昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

バラ色の時 2 「 線路の路肩に見付けた つくし 」

2021年04月02日 05時04分11秒 | 4 力みちてり 1970年~

バラ色の時 1 「 今日の酒は格別 」の 続き

昭和45年(1970年)3月14日
大阪万博が開催された。
大阪も、吾々も、明るい将来を展望していた。
私は、高校受験に合格し、まさに 人生バラ色の瞬間(トキ) だった。

私は、親父に乞われ 親父の仕事を手伝っていた。
親父は、3階建のマンションの左官工事を請負っていたのである。
建築現場は淀川区上新庄、
アクセスは、毛馬から阪急電車天六駅まで徒歩20分、
天六 ( 天神橋筋六丁目)  駅から上新庄駅まで普通電車で15分、
阪急上新庄駅から徒歩5分であった。

友ガキ・舟木が、二日で穴割ったばかり。
私ひとりでは力不足、左官の手元はとても覚束ない。
そこで 普段は 「 カッツン 」 と 呼称よぶ、一級上の友ガキ・坂尾に声をかけた。
推ったとおり、彼は二つ返事で受けて呉れた。
更にもう一人、
 宮下
『 近所の子伜 』 仲間である同窓・宮下も誘って、
三人で手元をすることしたのである
宮下は一週間、坂尾は月末の31日までと謂う約束だった。
普段から三人寄ると野球をした仲である。
現場から線路を挟んで向いに、北陽高校のグランドと体育館が在った。
昼間は使用されていない、だからいつも無人であった。
「 昼にあそこで野球しよう 」
昼の休憩時間、気分転換の時間を過ごしたのである。

3年後(1973年)に北陽高校に入学した「岡田」・・元阪神タイガース監督、
このグランドを駆け回ったことであろう
現場の西隣りは、神戸屋パンの工場があって、パンを焼く甘い香りが漂っていた

一日の労働を終えての帰宅途中
線路際の 土手に夕陽が当っている。
労働をしたことの満足感であろう、なんとも爽やかな気分である。
・・と、その時
踏み切の傍、線路の路肩に、 「 つくし 」 を見付けた。

「 こんな処につくしが ・・・」
朝通った時は気付かなかったのに
昨日も
一昨日も
気付かなかったというのに
夕陽の低い横からの光を浴びて輝いている。
吾生涯の想い出たる
「 故郷三ノ瀬での畑一面の つくし 」
の 光景には、とうてい敵わないが 
それに次ぐ、「 つくしの光景 」 に出遭ったのである。
それはもう、幸せな気分であった。

23

 

 

 

 


宮下、約束の一週間が終った。
3月29日( 日 ) 宮下にバイト料を支払った。
その時、月末の31日が約束期日の坂尾の分も支払った。
親父は、「 先に払って終うと ( 30、31日の二日分 ) 来んようになる 」
と、そう言って渋ったが、私が、
「 金貰うと嬉しいから、精を出して働いて呉れる 」
と、そう言って説得した。
30日朝、坂尾と共に天六駅に向かう途中、 ( 関西大学天六学舎、体育館 の前 )
「 今日はしんどいな。 もう、金も貰ってるしな  」 と、坂尾が言う
親父の危惧したとおりだった
「 なるほどな 」 ・・・と、感心したのである。
友ガキ・坂尾の約束の期日は残り二日である。
然し彼は、既にその分の金を手にして ゴールした気分になっていたのである。

此処まで順風満帆で事が進んだ。
いいことづくめ ・・である。

そんなところに 油断が生ずる。
その油断が因果となって、とんだことに発展したのである。

・・・次頁、バラ色の時 3 「 一寸した油断から魔が差す 」  に、続く


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