、經營者ノ當否等ヲ按ジテ出資スルニアラズ。
故ニ從來十萬圓ノ出資ヲ
五十萬、百萬ニシテ回収シ得ル準備行爲トシテハ男ラシク出資スルモノニシテ、
官憲ヨリノ勧誘カ、ソノ他政權ヲ握リ得ベキ政治家ノ勧誘ニハ應ジ、
シカモ表面社會奉仕ノ美名ヲ賣リ集愚ヲ眩惑スルモノニシテ、
予ガ心血ヲ注イデノ奔走モツイニ奔命ニ勞スルニ過ギザリキ。
予 ココニオイテ軍資ヲ得ルノ絶望ニシテ、ワガ徒ノ共同動作ノ難事ナルヲ知リ、
サラニ 君側ノ奸ヲ養ウ彼ラ奸富ノ代表的人物一二ヲ誅シ、
シカモナオ反省シ悔悟セザルニオイテハ、
予ノ残党ヲシテ決行セシムルノ遅キニアラザルコトヲ悟ル。

幸イニシテ予ノ行爲効ヲ奏シ、富豪顕官貴族等ガ悔悟シ改悛セバ 
スナワチ予ノ盟友モ配下モ沈黙スベク、
未知ノ共鳴者モ騒ガザルベク、社会一般モ平穏ナルヲ得ベキモ、
シカラザルニオイテハ随所ニ暗殺行ナワレ刺客出没シ
富豪モ貴族モ元老モコレガ番犬タル政治家モ、
コトゴトク自刃と爆彈トノ洗礼ヲ受クベキモノト知レ。

予ノ配下ハ未ダ二十歳ニ満タザレノ年少者ノミニテ、
今日ノ有識青年ノゴトク打算的ナラズ、
小才子ナラズ、
ソノ特徴ハ愚直ナルニアリ、
不言實行ニアリ、
猪突ナルニアリ、
スベテ名利ニヨッテ起ツニアラズ、
信念ニ立ツガ故ニ強クシテ黙々タリ。
望ムトコロハ瓦全ニアラズ玉砕ニアリ。
期スルトコロハ決死的眞實ニアリ。
天下ノ事スベテ博徒ナリトノ人生観ト、
病死スルヨリモ奸物ヲ誅シテ死スハ男子ノ本懐ナリトノ氣位トヲ強ク鼓吹シ置ケリ。
シカノミナラズ 親ナク 家ナク 教養ナキガ故ニ、
世ヲ呪ウノ眼ト反貴族ノ深怨トヲ有セリ。
愚ナルガ故ニ頼母シク沈ンデ強シ。
コレラ不学薄幸ノ徒ヲ鞏要セシハ
スナワチ 現今ノ輕薄ナル學生ラノツイニ語ルニ足ラザルヲ實験セシ結果ニシテ、
朝三暮四名論卓説ノ販売ヲナス、
カノ青年政客ト稱スル猪小才子ノゴトキ、
アルイハ 労働者ヲ喰物トセル勞働ブローカーノゴトキハ
共ニ倶ニ気ノ抜ケタビールニ等シ。
サレバ 予ハ最初ノ皮切リトシテ模範トシテ一奸物ヲ誅シ、
ミズカラモ自刃ストイエドモ、
予ノ思想ヲ體シ抱負ヲ汲メル第二第三ノ士幾十度モ出没シテ
予ノ希望ヲ貫徹シ、
予ラガ渇望セル社會ヲ實現スベキヲ信ズルガ故ニ、
予ハ莞爾トシテ往カンノミ。

世ノ富豪ニ訓ウ
汝ラハ
我利我欲ノタメ終世戰々兢々タルヨリモ、
ムシロ 大我敵見地ノ安全ナルヲ悟ラバ汝ラガ罪惡ノ結晶物タル不淨財ノ大半を擲チ、
防貧保健ソノ他ノ慈善事業・社會事業ノ完成ヲ期シ、
サラニ汝ラノタメノミニ都合ヨキ法律習慣ヲ打破革新シ、
ヨク万民平等ノ實ヲ擧グル意ナキカ、
シカラズンバ 汝ラノ最愛ナル妻子眷族ハ財ヲ奪ワレ 家ヲ焼カレ 夫ヲ殺サレテ、
宵闇ノ木陰ニ淫ヲ賣リ、人ノ門前ニ食ヲ乞ウ ノ惨害ニ遭ワンノミ。

世ノ元老政治家顯官等ニ訓ウ
汝ラハ
君國ノタメナリトノ金看板ノ裏ニカクレ、地位ヲ利用シ一味ト計リ、
忠良ニシテ愚直ナル國民ヲ欺イテ自己ニ都合ヨキ法律制度ヲ布キ、
不淨財ヲ蓄エ、サラニ恐レ多クモ陛下ノ聡明ヲ覆イ奉リ、
奸富ト結ビテ赤子ヲ迫害セシ積惡ヲ悔悟スルノ意ナキヤ。
汝ラ積惡ノ果トシテ光輝アル國體ヲ破壊シ、
汝ラ祖先ノ苦心ノ經營ニナリシ日本ノ特徴ト文化トヲ粉砕スルヲ望ムヤ。
今ニシテ汝ラ悔悟セズンバ、
ヤガテ汝ラハ他國ニ亡命スルカ
虐殺ノ標的トナルカ断頭臺ノ露ト消ユル外ナカルベシ。

世ノ華族ニ訓ウ
汝ラハ
汝ラノ祖先ガ吾ラノ祖先ヲ戰死サセ、吾ラノ祖先ノ財物ヲ鞏奪シ、
シカシテ 大名トナリ藩主トナリシガ故ニ
汝ラハ華族ニ列セラレシヲ知ルカ、
スナワチ汝ラノ華族タルハ
畢竟吾ラ祖先ノ賜ニシテ実ニ汝ラ祖先ノ賜ニアラズ。
スデニ汝ラ祖先ノ賜ナラズトセバ、汝ハ何ノ顔アリ何ラノ意義アリ權利アリテ華族タリ得ルカ。
功ナク實ナクシテ國家ノ榮爵ヲ瀆スハ罪惡ナリ、
イワンヤ何ラノ人間トシテノ轉職モ果サズ徒ラニ遊惰淫逸スルニオイテヲヤ。
スミヤカニ 
爵位ヲ奉還シ
一勞働者トナリテ 國家社會ニ奉仕スベシ。
ソノ他 自己ノ力量功績ヲモッテ華族ニ列セシ以外ノ世襲華族等榮爵ニ留スル資格ナキノミナラズ、
天意ニ反セルコトヲ悟レ。

世ノ將軍ラニ訓ウ
汝ラハ
吾ラノ兄弟マタハ戰友ノ戰死ト奮闘ト 犠牲トニヨリ 今日ノ榮位ヲ忝ノウシナガラ、
吾ラノ兄弟戰友ノ遺族ガ食ウヤ食ワズノ惨狀ニ號泣セルヲ知ラズ顔ニ威ヲ張り得ルカ。
戰爭ノ時ノミ國家ノ干城ナリトオダテ上ゲ、
平時ハ血ノ出ルゴトキ納税ヲ鞏イ、
シカモ參政權ヲサエ与エザル今日ノ法令ヲ肯定シ得ルカ。
汝ラハ
宜シク政党ト稱スル惡魔ラヲ膺懲シ、
眞個ノ君臣一體ノ御代トナスベク努力セヨ。

サラニ
世ノ青年志士ニ檄ス
卿ラハ大正維新ヲ實行スベキ天命ヲ有セリ。
シカシテ コレヲナスニハ
マズ
第一ニ 奸富ヲ葬るコト、
第二ニ 既成政党ヲ粉砕スルコト
第三ニ 顯官貴族ヲ葬ルコト、
第四ニ 普通選擧ヲ實現スルコト、
第五ニ 世襲華族世襲財産制ヲ撤廢スルコト、
第六ニ 土地ヲ國有トナシ小作農ヲ救濟スルコト、
第七ニ 十萬圓以上ノ富ヲ有スル者ハ一切ヲ没収スルコト、
第八ニ 大會社ヲ國榮トナスコト、
第九ニ 一年兵役トナスコト
・・・・・・等ニヨリ染手スベシ。
シカモ最急ノ方法ハ奸富征伐ニシテ、
ソリハ決死ヲモッテ暗殺スル外ニ道ナシ。

最後ニ予ノ盟友ニ慰ス、
卿ラ 予ガ平素ノ主義ヲ體シ
語ラズ 騒ガズ 表ワサズ、
黙々ノ裡ニ
タダ刺セ  タダ衝ケ、 タダ切レ、タダ放テ、
シカシテ同志ノ間往來ノ要ナク結束ノ要ナシ、
タダ一名ヲ葬レ、
コレスナワチ自己一名ノ手段ト方法トヲ盡セヨ、
シカラバスナワチ革命ノ機運ハ熟シ
随所ニ烽火揚リ同志ハタチドコロニ雲集セン。
夢々利ヲ取ルナ、
名ヲ好ムナ、
タダ死ネ、
タダ眠レ、
必ズ賢ヲ取ルナ、
大愚ヲ採リ大痴ヲ習エ。
ワレ卿ラノ信頼スベキヲ知ルガ故ニ檄ヲ飛バサズ、
予ノ死別ヲ告ゲズ、黙々トシテ予ノ天分ニ往クノミ 。
アアソレ
何ラノ光榮ゾヤ、
何ラノ喜悦ゾヤ。

大正十年九月三日
東宮殿下ヲ奉迎スルノ日ニ書ス
朝日平吾

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