昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

右翼青年

2022年08月21日 14時51分07秒 | 5 右翼青年 1974年~


1970年代  左翼思想全盛の頃、こんな光景もあった

時代は進化する
果して
令和御代の日本人は
この光景を、如何に観るのであらうか


21歳(1975年)昭和50年頃、
友・平野との会話

「 ソ連が攻めてきたら、どうする?」
「 戦争反対、唱えるしかないな 」
「 北海道に攻め入ってきて、
日本人が殺されているんやで、
それでも、戦争反対唱えるのか ? 」
「 俺は戦いに行く 」
「 勝ち目ないで、ソ連には敵わん 」
「 日本人が殺されるのを、手を拱いて視とけ、言うのか ?
占領されたら、どうするんャ 」
「 白旗挙げて降伏する。
戦ったら死ぬデ、死んだら終わりヤ、
死んで、残った家族どうなるんャ
降伏しても、命までは取らんヤロ
「 ソ連の奴隷になれ言うのかァ 」
「 死ぬよりましヤデ 」
「 お前、本当に、そう思っているのか ?・・・」

視点が違う二人、話が咬み合わない。


「 ヒューマニズム 」 と 「 大和魂 」
・・難しいことは、分らないが
家族、同胞の生命を守るため、己の生命を懸ける
家族、同胞の為に生命を懸けた先達の歴史の上に、今の吾々の生命が存在しているとしたら
「 白旗を挙げて降伏する 何よりも、己の生命が大切 」 
とは、いってられないだろうに

・・・その頃の私の意見
右翼的だと批判され、異端視扱いをされた。
どうして、批判されるのか、分らなかった。


1991年、ソ連は崩壊した。
共産ソ連は民主ロシアに変わった。

ソ連が攻めて来る事はない
・・が

『 歴史は繰り返す』
がしかし
人も国家も、
根本は
少しも変っちゃあいない
変らないもの
・・・と、
私はそう想う
 

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ヤングおーおー

2022年08月20日 19時50分54秒 | 4 力みちてり 1970年~

「 昨日の ヤングおーおー 見たか 」
「 おー、見た、見た 」
「 機械科の三好が、出とったやろ 」
「 出とった、出とった、あいつ よかったなあ 」
「 俺は会場におったんや、一緒にいっとったんや 」
・・・と、同級の下辻。
1972.5 修学旅行
「 ナニーッ 」
「 ほんまかいや、お前もおったんかいや 」
「 なんやお前、なんで俺も 誘うて呉れへんかったんや 」
「 俺も行きたかったなァ 」
月曜日 ・朝一番教室では、
昨日のTV、ヤングオーオーの話題でもちきりだった。

ヤングオーオー
昭和47年 (1972年) ( 高校二年 3学期頃 )
ゲスト歌手は三善英史
会場に偶々居た、同姓同名の人 と、然も 同い年 と謂う
たった それだけの理由で以て
機械科の三好は幸運にも、ステージに上ったのだ。
照れくさそうにして、桂三枝の質問に答えている三好。
彼の学生服の襟には、
吾が校、都島工業高校の襟章が、彼の機械科のMの襟章が見える。
全国の人が、この瞬間を、然も同時に、見ているのだ。
「 あいつ、ええ想いしたなぁ 」 ・・・と。
人生、偶々
こんなことが起る。


三善英史
昭和29年生まれ
謂わば、同級生である
♪ 恋はいつの日も はかないものだから

じっと 耐えるのが つとめと信じてる
・・・雨
記憶に残るフレーズである

昭和47年
毎日新聞 ・ 夕刊のコラムで、三善英史の記事が、偶々目にとまった。
新しいタイプの歌謡曲として
水前寺清子の応援歌でもなく、
北島三郎の演歌でもなく、
艶歌でもなく、また、ムード歌謡曲でもなく
歌も、歌い手も、歌声も変わってゆく ・・・と。
これからの時代は、三善英史の如く、中性化へと向かっていく
・・・と。

時代は進化する
中性化は、きっと 時代の進化の課程なのであらう
「 男女同権 」
・・・と謂う、殊更なる言葉も 今や死語である。
然し、私は
男女差別無き社会は、然りと雖も
男女区別の無き社会は、納得がゆかない
・・・そう、想う 

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進路相談 「 全くの、五分・五分ですか?」 

2022年08月18日 05時04分43秒 | 3 青い鳥 1967年~

同級生・tei と、私
不思議と、二人連なるリズムが合う
小学6年生の時も然り
而も、よくよく、おんなせんせいに、縁がある様である
・・・ リンク→おんな せんせい

 木下雅子先生
 中学二年、三年時の
 担任の おんなせんせい
 美人で長身の先生は独身
 理科が教科の才女で
 吾々の自慢の先生であった

昭和45年 (1970年 ) 2月
中学三年生
公立高校の進学校を決めるに大詰めの段階にあった。
私と同級生・tei
担任の木下雅子先生とのマンツーマンで、
再度 進路相談を行うことに為ったのである。
私の場合は、希望した高校に、確実に合格するは難しい。
・・・と、謂う事であった。
それは西館1階の理科準備室で行われる。
準備室前には、クラスメイトの女子生徒・福本サンの姿もあった。
先ず、同級生・tei が入室した。
簡単な引き算である。
私と女子生徒・福本サンが残り、二人して廊下に佇んだのである。
 ←クリック
 西館1階の理科室

クラスメイトの女子生徒・福本サン
美人で
爽やかな人であった。
順番待ちをしている二人、
どちらかとなく、喋りだしたことから
ちょっとした物語と発展した。

リーダー格の
福本○○さん

女子生徒との猥談で
顔を染めたは
担任のおんなせんせい

「 このー、怪物 」
私の顔 が、テレビアニメの怪物君に似ているとチャカスのだ。
「 似てへんわい 」
・・・
とは、云ったものの、まんざらでもなかった。
彼女、貶したつもりであらうが、
私は貶けなされている気がしなかったのである。

あーでもない、かうでもない。
・・と、他愛もない話しで盛上ったのである。

そして、成り行きで つい羽目を外して仕舞った。
挙句、話題が翔んだ。

何憚ることもなく
「 聞きたいことがあるんや 」
「 なに ? 」
「 ラブシーン観ていて、俺ら男は○○立ってくるけど 」
「 女のおまえらは、どうなるんや 」
「 あそこが、こそばゆくなる 」・・・と、彼女 躊躇が無い。
「 あそこ ? ・・って、どこや ? 」
「 あそこって、あそこ・・よ 」

「ふうん ? 」
私が、全く予期せぬ応答であった。
彼女の方が、一枚も二枚も うわてだったのである。

進路相談を終えて、同級生・tei
室から出て来るや否や
「 おまえら、アホか 」
「 なんの話しとるんや、まるきこえやったぞ 」
「 そんな卑猥な話し、廊下でするかぁ 」
「 先生、変な顔しとったぞ 」
「 おまえらの話しが気に為って、もう俺の進路相談もクソもあるかい 」
・・・
と、口では云ったものの、
まんざらでもなさそうで、顔は笑っていた。

本当のところは、先生も苦笑していたんだと。

次は私の番
呼ばれて室に入る
私の進路相談
私は、大阪市立都島工業高校の建築科を希望した。
所謂 「 天下の都工 」 である。
穏やかな口調で以て反対された。
淀川中学では4年前に一人、都工・建築科へ合格をみたが    (・・・菊田さん)
その人は相当優秀な成績だったらしい。 
2年前、冒険して失敗した人がいて、それ以外は誰も受験していない・・・だから
「 西野田にしなさい 」・・と、云う。 ( ・・・大阪府立西野田工業高校の建築科 )
確実に合格するところを選びなさい。 ランクを下げなさい・・・と、そう云うのだ。
決して冒険はするな・・と、謂うことであった。
職員会議でも、それが結論だった。・・・と云うのである。
石橋を叩いて渡れ・・・とな。

これはもう、相談でなく、勧告である。
私としたら
冒険、チャレンジ・・と、謂う認識は無かった。
有るは、どうしても行きたい・・と、謂う願望、夢であった。
私は、合格の確立を訊ねた。
確立は半々だという。
「 全くの、五分・五分ですか?」 
「 5.5の方ですか、4.5の方ですか?」
・・・・
先生、答えなかった。
 リンク→蛙の子は蛙

昭和45年 ( 1970年 )
3月14日
大阪万博が開幕した

夢を実現するは男のロマン
結局
先生の勧告を受入れなかった。
私とtei 
己が希望を押し通したのである。


試験の前日の16日 (月)
公立高校の受験生を集めて、
学年主任の大沢先生が各々に激励して周った。
「 心配するな、大丈夫 ・・」 ・・・と。

私の番が来た。
「 お前はなァ、・・・」

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私が観た映画・動乱 「 私は、幸せでした 」

2022年08月17日 19時19分59秒 | 8 大和撫子

「 二・二六事件て、何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

二・二六事件とは何か、
そんな説明なぞ、私にできるものか。
私の関心はそんなことではなかった、そんなところにはなかったのである。
どういう人達が起ち上がったのか、亦その精神は いったいどんなものであったのか・・・
専ら そこに、関心があったのである。

『 動乱 』
テレビで大々的に宣伝され、
毎日 テレビからセンセーショナルなシーンが放映される。
男が男であった
女が女であった
・・・そんな時代に於ける物語に、
興味を掻き立てられたのである。

昭和 55年 ( 1980年 ) 1月、封切直ちに
親友・長野と二人、梅田の東映会館で観賞した。
 東映会館 1979年頃
御堂筋と国道一号線の交叉点、写真右手に駅前第三ビルと続く。
映画館を出た二人。
「 どうやった?」
親友・長野が訊く。
「もうひとつやったな 」

男とは、大丈夫ますらおのこと、女とは、大和撫子 のこと。
高倉健の大丈夫。吉永小百合の大和撫子。
国を憂いて蹶起する男の至誠、そんな男に盡す女のまこと。
悲劇に終る 『 二・二六 』 、以て 男女の愛というものを如何に表現してくれるものか・・・と。
私は、独りよがりの期待をしたのである。
しかし、期待どおりに非ず。
私の心に響かなかった、心に沁みるものではなかったのである。
親友・長野も 同じ想いであったようだ。そんな顔をしていた。
『 二・二六 』 にさほど関心を持たぬ親友・長野は、
私が夢中になる程の 『二・二六 』 とは どんなものかを知りたかったのである。
しかし彼のそんな期待も肩透かし。もの足りなかったようである。
・・・・と、
昭和55年 ( 1980年 ) 1月、
映画を観終った時の感想である。

読書とは
読書感想は、あくまで一個のオリジナルな想いであって
普遍の想いなぞ、あり得ない
敢えて言う
著者が何を言いたいかを読むのではなく
読みし者が、著書を通して如何に己が想いを読み取るかである
読書とは、
斯の如きもの
それでいい・・と
私は、そう想う ・・・リンク→
ひとの心懐にあるもの 

映画を観るということも亦然りである
斯の映画を通して
私が観たもの ・・は。

「 私は最近まで北満州のチャムスで抗日ゲリラの掃討作戦に従事していました。
しかし関東軍には阿片の密売から上がる多額の機密費が流れ込み、
軍の幹部たちはこれを私的に使い込んでいるのです。
ある師団参謀長は八〇円のチップを出して飛行機に売春婦を乗せて出張したと云われます。
そうした幹部にかぎって弾丸を恐れる輩が多い。
 
チャムスの荒野の未開地には内地から武装農民が鳴り物入りで入植しています。
冬は零下三〇度にまで下がる大地です。
食うや食わずでゲリラの襲撃に怯えている一方で、
新京の料亭では幹部が芸者を侍らせて毎晩、豪勢な宴会を繰り広げている。
もっと下の将校たちも、ゲリラの討伐に出るとしばらく酒が飲めないと云って、
市中に出て酒を飲み、酩酊して酒席で秘密を漏らしてしまう。
果ては討伐に一週間出て、功績を上げれば勲章が貰えるというので、
必要もないのにむやみに部隊を出す将校もいる。
ですがゲリラにも遭遇しません。
これが軍の統計上、一日に平均二回、討伐に出ていると称していることの実態です。
皇軍は腐敗し切っているのです。
こんなことで満蒙の生命線は守れますか?
日清日露を戦った貧しい兵士一〇万人の血で贖われた土地ですよ!」
・・・リンク→ 中橋中尉 ・ 幸楽での演説 「 明朝決戦 やむなし ! 」 
・義憤


「 姉は・・・・」
ポツリポツリ家庭の事情について物語っていた彼は、ここではたと口をつぐんだ。
そしてチラッと自分の顔を見上げたが、ただちに伏せてしまった。
見上げたとき彼の眼には一パイ涙がたまっていた。
固く膝の上に握られた両こぶしの上には、二つ三つの涙が光っている。
もうよい、これ以上聞く必要はない。
暗然、拱手歎息、初年兵身上調査にくりかえされる情景。
世俗と断った台上五年の武窓生活、
この純情そのものの青年に、実社会の荒波はあまりに深刻だった。
はぐくまれた国体観と社会の実相との大矛盾、疑惑、煩悶、
初年兵教育にたずさわる青年将校の胸には、こうした煩悶が絶えずくりかえされていく。
しかもこの矛盾はいよいよ深刻化していく。
こうして彼らの腸は九回し、目は義憤の涙に光るのだ。
共に国家の現状に泣いた可憐な兵はいま、北満第一線に重任にいそしんでいることであろう。
雨降る夜半、ただ彼らの幸を祈る。 食うや食わずの家族を後に、
国防の第一線に命を致すつわもの、その心中はいかばかりか。
この心情に泣く人幾人かある。 この人々に注ぐ涙があったならば、
国家の現状をこのままにしてはおけないはずだ。
ことに為政の重職に立つ人は。
国防の第一線、日夜、生死の境にありながら、戦友の金を盗って故郷の母に送った兵がある。
これを発見した上官はただ彼を抱いて声をあげて泣いたという。
神は人をやすくするを本誓とす。
天下の万民はみな神物なり。
赤子万民を苦しむる輩はこれ神の敵なり、許すべからず。
・・・リンク→ 後顧の憂い 「 姉は・・・」
・・後顧の憂い


相澤中佐事件
半歳以上にわたって考えぬいたすえの決行だった。
そのときの境地が 「 本朝のこと寸毫も罪悪なし 」 であり、
悩みぬき、考えぬきして越えてきた山坂道、
その末にひらけたものは、意外にも坦々とした道だったのだろう。
それらが 「 本朝のこと寸毫も罪悪なし 」 の 決意だったのだろう。
この決行が契機となって、
これまで横道に迷いこんでいたものを正道にかえる出路を見出し、
あいともに 一つの道を一つの方向に進むにちがいないと思ったのだろう。
それが挙軍一体一致して御奉公にはげむことであり、
そこにおのずから維新の端緒がひらけるというのが、
相沢中佐の祈念であり祈願だったのだろう。
・・・リンク→ 本朝のこと寸毫も罪悪なし
・・・男の至誠



わたくしどもの結婚は、
最初西田の親の反対で入籍出来ず、忙しさに紛れてそのままになっておりました。
西田の死刑の求刑のありました直後に入籍いたしました。


ある資料に、渋川善助さんが
「命を捨てて革命に当る者が妻帯するとは何事だ」
と言って、西田をなじったという話が書かれております。
このことはわたくしはこの本をみるまでは存じませんでしたが、結婚早々のことだったのでございましょう。
渋川さんの詰問に、西田がどんな答えをいたしましたのでしょうか。
革命運動を志す者は、たしかに結婚しない方がよろしいのじゃないかと思います。
その渋川さんも結婚なさいましたし、
二・二六事件の若い青年たちは、何故あれほど急いで結婚なさったのでしょうか。
青年将校の結婚
歩兵第三聯隊の坂井直中尉は、昭和11年 ( 1936年 ) 2月9日。
野戦重砲兵第七聯隊の田中勝中尉は、昭和10年 ( 1935年 ) 12月27日。
歩兵第一聯隊の丹生誠忠中尉は、昭和10年 ( 1935年 )。

夫人は思い返して もう一度、一人で面会に行った。
田中は この思いがけない訪問を、
「 一人で来てくれてよかった 」 と 喜色いっぱいに受けた。
生きた表情の夫がようやく戻ってきたと夫人は思い、夫の顔を凝視した。
向いあって テーブルについての面会である。
田中は妻の手をとると、
「 お前のことを考えたら、おれ、死にきれねえ 」
と 言った。
この言葉が田中の口をついて出た瞬間、
改まった遺書には仄めかしもしない二十六歳の男の真情が、堰を切ったように溢れ出した。
おそらく生きて抱くことのないわが子を思い、
新婚の蜜月から叛乱・死刑の男の未亡人となる妻の身の上を思って、
独房の田中は悶々として眠れぬ夜を重ねたのであろう。
二人の結婚の実生活は ほぼ四十日、
その一日一日が愉しく充実していたと妻にたしかめながら、
「 一日を一年と思えば、四十日は四十年になる。そう思って堪忍してくれ 」
そう 夫は言った。
・・・リンク→ あを雲の涯 (十四) 田中勝 



判決のあとは毎日面会に参りました。
十八日に面会に参りましたとき、
「今朝は風呂にも入り、爪も切り 頭も刈って、綺麗な体と綺麗な心で明日の朝を待っている」
と 主人に言われ、翌日処刑と知りました。
「男としてやりたいことをやって来たから、思い残すことはないが、お前には申訳ない」
そう 西田は申しました。
夫が明日は死んでしまう、殺されると予知するくらい、残酷なことがあるでしょうか。
風雲児と言われ、革命ブローカーと言われ、毀誉褒貶の人生を生きた西田ですが、
最後の握手をした手は、長い拘禁生活の間にすっかり柔らかくなっておりました。
「これからどんなに辛いことがあっても、決してあなたを怨みません」
「そうか。ありがとう。心おきなく死ねるよ」
白いちぢみの着物を着て、うちわを手にして面会室のドアの向うへ去るとき
「さよなら」 と 立ちどまった西田の姿が、今でも眼の底に焼きついて離れません。



面会は今日で終りになる。
・・・・
処刑は明日か明後日だ。
泣かずに聞いてくれ
・・・・はい
私が命を賭けて書いたものを、君が運び出してほしい
・・・
 薫
はい
私を許してほしい
君を妻にしたことを・・・・君を独り 残してゆくことを・・・・許してほしい。
あなた・・・・私は幸せでした。 
あなたに妻と呼んでいただいて  幸せでした。



八月十九日の早朝、
二千坪はある庭の松の木に、みたこともない鳥がいっぱい群がって
異様な雰囲気でございました。
西田の遺体は白い着物姿で、顔に一筋の血が流れておりました。
拭おうと思うのですが、女の軀はけがれているように気臆れして、とうとう手を触れられませんでした。
気持が死者との因縁にとらえられているためでしょうか。
刑務所から火葬場へ向かうとき、秋でもないのに一枚の木の葉が喪服の肩へ落ちたのを、
西田がさしのべた手のように感じました。


亡くなった西田は、心変りのしようもございません。
現世を終えてわたくしがあの人の許へ赴くのを待っていてくれるという、
この頃は待たれる身の倖せを心静かに思う日も多くなりました。
八月十七日、処刑の前々日に
「残れる紙片に書きつけ贈る」
と 書かれた遺詠に、
限りある命たむけて人と世の
  幸を祈らむ吾がこゝろかも
君と吾と身は二つなりしかれども
  魂は一つのものにぞありける
吾妹子よ涙払ひてゆけよかし
  君が心に吾はすむものを
と ございます。
一緒に起き伏しした時間の三倍も一人で生きて参りましたのに、
西田の姿は今日までとうとう薄くはなりませんでした。
あの処刑前日の面会で、
西田は 「さよなら」 と 言いながら、
別れられないいのちをわたくしに託したのでございましょうか。
・・・
今だに西田の夢をありありと見る夜がございます。
刑死の直後には、
最後に会った日の白いちぢみ姿で
「迎えにきたよ」 と 言われる夢も見ました。
夢の西田は、姿はまざまざと見えますのに、
いくら手をのばしても軀に触れることが出来ません。
遠くにおります。
夢の中でさんざん泣いて、
ふと目覚めると、涙で枕が濡れていることもよくございます。
おいて逝かれた悲しみは、涯がないようでございます。
夫婦の因縁とはこんなにも深いものなのでございましょうか。
・・・
・・・リンク→西田はつ 回顧 西田税 3 あを雲の涯 
・・・・女のまこと
そして、愛情であった。
それは、
男が男であった
女が女であった
まさに その時代を観たのである。


「 私が命を賭けて書いたものを、君が運び出してほしい 」
・・・・映画でこの後の展開はない。

しかし、この台詞の素は、夫・磯部浅一を信じ 共に闘った妻・登美子の至純があった。
それを、『 女のまこと 』 として、描こうとしたが描き切れず、
亦、捨てきれなかった作者の想いの表れと、私は観たのである。

実は磯部が苦心して残していった遺書があるのです。
他の同志が銃殺された後、磯部は昼間は気狂いのごとくあばれまわって、看手を困らせ、
夜になると疲れた振りをして、毛布を頭からかぶって寝込んだようにみせかけ、
看手を安心させ、油断させて毛布の中で書き綴ったものらしいです。
私が面会に行った時、立会いの看手のスキを見て、ひそかに机の下から手渡してくれました。
あぶない思いをして持出した遺書は、やがて岩田登美夫さんなどの手で、写真に撮られ、
あるいは印刷されてしかるべき要所に、いわゆる怪文書として配られました。
虚を衝かれた軍部はびっくりすると同時に、大変困って、さっそく憲兵を動かして、
その出所を徹底的に追及して来ました。
・・・磯部夫人・登美子・・・リンク→ 磯部浅一の嘆願書と獄中手記をめぐって 

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俺の目を見ろ 何にも言うな

2022年08月01日 05時12分44秒 | 2 男前少年 1963年~

大東商店街に
「 昭映 」 という映画館があった。
昭和42年 ( 1967年 ) 正月
10歳年長の叔父に連れられて
初めて大人の映画を観た。

当時人気の東映任侠映画
「兄弟仁義・関東三兄弟 」
昭和41年 ( 1966年 ) 12月31日封切
鶴田浩二、里見浩太郎、北島三郎
村田英雄、藤純子・・出演

義理と人情の男の世界を描いたもので
小学6年生 ( 12歳 ) の、純真無垢な少年には
その印象は、強烈であった。
危険な映画だったのかも知れない。


親の血をひく兄弟よりも 固い契の義兄弟
こんな小さい盃だけど 男命をかけて飲む
命を賭けてこそ男・・と
肝に銘じたのである。


俺の目を見ろなんにも言うな  男同志の胸のうち
ひとりぐらいはこういう馬鹿が  いなきゃ世間の目が覚めぬ
若き日の北島三郎が歌う 「 兄弟仁義 」
この文句に シビレタ のである。


義理だ恩だと並べてみたら  恋の出てくるすきがない
後はたのむと駆け出す路地に  降るはあの娘のなみだ雨
若き日の藤純子、演じる 「 あの娘 」
なんと可愛いあの娘 
女は斯くの如きもの・・・と、そう想ったのである。

私は、感動してしまった。
それは、吾心に響いたのである。
理不尽で卑怯な悪党に対して
辛抱・我慢の果てに
敢然と立ち向かう侠客の姿を
カッコイイ と、そう想った。
これぞ、男の中の男
・・・と、
これぞ、男の世界   ・・・と、
憧れを持った。
そう想う自分を、カッコイイ・・と、男前だと、
・・・そう想ったのである。

 昭和42年1月1日
男が カッコウ を ツケル ・・・とは、
生命を賭ける  ・・・とは、
如何いう事なのであらうか。
それは
何も、任侠の世界と謂う特殊な世界のものだけに限るまい。
キッタハッタのヤクザな行動や、用語を取除いて
或は、置き換えて観らば
そこに有るは、真実 ( マコト ) 己の姿であらう。
・・・リンク→おんな せんせい

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三ノ瀬小学校

2022年07月29日 05時19分05秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年


昭和44年 ( 1969年 ) 10月14日
上蒲刈町向 祖母の家から撮影

海峡こえて
私の祖母 ( 母方 ) は、
この景色を愉しみに眺めてたと謂う。
小学校で学ぶ、見える筈も無い孫の私を眺めていたのである。
「 はなだゆきのりくん 」
・・・と、先生が私を呼ぶ声、
時折、風に乗って、聞えて来る。
それが愉しみだった。
・・・そうである。

三ノ瀬~向を眺る
昭和54年6月19日 
吾母の故郷である

安芸郡
下蒲刈町
 
三ノ瀬小学校
当時の全校生徒数 263名・・と、私は記憶している。
昭和38年 ( 1963年 ) 3月、小学2年生まで学んだ。

昭和36年 ( 1961年 ) 
小学校一年生・七歳の
懐かしき・・想い出いづ
一 
宿題忘れて立たされて

「 ユキ君、今日は宿題ないんか ? 」
佐々木のおばさんが、遊んでいる私に訊ねた。    (丸谷・近所)
「 ん 今日はないんじゃ 」
私は、完全に忘れていた。
そして翌日、
罰として、立たされた。
して、 泪して しまった。
「 ケン なんか 毎日忘れちょる のに、立たされた事がない 」
「 ワシ は 初めてじゃのに・・・」

小学校一年生
宿題を忘れた・・これが最初で最後のこと
宿題を忘れて立たされたことよりも、皆の前で泪した事がなさけなかった。
不覚を執った・・ そう思ったのである。

 
主役になった

吾が 三ノ瀬小学校に
向の小学校の児童生徒を招いて合唱・合奏を披露することに成った。
向の小学校には、
従兄妹の しのぶ ( 4年生 ) や 京子 ( 2年生 ) 
まさるあんやん ( 5年生 )、昇あんやん ( 5年生 ) が居る。

♪ みんなおいで あそびましょうよ
おててつないで 輪になって
まわれまわれ ランラララララン ♪

私は 向の小学生の前で、ソロ で唄ったのである。
しのぶ が 照れくさそうにこちらを見ていた。
私は 鼻が高かった。

写真
玄関の左側
2階の教室には
テレビがあった。
高い処にあって、神棚を仰ぐように、皆して、テレビを見上げたのである。
NHKの番組
「♪ ならんだ ♪ならんだ」
一番の楽しみだった。

印象深いのは
一人の少年が現れ、ストーリー展開していく番組
その中で
時々 折鶴を両手でかかえた少女の像 が出てくる。
それが、何であるのか、私には、分からなかった。
担任の花田日出子先生からの、説明も特に無かった。
小学一年生や 二年生には
「 原爆 」 
授業としての話は、
未だ早い・・と、謂う判断だったのであらう。

写真
玄関右には

二宮金次郎像
が有った。

薪を背負いながら勉強する姿は、
日本人の心を打った。

「 二宮尊徳 」  
明治、大正、昭和ひとけた、の大人達から、
仕事もして、且つ、勉学に励んだ
『 苦学の鑑 』 であると

修身教育の、模範であったと
そう・・聞かされた。 
リンク→偉い人 苦学の鑑・二宮尊徳


苦学

学費を稼ぐために働くを苦学と謂う人もあらう
然し、私は
働きながらも、学問を習得する・・を採る。
金の卵と謂われ
集団就職で上京した若者達は仕事の終った夜間、
学校へ行って勉強したのである。
彼等の心懐に存ったのは、夢、
将来の夢に向かって、努力したのである。


「  いつでも夢を  」
昭和37年 ( 1962年 ) 日活映画
苦学も明るく生きる青年のその姿は日本中に勇気を与えた。
働くことが希望と繋がったのだ。
♪ 北風吹きぬく寒い朝も心ひとつで温かくなる ♪
・・そう、日本中が歌ったのである。
私の過ごした幼年期は、昭和30年代の日本は
そんな時代であった。
・・と、そう想う。

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日出子先生

2022年07月28日 05時40分18秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

村の駐在さんが
自転車オートバイに乗って走っていく。
吾々はその後を追いかけた。
そして、排気ガスを吸った。
堪らなくいい匂いがしたのである。
昭和35年 ( 1960年 ) の、ことである。
 
出逢い
「 おとうちゃんを迎えに行ってきて 」
・・と、母が云う。
六歳の私は、
叔父から借りた自転車を三角乗りして
花田先生宅へ
親父を迎えに行ったのである。
 
平成の花田先生の家

小学校の恩師である先生から

五右衛門風呂を請負っていた親父。
完成してこの日
もてなしを享けていたのである。
案内されて上がると
「 たぶん・・飲めょうるんじゃろうて 」
・・と、母の推ったとおりであった。
親父が独り、先生を肴に得意気に歌を唄っていた。
手もみの手拍子をとりながら、
目を閉じて顎をあげて唄っている親父の姿を観て、
「 だいぶ酔うちょる 」
・・と、そう感じた。
先生は黙って親父の歌を聞いていた。
然し、もて余している様子である。

奥さんが私に何か食べさせようと、
別室に案内しようとするので、「 いらん 」・・と私は遠慮した。
わしは、『 ホイトボ 』 じゃない。
『 ホイトボ 』 ・・と、想われたくなかったのである。
然し、そんなことなぞ気にも掛けずに後ろから抱え上げたのだ。
遠慮したからには、誰がすんなり抱えられるものか。
私は、足をジタバタさせて抵抗した。

それでも、いっこうに構わず、私をムリヤリ別室に連れて行ったのである。
私は抱かえられた事、大に恥ずかしかった。
室には、高学年の男児小学生が二人いた。
ところが この二人、親父が帰るまで私の相手をして呉れたのである。
然し、何を食べたかは まるで記憶しない。

「 花田先生の家はれっきとした武士の家柄で、 剣術指南役じゃったんで。
 大小の二本差し、じゃったんど、 それに比べて、うちの花田は足軽じゃきん
 短い刀しか持てんかったんじゃ 」
「 同じ名字でも親戚じゃない、遠い親戚かも知れんが 」
 ・・親父から、そう聞かされた。

「 我が花田家は脇差し一本では食うてゆけんもんじゃきん、
 左官屋と百姓の二刀流しちょるんか 」
 ・・・と、そう想った。
然し、真実のところは分らない。

人生あな不思議
翌年の昭和36年(1961年)4月
私は三ノ瀬小学校に入学した。  ・・・リンク→想い出る故郷 三ノ瀬小学校
ピカピカの一年生
そして
担任は、おんな先生 
なんと、驚く勿れ
おんな先生こそ、あの時の花田先生の奥さん
日出子先生であったのだ。

2016年の今
日出子先生の御顔
覚えちゃあいない
然し
私が子供の頃から
ずっと心懐にある面影は
映画・二十四の瞳の大石先生こと
高峰秀子さん

・・・そう、
想っている
       

三ノ瀬小学校 昭和54年(1979年)6月20日 向・母の実家より撮影
1階玄関の左横が一年生の教室、次が二年生の教室 昭和36年、37年と此処で学んだのである

♪春の小川は さらさらゆくよ
岸のすみれや れんげの花は
すがた優しく色美しく
咲けよ咲けよと ささやきながら♪

 イメージ
昭和36年 ( 1961年 )
小学校一年生の理科の時間、
教室を出て学習することがあった。
海があり、浜がある。小川があり、田圃がある。野があり、山がある。
そんな自然環境のあるところ。
それならば、住吉浜から大地蔵への山路を歩けばいい。
道行き、皆で唄った 「 春の小川 」
それはもう、楽しいに決まっている。
山路で見つけた
シダ の葉。
帰り道 「 米が なっちょる 」
・・・と言って、刈り取ったはカラスむぎ。
田圃一面ピンク色
♪ れんげの花がひらいた
 
昭和37年 ( 1969年 )の テリトリー

想い出の一風景
今も、私の心懐に在り続けて消えることはない
忘れることはない・・・のである

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男前少年 と おんなせんせい

2022年07月26日 05時47分00秒 | 2 男前少年 1963年~

昭和38年 ( 1963年 ) に、大都会大阪に移住した。
その頃は未だ、国全体が貧しい時代でもあった。
とは雖も、
大都会 ・大阪と広島、それも片田舎とでは、その生活格差は大きかった。
広島に在た頃 気にも掛けなかった日常生活そのものが、
ここ大阪では貧しいものと、思い知らされ、
私は劣等感を持ってしまった。


昭和40年 ( 1965年 ) 四月
私は、小学5年生に成った。
新学年 恒例のクラス替え。 (  ・・二年毎に行われる  )
新しい クラスは、5年2組。 担任は、おんなせんせい、である。
これから 5年生、6年生の二年間、彼らと人生を共にするのだ。


担任の
おんなせんせい、
家庭訪問の際、私ら家族の住まいを見て貧しいと認定した。
学校から文房具、靴、日用品、等が支給されるようになった。
しかしそれは、私には至極迷惑な事であった。
秋の運動会に於て、5年生全員が行う演目はプロムナード ( 行進 )。
トラックを、周ったり、交叉したり、すれ違ったり、 ( ・・・適当な横文字が想い付かない)
先生も、児童生徒も一丸となって演習したのである。
演習を終えると、全員が集合した。
その場で 「 十河先生 」
「 誰々は、明日 ハンコ 持って職員室に来る事 」
私の名前も読み上げられた。
「 あれ貰うんやで、あのこら  」 ・・・と、囁く声。
私は恥ずかしかった。
「 何もこんなところで、しかも、皆の前で・・」
私は、心の中で そう呟いた。

国勢調査の一環に準じたものか、そんな類の家
庭環境調査があった。  (たぐい)
先生の問いかけに、吾々が席を立って応える形式を採った。
「 住いでいる家が、持家の人 」
「 ハイ 」 ・・・と、数人が立つ。
「 借家の人 」
「 ハイ 」 ・・・と、大勢が立った。
私も立った。 (  契約上は、一応、○○アパート であった から )
その時、当時はハイカラである公団住宅に住む 吉井と 偶々目が合った。
私は ニヤッ と 笑った。 吉井も ニヤッ と 笑った。
共に同じであることが なんとなく嬉しかったのだ。
そんな二人の遣り取り おかまいなく、
おんなせんせい、
「 花田君は 間借り だから 違う 、 座りなさい 」
・・・と、咎められてしまった。
私は、吉井の手前 頗るバツ が悪かった。
「 家賃を払っているのに 」
私は、心の中で そう呟いた。

男前少年
昭和41年 ( 1966年 ) 六年生になった私は、
一学期の学級委員に選ばれた。
 




男女一名ずつ 学期毎に投票で選ばれる。
立候補はしない。 が然し 概ね
成績の良い者が選ばれた。
学級委員は男子のみで、女子は副委員だった。

表を読み上げる おんなせんせい、
「 なんで、ハナダ君 こんなに多いの ・・?」
どういう 意味で云ったのだろうか。
「 学級委員になったら あかんのか 」
私は、ひねくれた。


昭和41年 ( 1966年 ) 7月、臨海学校は 「 天ノ橋立 」 へ   
旅館の窓から、水鏡に写った 「 天ノ橋立 」 が見えた。 
「 絵に為る風景やな 」
・・・と、綺麗な風景を見て嬉しくなった私が云うと

「 ほんまに、絵に為る風景やな 」
・・・と、傍に居た安宅が、応えた。

( 安宅・・びっくりしたなぁもう !! ・・学級委員選挙に登場 )
写真  私は中列女子の横  私の前が吉井 
麦わら帽子の男先生が寺島先生 ( 寺島先生・・ 「目にあたらんで、よかったなぁ」
「 学級委員 ! 報告せよ ! 」 と、寺島先生
先生の正面に一人立ち 頭中 敬礼の私
「 報告、2組全員無事に海から上がりました ! 」
「 良し ! 」
その後の集合写真である。

長時間バスでの往路は、
やっぱり、バスに酔った。
されど
翌日からは元気一杯の私。
バスでの移動時、
意気揚々とバスに乗り込んだ私に、
おんなせんせい、
「 学級委員、点呼したの ? 」
「 おーい、みんな居るやろ ? 」
「 遅い ! !  点呼は、バスに乗る前に行いなさい ! 」
「 それに、今のは点呼に成っていない ! 」
「 ハイ  ! 」
・・・と、明るく元気よく 応えた私である。
 
クリック
左から6人目が 荒井 ・・右から二人目が tei

さて
私の任期が終わり
二学期の学級委員が選ばれた。
温厚で優しいヤツであった。
「 そんな事で学級委員が務まるの 」
「 そんな事なら学級委員 辞めてしまえ 」
おんなせんせい、
クラスの皆の前で、彼を罵倒する。
ホームルームの司会は男、女は書記と決まっていたが、
気に入らないとその役割を平気で変えた。

当時はまだ、
『 男は男らしく 女は女らしく 』 ・・・と、そういった時代であった。
男は女より 偉くて、カッコいいもの
・・・と、私はそう想っていた。

前任の私は、
しょげている彼に頗る同情したのである。
義侠心が湧いた。
「 お前、あれだけ言われているんやから 学級委員やめろ 」
「 おれ やったら 先生の前で 証状 やぶいたるワ 」
私は男前であった。
これに、他の男子も同調したのである。

ところが これを
おんなせんせい、 に
『 告げ口 』 をした女子がいた。 ( ・・ それが彼女の正義だった )
私と学級委員を務めた女子である。

彼女は人気、実力ともに トップの優等生。
そして児童会の会長。
所謂  『 エエトコの子 』 でもあった。 ・・・リンク→学芸会 
おんなせんせい、からの信頼も 大に 厚かった。
しかし 自他共に認める 「 ナンバーワン 」 の彼女にとって私は、
日頃から 『 眼の上のコブ 』 の存在であったのだらう。
だから、他の男子を巻き込んで騒いでいる私が、気に入らなかったのである。

男気を出しすぎた。

放課後、
首魁三人 ( 私、tei 、荒井 ) 並んで、教師机の前に立たされた。
先生は椅子に腰かけている。
「 最近のあなた達、特に花田君の態度が目に余る、
一度こらしめてやって・・
と、女子が云っている 」 
女子がどんな風に告げ口したかは知らない。
しかし・・「 そんな言いぐさが あろうか 」  ・・・この時そう想った。

おんなせんせい、からすると
教師である自分への、 謂わば叛乱である。
おんなせんせい、メンツにかけて反省を求めてきた。

クラスの皆は教室の掃除をしながらこちらを伺っている。

当時の教師は権威があった。
「 先生は偉い人 」
児童生徒は、大人の教師に対して畏敬の念を懐いていた。

「 何処が悪い 」 ・・・そう想っていた。
他の二人も同じ想いであったらう。

ところが 斯の二人、
先生の怒りに怖れを為し 意気消沈、
素直に反省の意を表したのである。
最後に私、彼らに続き、
「 右に同じ 」
・・・と、そう告げた。
ところがこの文言が まずかった。
おんなせんせい、これを 「 反省していない 」 と 受取ったのだ。
「 他の二人に追随しただけ 」 ・・・と。 ( さもあらん )

従順した彼等は放免された。
私は依然として立たされたまま

クラスの皆の視線を背中 (せな) で感じた。

「 謝りなさい 」
怒りのこもった言葉であった。
「 そんなもん、
受容れられるものか 」
・・・そう想った。
だから私は、何も言わなかった。
次の瞬間、
往復ピンタをくらったのである。
こともあらうに、皆が見ている中だ。
「 如何して 殴られる 」
・・・そう想った。

私は不覚にも、泪してしまった。
この時、
「 一度こらしめてやって 」
・・・と、告げ口した女子は、
どんな想いで 私を見ていたのであらうや。
日頃、「 女の前で泣いた事は無い 」
・・・と、豪語していた私
「 負けた 」
・・・そう想った。

私の男前は飛ばされてしまった。




求められ、
反省文を提出して
一件、落着。



『 渥美清の 泣いてたまるか 』
この頃
視ていたテレビドラマである。


空がないたら 雨になる 
山が泣くときゃ 水が出る
俺が 泣いても 何にも出ない
意地が 涙を 泣いて 泣いて たまるかよ
通せんぼ ♪


『 一件、落着 』
・・・ ・・・
私の心懐に
そんなもの
あるものか

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生涯最高のスコア・・・

2022年07月25日 07時52分25秒 | 3 青い鳥 1967年~

♪  律子さん 律子さん 爽やか 律子さん ♪
吾々の世代なら、誰もが知っている
女子プロボーラー・中山律子
花王フェザーシャンプー ・・・昭和47年のTV・CMである

女子プロ
昭和46年 ( 1971年)
空前のボーリングブームに日本中が沸いた。
女子プロボーラー
が、時代の脚光を浴びたのである。
中でも、美人で、しかも
女子プロ初のパーフェクト ( 300ポイント ) を達成した、
中山律子プロ ・・・超人気があった。
尤も、高校2年生の私は、
サウスポーで長身の石井利枝プロのファンであったけれど

 ← 石井利枝フプロ
    他に
    須田開代子プロ

    並木恵美子プロ
    野村美枝子プロ
    ・・・と、
              1970年代の人気プロボーラー

初の体験
昭和44年 ( 1969年 ) 3月・中学2年生の3学期
長島ファンの私、プロ野球のオープン戦を見ていたところ
勉強を見て貰っている久田さんが訪ねてきて
「 花田君、ボーリング いこうか 」
「 ボーリング・・・」
テレビで見たことがある。 ・・・その程度しか認識が無かったが
誘われるまま
京阪森小路駅傍の森小路ボーリングセンターへ
( テレビCMで流れていた、当時まだ有った吊ピン式のボーリング場 )

初めてのボーリング
久田さんに教えてもらったとおりに
11ポンドのボールを持ち
真ん中より少し右側に立ち
真ん中一つ右のスパッドをめがけ
「 わきを締めて投げるんやで 」
サア 感動の第一投
ボールは  ドン と 鈍い音をあげ レーンに落ちた。
そして、シュート回転してレーンを真っ直ぐ転がって行った。
結果は 記憶に無い
イメージ通りには、転がらなかったのである。

「 こういう風に投げるんや 」
・・・と、
先生である久田さんが
お手本を示す。
彼の投げたボールは、
レーンを滑る様に、しかも勢いよく転がって行く。
「 オッ  !  」
レーン右側から大きくカーブして、ピンの真ん中へ向かって走った。
そして
パーン !! 
・・・という音を響かせ、
全ての
ピンが飛び散ったのである。
「ヘー 」 ・・・と、もう感嘆符
是を 『 ストライク 』 ・・・と謂うのだそうな。

「 これは、面白い 」 ・・・と、そう想った。

ボーリング人気は高まり、
「 ボーリングをする 」 ・・・は、ファッションに成っていった。
クラスでも、スコアカードを持ってきて自慢する奴も現れてきた。

「 ドヤ 」 ・・・と、
クラスメイトの見崎、
160台のスコアを見せて自慢する。
「 オー、お前すごいな 」
私は、偶にまぐれで150台を出す時もあったが、
「 アベレージ 」 は、130 といった程度であった。

200 オーバー成る ?
昭和45年 (1970年 ) 1月、中学3年生の3学期
クラスメイトと赤川二丁目の松竹ボールへ
この日は、
なぜかしらん 調子がよかった。
第1 フレーム ストライク
第2 フレーム ストライク
第3 フレーム ストライク
いきなり ターキー
第4 フレーム 9本 + スペア
なにせアベレージ130の私、残り1本を取るのは難しいことなのである。
偶に当るときもあるが、たいていは外す。
今回は、その偶にが巡ってきたのだ。
狙ったとおりボールが転がり、スンナリ と スペアーが取れたのである。
偶々のマグレ当たり ・・・が連続しているだけのこと、
・・と、そう想っていた。

極め付きは、第5フレームであった。


3、7、10 ピンが残ったスプリット
これを 『 クリスマスツリー 』 と、謂うのだそうな。
「 3番ピンを左に跳ばして、7番ピンを倒そう 」 ・・・と
3番ピンと10番ピンの間を目掛けて投げると、
その思惑どおり、3番ピンが弾けて 7番ピンを跳ばした。
そして、3番ピンに当ったボールが右に方向を変え
10番ピンを倒したのである。

「 ヨッシャー 」
イメージ通りのピンアクション
完璧な スペアーとしたのである。

第5 フレーム 7本 + スペア
遣ること 為すこと 全て旨くいく
もう ・・・絶好調である。

「 オー 花田、どないなってんねん 」
「 ホンマに どないなってるんやろな 」

第6 フレーム ストライク
第7 フレーム ストライク

「 ひょっとしたら、イクデー!」
声なき、心ん中の雄叫びである。

200オーバーは、誰しもが抱く大目標である。
200オーバーの快挙が、私の頭を過ぎる  (ヨギル)

そして、第8フレーム、
初めて意識し以ての一投目
6本
「 やっぱりあかん ・・・か 」
「 いつまでも ツキ が続くはずもなからうに 」
・・・そう想いつつ、投げた
二投目
なんと、なんと スペアー 取れたのである。
「 オーッ 」
・・・皆から、歓声があがる。
「 花田 いけるでー 」

この日の ツキ まだ 続いている。
「 イケる 」 ・・・私も、そう想った。

第8 フレーム 6本 + スペア

そして運命の、
第9フレーム 
ドキドキし以て 一投目を投げた。
ボールは、この日のこれまでのストライクの軌道をえがいて転んでゆく
「 オッ、ストライクゾーンや ・・イッタ 」
・・・と、そう想った。
トップピンの右半分が私のストライクゾーンである。
完璧に当った。 ・・・そう想った。
然し、完璧に当たった。 ・・・筈なのに、1
本残った。
然も、苦手の 10番ピンである。

「 アー いやな一本が残ったなあ 」
「 反って 1本とる方がむつかしいんや 」
・・・と、言いつつも
スペアすれば、200オーバー になる。
「 ドヤ 」 と ばかり、 皆の前で ええかっこ も、したい。
ここが勝負所である。
後ろで皆が固唾を飲んで見守る中、緊張の第二投目を投げた。
・・・・・・・・
「 ア~ッ 」
後ろの皆からから、溜息が・・・

10フレームを残し、スコアは 190

作文しているかの如き、まさか の展開である。
プレッシャーの中で、
自分の想い通りに事を運ぶこと、
相当の実力が必要である。
「 惜しかったなあ 」 ・・・では、すまされまい。
「 あと もうちょっと 」
・・・この壁を乗り越えることが、
どれほど難しいことかを
存分に想い知らされた。
プレッシャーに弱い ・・・は、力の無さゆえ

私の人生を振り返らば
このゲーム、
私の人生のサンプルのような
・・・そんな、気がする

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一緒に行ったろかぁ

2022年07月22日 17時30分24秒 | 3 青い鳥 1967年~

「 あの先生、いかりや長介に似てる 」
・・・と、面接官を指して母が言う。
清風高校、親子面接での待ち時間中のこと。
私の緊張を解す為
・・・にと、吾母の気遣いである。


面接は円形校舎で行われた
高校入試
昭和45年 ( 1970年 ) 1月
愈々、高校受験
公立高校に入るは絶対、失敗は許されない。
ブレッシャーとストレスの最中さなかに居た。
私立高校の入学試験 ・願書受付が始まると
やはり、不安は募るばかり
そこで
試験馴れにと、万が一の滑り止めにと、
言い訳がましいが保険とばかり、公立と私立を併願受験することにしたのである。
然し、これはあくまで、試験馴れ・・・だと、確と自分に言い聞かせて

どんでん返し
「 誰が言ったか知らないが 」
大阪電気通信高校 が公立との併願で受験出来ると聞くや
此処で、模擬テスト を受けたことがあり、アクセスには馴染みがある。
「 是幸い 」・・と、ばかり
勇んで、守口市橋波西之町に在る高校へ行軍したのである。
友ガキ ・舟木が行軍に付合って呉れた。 ・・・持つべきは友 哉
願書を受取っての帰り道は淀川堤
 2008年頃の豊里大橋

万博道路として完成直近 (マジカ) の豊里大橋を眺めつつ、帰宅したのである。
ところが
願書の書類を見て驚く勿れ
合格すれば即座に3万円の入学金を納めよ・・と
3万円は大金であらう。
「 なんやこれ、専願と同じやないか 」


振出しに戻り
併願できる高校を探さねばならない。
「 お前、どこにしたんや 」
「 清風高校にした 」
「 そこ、併願できるんか ? 」
「 できるよ 」
「 ほんまか、俺も清風にするわ 」
然し既に、多田、早坂、山崎 の三人、
連れ以て願書取りに行ったとのこと。
「 しもたぁ・・・」
私は清風高校が何処にあるのかさえ知らないのであるから
当然、そのアクセスの仕方も分らない。
独りでは何とも心細からう
「 困っちゃうな、どうしやう 」・・・冗談ではない、本当に困った。
救世主現わる
・・と

傍で話を聞いていた、同級生 tei
「 一緒に行ったろかぁ 」
・・・
と、手を差し伸べて呉れたのである。
よくよく、しょげている私を 見るに見かねてのこと
嗚呼、神様 仏様、tei
赤川橋から市バスに乗って上本町へ
清風高校は、まさに都会の真っ只中に在った。
そして
無事に、願書を受取ることができたのである。

学校を見学しよう・・と
狭い運動場を覗くと、
そこには放課後のクラブ活動に精進する多くの高校生の姿を認めた。
そして、未来の先輩達 ( ? ) から声がかかる。
「 君等、入学したらアメラグ部に入れよ 」

初めて見る、コスチュームは、さすがに、あか抜けていた
「 アメラグ ? 」
「 アメラグ 謂うたら アメリカンフットボール のことや 」 ・・・と、tei
紅い夕陽が校舎を染める
目的は果たした。
晩くなるから、さよならしよう

帰りのバス
帰宅する人、人、人で、もう満員のバス
坐れるところなぞ有ろう筈もない
窓外の景色を眺むれば、とっぷりと暮れていた
30分は経ったであらうか、そろそろ赤川橋に着く
満員の車内、出口へ移動しようと、吊り革を持つ手を外したところ
座席のサラリーマン、運悪くも同じタイミングで立ちあがったのである。
そして
私の左肘が座席のサラリーマンの頭上を打った
「 痛ッ !! 」
「♪ごめんなさいね わたしを許して~ 」
・・・と、心で詫びた。

救世主 tei 、本当に世話になった。
「 ちゃんと、お礼をしとくんやで 」 ・・・と、母親。
当時流行のボーリング場でのプレイをプレゼントしたのである。
・・・
リンク生涯最高のスコア

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8 大和撫子

2022年07月21日 07時02分22秒 | 8 大和撫子

大和撫子

        映画・野菊の如き君なりき・・・民子
目次
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大和撫子 は 日本女性の鑑

としていて、清楚
慎まやかで
一歩己の身を引いて男を立て、男に尽す
甲斐甲斐しい女性を謂う
男児は、大和魂
女は、大和撫子
5,6歳の頃 大人達から、そう聞かされた
私の親の時代の、理想像である

おさげ の女性

映画「美しい十代」の女優・西尾三枝子

昭和30年代
日本の高度成長の始まったこの時代
国全体は、まだまだ、貧しかった
しかし
明日のために、一生懸命生きようとした時代であった
明日に希望がもてる時代だったと思う
そして、何よりも
「優しさ」 を、大切にした時代だったと思う
♪ おさげが風にゆれていた
わすれないさ わすれないさ いつまでも ♪


七変化

琴姫さんの
悪を斬る強き、且つ、華麗なる姿に
たかが、8才の少年なるも
私は
女性の持つ 優しさを感じた
それは
主演の松山容子さんの
その、風格、気品から
その、優しい面立ち から
そう
感じとったのである
「女性は優しくて綺麗なもの」
・・・と

私にとって
琴姫さんは、やはり
憬れの
大和撫子なのである

二十四の瞳 花の絵
 松江
一つはなをまがったときである。
前の小ツルがきゅうに立ちどまって海のほうをながめた。
先にたつものにならう雁のように、みんなも同じほうを見た。
小ツルが歩きだすとまた歩く。
やがて、いつのまにかみんなの視線は一つになって海の上にそそがれ、歩くのを忘れてしまった。
はじめから小ツルは知っていたのであろうか。
それともたった今、みんなといっしょに気づいたのであろうか。
静かな春の海を、一そうの漁船が早櫓でこぎわたっていた。
手ぬぐいで、はちまきをしたはだかの男が二人、力いっぱいのかっこうで櫓を押している。
二丁櫓のあとが、幅びろい櫓足をひいて、走るように対岸の町をさして遠ざかってゆくのだ。
もうけんかどころでなかった。
なんじゃろ?
だれのうちのできごとじゃろう?
みんな目を見あわした。
消え去りつつ新しくひかれてやく櫓足から、岬の村に大事件が突発したことだけがわかった。
急病人にちがいない。船の胴の間にひろげたふとんが見られ、そこにだれかがねかされているとさっした。
しかし、またたくまに船は遠ざかり、乗りこんでくる人の判別もつかなかった。
まるでそれは、瞬間の夢のように、とぶ鳥のかげのようにすぎた。
だが、だれひとり夢と考えるものはいなかった。
1年に一度か二年に一度、急病人を町の病院へ運んでゆく岬の村の大事件を、
さかのぼって子どもたちは考えていた。
かつて小石先生もこうして運ばれたのだ。怪我をしたのか、急性の盲腸炎か。
なんじゃろう?
だれぞ盲腸の人、おったかいや?
あとから追いついてきた男の子もいっしょにかたまって評定した。
女はだれも声をたてず、男の子がなにかいうたびにその顔に目をそそいだ。
そんななかで松江はふと、今朝家を出かけるときの母の顔を思い浮かべた。
瞬間、黒いかげのさしたような不安にとらわれたが、そんなはずはないのだと、つよくうち消した。
しかし、頭痛がするとて顔をしかめ、手ぬぐいできつくきつくはちまきをした、
その結び目のところの額によっていた
もりあがった皺を思い出すと、なんとなく払いきれぬ不安がせまってきた。
はじめに、今日は父に休んでもらいたいといった母は、しかし父は仕事を休むわけにはいかなかった。
「松江を休ませりゃええ。」
父が、そういうと、そんならええといい、松江にむかって、
「学校、はじめてなのになァ。だけんど、遊ばんともどってくれなあ。」
思いだして松枝はどきどきしてきた。
するといつのまにか足は、みんなの先を走り出していた。ほかの子どももついて走った。
足がもつれるほど走りつづけて、ようやく岬の家並みを見たときには、
松江のひざはがくがくふるえ、肩と口とでいきをしていた。
村のとっつきがよろずやであり、そのとなりのわが家に、おしめがひらひらしているのを見て、
安心したのである。
しかし、その安心で泣きそうになった彼女は、こんどは心臓がとまりそうになった。
井戸ばたにいるのが母ではなく、よろずやのおばさんだと気がついたからだ。
はずんだ石ころのように坂道をかけおりた松江は、わが家の敷居をまたぐなり、
走ってきたそのままの足のはこびで、母のねている納戸にとびこんだ。
母はいなかった。
「お母さん・・・・・・・。」
ひっそりとしていた。
「おかあ、さん・・・・・。」
泣き声になった。よろずやのほうから赤ん坊の泣くのが聞えた。
「うわあ、おかあさーん」
力のかぎり大声で泣き叫ぶ松江の声は、空にも海にも
ひびけとばかりにひろがっていった


東洋の魔女

女性に、真のヒーローはあり得ない

昭和44年(1969年)、中学三年生の吾々 少年男子が
鮎原こずえ をとおして観たものは
真に
大和撫子
だったのである

「だけど涙がでちゃう 女の子だもん」

此は
永久に不滅である
・・・
そう想う

「私は待っています」 と、伝えて
私が少年の頃から今尚、擁き続ける
私の想う 「私の時代・昭和の女性」
が集約された詩であらう

歌は時代を反映すると謂う


男の人が そんな事してはいけません!!
昼食は、事務所の食堂代わりのテーブルで、皆と一緒に取っていた
お茶のサービスは、事務所の3人の女性がして呉れていた
食後の片付けから食器洗いまで、全て女性等がして呉れるのである
それが日常茶飯事
それが仕事の一部かの如く・・・何も特別の如くでもない
私は、それが当たり前 と想っていたのである

東京だよ おっ母さん
 

島倉千代子から
女性の  優しさ を感じる
それは
私の 女性への憬れ そのもので
幼き頃の 望郷の想い へと 
繋がってゆく
其は、吾母の懐・・・そんな気がする

郷愁
島倉千代子 が 唄う 「女性」
私に潜在する理想の女性像である

真の女性を感んじさせる眼(まなざし)

したむきなる眼差しは
控えめ、恥じらい
これこそ、大和撫子
日本の
女性のもつべきものであらう


絶世の美人
昭和・私の記憶
私が存した、昭和の時代に於いて
この、瞬間 こそ 華
これぞ 私の想ふ 
絶世の美人である

 

次頁
9 昭和・私の記憶 番外
に続く

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東京だよ おっ母さん

2022年07月20日 04時44分51秒 | 8 大和撫子


東京だよ おっ母さん

おっ母さん
おっ母さんとこうして 久しぶりに手をつないで
東京見物できるなんて とっても嬉しいは
ほら みてご覧なさい
あれが宮城 二重橋よ

久しぶりに 手を引いて 親子で歩ける嬉しさに
小さいころが 浮かんできますよ おっ母さん
ここが ここが 二重橋
記念の写真を 撮りましょうね

お兄ちゃん
千代子もこんなに大きくなりました

優しかった 兄さんが 田舎の話を聞きたいと
桜の下で さぞかし待つだろ おっ母さん
あれが あれが 九段坂
逢ったら泣くでしょ 兄さんも

ねえ お兄ちゃん
お兄ちゃんが登って遊んだ柿木も そのままよ
見みせた上げたいは

さあさ 着いた着きました 達者で長生きするように
お参りしましょうよ 観音様ですおっ母さん
ここが ここが 浅草よ
お祭り みたいに賑やかね

今なお 口遊んでいる
吾が生涯で一番好きな詩であり曲である。


島倉千代子から
女性の  優しさ を感じる
それは
私の 女性への憬れ そのもので
幼き頃の 望郷の想い へと 繋がってゆく
其は、吾母の懐・・・そんな気がする

久しぶりの道
歳を経て、「 爺 」 に、成った私
2012年の一年間
私は年長組の孫娘を 自転車の後ろに乗せ、保育所へ送り迎えした。
保育所への道程
大きな道路から 小さき道に さしかかると
私はきまって 「 東京だよ おっ母さん 」 を 口遊んだ。
それを背中で聞いていた孫娘
いつの間にやら 歌を覚えていた。
そして
私に合わせて 口遊むようになったのである。
孫娘は
共に 唄って通り過ぎた 小さき道 を
「 久しぶりの道 」 として記憶したのである。

「 久しぶりの道 」 から 「 まっすぐの道 」    ・・・リンク→手編みの プレゼント
と 続き
信号を右に曲がると 保育所が見える。
そこから 孫娘と二人
♪ さあさ 着いた 着きました・・

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手編みのプレゼント

2022年07月18日 05時54分23秒 | 5 青春のひとこま 1973年~


呼びかける声の 優しさに
愛がかくれている
小さなほほえみに
うずまいて 友だちとの出会い
悲しみの夜を 明日へとめざめる
答えを知らぬ きみにできるのは
ただ明けてゆく
青空に問いかけること

昭和51年 ( 1976年 ) 10月 ~ 昭和52年 ( 1977年 ) 11月
日本テレビ放映の 「 俺たちの朝 」 の主題歌である。
家族全員で視ていた、『 青春ドラマ 』 で、
特に、妹や母は、
毎週日曜日午後8時を、楽しみにしていた。
そんななかで
主役オッス ( 勝野洋 ) の妹役で、偶に登場した
17歳のニューアイドル 岡田奈々 ・・・私は、「 可愛いい 」 と、想った。

昭和51年 ( 1976年 )
この年の初めに発覚した ロッキード事件 は、
7月27日、
前の総理大臣・田中角栄 が、逮捕されると謂う、

とんでもない事態へと進み、
世の中が騒然としていた最中であった。


22歳の私は、と謂うと
昭和維新は見果てぬ夢
・・・と、専らの関心事は
「 偏らざる 之を 中 と謂い 」
「 易らざる 之を 庸 と謂う  」
一意専心
もう、夢中であった。

「 まっすぐの道 」
歳を経て、「 爺 」 に、成った私
平成24年 ( 2012年 ) の1年間、保育所へ孫娘を自転車で送迎した。
「 久しぶりの道 」 を、右に曲がると、線路伝いの小路になる。
土手に朝顔咲く 100m程の まっすぐ な小路 を、
自転車の後ろに 孫娘を乗せて走った。
走り以て私は
「 ♪ まっすぐ に、真っ直ぐに、生きてきたのに 」
「 ♪ まっすぐ に、真っ直ぐに、愛してたのに 」
「 ♪ 青春は分かれ道 」
・・・と、鼻唄で口遊んだ。
岡田奈々 「 手編みのプレゼント 」 の、唄い出しのフレーズである。
昭和51年 ( 1976年 ) 当時に流行った斯の歌
私は、此のフレーズだけ、覚えていたのである。
そのうち
「 ♪ まっすぐに、まっすぐに ・・・♪ 」 と、
孫娘の口遊む声が、
背中越しに 聞こえる様になり
それならと、
二人して、歌を覚える事にしたのである。
♪ きっとあなたは 都会の隅で♪・・やで、じいちゃん 」
「 そうか、そうか・・」 と、
私より先に覚えた孫娘に、教えて貰いながら
36年経って初めて、フルコーラスを唄ったのである。

リンク
東京だよ おっ母さん


まっすぐにまっすぐに  生きてきたのに
まっすぐにまっすぐに  愛してたのに
青春はわかれ道

きっとあなたは都会の隅で  私の顔も忘れるわ
周に一度の手紙もいつか  届かなくなる朝が来る
いやよいやです 「 さよなら 」 なんて
もうこれっきり  逢えなくなりそう
裏切ることが  男の子なら  信じることが 女の子なの

いやよいやですもうすぐ冬よ 
寒い都会で風邪ひかないで
そうよ心が凍えないよう
手編みのセーター  あなたにあげる

日本一 綺麗な少女

あの 「可愛いい・・と、想った」 岡田奈々
新たな想いで 当時を振り返って観ると
それはもう
なんと、綺麗な 少女 哉
そう、想った、私である。

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「サークル」

2022年07月17日 04時58分52秒 | 5 右翼青年 1974年~

昭和45年 (1970年 )、中学3年生、3学期の頃である。
私は、赤旗系の 『 サークル 』 への入会を誘われた。
同級生も、既に何人かは入会していると謂う。
だから、「 あなたもどうか 」 ・・・と。
同年代の男女が集まって、活動していく ものだと謂う。
『 サークル 』 と謂うもの、私は何にも知らなかった。
無知故の関心のなさ で、勧誘を断ったのである。 ・・・が然し。
「 男女が集まって 」 ・・・の言葉が、心の片隅に残った。

1969年1月18日 東大安田講堂事件 
いくら無知であった私でも知っている、記憶に残っている場面である

真友 ・長野から
「 今度の日曜日、仲間10人程でソフトボールするから来いよ 」
・・・と、誘われた。

昭和50年 (1975年 ) 5月18日 ( 日曜日 )
この日は、朝7時に起きた。
バスで、1時間もかけて西淀川の出来島へ。
そして、更に車で20分かけて、グランドに到着した。
着くと
学会の皆でソフトボールをするのだと聞かされた。
彼等は 私の仲間でも何でもない。
私はいきがかり
○○学会・西淀川地区主催の
『 ソフトボール大会 』 に、参加する羽目になったのである。
午前9時から競技は始まった。

その日の晩
その時の想いを
かきなぐったもの
である

そこには、健康な若い男女が集まっていた。
誰も皆、笑顔一杯。
嗚呼、これが 『 サークル 』 と、謂うものなのか。
なんと !
今の若者層のサンプルがそこに居るではないか。
それは、俺の想うイメージ、そのものであった。
俺は観た。
今の日本の若者のサンプルを。

女のてまえ、イキガッタ男。
それに愛想笑いする女。
なんとチャラチャラしている。
このての人種、俺は気にくわない。

軟派でも、 腕力 強かれば 憧れもしよう。
腕力 弱くても、インテリならば 尊敬もしよう。
しかるに、見る限り、彼等は普通の男女である。

なんと女の子の声援がシラジラシイ。
嗚呼 ・・・こんな女、俺はいらない。

何だ これは。
わざわざ、朝早く起きてまで、彼等と付き合わねばならぬのか。
くそ、おもしろくない。
こういった集まりには、必ず存る 「 出しゃばり野郎 」
俺に指図する。
無神経極まりなく、俺に指図する。
野郎・・・
無邪気にはしゃいで。

( 我慢も限界を超え、大会途中で、誘った長野と二人退場したのである )

はしゃいでいる彼等は、何も悪くは無いし何の責任も無い。
唯、俺は偏屈なる人間をめざしている。
而も、頑ななまでに。
その俺の信条と、彼等の行為に、ギャップがありすぎたのである。

最近の若には夢がない 」
俺は、常づね そう発信していた。
ところが
彼等も討論会で そう言っているんだと。
行動しない若者が増えた 」 ・・・と、嘆いているんだと。
嗚呼・・・
夢とは ロマン のこと
究極の行動とは 殉じる こと
彼等は それを知らない。

彼等は、真剣に 「 憂国 」 を、語り合っているんだと。
軽々しい。
憂国 とは 同胞の為に殉じる こと
相当な覚悟をもって、発言すべく事柄であらう。
彼等が、そんな覚悟を持っている筈は無い。
なにが 憂国か 
なに
が 幸福か
なにが 自分たちは活動している だ
所詮、 ままごと ではないか


左翼系だけに限らなかったが

「 サークル 」 と謂う活動をよく耳にした。
イデオロギーの時代の名残りかとも想う。
この頃の吾 関心は、
専ら
「 ナレは功を為せ、ワレは忠を為す 」 


又、斯の日 斯の事を、
真友 ・ 長野は自筆の 『 小冊 』 で、こう述べている。
・・・・・・
 S50.5.18日曜日、
□□学会・西淀川地区主催のソフトボール大会に未入会らもかかわらず、
未入会の H と二人して参加した。

会場となっているグランドには、
色とりどりのカラージーンズの若者達が思い思いのことをしながら集合の合図を待っていた。

9 : 00AM頃 ようやく集合の笛がなり、
その後大会宣言、選手宣誓、準備体操 その他のプログラムを消化し、9 : 30AM頃プレイボール。

----女の子の黄色い歓声、
5ガロン缶をたたいての声援、手拍子、口の減らないはりきり小僧、

3本のストライプの入ったジャージ姿の女の子の、
ホームからセカンドへの Niceスローのあとの あの得意そうな顔つき、
ボールを満足にスローイング出来ないライト、三振する人----Etc---。

その試合の結果を知ることもなく、また知りたくも思わず、
グランドを去ったのは 10 : 30 AM 頃だったろうか。

それからぼくは考えている。
----この大会に集った多くの若者
そして この大会そのものは いったい何なのか!?
 ほんとうの若者らしさとは、ほんとうの行動とは。   S50.5.18 Sun  」

5月18日の このソフトボール大会と この記録とは、思わぬところで関係してる。

ぼくは5月18日の記述のとおり考えた。
この日の一コマ一コマを再現しながら、一語一語を思いおこしながら。
------------
「それならば、オマエ自身はどうなのか。
オマエ自身は何をしていると言い切れるか。」
という、この頃きまっての重苦しい結論がそこに待ち受けていた。

この時ぼくは 「それならば オマエ自身は----」
という自問に どうしようもなく答えられなかった。

答えられない自己への憤りが、
「それならば オマエ自身は----」 を増巾し 

さらに新たな そして大きな憤りを生んでいくという袋小路へと、ぼくを追いたてていった。
そして この記録 ( その時は エッセーと呼んでいた ) を書くという思いつきは この時おこった。
この記録のいちばん始めに 「何故エッセーを書こうと思ったのか」 という見出しで、
5月18日の自分を振り返りながら、袋小路に追いつめられたあの時のぼくは こう書いている。
創価学会主催、ソフトボール大会
何故エッセーを書こうと思いたったのか
ソフトボール大会に中途半端なかたちであれ参加し、

その後 この大会に参加した多くの若者を偽善者を見る眼差しで見つめ、
大会そのものを偽善的行為ときめつけた。

5ガロン缶をたたいての声援とか手拍子、
女の子の黄色の歓声、大会宣言とか ラジオ体操
----その他もろもろの行為が、

ぼくの目には しらじらしくうつろいやすい、
もうどうだっていい、ある空しさを伴って写ったからだ。

しかし そんな眼差し、
いろんな事に対して空しさを伴った眼差しで自分のまわりを見わたしてみると、

全対象に 「空虚」 というレッテルを貼らざるを得なくなることに気がついた。
と同時に この 「空虚」 の裏側に 「充実」 がかくされていることに気がついたのだ。
空虚な眼差しで自己の世界をみわたせば 
世界は空虚な存在となって ぼくの心に横たわる。

これはあたかも色メガネをかけて世界をみたようなものである。
水色の色メガネをかけて 真赤なバラの花を見たことしよう。
そこに見えるは真赤なバラではなく水色で偏向された どす黒いバラだ。
水色の色メガネの世界は、水色で汚された 嘘の色の世界である。
ところで、空虚という特殊色メガネで 
ソウトボール大会を見たとき 空虚さで汚された世界の裏側に

「充実」 の世界の存在に気づいたのは どういうわけだ。  S50.6 」
以上のことを書いているときのぼく、
そう袋小路に追いつめられたときのぼくは、
"充実さを感じる自己" ではなく、

"空虚さを感じる自己" を否定する自分でしかなかったと思える。
・・・・

此が、真友 ・長野の為人である。

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サンタは煙突から入って来る

2022年07月16日 06時44分25秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

昭和36年 ( 1961年 ) 12月、
クリスマスツリーを飾ろうと
栄 ・叔父にせがんで、「 天神鼻 」 へ
私は、絵に描いたようなクリスマスツリーが欲しかった。
松林の天神鼻、
・・・有ろう筈も無からうに



テリトリー・
行動範囲に物語が有る

叔父と共に探したモミの木


天神鼻に登り
二人して
当時は無かった天神鼻トンネル付近を暫らく探していると
「 あったどー、これでええか 」
・・・と、手斧を片手に持つ叔父から声が上がった。
それは、私のイメージしたものに近い、小ぶりの樅の木であった。    (モミノキ)
「 えかったのぉ 」 ・・・と、叔父。
切取って持ち帰って呉れたのである。
「 サンタクロースが来ますように・・」
7歳の私は
躍る様な気持ちで、クリスマスツリーを飾ったのである。

写真は
大阪 大川 源八橋のメタセコイヤ 
2007.12.24 撮影

こんな形のクリスマスツリーが欲しかった

サンタクロースは煙突から入って来る
クリスマスの当日
三ノ瀬の町に住む級友達は、サンタクロースからプレゼントが有ったと言う。
大きな靴下を枕もとに置いて寝った翌朝、
中にお菓子が入っている紅いサンタのブーツが入っていた・・と。
「 ええのおー 」
我家には、サンタクロースは来なかったのだ。
「 わしも、靴下置いて寝たのに 」
「 どうしてなんじゃろう ? 」
「 せっかく、クリスマスツリーをこしらえたのに・・・」
「 サンタクロースは、町には来ても、丸谷の者の所には来んのじゃろうか 」  ( マルヤノイナカモンノトコロニハコン )
「 どうして、うちにはサンタが来んのじゃ ? 」
・・・と、母に問うと、
「 サンタクロースは煙突から入って来るんで 」
・・・
と、母が言う。
うちにはサンタが入って来る煙突がないから
・・・と、そう云うのである。
「 フーン 」
私は、我家の 『 クド 』 を観て、納得したのである。

 ←クドのイメージ

和36年 ( 1961年 )
水道も無く、水瓶に溜めた井戸水を柄杓で掬って飲んだ
冬場の暖は火鉢、やぐらコタツ
火種は、木炭や豆炭を使っていた。
ご飯や煮物はクドで焚いた、魚はシチリンで焼いた。
それが日常の、そんな時代であった。
・・・リンク→寄りそいあって生きた時代
金持ちのことを 『 グベンシャ 』 と、謂った。
丸谷に比べて三ノ瀬は町、都会であった。
井戸からポンプアップして蛇口に送水したり、電気こたつで暖を取る。
ご飯は電気釜で焚き、プロパンガスで調理する。
・・・そんな、 『 グベンシャ 』 が、いたのである。

生活レベルが、チョイト違ったのである。

我家にプロパンガス、電気釜が入ったのは、物語の翌年の昭和37年
此れでも、丸谷の周りの家より早かった。

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