昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

がり勉

2016年05月17日 13時00分41秒 | 3 青い鳥 1967年~

「 花田君 がり勉 やてね 」
〇〇〇が そう云った

昭和44年7月20 日 (日) アポロ11号・人類が初めて月面に立った
私は、リアルタイムでTV放送を見ていた

がり勉
昭和44年 ( 1969年 )
高校受験の模擬テストの結果に偏差値なる わけの分からない採点方が導入された。
中学三年生、5組の
頭の中は、受験モード に成ってゆく
家での 独学 は、もちろんのこと
45分の授業が終わると、次の授業までの 10分の休憩時間
昼食後の昼休み、と
参考書・グリップ、を読み、問題集・アタック、を解いた。

当時
「♪ ぶん ぶん 文英堂 文英堂の参考書♪」
「 旺文社のばらシリーズ こちら ( クレージーキャッツの ) バカシリーズ 」 
・・・等が、TVコマーシャルで流れていた。

このこと、クラスでは、私一人ではなかったが
大方、くつろいでいる皆の中にあって、その姿が際立ったのであらう。
かくして 私の がり勉 の風評は
クラスを跨いで、1組の 〇〇〇 にまで、とどいたのである。

成り上がり者
成績の良くなかった私
二年の晩秋、
一念奮起して勉強を始めたところ、成績が上がった。

・・・「 蛙の子は蛙 」 ~挿入
救いの神
然し、中学での成績が、あまり良くない
偶に輝る時はあった
けれど、概ね 並 でしか無かった
このままでは、いけない・・・と、思いつつ
かろうじて100番以内に入っていた成績が
中学二年の中間テスト(4月)で、127番/293人まで下がったのである
「将来の進路が危うい」・・焦りだした
そんな時
隣近所の大学生・久田さん
大阪へ移住してきてから、私を近所の子として、可愛がって呉れていた
「花田君、今度の試験の答案用紙、見せて ミィ」
「・・・」
「勉強、教えて上げるから、家においで」
「一年の数学と英語の教科書を持ってくるように」
なんで一年から?・・と 思ったが、素直に従った
勉強はきびしかった
惨めな思いもしたし、腹も立った
けれども、文句は言わない
文句を言うのは、恥ずかし事だと思っていた
教えを乞うとは、そういう事だと思っていたのだ

親父には弟子がいた
「弟子とは」・・親父は晩酌の肴に、講釈をタレタ
師匠と弟子の関係、子供のころから側で見聞きしているのである
文句は言わない」  ・・ものと

基礎から勉強する
数学の問題は、よく読んで、解けるまで、一つ ひとつ 解いて行く
英語は、頭で覚えず、自然に手が動くようになるまで書いて覚える
これが、できるようになると、成績は上がった
そして、将来の希望が持てるようになったのである
是 ひとえに
無報酬で教えて呉れた久田さんのおかげである
・・・リンク→蛙の子は蛙

嬉しくなって、一段努力すると
これまでが低かったので、当然のことだが
成績は上がる は 上がる それはもう、100人以上ごぼう抜き、
遂に、トップに昇りつめた。 ( ・・・と、そう容易く、行くものか )
が然し、勉強することが楽しいと想う程になったのである。
 坂谷先生
「 花田、数学 英語は上がったのに、社会は落ちとるぞ 」
・・・と、社会科の坂谷先生 ( 一年生時、地理の担任 )
「 一年生の時は、あれほど良かったのに・・・・ 」
地理だけは、抜群の成績だった私
坂谷先生、自分の教え方が悪いのかと、想ったみたいである。
「 社会は勉強してません 」
社会科だけは、試験前の勉強だけで好成績はとれる。
私は、きっぱりと
「 社会の分、数学・英語に回しています 」 と、そう答えた。
社会の抜群の突出した分を 数学、英語に振り分けたのである。
先生 「 そうか・・・」 と

成績が上がると
クラスメートとの視線の位置が変わっていく
これは、私には想いもよらぬことであった。
そしてそれは、全く以て 快感であった。
努力することで得る 達成感 を味い、
勝つ喜び を知ったのだ。

そして、成り上がっていく自分を実感したのである。

吾 人生に於いて、
最も勉強した瞬間 (とき) であった。
吾ながらよくぞ頑張った。
・・・と、そう想っている。

自習する旧制高校の学徒
だれも皆、将来のため勉強したのである 


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