昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

吾母との絆の証し

2021年02月15日 06時27分19秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

 父・21歳  母・19歳
金襴緞子の 帯締めながら

花嫁御寮は なぜ泣くのだろう
文金島田に 髪結いながら
花嫁御寮は なぜ泣くのだろう
祖父母の家の隣接して祖父の姉の家があった。
昭和28年 ( 1953年 ) 結婚した吾両親、結婚を機にその二階に所帯を構えた。
『 昭和・私の記憶 』 ・・・茲から始まるのである。

『 2階 』 の見取り図
祖父母の家の庭が アプローチ、
湯屋と母屋との間の通路から2階へアクセスする。
通路には屋根が掛っていた。
通路の中、母屋の沿って焚き木が積まれてあった。
10歳年長の叔父が斧や鎌で割ったものである。
その焚き木をくべ、
竹筒の火吹きで息を吹きかけ、 風呂の水を沸かすのだ。
風呂焚き場で、火の番するは 10歳年長の叔父の役目である。
 類似イメージ  
                   火吹き                                五右衛門風呂
叔父が、風呂の水を沸かし以て 焼いた 『 焼き芋 』 は、黒焦げの まるで炭、
でも、これが たいそう美味かった。

  類似イメージ
2階建ての1階部分は 祖父母の農作業場 兼 物入で、
一度だけここで餅をついた。

反対側に乗って 足で踏む ・・・ てこの原理で以て杵を突くのだ。
さながら 江戸時代のものかと惟うほどの農工具の数々・・・しかし記憶にない

通路の奥、二階に上る階段横には 羊小屋があった。羊を飼っていたのである。
「 ここは、昔は岩風呂があったんじゃ 」・・・と、親父。
類似イメージ
毛を刈るバリカンが 地肌を咬む  可哀想に血がにじんでいる。
「 この、汚い毛・・・どうするんじゃろ 」
刈り取られた羊毛は 汚れたまま、農協の人が持って行った。
そして、暫くすると、着色された毛糸になって帰って来たのである。


この頃、電化といえば、記憶するは 電灯 と ラヂオ くらいである。
さもあらん
アルコールランプで室の灯りをとる家もあったのだから。


昭和35年 ( 1955年 ) の島に水道はない。
祖父母の家に於ける 『 水を汲む 』 という任務を、

六歳年長 ( 12歳 ) の叔父と十歳年長 ( 16歳 ) の叔父が担った。
 類似イメージ  類似イメージ
手動ポンプ式 井戸                                  天秤棒 と水桶

叔父達は 山麓の井戸で水を汲み、
せっせと、満杯ので重たい水桶を天秤棒にかついで運んだのだ。
そして、台所の水瓶、風呂の浴槽を満たしたのである。
是、たいした重労働だということ、水を汲んだことのない私には解らない。

階段を上ると、突当りは崖、崖の上は急傾斜の山。
急傾斜の山には、雑木に混じって、ヤシ ( ノコギリヤシ ) があった。
   「 風小僧 」
私はこれを手にして
さながら 『 天狗のウチワ 』 として振ってみた
そして、
「 俺らは風の子 風小僧  ひゅーひゅー ヒューヒュー 」
得意になって、唄ったのである

入口の引戸を左にスライドさせて土間に入る。
妻側は勝手口。
勝手口 ( 板戸の引戸 ) から外へ出ると竹藪の小径・・階段・・井戸端・・と続く。
吾母が、天秤棒で桶をかついで井戸水を汲みに行った小径である。
竹藪は、
山鳩の鳴く声が聞こえ、
春を過ぎると筍が伸び、つゆ草が咲いた。
     類似イメージ
竹藪                                      筍                                     つゆ草

井戸へ続く階段は、狭いうえにかなり険しかった。
松本の家が階段に沿って建っている。
階段を下りると 井戸端。
井戸端は、
ツワが群生し、ベンケイガニが這う、そして 苔が生していた。
排水溝のドブにはオオミミズ が 横たわり、
そんな中に地中5~6メートル程掘ったのであらうや、井戸があったのだ。
叔父達も水を汲む井戸である。 ( 彼等は道路から迂回して此処へ来た )
     類似イメージ
ツワ                                       ベンケイガニ                       オオミミズ

  類似イメージ
クド                                      しちりん

土間の山側に炊事の クド、しちりん、調理台、流司、水瓶が並ぶ。

土間を上がると、茶の間。
  「 映画・めし 」  類似イメージ
 茶の間  ちゃぶ台   電灯

『 アコウ 』 を、釣った時、この茶の間の天井に魚を入れたバケツを吊ったのだ。
・・・リンク→アコウを釣った

次の間が畳の部屋である。
そして、海に向かって引違いの窓があった。
私が生まれる以前、六歳年上の叔父が落ちた窓である。
窓を開けると、下に松本老夫婦の住まいが見えた。
1階 ・縁側に一人佇むおばあさんを見つけるや
「おばあちゃん」・・と、
声をかけたは いつの日か
頂いて食べた よもぎ餅 ・・・生涯の一品である。
類似イメージ
昭和35年 ( 1960年 ) 丸谷の我家に引っ越しの際、
おばあちゃん
大八車にラジオ一つ くくって運んで呉れた。
大八車と ラジオ一つ そのアンバランスの光景は、私の瞼に焼きついて消えない。
あの時、おばあちゃん・・・何歳だったのだろうか。


吾母との絆の証し
私の左手の甲いっぱい、アザがある。

66年経った今 ( 2021年 ) でも、それを確認できるのである。
 若い頃の母
「 水汲みは辛かった 」
後年母はそう述懐した。
たぶん、結婚するまでは
水汲みなど
したことがなかったのである。
所帯を構える・・とは、そういう事なのである。
 類似イメージ  吾母ではない
昭和28年 ( 1953年 )
身重の母は、竹薮の小径を通り 井戸まで水を汲みに行った。
竹藪の小径は湿気が多く、それ故に 地面はいつもジメジメしていたのである。
別に魔が差したという訳ではないが、階段で足を滑らせた。
そして こともあらうに、松本の家と 階段の隙間に転倒してしまったのだ。
「 そのアザは  たぶん腹に居ったその時に できたんかもしれん。
  生まれた時、真青に内出血しちょった 」
・・・と、母はそう語った。

昭和は遙遠く、元号は令和3年 ( 2021年 ) の而今
私の手は、張りがあり  まだまだ きれいである。
然し、私の手の甲のアザ
年齢 とし を重ねるごとに薄らいでゆく。
手の甲にアザが 残ろうが消えようが 吾母との絆が無くなるものではない。
とは雖も、やっぱり 哀しい
手の甲のアザ・・・は、母の大切な形見
そしてそれが、
血を分けた母との 絆の証し
吾母が実存した証し
・・・と、そう想うからである。

「 故郷は遠きにありて想うもの 」
私にとって、
『 遠きにありて 』
・・・とは、過ぎ去った時を謂う。

そして
『 故郷 』
・・・とは、母を謂う。


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2 コメント

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Unknown (同郷のものです)
2022-01-02 13:02:42
あなたのご実家の上に住んでたものです。
お元気そうでよかったです。
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同郷の人へ (花田幸徳)
2022-01-03 16:31:03
『 丸谷の我家の上 』
丸谷の我家の山側は石垣、その上は畑があった。
その畑には、秋になると大きな南瓜が実った。
頂いて食べた南瓜はフカフカで美味しかった。
そして
その南瓜の種
天日干し乾燥させ、フライパンで煎って食べると、
これが なんとまあ、おいしいこと。
生涯の想い出の味となったのである。
亦、上の家ではヘチマを拵えていた。
秋になって、その実が我家の軒下に落ちた。
私はそれを拾い、翌年栽培すると見事に大きな実をつけ、「 みてみい 」それはもう得意絶頂。
これを大阪に持って行き、銭湯でタワシとして使用したのである。

上の家には、私より上級生の男児が居り、
彼は、「 小林旭が好きだ 」・・と、そう云った。

『 同郷のものです 』
・・の貴方は、斯の人ならんや ?
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