もう一つの 昭和・私の記憶

『 昭和・私の記憶 』 の、続編
吾生涯を物語る

男のロマン・生涯一の大風景

2022年11月03日 | 男のロマン 1975


生涯一の大風景
昭和49年(1974年) 11月24日
皇居・桜田門から 昭和維新を眺望する


二十歳にして
それは
生涯一の大風景であった
大東京の重々しい空気
冷たく突き刺さる様な空気
神達の存た
警視庁が、内務省が、国会議事堂が、三宅坂台上が
私は、そこから
昭和維新を一望したのである
「 なにかやれる 」
「 自分も、何か大きな事がやれる 」
一生一大の偉業・・
そんな気持ちが、込上げてきたのである
是が  男のロマン  と
そう、感じたのである
・・・・生涯一の大風景 から

昭和50年9月、私は斯の時の想いを
『俺は自尊心の強い男』 と題する小編の中に
「 男のロマン 」 として綴った  ・・・俺は自尊心の強い男  1975.9.6
私の拙文を吟読した
親友・長野は、次の感想文を綴ってよこした


斯の頃
親友・長野が謂う 「 力の方向 」
私と彼の 「力の方向 」 は、次元が異なっていた
だから
現実主義の彼に、私の「 男のロマン 」 なぞ、分るべくもない
それは、
私が 彼の 「力の方向 」 を、理解できなかったように


昭和50年(1975年) 21歳の私は、

男のロマン・・此を 吾人生の主題 と 誓った
そして 今
65年の吾人生を顧て、総括してみて
私の 男のロマン
20歳の私が
昭和維新を一望したとき 感じた 男のロマン であり
その正体は
磯部浅一 
20歳に決意したる
革命を為す は 男子の本懐 
茲に 他ならない

コメント

男のロマン 1975

2022年11月01日 | 男のロマン 1975


男のロマン
目次

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男のロマン 大東京 二・二六事件 一人歩き (一)
序 
自我はダイヤの原石

一、昭和四五年一一月二五日(水)  三島由紀夫の死
昭和45年(1970年)11月25日(水)
「三島由紀夫、市ヶ谷台上にて、クーデッタを促し、壮烈なる割腹自殺 !! 」

二、昭和四九年一月 二・二六との出逢い
19才
「自分は日本人である」 という潜在意識の核心を はっきりと自確したのである
それは、「己の自我なるものがダイヤの原石である」 と
天皇から始まった、私の自我の追究は、さらに
日本人とは如何 に続く
この追究が、二・二六事件の蹶起将校との運命的な出逢いとなったのである
それは、逢うべくして逢った
而して 神達に恋い焦がれた私は 嘗て、神達の存した東京へと、その想いは募っていく
そして 38年前の男のロマンを求め  神達の面影を求め、東京へ
第一部
男のロマン
一、歴史との出逢い 昭和49年11月23日(土)
二・二六事件慰霊像

昭和維新から 三十八年
時は流れた 観音像をとり巻く空気は変った
今や、神達を知る者はいない
淋しそうな観音像の顔に神達の想いを偲ぶ
「かの子等は あをぐもの涯にゆきにけり 涯なるくにをひねもすおもふ」
・・・同じく一年後に処刑された、西田税の詩である
NHKの建物を透して、観音像の眺つめる先は 青雲の涯 なのであろうか
大東京の空は低く垂下り、私に肌寒く重苦しくのしかかってくる
私の内なる空も亦、今にも泣き出しそうな
「来年、又、来ます」・・・そう誓った
男のロマン 大東京 二・二六事件 一人歩き (二)
二、尊皇討奸 昭和49年11月25日(月)
桜田門
昭和49年11月25日(月) 市ヶ谷で三島由紀夫が自決して満四年 何と 運命の日か、因縁の日か
天高く 大東京は快晴で、空は何処までも澄みきってゐた
冷たく突き刺さるかの如き空気が私の想いを演出する
大東京に来た
私は 
昭和維新を訪ねて唯独り 皇居二重橋から桜田門に向った
桜田門・渡櫓門横に石段がある 上ってはならない との 立札があった
「上ろう」


塀越しに見た風景は、素晴らしきものであった
私は眼前に拡がる 
警視庁を、内務省を、国会議事堂を、三宅坂台上を 
それはもう、パノラマの如く
昭和維新の光景を、一望したのである
警視庁
警視庁正面に立った
「警視庁占拠成功 !! 」
山王ホテル

「尊皇討奸」
昭和維新の象徴である
神達はこれを、合言葉にも使った
昭和49年11月25日(月)
念願の 山王ホテル に 私は遂に来た
昭和維新の朝
あの、尊皇討奸の旗 が、たなびいた、当時の姿のままなのである
   
昭和11年2月27日・尊皇討奸の旗を掲げる蹶起部隊
これぞ 昭和維新
昭和維新の風を肌で感じた気になったのである

ところが、何故か入口に 警備の警察官が立哨している
「ここもかぁ・・」
何故であらうか
「写真が撮れない・・・」
「普通に、普段どおりに行動するんだ」 と
警察官に尋ねた
「中 (建物) に入って、写真を撮りたいのですが」
「ここは今、アメリカの将軍が泊まっていて、ホテルは治外法権に為ってゐる、入れません」
「駐車場 (建物の外) からの撮影だけでも、構いませんから」
「写真を撮りに、大阪から来たんです」
「それなら (駐車場なら)、自分はもうすぐ、警備の時間が終わるので、一緒に入れてあげます」
「そうですか、ありがとうございます」
「それまで、外 (道路) から写真を撮ってます、構いませんか、外なら良いでしょう」
「外からなら、構いません」
警察官の対応が以外であった
「こんな、警察官も居る」
東北なまりの警察官  私は、その素朴な人柄に心をうたれ、嬉しくなった
首相官邸
予想はしていたが
正門には警備の警察官が二人立っていた
その横にも居た  向うにも居る
官邸内にも一個小隊、居る
国会議事堂
当時は未だ工事中で完成直近かであった
然し、その雄姿たるや当時の侭である
三宅坂台上
三宅坂台上の階段に
私は一人坐りこんだ
そして
桜田門から警視庁の風景を一望した

神達は此処から、眼前に拡がる雪景色を眺めたであらう
そしてそれは、昭和維新の景色と映ったであらう

階段に一人 佇むると
山王ホテルでの、首相官邸での昂奮に酔って忘れていた
大東京の冷たく突き刺さる空気を、覚醒したのである
そして、覚醒したる私が
眺めた景色は
昭和49年11月25日(月)・・・であったのだ
皇居外苑
往復、何時間 歩いたのであらうか
時刻は午後二時
二重橋の人影は未だ未だ多くも
大東京の晩秋、夕暮れは早い

大東京の空は、冷たく吾が肌に突き刺さる
人影より離れて、吾一人
呆然と景色を眺めながら、「君が代」 を口遊む  それは 呟きの如く
「帰ろう」
警視庁も、山王ホテルも、首相官邸も、国会議事堂も、その姿は38年前と変わらない
変っているは、世の中であり、それを取巻く大東京の空気であり、其処に私が存るという事である
「来年、又 来ます」
そして、万斛の想いを残したまま、あをぐもの涯 に逝った
神達の想いを探してみよう

男のロマン 大東京 二・二六事件 一人歩き (三)
第二部 
昭和維新
私は、新たなる昭和維新を発掘した
そしてそれが、大東京への想いを一層募らせた
昭和維新の聖地
一年をかけた想いを成就せんと体調を整えた 金も貯めた
撮影にと、念願の一眼レフカメラOM1を準備した
かくして 21才の青年の私 単独 満を持して大東京へ
一、大東京は雨  昭和50年11月22日(土)
桜田門
然し、天は水をさす
低く垂下る空
国会議事堂も、三宅坂台上も、雨粒の

警視庁

内務省交差点
新しく発掘したる神達の聖地である

虎ノ門
私は帰りを急ぐ、人々と同じく、虎ノ門を素通る
虎ノ門・・国立教育会館・・東京くらぶ・・霞ヶ関ビルを横目に首相官邸の裏門の交叉点へ出る
私は交叉点を、官邸の裏口へ渡る
そして、今回の目的の一つ首相官邸の裏にある、溜池からの坂道
第一の角を右に折れる
「さあ、これからだ」
立哨の警察官が一人いる
第二の折角前に立っている
警察官の前を素通る そして、左に折れる
「オオッー、なんと・・」
左に折れた私が見たものは
まさに、今回求める、昭和維新であった
右上に首相官邸
有刺鉄線のついた塀には、更に看視カメラが警戒する
左下に山王ホテル
ぐっと上る坂道
上り切ると右直ぐは官邸の正門となる
路の途中に、立哨の警察官
11月22日、晩秋の大東京の空は如何にも重苦しい
そして、緊張の冷たい時が流れている
何と異様な空間哉
それを 大東京の雨が、一層効果を醸す
無情と想ってゐた彼の雨が、此処では味方する
警察官が胡散臭そうに私の顔を睨んでいる
彼の前を上る私は満足しきっていた
三宅坂台上
雨き降りしきる  
時刻は午後二時哉  もう、薄暗い  大東京の夕暮は速い、三時半には夕暮だと
手に持つ鞄が重い
半蔵門
イギリス大使館辺りで、雨が一時止む
半蔵門からは坂道は下る  然し、それにしても長い道程りである
脚は痛む、胸も痛い、腹は減る  歩けど、歩けど、
内濠通りを竹橋へ向かう  時刻は三時半  ・・・もう、かなり歩いた
竹橋

新に発掘したる昭和維新の聖地である
その想いたるや、桜田門をも凌駕した
毎日新聞社を背に竹橋見らば、そこは昭和11年だった
降り続く雨が、雪ならば、真に昭和維新の朝である
平河門

「竹橋と同じだ」
と、感激したが、私の体は私の想いを凌駕した
・・・疲れた
本日の予定を終えよう

男のロマン 大東京 二・二六事件 一人歩き (四)
二、大東京は雨 昭和50年11月23日(日)
今日も雨哉 二日続けての雨哉
二・二六事件慰霊像
昨年の昭和49年11月23日、「来年、又、来ます」 と、誓った
本降りの雨の中
今年は此の日しか無いのだから  せめて、僅かなる想いでも叶えたい
写真だけでも撮ろう、観音像を拝もう・・・と
男のロマン 大東京 二・二六事件 一人歩き (五)
三、二・二六事件 一人歩き 昭和50年11月24日(月)
(一) 平河門 → 靖国神社大鳥居
昭和50年(1975年)11月24日(月)
私の一念は天に通じた  大東京は朝から快晴
満に満を持して  二・二六事件 一人歩き が叶う

1年間の想いを、この一日を以て爆発せしむる
然し、大東京の夕暮は早い  晩秋の大東京の一日は短い 即ち、写真の撮影は午後四時迄となる
時刻は午前11時  大東京は快晴  天高く、何処までも澄みわたる
私は、頗る元気である
昭和維新の壮大なる浪漫を  「勇躍する、歓喜する、感慨たとへんにものなしだ」
竹橋
昭和維新の証し と、竹橋は物語る
たかが39年  歴史的時間からすれば、つい昨日のことのような
然し  想えば、39年後の今  
私がこうして、此処に立っている
靖国神社大鳥居

既に 
吾が心 此の地に非ず
次の目的地
あの、三島由紀夫の市ヶ谷台上に、心が逸る
市ヶ谷・・・
男のロマン 大東京 二・二六事件 一人歩き (六)
(二) 市ヶ谷台上 → 幸楽
歩けど、歩けど、台上を一望する処がない
 
探せど、探せど
とうとう
見ぬ恋人とは、逢えなかった
肩を落とした影一つ


幸楽が無い
脳裡に焼付いた地図  瞼を閉じぬとも、確認出来るというに
幸楽ありて、山王ホテルあり 亦、山王ホテルありて、幸楽あり
何れが欠けても、私の昭和維新の想いは叶はない
されど・・・幸楽は既に無く
ホテルニュージャパンが、昭和50年の姿となりと
市ヶ谷然り  幸楽然り  私は落胆した
男のロマン 大東京 二・二六事件 一人歩き (七)
(三) 山王ホテル → 霞ヶ関ビル
山王ホテルは一年前と何等変わらない
なれど、落胆拭えぬ侭 仰ぎ見るも 
一年前の感動は無い

私は、山王ホテルを後にして
「溜池からの道」 に向うべく、山王ホテルの裏道を進む
路の途中、左に折れるば
雨の22日に知りたる、あの、首相官邸の裏道・溜池からの坂道につづく
緊張感漂うあの坂道を、もう一度上って見たい・・と
きっと、そこには、「男のロマン」 を、見つけることが出来よう
・・・
入口にさしかかる
「折れまいか」
例の機動隊の車が待機している、雨の日より増して警戒厳重なる
軀は動けず、心は折れる
「ああ、通り過ぎてしまう・・・」
滔々と、素通る
溜池の道まで出てしまった
私は臆病者なのか
何が男のロマンだ、何が昭和維新か・・と、謂う勿れ
行動するとは、たとへ捕まらんとも吾行かんだ
よほどの決心がなければ出来ぬものと
  
首相官邸の高いコンクリート擁壁を左に、溜池からの道を上った
黄色に色づく銀杏並木の右は、霞ヶ関ビル
歩くは、私一人哉

首相官邸裏門
立哨の警察官が二人
「ここから写真を撮りたいのですが」
「・・・・」
「二・二六事件の関係で、写真を撮りに大阪から来ているのです」
 (21才の青年の私)
「卒業論文か何かね」
「いえ、学生ではないのです、個人的に調べている者です」
「写真くらいなら、撮っても構いませんよ」
霞ヶ関ビル
エレベーターで昇るにつれ、気持ちが昂ぶってゆく
何と、地上150mから、大東京を見渡す
「オオッー」
「万歳、万歳、万歳」

昂奮冷めやらず  地上に降り立つ
男のロマン 大東京 二・二六事件 一人歩き (八)
内務省交叉点

交叉点での撮影を以て、フィルムは切れた
「大事哉・・」
今日は、振替休日(勤労感謝の日)
休日ならずとも、こんな処で、フィルムを置く店など、ざらに在ろう筈もなかろうに
「如何せん・・・」  咄嗟に閃きしが、日比谷公園の売店
元気なるかな、吾は日本男児・・と  意気揚々、日比谷公園へ馳せる
「元気、元気、元気・・」
日比谷公園に向かう、歩道橋の階段を、2段づつ駆け上がる
「元気、元気」・・そう、声を発しながら
皇居二重橋
時刻は午後二時過ぎ
のんびりとは、しておれぬ
霞ヶ関ビルでの昂奮もすっかり醒めた
此の日、最大の目的地 歩兵第一聯隊、歩兵第三聯隊は、これからだ
未だ、疲れの認識は無い・・も
この僅かな間に、晴空は曇り空に  とにかく、急ごう

桜田門下
すっかり曇り空に  吾が心、センチメンタルに
三宅坂台上
大東京の空は低く垂下る
国会議事堂正門を素通り、地下鉄国会議事堂前へ
此処はまぎれも無く、日本国の中心地なるぞ
プラットホーム迄、異様に深い階段を下る
国会議事堂前・・赤坂・・  そして、乃木坂へ
昭和50年11月24日(月)  時刻は午後二時半を過ぎて久しい
大東京の夕暮は速い  増々急がねばなるまい・・・
栗原中尉の歩兵第一聯隊、安藤大尉の歩兵第三聯隊
そして神達が集った竜土軒を訪ぬるは  是が最後の締め括り
乃木坂
竜土軒は無い
曾て、神達が集いし竜土軒は存在しない
即ち、神達の集うべく処は無い
私の神達に逢いたいとの想いは叶わないのか
歩兵第一聯隊
「歩一は残っている」
防衛庁の建物に代ってはいるが、歩兵第一聯隊の一部が、その儘の姿であった
 
神達は、この衛門より出発したが
昭和維新の夢は、叶わなかった
「中隊長殿と供に死にます」 と、下士官兵
「兵を見殺しには出来ぬ、兵に賊軍の汚名をきせられぬ・・・兵は帰そう」
かくして、下士官兵は、帰ってきた
歩兵第三聯隊
 
歩三の衛舎も、その姿は変わらない侭でいる
「散るや万朶の桜花」
然し、神達は、ここに帰っては来なかった
そして今、私が此処に入る
歴史とは、かくなるものや
昭和50年11月24日(月)
私の、二・二六事件 一人歩き ・・は かくして終わる
もはや 大東京に、男のロマンは無かった
午後三時半 今、私は乃木坂に一人居る
然し、神達は居ない
昭和維新の魂は、今も暗雲漂う大東京の空を彷徨うか
・・・完
昭和50年12月21日 納筆
コメント

男のロマン 大東京 二・二六事件 一人歩き (一)

2015年10月18日 | 男のロマン 1975

男のロマン 大東京
二・二六事件  一人歩き
序 
自我はダイヤの原石

一、昭和四五年一一月二五日(水)  三島由紀夫の死



昭和45年(1970年
)11月25日(水)
「三島由紀夫、市ヶ谷台上にて、クーデッタを促し、壮烈なる割腹自殺 !! 」
リンク→男一匹 命をかけて 三島由紀夫の死 雷の衝撃

これが私の人生の始まりだった
(註・高1、二学期水曜日・授業後のホームルーム、担任より知らされた)
自分が何の知るところなくも、時は流れている
16才だった私は、介錯付の割腹に驚愕した
それは、身震いする程の感動であった
厚き想いが込上げてくる、私は涙ぐんでいたかも知れない
( 註・ことの本質は異なるも、あの 「 恥ずかしながら、帰って参りました 」
と、横井正一兵長のグァムから帰還時

私は胸が厚くなった  しかし、とうていこの比ではなかった、)
私の受けた衝撃は、それはもう凄まじいもの
重々しい雰囲気の中での重苦しい気持ち
それは、血を見たとき、心臓が脈打つ音を聞く・・・に、似た 興奮であった
然し、私の何が、こうも衝撃を受けたのか
この時私は分からなかったのである
その衝撃が 私にとって如何程のものか、判らなかった
私の潜在意識の何が喚起されたか、はっきりとは気付かなかった
とはいえ、一大衝撃を受けた事は確かである
そしてそれは、私の意識の奥深く刻み込まれた
是まで私は、「吾は日本人」という認識を有していなかった
三島由紀夫の割腹という行為そのものは、まさに武士道なるもの
然し
私が受けた衝撃は
あの重々しい雰囲気は
あの重苦しい気持ちは
そして、あの興奮は
大時代的武士道とは異なるものと
不確かではあるが、そう感じたのである
確かにそれは、16才の私の潜在意識を喚起させたものであった
然し、それは未だ漠然としたもので核心にまでは至らなかったのである
「機は未だ熟してしなかった」 ということであらう

二、昭和四九年一月 二・二六との出逢い



昭和49年1月21日(月)
会社の帰り、先輩に伴い大阪梅田の旭屋書店に
先輩につられた訳ではないが、書棚に目を遣っていた 
そして、居並ぶ書籍の中から、なにげなしに目にとまったのが
「天皇制の歴史心理」
それは、偶然の如くか 必然なりしか
私は 「天皇」 と出遭ったのである
「天は、自分にこの本を読ませようとしている」

最初の一歩を踏み出した私
以降、勢いづいて止まらない
    ( リンク→ 私の DNA )

「天皇とは日本人の意志の統合である」
「大御心は一視同仁にあらせられ、名もなき民の赤心と通ずるもの
」 
「赤心の赤子たる日本人」 
「日本人の赤心は必ずや天に通ずるもの」 云々、と

真の日本人というものが、如何なるものかを 分っていなかった私
而して 
私の潜在意識は、目覚めたのである
「是だ」
「私は驚いた、自分が求めていたものが そこに有る」
「自分が求めていたのはこれだ、私は歓喜した」
「自分を見つけたのだ」 
「自分とはこういう人間なのだ」

19才
「自分は日本人である」 という潜在意識の核心を はっきりと自確したのである
それは、「己の自我なるものがダイヤの原石である」 と

天皇から始まった、私の自我の追究は、さらに
日本人とは如何 に続く
この追究が、二・二六事件の蹶起将校との運命的な出逢いとなったのである
それは、逢うべくして逢った
「蹶起の青年将校こそ、至誠の日本人である」 そう確信したのである
これにより 私は鑑を得たのである
真に天命であらうか
昭和45年11月25日の三島由紀夫の自決 の意義はここにあったのである
(註・割腹は武士道への憧れに、武士への憧れになってゆく・・・私も武士に成りたいと)
日本人としての最高の価値は、日本の為に殉死することである
殉ずる事が最高の美である
そこに男のロマンがある
「日本人であると言う意志」
「日本人であるが故に自分は存在する」
「日本人である自分こそ、自分が最後に護るべきものである」
そう想う自分を、私は誇りに思ったのである
そして

「自分はだれよりも誇り貴き男」 と、展開してゆく
(註・昨年、三菱グループ爆破事件があったが、あれ等は日本人の行う革命とは言えない、
 日本的な方法ではない、日本人なら剣を執って、ただ斬れ !! 、斬ったら自刃せよ )
私にとって
二・二六の神達こそ、唯一絶対の日本人である
純真無垢なる日本人である
そして、英雄であった
日本人の原石たる私が、二・二六の神達に憧るるは当然のこと

而して
神達に恋い焦がれた私は
嘗て、神達の存した東京へと、その想いは募っていく

そして
38年前の男のロマンを求め
神達の面影を求め、東京へ

第一部
男のロマン

一、歴史との出逢い 昭和49年11月23日(土)
  二・二六事件慰霊像

二、尊皇討奸 昭和49年11月25日(月)
桜田門 → 警視庁 → 山王ホテル → 首相官邸 → 国会議事堂 → 三宅坂台上 → 皇居外苑

第一部
男のロマン

昭和49年11月23日(土)

一、歴史との出逢い 昭和49年11月23日(土)
  二・二六事件慰霊像

私は、再び訪れた・・・

・・・・三ケ月前の8月7日のこと・・・・
東京駅・丸の内南出口からタクシーに乗った

「渋谷区役所へ」
「シブヤ・・・」
このタクシー、大丈夫かな・・ 
「NHKホールの前」
そう云いかえすと、タクシーは出発したのである






タクシーはNHKホール前交叉点に着いた
目の前に大勢の若者が居て、それは、祭りの如く賑やかであった
然し、肝心要の渋谷区役所が判らない
道路向にパラソルの露店をみつけた
斯の売り子に尋ねてみようと、わざわざ道路をわたったのである
「渋谷区役所は何処ですか」
「後ろですよ」
「後ろ ?」
なんと私は、渋谷区役所を背負っていたのである
私の脳裡には、目的の位置はしっかり焼付いている
渋谷区役所の隣りが渋谷公会堂、更に渋谷税務署と続く
渋谷公会堂での、コンサートに由り 大勢の若者が集まっていたのである
・・
目的地は直ぐそこ哉、気が逸る
そして

「ああ・・・あった」
一人 声無き歓声を上げた私
「神達と逢いたい」 との、夢が現実のものと成りし瞬間である
やっと、辿り着きし
二・二六事件慰霊像
神達の処刑場跡地に建立されし、慰霊像
昭和49(1974年)年8月7日(水)
二十才の私 昭和維新の神達と 初めて直接接点を持ったのである
言い替えらば
歴史との、記念すべき感動の 出逢いであった

・・・・・私は再び訪れた
渋谷区宇田川町の渋谷税務署の北西隅の極狭い一角に存る
旧陸軍刑務所内の、二十二士の処刑場跡に昭和40年2月26日に建立されたものである
昭和49年11月23日(土)
曇天の雲は低く垂下り、空は今にも泣き出しそうな
晩秋の東京は肌寒く、人影も少ない
偶に通りかかる人々は慰霊像には、全く関心を示さない・・しかし、私は無関心な彼等と違う
斯の私は只一人、感慨の中に浸っていたのである
「此の位置で、此処で、神達は殺された・・・」
「この哀しみ、忘れてはならない」
神達(蹶起将校)は、「天皇は現人神であり、至誠至純は神に通ずるもの」 と、信念していた
然し、天皇に忠誠を誓い、天皇の御為に、この日本国を本来の姿にしようと蹶起したるに
その神達(蹶起将校)の真意は、雲の上までに通じなかったのである
天皇の御為にと、その純真、恋闕なる天皇観の基に蹶起した
されど、天皇の名よる裁判によって処刑されたのである
「皆、聞いてくれ 殺されたら、血だらけのまま陛下の元へ集まろう・・・」
と、香田大尉の叫び声が聞こえる
神達(蹶起将校)
こそ、その忠誠心が至純な日本人ではないか
なれど
「天皇陛下万歳」 は、神達の最期の絶叫は、届かなかったのである
この哀しさ、この悲運
ああ天は・・
「国体を護らんとして逆徒となる  万斛の恨  涙も涸れぬ  ああ天は」・・・安藤輝三
万斛の恨み・・・悲痛なひびきが私の胸をうつ



昭和維新から 三十八年
時は流れた
観音像をとり巻く空気は変った
今や、神達を知る者はいない
淋しそうな観音像の顔に神達の想いを偲ぶ

「かの子等は あをぐもの涯にゆきにけり 涯なるくにをひねもすおもふ」

・・・同じく一年後に処刑された、西田税の詩である
NHKの建物を透して、観音像の眺つめる先は 青雲の涯 なのであろうか
大東京の空は低く垂下り、私に肌寒く重苦しくのしかかってくる
私の内なる空も亦、今にも泣き出しそうな
・・・
「来年、又、来ます」・・・そう誓った

次頁 男のロマン 大東京 二・二六事件 一人歩き (二) に 続く

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男のロマン 大東京 二・二六事件 一人歩き (二)

2015年09月18日 | 男のロマン 1975

男のロマン 大東京
二・二六事件 一人歩き

第一部
男のロマン

二、尊皇討奸 昭和49年11月25日(月)



桜田門
昭和49年11月25日(月)
市ヶ谷で三島由紀夫が自決して満四年
何と 運命の日か、因縁の日か

天高く
大東京は快晴で、空は何処までも澄みきってゐた
冷たく突き刺さるかの如き空気が私の想いを演出する
大東京に来た

私は 
昭和維新を訪ねて唯独り
皇居二重橋から桜田門に向った

桜田門・渡櫓門横に石段がある
上ってはならない との 立札があった
上りたい・・」
「上って、見たい」
「・・」
「上ろう」
意を決して 上った
大東京の重々しい空気に、今にも押し潰されそうな
そんな心境であった私



塀越しに見た風景は、素晴らしきものであった
私は眼前に拡がる
警視庁を、内務省を、国会議事堂を、三宅坂台上を
それはもう、パノラマの如く
昭和維新の光景を、一望したのである

二十才
それは
生涯一の大風景であった
「なにかやれる」
「自分にも、何か大きな事がやれる」
「一生一大の大偉業・・」
そんな気持ちが湧き上がってきたのである
「是が 男のロマン なのだ」
そう、感じたのである

石段を降り、桜田門をくぐると目前に、権力の象徴たる警視庁が、その姿を現わす
堂々たるものである

警視庁
警視庁正面に立った

・・・「警視庁占拠成功 !! 」 ・・・

午前05:00
野中大尉が突如正面玄関にツカツカと入っていった
「吾々は国家の発展を妨害する逆賊を退治するために蹶起した。貴方達にも協力して頂きたい」
「そのような事件が起ったのなら我々も出動しなければならない」
「最早やそのようなことを言ってゐる時ではない。
既に各方面で事態が展開しているのだ。
今更警視庁の出る幕ではない」

「警視庁はじっとしておればよい。ゆうことを聞かねば射撃する・・」
「時期は切迫しておりますゾ、躊躇はできません」
相手はなかなか従う様子が見えない。
すると常盤少尉が サッと抜刀して
「グズグズ言うな、それならお前から斬る ! 」 
「判りました。日本人同志の撃ち合いは止めましょう」
・・・・
 
警視庁占拠、の 一幕である

国を憂うる誠 を以て、蹶起した神達
昭和維新はこうして始まった

38年の時が流れても、神達の日と変わらぬ姿の警視庁
今、私は同じ地に立っている
「嗚呼、此処に野中大尉は居たのだ」

正面に向って右は 参謀本部、陸軍省の存った三宅坂台上へと続く
そして、左は、内務省、虎ノ門へと続く

何れの方向も、厳重なる歩哨線が布かれ、交通は遮断されていた
何処も彼処も
昭和維新の日に、神達が意気軒昂・闊歩した聖地なのである

私は左へ向かった
脳裡には昭和11年の地図が シカと焼付いている
次ぎなる
目的地は山王ホテルである

警視庁から内務省(現自治省) 交叉点、外務省交叉点
外務省から大蔵省への横断歩道を、トランシーバー片手の警察官と共に渡る
外務省、大蔵省間の路を、国会議事堂に向う
上り路である
上りきるとそこに、国会議事堂がその大きな姿を現わすのである

快晴の空の下
神達の轍を踏み踏み・・・黙々と歩いていく
国会議事堂を横目に溜池へと向う
脳裡には昭和11年の地図が焼付いている
想定したる道順である
想定どおりに首相官邸の裏口にさしかった



あの雪の日の朝
栗原隊300名が首相官邸へ、更に丹生隊200名が陸相官邸に向った分岐点なのである
ここに歩哨線が布かれた
まさに、要所なのである
昭和維新の朝
神達は如何なる思いで、ここに轍をしるしたことであらうか

首相官邸の裏門には、トランシーバーを持つ警備の警察官が立哨している
私は立哨の警察官に山王ホテルまでの路を尋ねた
(註・写真の撮影が可能か否かを確認する為、警察官の態度を見てみよう
 ・・と、そんな気になったのである
然し、やはり、写真の撮影は憚る雰囲気にあった。私は怯んでしまった。
如何なる情況なりとも、冷静に対処して目的を達成するという覚悟が足らなかった・・・後で想うことである)
と、反省しつつ
首相官邸裏の背の高いコンクリート擁壁を右に溜池に向って下る
脳裡には昭和11年の地図が焼付いている
此処で右折すると、其処には、山王ホテルがある、快晴の空の下、足どり軽やかに下っていく

                

ところが、其処で右折したところ、山王ホテルの裏側に出た

   

私の脳裡に焼付いたる昭和11年の地図どおりには ゆかなかったのである

裏から表へ

山王ホテル



「尊皇討奸」
昭和維新の象徴である
神達はこれを、合言葉にも使った
二十才の私は
どうしても、神達に逢いたい  そう想ったのである

昭和49年11月25日(月)
念願の 山王ホテル に 私は遂に来た

「オオーッ」



昭和維新の朝
あの、尊皇討奸の旗が、たなびいた、
当時の姿のままなのである

                    

これぞ 昭和維新
昭和維新の風を肌で感じた気になったのである

ところが、何故か入口に 警備の警察官が立哨している
「ここもかぁ・・」
何故であらうか
「写真が撮れない・・・」
「普通に、普段どおりに行動するんだ」
と 警察官に尋ねた
「中 (建物) に入って、写真を撮りたいのですが」
「ここは今、アメリカの将軍が泊まっていて、ホテルは治外法権に為ってゐる、入れません」
「駐車場 (建物の外) からの撮影だけでも、構いませんから」
「写真を撮りに、大阪から来たんです」
「それなら (駐車場なら)、自分はもうすぐ、警備の時間が終わるので、一緒に入れてあげます」
「そうですか、ありがとうございます」
「それまで、外 (道路) から写真を撮ってます、構いませんか、外なら良いでしょう」
「外からなら、構いません」
警察官の対応が以外であった
「こんな、警察官も居る」
東北なまりの警察官
私は、その素朴な人柄に心をうたれ、嬉しくなった

丹生部隊、安藤部隊 の入場は・・
「・・・
26日の夕方、一番最初に丹生さん(丹生誠忠中尉)が山王ホテルにお見えになりました
・・
丹生さんたちがいらっしゃって一時間くらいでホテルを貸す交渉が決まり、
さらに一時間ほどして百八十人ほどの兵隊さんがきました

「自分の部下だから」
と、丹生さんは言って、玄関から入って来られました。
そして玄関のところの宴会場に敷いてあったジュータンをはがして、毛布を敷いてお寝みになりました。
・・
二十九日の朝二時頃、二百人くらいの兵隊が、白襷に白鉢巻で、ラッパを吹いて入って来ました。
・・ホテルの方には、支配人の方がいらっしゃいましたからのぞいて見ましたら、
将校の方が玄関でご挨拶なさって、それからゆっくり入っていらっしゃいました。

それが安藤さん(安藤輝三大尉)でした。
お連れになった兵隊は、普通の食堂のところに、軍装のままで背嚢だけを外してお寝みになりました。
・・・」
・・

同じだ あの日と同じだ 変っていない
私が今立っている此処に、神達も居たのだ

・・・と、38年前に想いを巡らせたのである
私は、昂奮一番
元気が湧き出して、もうどうにもとまらない
然し
名残は尽きぬども、次の目的地首相官邸に向うべく 「溜池からの道」へ

---溜池からの道---
「・・・・二月二十六日午前四時、各隊は既に準備を完了した。
出発せんとするもの、出発前の訓示をするもの、休息をしているもの等、
 まちまちであるが、皆一様に落ちついた様に見えるのは事の成功を予告するかの如くであった。

・・・・村中、香田、余等の参加する丹生部隊は、
 午前四時二十分出発して、栗原部隊の後尾より、溜池を経て首相官邸の坂を上る。

その時俄然、官邸内に数発の銃声を聞く。いよいよ始まった。
勇敢する、歓喜する、感慨たとへんにものなしだ。
(同志諸君、余の筆ではこの時の感じはとても表し得ない。
とに角云ふに云へぬ程面白い。一度やって見るといい。
余はもう一度やりたい。あの快感は恐らく人生至上のものであらふ。)

余が首相官邸の前正門を過ぎるときは早、官邸は完全に同志軍隊によって占領されていた。・・・・
(・・磯部浅一 行動記)

雪の日、神達が首相官邸をめざし、踏みしめたる路である
神達と同じく、溜池からの路を上って歩かば
私も
「官邸内に数発の銃声を聞く」 ことが 出来るやも知れない
・・・と

そして 遂に
昭和維新の中心、首相官邸・正門に着く

首相官邸
予想はしていたが
正門には警備の警察官が二人立っていた
その横にも居た
向うにも居る
官邸内にも一個小隊、居る

私は、構わず、正門の中央に立った
「 なんだ君は !! 」
30才代の警察官、凄い剣幕であった
取押えられるかと想った
「どこから 来たんだ !! 」
「二・二六事件の関係で、写真を撮りに大阪から来ました」
「学生か」
「いいえ、社会人として働いております」
こんなこともあらうかと、会社で作って貰っておいた、身分証明書を警察官に見せた
「ここは、二・二六事件では、本拠地となつた処なので、写真を撮りたいのです」
「大阪から、わざわざ、来たんです」
ここで、ようやく警察官の厳しい顔が緩んだ
「今、山王ホテルへも行って来たところです」
「そうか、あそこは、本拠だったからな」
「ここからなら、撮って構いませんか」

警察官の凄い剣幕に怯んでしまった私、挙句の写真が是 ↓



是だけで、精一杯であった
けれど
何故かしらん、正門が開いたまま
「 もしも、
私が いきなり
正門を突っ切って、官邸内に入らんとしたなら
実現したであらうか・・・」
・・それは、一つの物語り
そういうのも、あったかなあ・・・とは、後で想うもの
もしも は 夢物語也 である

政治が混乱した、この年
田中角栄 総理大臣が、金脈問題で追及を受け、11月26日・辞任を発表した
その前日なのだから
首相官邸の警察官の緊張も至極当然の事なのである

昭和11年2月26日、神達は昭和維新をめざして
蹶起した
その、神達の面影を尋ねて見たい
との、私の想いは、募り積り
蹶起から38年後の 昭和49年(1974年)
二十才の私
とうとう、昭和維新の地を一人踏みしめたのである
山王ホテル然り、首相官邸然り
そこで私は
昭和維新の風を肌で感じ、神達の面影を見た
・・・そんな、気になったのである

首相官邸正門から国会議事堂へ向かう
衆議院面会所の門から、地下鉄国会議事堂入口前を素通り、衆議院通用門前から国会議事堂正門へ

国会議事堂

当時は未だ工事中で完成直近かであった
然し、その雄姿たるや当時の侭である



昭和維新・最後の決戦場として、蹶起部隊の本拠として村中大尉、野中部隊が布陣した
然し、神達は皇軍相撃など夢想だにもしなかった
一滴の血を流すことなく、皇軍相撃は回避されたのは、神達の天皇への忠誠心にほかならぬ

若し、玉砕覚悟と、神達が何処までも意地を通していたならば
今の この国会議事堂の建物はどうなっていたであらうか
史実に若し・・は無い
何れにしても、国会議事堂は今も其処にある

国会議事堂の存在は、神達の至誠・赤心、その忠誠心の証しに他ならないのである

---単身、蹶起部隊に乗込む---
(27日)・・・正午過ぎに「電通」を徒歩で出かけた。
・・・冷たい雪の道をすべりながら、私は議事堂の方向に向かって急いだ。
「 とまれ ! だれか ? 」
鋭い誰何の声と共に、白だすきの歩哨兵が銃剣を擬して寄ってくる。
「香港から帰った宇多中尉だ。安藤大尉に云ってくれ ! 」
私は恐るる色もなく答えた。
私の態度に圧せられたものか、歩哨は ハッ ! と道を開いてくれた。
こうして二度、三度、私は内務省の坂を上って議事堂に近づいた。
そのころまだ建築中の国会議事堂は板塀囲いで、
 その板塀の上から青竹につるした 「尊皇討奸」の白いノボリが一旒ぶらさがっていた

中では何やら訓示の声がする
今の参議院西通用門の口にまわってのぞいて見ると、
 安藤大尉ができかけの石段の上に立って、部下中隊に訓示と命令を達しているところであった。

時刻はたしか午後三時ごろであった。
「小藤大佐の指揮下に入り、中隊は今より赤坂幸楽に宿営せんとす・・・・」
よくとおる安藤の声がハッキリ聞こえてくる。
・・
私は安藤が命令下達を終るまでと思って、門の外へたたずんだ。
やがて安藤中隊長を先頭に、彼の中隊はラッパを吹きながら外に出て来た。
・・ 

・・議事堂は神達の日と同じとは謂え、もはや周囲にその面影はなかった

三宅坂台上

陸軍省、参謀本部、陸相官邸があり、陸軍の中枢の地であった
38年前の雪の朝、神達は此の地で奔走した
三宅坂台上は、安藤部隊、坂井部隊により、占拠され
両部隊は、半蔵門から赤坂見附にかけて歩哨線を張り、交通を遮断して、厳重なる警戒態勢を布いた
まさに、三宅坂台上は昭和維新の義軍により、完全に制圧されていたのである
「昭和維新なれり」
誰もが、そう確信したのも当然である

   

そして今、私は神達と同じ地に居る
然し、神達の靴跡を見つけることがでなかった
此処は今、昭和49年でしかなかったのだ

「此処に陸軍省が、そして此処には参謀本部が、存ったのに」・・・と

参謀本部・・・
(28日
)・・昼近くであったと思うが、磯部さんが血相を変えてすさまじい勢いで首相官邸にやって来た。
栗原中尉と私(池田少尉)のいる所へ来て、
参謀連中は駄目だ、徹底的にやっつけなければいかんと言い、林に向って
「オイ、林 参謀本部を襲撃しよう」 と言った。
林は黙っていたが、栗原中尉は、そこ迄やってはお終いです。
それは止めましょうと 穏やかに反対していた。
・・

・・・との、私の想いは届かない

 

---三宅坂台上の歩哨線---
「・・・・第一歩哨までくると車を止めて、助手台の田中弥が飛び降りた。
 そして右手を高くあげて、「尊皇」 と、どなる。

 そうするとすぐ歩哨が答えて、「討奸」 っていうんだ。
 尊皇、討奸が山と川との合言葉ってわけさ。
 それで田中が 「野戦重砲兵第二聯隊長 橋本欣五郎大佐 ! 連絡ずみ ! 」
「ようし、通ってよし ! 」
そこで田中が車で乗り込んで次へ行くと、第二哨というのがある。
それも 同じように通って、大臣官邸までくると下士哨だ。
大がかり火を焚いて着剣の銃を構えたのが一五、六名いたが、すさまじい光景だったね。
なかなか厳重なもんだよ。
ここでも 同じようなことをすると、
「それは遠路御苦労でござる。容赦のうお通り召され ! 」
哨長は 曹長だったが、芝居の台詞もどきで大時代のことを真顔で言ったね。
まったく明治維新の志士気取りだ。」
・・・
陸相官邸の警戒線はこのように三重になっていた。最後の内戦は下士官が見張っている。
決行部隊の司令部だけに厳重であった。
・・

三宅坂台上の階段に
私は一人坐りこんだ
そして
桜田門から警視庁の風景を一望した

神達は此処から、眼前に拡がる雪景色を眺めたであらう
そしてそれは、昭和維新の景色と映ったであらう

階段に一人 佇むると
山王ホテルでの、首相官邸での昂奮に酔って忘れていた
大東京の冷たく突き刺さる空気を、覚醒したのである
そして、覚醒したる私が
眺めた景色は
昭和49年11月25日(月)・・・であったのだ

三宅坂台上から桜田濠淵内通りに降り、桜田門をくぐる
途中、濠淵では、三人連れの若き女性が皇居・桜田門を背景に記念撮影をしていた

皇居外苑
往復、何時間 歩いたのであらうか
時刻は午後二時
二重橋の人影は未だ未だ多くも
大東京の晩秋、夕暮れは早い

大東京の空は、冷たく吾が肌に突き刺さる
人影より離れて、吾一人
呆然と景色を眺めながら、「君が代」 を遊む
それは 呟きの如く

「帰ろう」

警視庁も、山王ホテルも、首相官邸も、国会議事堂も、その姿は38年前と変わらない
変っているは、世の中であり、それを取巻く大東京の空気であり、其処に私が存るという事である

「来年、又 来ます」

そして、万斛の想いを残したまま、あをぐもの涯 に逝った
神達の想いを探してみよう
・・・

この日は、三島由紀夫の四回目の憂国忌が行われた

大東京

東京の大きさを
つくづく、思い知らされた
私である

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コメント

男のロマン 大東京 二・二六事件 一人歩き (三)

2015年06月18日 | 男のロマン 1975

男のロマン 大東京
二・二六事件 一人歩き

第二部 
昭和維新

昭和49年11月25日に於ける一人歩きで20才の私は、男のロマンを感じた
歓喜した、凛々と勇気が湧いた
その想いは吾が人生最大のものであったろう

そして 
「来年も又来ます」 と、堅く誓った
その想いは、増々募っていく
全く同じ想いに浸りたい

昭和50年(1975年)5月2日
1億人の昭和史 
二・二六事件と日中戦争 
毎日新聞社編
を購入した
中味の写真は、初めて知るものばかりであった
私は、新たなる昭和維新を発掘した

そしてそれが、大東京への想いを一層募らせた

・・・昭和維新の聖地
坂下門 二重橋 桜田門、警視庁、内務省交叉点、虎ノ門の交叉点、山王ホテル 幸楽 
赤坂見附 三宅坂 半蔵門、千鳥ヶ淵 靖国神社 九段坂 九段下軍人会館 平河門 竹橋
歩兵第一聯隊、歩兵第三聯隊、竜土軒 青山通り・高橋是清邸 陸軍大学
首相官邸、三宅坂台上 
そして三島由紀夫の市ヶ谷台上
・・・と、想いは壮大に

一年をかけた想いを成就せんと
体調を整えた 金も貯めた
撮影にと、念願の一眼レフカメラOM1を準備した

かくして 
21才の青年の私
単独 満を持して大東京へ

  

一、大東京は雨  昭和50年11月22日(土)



東京駅 → 丸の内 → 皇居坂下門 → 皇居二重橋 → 桜田門 → 警視庁 → 内務省交叉点 → 虎ノ門 → 首相官邸裏道・溜池からの坂道 → 三宅坂台上 → 半蔵門 → 靖国神社横九段坂 → 九段下交叉点 → 軍人会館 → 竹橋 → 平河門

昭和50年(1975年)11月22日(土)
一年間、満を持したる
男のロマン 大東京
二・二六事件 一人歩き

新大阪は快晴
午前9時10分
いざ 大東京へ

想い出すは、一年前の11月25日
桜田門からの眺望、治外法権の山王ホテル、警察官が包囲する首相官邸、そして三宅坂台上からの眺望・・
あの昂奮今一度
そして、新たに発掘したる昭和維新の聖地
此処から、彼の地を、そして 彼の地から此処を見返そう・・と
計画は万全なり
シッカリ 脳裡に刻み込んでいる
大東京一人歩き 其処には 男のロマン がある
と、一人 想いを走せる
なにせ・・東京迄は3時間と20分、時間はたっぷり有るのだから

京都、名古屋、天気は快晴・・全てが頗る順調

ところが
浜名湖が見える頃、雲行きが変わる
大井川を渡ると、暗雲低く垂下り、道路が、屋根が、湿っている
・・・昨夜、大阪の空には雲があった
  東京は・・・雨哉
静岡の茶葉が濡れている
蜜柑も濡れている
富士山は曇の中、姿が無い
・・・東京は雨哉
横浜は雨

新幹線の窓外に国会議事堂が薄っすらと見える
午後12時30分
東京に着く

東京は雨
嗚呼・・東京は雨哉

東京駅
何たる事か
此日の為に、全てを今日此日の為に結集すべく、精神も体調も最高たらしめた
昭和50年は、今日此時に全てがあったのだ
なのに
天は水を濺ぐ
嗚呼 雨哉

・・・「神達の許へ いかう」

丸の内

大東京の表
閑散とした街並みが大東京を感じさせる

昨年東京駅を出て、最初に見たるは、右翼の宣伝カーであった
大阪では出くわす機会は無い
「さすが、大東京」 と、感心したる

丸の内南口ホールから出た私は
中央郵便局へ渡り、三菱重工のある三菱本館・・丸ビル・・丸ビル・・東京海上火災ビルへと進む

TBSテレビ映画「Gメン75」の東京海上火災ビル
(写真、昭和49年11月25日撮影 → )
高校の同窓西尾と共に新建築と見学したるは、昨年のこと

横断歩道、信号は赤
この雨の中、待つ気にもなれず、ビル前の地下道入口を潜り、和田櫓門の地下道入口から出る
皇太子御成婚記念公園を右に皇居外苑に着く
東京は雨
誰れ一人 人影はない

皇居坂下門
大蔵大臣・高橋是清に天誅を下したる、近衛歩兵第三聯隊、中橋中尉が第二目的として赴いた処である
然し、修理中らしく白いテントにて囲われている
坂下門は雨哉
感慨なぞ有るべくもない
素通り
砂利敷きの歩道を二重橋へと向かう

皇居二重橋
人影一つ無く
一瞬、降雨が止まるも、そのまま素通り
桜田門へと続く
途中、この雨の中、雨合羽姿で掃除する人影一人
「御苦労様です」 と、心で呟く

桜田門

あれから一年、此処をどれ程 恋焦れたものか
然し、天は水をさす
写真の撮影は出来ぬども、せめて、見るだけでも良い
生涯一と感激したる あの風景を、もう一度眺めてみたい・・と
 !
雨の中、監視員が居る 何故か
あの石段に上れない
嗚呼

桜田門の門下より、警視庁、三宅坂台上を眺める
 (其時の吾が気持ちを映した風景が是↓)



低く垂下る空
国会議事堂も、三宅坂台上も、雨粒の中

桜田門から警視庁前へ
人影は・・ポツポツ

警視庁



左手に重い鞄、右手で傘をさして歩いている
然し、写真を撮りたいとの、欲求を抑えきれない
どうする哉
屋根か庇は何処に
警視庁の道路向に法務省前に地下鉄日比谷線の「霞ヶ関入口」を、認める
気は逸る
然し、入口前にトランシーバーを持つ警察官が立っている
「駄目か・・」 と、怯む

警視庁より法務省前・・自治省人事院ビル・・今回の目的地なる内務省交叉点に着く
(註・自治省人事院ビルは昭和11年当時は内務省であった為、私は そう呼んでいる。
 更に、内務省、外務省、中央合同庁舎、法務省の交叉点を、外務省交叉点と、そう呼んでいるのである。
 これは、私の昭和維新に対する想いからと謂えよう)

内務省交差点

新しく発掘したる神達の聖地である
雨は降りしきる
私は今、交叉点の法務省側に立っている
眼前には、昔の侭の姿でいる内務省を、一人呆然と見ている
地下鉄入口は有りしか柱が視界の邪魔をする
時刻は午後一時半過ぎ
帰宅の途に就く官公庁の人々が、道に溢れている
彼等は一斉に各々の職場から飛出しているかの如く

(洋々、見つけた合同庁舎ビルの1m程突出した庇の下から、
  人影が途切れた所を撮影したものである ↓ )


そして
内務省交叉点・・中央合同庁舎前・・外務省交叉点・・通産省・・郵政省・・TOTOビル・・虎の門へ

虎ノ門

交叉点中央に島がある
島には、交番がある
昭和11年と変わりはない
昭和維新の朝、交番横には重機関銃が据えられ、交叉点には歩哨線が張られていた

然し、その面影なく
私は帰りを急ぐ、人々と同じく、虎ノ門を素通る

虎ノ門・・国立教育会館・・東京くらぶ・・霞ヶ関ビルを横目に首相官邸の裏門の交叉点へ出る
溜池からの道に、私は一人 霞ヶ関ビルを背に立っている
(註・溜池は向って左)
昭和維新の朝
溜池から上って来た野中部隊が、私の眼前を右に行進して行く、めざすは警視庁
そして、磯部大尉を殿においた栗原部隊は、丹生部隊は、私の眼前で左に折れ正面の坂道を上って行く、めざすは首相官邸
昭和維新の大浪漫を抱いて、行進していく・・・雪を踏む軍靴の音が轟く・・・彼の如く
 (註・空想、昭和11年には此処に溜池から警視庁へと続く路は無かった)

交叉点右向う側に一個小隊か 機動隊の装甲車、さらにパトカーが居る
物々しい警戒である
「こりゃ、すごい哉」
(註・今は権力を欲しい侭にしているかの機動隊、基は新撰組と謂われ、事件の際、蹶起軍には歯が立たなかった)
官邸裏門には、立哨するトランシーバーを持つ警察官の姿もある
「何故、こんなに厳重なのか」
此日の朝刊に大阪梅田の銀行かが爆破されたとの記事あるが、その所為なのか
「今日は、無理かな・・・」

私は交叉点を、官邸の裏口へ渡る
そして、今回の目的の一つ
首相官邸の裏にある、溜池からの坂道

第一の角を右に折れる
「さあ、これからだ」
立哨の警察官が一人いる
第二の折角前に立っている
警察官の前を素通る そして、左に折れる

「オオッー、なんと・・」
左に折れた私が見たものは
まさに、今回求める、昭和維新であった



右上に首相官邸

有刺鉄線のついた塀には、更に看視カメラが警戒する
左下に山王ホテル
ぐっと上る坂道
上り切ると右直ぐは官邸の正門となる
路の途中に、立哨の警察官
11月22日、晩秋の大東京の空は如何にも重苦しい
そして、緊張の冷たい時が流れている
何と異様な空間哉
それを 大東京の雨が、一層効果を醸す
無情と想ってゐた彼の雨が、此処では味方する

警察官が胡散臭そうに私の顔を睨んでいる
彼の前を上る私は満足しきっていた

坂道を上りつめると、そこは昭和50年であった
首相官邸は警察官により悉く包囲されているではないか
右に一人、左に二人
官邸正門には、四、五人、立哨が警備する
私の眼前には、一個分隊・15名程の、さぞかし強かろう大男の機動隊員だ
私は機動隊員と並行して歩く
正門前では、立止まりたかった
しかし
知恵の絞るべくも無い
こんな場面で、撮影なんかできるものか
「嗚呼・・首相官邸」

首相官邸・・衆議院議員面会所・・国会議事堂裏の並行して隼町方向に歩く
私は機動隊と並行して歩いている
機動隊以外で歩いているは私一人
左手には薄汚れた鞄、まさか捕まりはしないだらうか・・との
私の心配をよそに
彼等は議事堂の植込のサツキを丁寧に、なにやら探し以て進んで行く
爆発物でも探しているのであらうか

昨年見た、国会議事堂の表姿も美しかった
そしてそれは、裏から見ても美しい姿であった

参議院議員面会所を右折し、三宅坂台上へ

三宅坂台上
雨き降りしきる

時刻は午後二時哉
もう、薄暗い
大東京の夕暮は速い、三時半には夕暮だと
手に持つ鞄が重い
私の握力は右40、左20 と極端なる右利き
既に左手では鞄は持てない
換えた右手も痛くなってきた、更に足も痛い
東京は坂道がことさら多い

大東京は雨
三宅坂台上から眺める景色は無い

三宅坂台上・・最高裁判所・・内濠通りに出る
国立劇場前のバス停留所の人溜りを素通り、半蔵門へと歩く

半蔵門

・・・半蔵門の歩哨線
歩哨は突進してくる自動車を認めると
「止まれ!」
と両手をあげてどなった。

自動車はとまった。
車中の司令官は 「止まるな!行け!」
と、はげしく叱るが、前方の兵隊達のものものしい警戒におそれたのか、運転手は躊躇した。
副官も司令官をなだめて引き返えさせそうとした。だが、岩佐中将は頑としてきかない。
不自由な身体を副官に支えられて車を降りると歩哨の前に立った。
「俺は憲兵司令官岩佐中将だ。お前らの指揮官に会いに行くのだ。ここを通してくれ」
中将と歩哨との対決である。

「駄目だ! かえれ、かえらないと撃つぞ」
司令官は、兵のこの態度に、いかり全身をふるわせながら、

「お前はそれでも天皇陛下の軍人か」
両頬には涙が流れていた。

この有様を後方から眺めていた下士官が、「問答無用だ。早くかえれ! 撃つぞ!」
と、大声でどなった。

すでに一人の兵隊は重機の引金に手をかけている。
傍の副官は、この緊迫した突気に、
「閣下、間違いのないうちに引返しましょう、大切な仕事が沢山のあります」
副官はムリに司令官を車の中に押入れて後退した。
・・

・・・と、
然し、昭和維新の面影は無い
只し、濠の深きこと、濠の美しきこと
印象的であった

イギリス大使館辺りで、雨が一時止む
半蔵門からは坂道は下る
然し、それにしても長い道程りである
脚は痛む、胸も痛い、腹は減る
歩けど、歩けど、
想えば、安藤部隊も此路を行軍したのだ、彼等は意気揚々と

やっと千鳥ヶ淵
ここで確認の為、地図をひらく
鈴木侍従長邸は此の辺り・・と推測すれど、詳細なる位置確認する余裕が無い
路は又上り坂に
九段坂病院迄歩くと、靖国通にぶつかる
長い道程りはつづく

靖国神社横・九段坂
(註・靖国神社中腹から九段下までを謂う)
九段坂の歩哨線 ↓

靖国神社の大鳥居が見える
神社参拝は後日にと
とにかく、九段下迄下って行く

靖国神社の大鳥居、偕行社跡に建つ無愛想な住宅公団ビルを横目に、九段坂を下り終わる

九段下交叉点
九段下交叉点は後日にと
軍人会館(現九段会館)へ急ぐ

軍人会館

戒厳司令部の置かれたところである
和洋折衷の建築的にも立派なもので
まして、その姿は昭和維新の朝

内濠通りを竹橋へ向かう
時刻は三時半
・・・もう、かなり歩いた

竹橋

新に発掘したる昭和維新の聖地である
その想いたるや、桜田門をも凌駕した
毎日新聞社を背に竹橋見らば、そこは昭和11年だった
降り続く雨が、雪ならば、真に昭和維新の朝である
後日に撮るべく位置を心に刻み、悦びの中
次の目的地、平河門に向う

平河門

「竹橋と同じだ」
と、感激したが、私の体は私の想いを凌駕した
・・・疲れた
本日の予定を終えよう

降り続く雨の為、鞄は持った侭歩いた
鞄の中には、二泊三日分が詰まっている、軽くは無いのである
そして、時間の経過と共に重くなっていく
それはもう、右手にしたり、左手にしたり
脚は痛く、もうどうしょうもない
立止まり、腰を掛けて休息することも適わず、只ひたすら歩きつづけたのだから
然し、今日の、二・二六事件 一人歩き は終ったものの
宿泊する、東京YMCAホテル迄の道程りは、更につづく

平河門・・和田櫓門・・東京海上火災ビル・・神田美土代町 と、もう、うんざりするほど歩く、そして又歩く
いったい、どれ程歩いたか
晩秋の大東京の日暮れは早い、ましてや雨
ホテルに着いた頃には暗くなっていた

此日は、朝食抜き、東京駅八重洲口地下街での昼食はラーメン、是でよくぞ、頑張れたものである
それは
昭和維新への篤き想い
そして、何よりも
21才の若き青年の愚直なればこそ、為し得たもの
・・・そう想う

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男のロマン 大東京 二・二六事件 一人歩き (四)

2015年05月18日 | 男のロマン 1975

男のロマン 大東京
二・二六事件 一人歩き

第二部
昭和維新

二、大東京は雨 昭和50年11月23日(日)
今日も雨哉
二日続けての雨哉

天は今日も、水をそそぐ
けれども
私の一念 
冷まさせてなるものか

午後からは、高校の同窓・田淵と合う
それまでの半日、渋谷に行こう
一年前と同じ日に
それが、今回此日の予定だった



昭和49年11月23日
「来年、又、来ます」 と、誓った
二・二六事件慰霊像
来年こそは半日、佇まん・・と

然し
大東京は今日も雨
半日佇まんとする、私の想い虚しく
予定を断念せざるを得なかった

本降りの雨の中
未練が残る
今年は此の日しか無いのだから
せめて、僅かなる想いでも叶えたい
写真だけでも撮ろう、観音像を拝もう・・・と
高校の同窓・田渕を共に立寄った






真向かいのNHKからの撮影

断腸の想いで撮影する
私の横には
高校の同窓・田渕、白けたる眼差しで、慰霊像を眺めている
さもあらん
彼は、昭和維新なんか
何の関心も無いのだから

昭和50年11月23日(日)
雨天中止となる

然し、諦めはしない
明日がある

私の一念
きっと天に通じ
明日はきっと、晴れるのだから

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男のロマン 大東京 二・二六事件 一人歩き (五)

2015年04月18日 | 男のロマン 1975

男のロマン 大東京
二・二六事件 一人歩き

第二部
昭和維新

三、二・二六事件 一人歩き 昭和50年11月24日(月)
   

平河門 → 竹橋 → 九段下交叉点 → 靖国神社大鳥居 → 市ヶ谷台上・・・
  → 赤坂見附 → 幸楽 → 山王ホテル → 首相官邸裏門 → 霞ヶ関ビル・・・
  → 虎ノ門 → 内務省交叉点 → 桜田門下 → 三宅坂台上 → 乃木坂 → 歩一 → 歩三






三、二・二六事件 一人歩き 昭和50年11月24日(月)
  (一) 平河門 → 靖国神社大鳥居
昭和50年(1975年)11月24日(月)
私の一念は天に通じた
大東京は朝から快晴
満に満を持して
二・二六事件 一人歩き が叶う

1年間の想いを、この一日を以て爆発せしむる

然し、大東京の夕暮は早い
晩秋の大東京の一日は短い 即ち、写真の撮影は午後四時迄となる

三鷹で一泊した私
(註・23日は、高校の同窓・田渕の部屋に一晩、世話に成る)
三鷹から一時間、東京駅に着く
時刻は午前11時

大東京は快晴
天高く、何処までも澄みわたる
私は、頗る元気である
昭和維新の壮大なる浪漫を
「勇躍する、歓喜する、感慨たとへんにものなしだ」

  

丸の内・新丸ビル・・東京海上火災ビル・・和田倉門・・皇太子御成婚記念公園・・辰巳櫓・・三和銀行から平河門に向う

平河門



何をか物語らん

竹橋
新に発掘したる昭和維新の聖地である
昭和11年2月26日の朝
蹶起部隊は、宮城の入口に通じる主要ケ所に歩哨線を布き、通行を遮断した

昭和維新の朝(26日)、止んでいた雪が午前九時頃再び降り出す
竹橋に歩哨線を布いた蹶起部隊の兵士に雪が積もる
何を叫ぶか
而今の兵士



 

 

 

 



通行を遮断すべく竹橋にバリケードを作る蹶起部隊
野中部隊なるか・・それとも、安藤部隊か

昭和維新の証し と、竹橋は物語る
たかが39年
歴史的時間からすれば、つい昨日のことのような
然し
想えば、39年後の今
私がこうして、此処に立っている

竹橋から地下鉄にて九段下へ向かう

九段下
地下鉄九段下の階段を駆け上がる
九段坂に出た
九段坂の蹶起部隊による歩哨線の存りし辺りか
靖国神社の大鳥居が眺めるる

  

九段坂の蹶起部隊 昭和11年2月26日 ↓


此処は九段下



軍人会館(現九段会館)

戒厳司令部、憲兵司令部の存したる所
謂わば、鎮圧勢力の、あの「幕僚ファッショ」の拠点とも謂える

  

・・・(28日) その宵である。
軍人会館地下室の記者だまりで、各社の記者が不安と深刻さの入り混じった暗い顔でたむろしているとき、
叛軍側ではない歩三の新井中尉が部下の一個中隊をひきい、戦列を離脱して靖国神社に集結中との情報が入った。

戒厳司令部の叛軍に対する処置を不満として、一個中隊をもって司令部を襲撃するためだという噂が飛んだ。
事実司令部の中も一層の混雑を呈してきた。
記者団は色めいた。
そして一人去り、二人去り、やがてだれもいなくなった。
・・


九段下に立ちて見て
何等感慨無く
九段坂を上る

靖国神社大鳥居

私は 「靖国」 を、一度も研究したことが無い
あの神風特別攻撃隊に、その想いは繋がる
今後の課題としよう・・・と

大鳥居の真下から九段坂を眺むるも
其処は、昭和50年11月24日
・・・でしか無い

既に
吾が心
此の地に非ず

次の目的地
あの、三島由紀夫の市ヶ谷台上に、心が逸る

市ヶ谷・・・

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男のロマン 大東京 二・二六事件 一人歩き (六)

2015年03月18日 | 男のロマン 1975

男のロマン 大東京
二・二六事件 一人歩き

第二部
昭和維新

三、二・二六事件一人歩き 昭和50年11月24日(月)
   (二) 市ヶ谷台上 → 幸楽

大平洋の波の上  昇る朝日に照り映えて
天そそり立つ富士ケ峰の  永久に揺がぬ大八洲
君の御楯とえらばれて  集まり学ぶ身の幸よ
 陸軍士官学校校歌である

陸軍士官学校

明治以後、
ここで
武士 が 創られ
ここで
武士道 が 伝承された
日本の伝統は、昭和20年8月15日まで、継いたのである
・・つい、このあいだの
祖父の時代のことである

神達も此処で武士となる

 靖国神社を右に
一歩、一歩、進む足どりは軽い
未だ見ぬ恋人と、初めて出逢ひし想いか
その想ひは
もうすぐ叶う
・・・・
真に一歩、一歩、踏みしめる喜び哉
この喜び、如何せん

時刻は午後零時頃

                                         

・・・想いおこせば
昭和45年11月25日
三島由紀夫は此処で自刃した





「静聴せよ、静聴、静聴せい」

「静聴せい、静聴せい」

「静聴せいと言ったら分からんのか、静聴せい」 






「おまえら聞けぇ、聞けぇ ! 」

「静かにせい、静かにせい ! 」

「話を聞けぇ ! 」


「男一匹が、命をかけて諸君に訴えているんだぞ」


「いいか、いいか」


「それでも武士かぁ ! 」
「それでも武士かぁ ! 」・・・自衛官からの野次

市ヶ谷台上で
天皇陛下万歳を三唱 して
壮絶なる死を遂げた、三島由紀夫の 「死の叫び聲」 である
 

軍隊とは、武士の集団であろう ・・と
武士なる、自衛隊と信じて 蹶起したのである
であるが・・
もはや、武士の魂 を 抜取られた、時代の申子 自衛隊
「檄」 を、飛ばせど
三島由紀夫の意志など、通じる筈も 無かったのである 

されど
三島由紀夫の 飛ばした「檄」は、「死の叫び聲」は
私の中に潜在した 「吾は日本人」 と謂う 意識を喚起した
・・・

あれから五年
遂に来た
ああ 市ヶ谷

台上に聳え立つ、陸軍士官学校を眺むれば
若き日の神達を想いおこさん
されど
吾が想い 空しい

歩けど、歩けど、台上を一望する処がない

    

探せど、探せど
とうとう
未だ見ぬ恋人とは、逢えなかった

肩を落とした影一つ

とうとう、四谷三丁目に迄、歩く
大東京の夕暮は早い
急がねばならぬ
四谷三丁目から地下鉄に乗り、赤坂見附へ向かう






赤坂見附

真に要所なる
従って、蹶起部隊はここに歩哨線を布いて、全ての通行を遮断した

哨長は麦屋少尉であった

「大佐殿、ここを通らないで軍人会館に行って下さい、大佐殿のために御願いします。
   ここを通れば射殺せねばなりません。
      しかし小官にはどうしても射殺できぬ苦しみがあります。
   どうぞお察しください」
 と、いうと大佐は止むを得んといって私の歩哨線を避けて行かれた
・・・歩兵第三聯隊第一中隊付 麦屋清済少尉
・・
大佐とは、陸軍きっての傑物、石原莞爾・参謀本部作戦課長である

     

然し、それも今は昔
私の篤き想いとは、ほど遠い風景がよこたわる
それが現実哉
なれど
今回の、二・二六事件 一人歩き には、この交叉点は大事であった
それは、次なる目的地の「幸楽」 の、為なり

一年前、山王ホテルを訪れたものの
幸楽迄足を伸ばさなかった
山王ホテルでの昂奮は、「幸楽」 ならざる、「首相官邸」 へと、想いがつづいた為
「幸楽」 は、空白の中に置いてしまった
私は、このことを悔んだ

今年こそは
是か非 なりとも、幸楽に、行かずんば
然も、赤坂見附の歩哨線を突破して・・・と

幸楽

昭和11年2月27日
安藤部隊は此処に宿泊した
そして
28日、此処は、抵抗の拠点と化す

「意地をとおさせてくれ」 と、安藤大尉は言った

・・・
瞑目して聞いていた安藤は、森田の話が終わると、やがて、かっ! と、眼を開くや必死な表情で、奉勅命令は絶対に下達されていないと信じている、と答え、
最後に 
「 森田さん、まことにすまないが、私は昔 千早城にたてこもった楠正成になります。
 その頃、正成は逆賊あつかいされたが、正成の評価は、正成が死んでから何百年かたった後に正しく評価され、無二の忠臣といわれました。
私も今は逆賊、叛乱軍といわれ、やがて殺されることでしょうが、私が死んでから何十年、いや何百年かたった後に、
 国民が、後世の歴史家が必ず正しく評価してくれるものと信じています。
 秩父宮殿下にも、聯隊長殿にも、 森田さんにもまことにすまないが、今度ばかりは、どうか安藤の思うように、信ずるようにさせてください。
 これが安藤の最後のお願いです」
三人の眼にはそれぞれ熱いものが溢れていた。
やがて幸楽の女中が、黒塗の椀にはいった三杯の吸物を持って来て、三人の前に置いた。
きのこのはいった汁であった。
三人は無言で湯気のたつ汁をすすった。
安藤の性格を知りぬいている森田は、もう何もいわなかった。
渋谷聯隊長と森田大尉が幸楽の玄関を出るとき、送って来た安藤は、
「聯隊長殿、短いご縁でした。悪い部下でまことに申し訳ありません。森田さん、歩三のことはくれぐれも頼みます」
安藤の声がふっと 途切れた。
森田はもう一度安藤の顔を見つめて無言の別れをすますと、安藤の顔は泣いているかのようであった。
森田と渋谷はがっくりと肩を落として帰っていった。
・・

幸楽が無い
脳裡に焼付いた地図
瞼を閉じぬとも、確認出来るというに

・・・
幸楽 の門前の雑踏に、一台のサイドカー がエンジンの音も高らかに止まる。
運転席には陸軍中尉の制服の将校が乗り、横の座席には日の丸の鉢巻に日本刀を背負った若い将校が鎮座している。
上半身はシャツのままで上着は腰に巻き付け伊達ないでたちだ。
凛々しく端整な顔立ちは寒さと緊張感でことさらに引き締まっている。
たちまち黒山の人だかりとなった。
いかにも決戦の雰囲気が感じられたからだろう。
「兵隊さん!頑張って日本を良くして下さい」
どこから来たのか、乳飲み子を背負い引っ詰め髪の女が金切り声で叫ぶ。
さらに若い職工風の菜っ葉服を着た男が手を差し伸べた。
機関車の運転手か
「私たちが後ろにいますよ、応援します!」
若い将校に向かって人々は口々に訴える。どの表情も真剣でしかも輝いていた。
これが 森伝 と 中橋中尉 との最初で最後の出会いだった。





サイドカーを運転していたのは 田中中尉。

二人は明朝の決戦を前に鎮圧軍の包囲網を偵察するため占拠地域を見回っていたのだ。
この夜、無名の庶民たちの励ましで意を強くしたのだろう。
中橋は次々に手を差し伸べ握手したあと、門前に置かれたテーブルに上がる。
若々しい声で拳を振り上げながらの熱弁だった。

「皆さん、最後のアピールです。明朝、決戦が待ち受けています。生きて永らえることは毛頭考えていません。
 
決死の覚悟です。
ですが私たちには大義がある!
それは腐敗した日本を壊して、明治維新に続く昭和維新を断行することです。
実は腐っているのは政治家や財閥ばかりではありません。軍もまた腐敗しているのです。
私は最近まで北満州のチャムスで抗日ゲリラの掃討作戦に従事していました。
しかし関東軍には阿片の密売から上がる多額の機密費が流れ込み、軍の幹部たちはこれを私的に使い込んでいるのです。
ある師団参謀長は八〇円のチップを出して飛行機に売春婦を乗せて出張したと云われます。
そうした幹部にかぎって弾丸を恐れる輩が多い。
怒った下士官兵が将校を威嚇する。
ある中隊長は部下に後から射殺されました。公務死亡で処理されています」

「ダラ幹を殺るんだ!」
「そうだ血祭りにしろ!」
 の、ヤジが飛ぶ

「諸君!チャムスの荒野の未開地には内地から武装農民が鳴り物入りで入植しています。
冬は零下三〇度にまで下がる大地です。
食うや食わずでゲリラの襲撃に怯えている一方で、新京の料亭では幹部が芸者を侍らせて毎晩、豪勢な宴会を繰り広げている。
もっと下の将校たちも、ゲリラの討伐に出るとしばらく酒が飲めないと云って、市中に出て酒を飲み、酩酊して酒席で秘密を漏らしてしまう。
果ては討伐に一週間出て、功績を上げれば勲章が貰えるというので、必要もないのにむやみに部隊を出す将校もいる。
ですがゲリラにも遭遇しません。
これが軍の統計上、一日に平均二回、討伐に出ていると称していることの実態です。
皇軍は腐敗し切っているのです。
こんなことで満蒙の生命線は守れますか?
日清日露を戦った貧しい兵士一〇万人の血で贖われた土地ですよ!
みなさん!
必要なのは粛軍!
それゆえ我々は蹶起したのです!」

地鳴りのような拍手が起こる。
尊皇討奸万歳の唸りが津波のように押し寄せて来た。

四年後の冬のことだ。昭和一五年一〇、一一日に快晴の宮城前広場には全国から五万四千八〇〇人が動員された。
天皇皇后臨席の紀元二六〇〇年奉祝式典である。この日の式典実行総裁は秩父宮である。
すでに胸の病気が進行し、このセレモニーの一週間後、高熱を発するのだ。
単に物理的な数で云えば、そこでの万歳三唱、これが戦前のレコードであろう。だ
がその熱気、その自発性、そのエネルギーの求心力において、この晩の永田町の比ではなかった。

大半の群衆は演説中脱帽して、神妙に聞き入っていた。
「生命を投げ出してやっているのだから、聴いていて涙がこぼれる」
森伝の隣にいた老紳士は、息子の世代にあたる下士官や将校たちを前にこう呟いた。

だがこの騒乱状況は永田町の局地的な高揚にすぎない。
大局に於いてはすでに蹶起軍の敗色は覆い難かった。

「明朝は決戦やむなし!」

そのなかをサイドカーに乗り、中橋は 幸楽 をさる。
後から大声援が飛んだ。

「頑張れよ!」
「応援するぞ!」

これが森伝の脳裡に刻まれた中橋中尉のただ一度の姿なのだ。
・・

・・・との
中橋中尉の至誠の声は、聞こえぬ

幸楽ありて、山王ホテルあり
亦、
山王ホテルありて、幸楽あり
何れが欠けても、私の昭和維新の想いは叶はない
されど・・・

幸楽は既に無く
ホテルニュージャパンが、昭和50年の姿となりと
市ヶ谷然り
幸楽然り
私は落胆した

幸楽 訪ぬるば 何時しか 
山王ホテル哉

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男のロマン 大東京 二・二六事件 一人歩き (七)

2015年02月26日 | 男のロマン 1975

男のロマン 大東京
二・二六事件 一人歩き

第二部
昭和維新

三、二・二六事件 一人歩き 昭和50年11月24日(月)
  (三) 山王ホテル → 霞ヶ関ビル
 

 


山王ホテル
「幸楽ありて、山王ホテルあり
 亦
 山王ホテルありて、幸楽あり
 何れが欠けても
 私の昭和維新は叶わない」
・・・私の想いである
幸楽無きは、至極残念無念
落胆拭えぬ侭に

山王ホテルは一年前と何等変わらない
なれど、落胆拭えぬ侭 仰ぎ見るも 
一年前の感動は無い

後を建つ
なんと邪魔なホテル哉

昭和11年2月27日
ホテルを居城に、安藤部隊と丹生部隊400名
国会議事堂、首相官邸なども見渡せる山王ホテルの屋上から手旗信号で絶えず連絡を取り合っていた
溜池の交叉点まで歩哨を布き
首相官邸、山王ホテル、幸楽と、山王の山をバックに一線を為していた
「戦わずして勝つ、見よ此の意気、此の大事は天聴に達せり」・・は、神達の心情を物語る
28日、天皇の奉勅命令を享けた鎮圧軍が攻囲する

「奉勅命令は下達され非ず」

---蹶起部隊の団結堅く---
午前一時香田大尉殿より達し有り、
皆の者此処に聯隊長殿が来て居られ、皆を原隊に帰させると言ふが、
帰りたい者は遠慮なく言出 と、
其の時の兵の気持 悲壮と言ふか 
声をそろえて帰りたくない、中隊長達と死にますと いった。
香田大尉も感激し 良く言ってくれた と、
それから各処々に陣をはりいつでも来いと応戦の用意、営門出かけてより此の方、此の位緊張した気持ちはなかった。
亦今日が自分達最後の日かと覚悟した。
十二時頃十一中隊集合、に 四階に居った自分達は何事かと下の広間に集ったら、
丹生中隊長は眼に一杯涙を浮かべて、
皆の者今迄大変御苦労をかけてすまなかった、実は今日皆を帰すから と 言ふので、
何で帰すのか と 皆でなじった、
中隊長は何事も言ふまい、自分だけ死ねば後の者は皆助かる と 言った、
何でだまってゐられやう、
中隊長死なせたからには自分達は生きては此のホテルから出ない と 言ひ合ひ皆泣いた。
中隊長も泣いたたが、時世には押され情なくも帰営するために前の電車路に整列した。
列が半町も行った時、熱血将校香田大尉が皆を止め、部所に付けと、
一同亦も喜び勇み立ち再度応戦のため各部所についた。
二度と再び出まいと言ひ合ったが、又も其の間色々と敵の方より 「デマ」が来、吾等将校等 兵を助けんが為幾度か自殺を企てた。
・・

やがて〇九・三〇頃
中隊集合がかかり急いで玄関前に整列すると
間もなく丹生中尉が姿をあらわし、状況説明と共に聯隊復帰を命令した。
「昭和維新は失敗におわった。まことに残念である。
今は考えている余地はなく、奉勅命令に従うばかりである。
四日間にわたる各位の苦労を感謝する。
満州に行ったら充分働いてもらいたい、武運長久を祈る」
丹生中尉の訓示は切々として我々の胸を打った。
これで中隊長とは永の別れになるかも知れぬと思うとまことに感無量であった。
中尉がさったあと我々は電車通りで叉銃を行い、
自発的に武装を解き丸腰で帰隊した。
・・

昭和11年2月29日
丹生部隊の終焉の物語を想い
そして
原隊に帰順する丹生部隊を見送る、唯一の安藤部隊
彼等の心情幾許なるかと、慮るばかりである
彼等は玉砕をも辞さない
そう覚悟していた
「安藤中隊長殿」・・・彼等はそう叫ぶ

中隊長安藤大尉の鉄の抵抗である
  自決か脱走しかない
その頃磯部は永田町一帯台上に見切りをつけて、ここにやって来ていた。
山王ホテルは、反乱軍最後の抵抗拠点である。ホテルの応接間には期せずして同志将校が集まっていた。
磯部、村中、香田、栗原、田中、竹島、対馬、山本等々。
そして今後の方針にさき意見をまとめようと話合っていた。だが、もう、こうなっては兵を返す以外に案もなかった。
ただ安藤だけはさいごまでやると頑張っていた。
磯部はさっきから、じっと、連日の疲労に青黒い顔をしている兵隊たちをみつめていた。
彼らは、あるいは壁に寄りかかり、あるいは窓に腰かけて軍歌をうたいつづけている。
あといくばくもない命の綱をわずかに軍歌の歌声によって、 かろうじて支えているのだ。
磯部の胸にはグッとつかえるものがあった。この兵隊たちを殺してはいけない。
なんとしても安藤に戦いを断念させなくてはならんと思い至った。
「オイ安藤」 不意に磯部は顔をあげて呼びかけた。
「下士官兵をかえそう、貴様はこれほど立派な部下を持っているのだ。
騎虎の勢い、一戦しなければとどまることができまいが、それはいたずらに兵を殺すだけだ
兵を殺してはいかん。兵はかえしてやろう」
いっているうちに、磯部は泣いてしまった。
「諸君!」 安藤は昂然と顔をあげて言った。
「僕は今回の蹶起には最後まで不賛成だった。しかるに、ついに蹶起したのは、どこまでもやり通すという決心ができたからだ。
 だのに、このありさまはなんだ。
 僕はいま、何人も信ずることはできない。僕は僕自身の決心を貫徹するのだ」
同志の将校は交々意見を述べた。
「それはわかる、だが、兵を殺すことはできない」
「兵隊だけはかえした方がいい。いまかえせば彼らは逆賊とならないですむ」
だが、安藤は 「そんなことは信用できない」 といいながら、傍の長椅子にゴロリと横になった。
「少し疲れてゐるからしばらく休ませてくれ」 そのまま眼をとじてじっと考えていた。
しばらくして、むっくりおき上がった彼は、
「戒厳司令部に行って包囲を解いてもらおう、包囲を解いてくれねば兵はかえせぬ」 と 言った。
磯部も 「それも一案だ」 と 賛成した。
そこで磯部は戒厳参謀の石原大佐と交渉することを思いついた。ちょうど、そこに柴大尉がいたので、彼にこの連絡方を頼んだ。
間もなく戒厳司令部の少佐参謀が山王ホテルに車を飛ばしてきた。
「石原参謀の返事をお伝えする。今となっては自決するか脱出するか二つに一つしかない」
「何ッ!」
磯部をはじめそこに居合わせた同志たちは、このうって変った非情な仕打ちに切歯痛感した。
だが、さりとてよい案もなかった。
彼らはまた首をうなだれ深く考え込んでしまった。
そこへ、歩三の大隊長伊集院少佐が撤退勧告に決死の覚悟でのり込んできた。
この少佐は前日、
「この事件で兵を殺してはならん、歩三の将校の不始末はわれわれ将校で片づけよう。われわれは最後の一人まで斬り込もう。
 一番最初に安藤を、それから野中を殺してしまう」 と、将校団で提案した人だった。
「安藤!  兵隊がかわいそうだから、兵だけはかえしてやれ」 と 伊集院少佐は安藤に詰めよった。
安藤はこの少佐の言葉に、憤りの色を見せ、声をふるわせて、
「わたしは兵がかわいそうだからやったんです。大隊長がそんなことをいわれると癪にさわります」 と 反発した。
突然、安藤は怒号した。
「オーイ、俺は自決する、自決させてくれ」
彼はピストルをさぐった。
磯部は背後から抱きついて彼の両腕を羽がいじめにした。
そして言った  「死ぬのは待て、なあ、安藤! 」
安藤はしきりに振りきろうとしたが、磯部はしっかり抑えて離さなかった。
「死なしてくれ、オーイ磯部!  俺は弱い男だ。いまでないと死ねなくなるから死なしてくれ、俺は負けることは大嫌いだ。
 裁かれることはいやだ。幕僚どもに裁かれる前にみずからをさばくのだ。死なしてくれ磯部!  」
もがく安藤をとりまいて、号泣があちこちからおこった。
磯部は、「悲劇、大悲劇、兵も泣く 下士官も泣く 同志も泣く、涙の洪水の中に身をもだえる群衆の波」
と、その情景を書きのこしているが、まさしくこの世における人間悲劇の極限というべきか。
伊集院少佐も涙にくれて、「オレも死ぬ、安藤のような奴を死なせねばならんのが残念だ」
鈴木侍従長を拳銃で撃ち倒した堂込曹長が泣きながら安藤に抱きついた。
「中隊長殿が自決なさるなら、中隊全員お伴いたします」
「おい、前島上等兵! 」
安藤は当番兵の前島がさっきから堂込曹長と一緒に彼にすがりついているのを知っていた。
「前島!  お前がかつて中隊長を叱ってくれたことがある、中隊長殿はいつ蹶起するんです。このままでおいたら、農村は救えませんといってね、
 農民は救えないな、オレが死んだら、お前たちは堂込曹長と永田曹長を助けて、どうしても維新をやりとげてくれ。
 二人の曹長は立派な人間だ、イイかイイか」
「曹長!  君たちは僕に最後までついてきてくれた。ありがとう、後を頼むぞ」
群がる兵隊たちが一斉に泣き叫んだ。
「中隊長殿、死なないで下さい! 」
「中隊長殿、死なないで下さい! 」
磯部は羽がいじめの腕を少しゆるめながら、
「オイ安藤、死ぬのはやめろ!  人間はなあ自分で死にたいと思っても神が許さぬときは死ねないのだ。
 自分が死にたくなくても時が来たら死なねばならなくなる。
 こんなにたくさんの人が皆 とめているのに死ねるものか、また、これだけ尊び慕う部下の前で貴様が死んだら、一体あとあはどうなるんだ」
と、いく度もいく度も、自決を思いとどまらせようと、説きさとした。
すると次第に落ちつきをとりもどした安藤は、やっと、「よし、それでは死ぬことはやめよう」 と 言った。
磯部は安藤の羽がいじめをといてやった。
こんなことがホテルの応接間で行われているうちにも、兵隊たちは一室に集まって中隊長に殉じようとしていた。
死出の歌であろう、この中隊をたたえる 「われらの六中隊」 を泣きながら歌っていた。
磯部はこれ以上安藤中隊にとどまっていることはできなかった。
三宅坂附近の最後の処置をつけねばならぬと考えていたので、心を残してここを出た。

磯部らの同志将校が山王ホテルを出て行ってからも説得の人びとが出たり入ったりしていた。
そして兵隊たちに、
「早くかえれ、天皇陛下の命令がでているんだ、攻撃開始までにかえれば逆賊ではないんだ、わかったか、わかったらすぐかえれ」
と 説きつづけていた。
しかし兵隊たちは誰一人かえろうとしなかった。
安藤はこれらの説得の人びとをじっと見つめていたが、「そうだ、いま、かえせば逆賊ではない、よし、兵をかえそう」 と 決心した。
「第六中隊集まれ! 」
と するどく号令をかけた。
まもなく中隊は歩道上に集合した。彼は叉銃を命じたのち外套を脱がした。兵隊たちはあちこちで外套をまいて背嚢につけた。
再び整列を命じて、安藤はその前に立った。
「蹶起以来、みな中隊長を中心に命令をよく守り一糸乱れないでよくやってくれた。
 この寒空にひもじい思いに堪えて、永い間本当にご苦労だった。
 中隊長としてお礼をいう。
 われわれが行動をおこして以来、尊皇討奸の目標につき進んだ。
 しかも時に利あらずわれわれは賊軍の名を受けようとしているのだ。
 われわれの行なわんとした所は国体の本義に基づいた皇道精神であることを永久に忘れないでほしい。
 これで皆ともお別れだ。
 皆が入営以来のことを思うと感慨無量だ。
 よくこの中隊長に仕えてくれた。
 この規律と団結てをもってすれば天下無敵だ。
 皆は身体を大切にし満洲へ行ってしっかりご奉公してくれ。
 最後のお別れに中隊歌をうたおう」
安藤をはじめ兵隊たちは、むせび泣きながら六中隊歌を合唱した。軍歌はくり返し二度うたわれた。
二度目の結び----われらの六中隊----を歌いおわった瞬間、安藤は腰の拳銃をとって銃口を頭部に押し当てた。
前列にいた前島上等兵が安藤にとびついたのと、引金が引かれたのと同時だった。
銃声とともに安藤の身体は残雪の上に倒れた。
「中隊長殿!  中隊長殿! 」
下士官兵は一斉にかけ寄って中隊長をよび叫んだ。
兵はこの場の昂奮と悲憤な気が狂わんばかり。
なかに兵の一人はツカツカと叉銃線に走り銃を手に取った。
「中隊長を殺した奴は誰だ」 と 怒号しながら道路を隔てて布陣する攻撃部隊に向かい撃とうとした。
かたわらにいた将校が天皇陛下万歳と叫んだ。この兵もつり込まれて天皇陛下万歳を唱えた。そしてこの兵の射撃は阻止された。
そこへ師団の桜井参謀がやって来た。
銃を手にした件の兵はまたしても
「中隊長を殺した奴は誰だ」 と叫びながらこの参謀にたち向かった。
桜井はいきなり上衣を脱いで天皇陛下万歳を唱えた。兵もまたこれに和して、事は防がれた。

一方、この間かけつけた救急要因によって安藤には応急手当が施され、救急車で陸軍病院に運ばれた。
だが、兵の四、五名は人びとの制止をきかず、中隊長と一緒に死ぬんだとわめきながら、そのあとを追いかけた。
安藤は病院で手当を受けたが傷は案外浅く致命傷とはならなかった。

こうして反乱部隊は安藤中隊を最後に全部の帰順をおわった。
戒厳司令部は午後三時に至って、
「反乱部隊は午後二時頃をもってその全部の帰順を終わり、ここに全く鎮定をみるに至れり」 と 発表した。
かくて、四日間、帝都否全国を震撼させた空前の大事件も、ついに一発の銃声を聞くことなく、ここに落着を告げた。
・・

昭和11年2月29日
皇軍相撃つ、こと無く、昭和維新は潰え去る
「けっして、陛下に弓を引いたのではありません」
神達の至純の忠誠心は、農民を救わんとした義挙は、大御心に達しなかった
そしてこともあろうに、逆徒となる
神達が処刑されるその時、北一輝は言った
「昭和維新は成った」 と

私は、山王ホテルを後にして
「溜池からの道」 に向うべく、山王ホテルの裏道を進む
路の途中、左に折れるば
雨の22日に知りたる、あの、首相官邸の裏道・溜池からの坂道につづく
緊張感漂うあの坂道を、もう一度上って見たい・・と
きっと、そこには、「男のロマン」 を、見つけることが出来よう
・・・
入口にさしかかる
「折れまいか」
例の機動隊の車が待機している、雨の日より増して警戒厳重なる
軀は動けず、心は折れる
「ああ、通り過ぎてしまう・・・」
滔々と、素通る
溜池の道まで出てしまった
私は臆病者なのか
何が男のロマンだ、何が昭和維新か・・と、謂う勿れ
行動するとは、たとへ捕まらんとも吾行かんだ
よほどの決心がなければ出来ぬものと

首相官邸の高いコンクリート擁壁を左に、溜池からの道を上った
黄色に色づく銀杏並木の右は、霞ヶ関ビル
歩くは、私一人哉

  

首相官邸の裏門に着く

首相官邸裏門
立哨の警察官が二人
「ここから写真を撮りたいのですが」
「・・・・」
「二・二六事件の関係で、写真を撮りに大阪から来ているのです」
 (21才の青年の私)

「卒業論文か何かね」
「いえ、学生ではないのです、個人的に調べている者です」
「写真くらいなら、撮っても構いませんよ」
私は、持参したる関連の写真を警察官に見せた
其の中に、市ヶ谷台上で蹶起したる三島由紀夫の写真を見て、もう一人の警察官が
「三島由紀夫 か」 と、一瞬笑った
彼等の三島観とは如何なるものか
然し、彼等は一年前の正門での遣り取りと違い、親切だ
そして、幸楽は数年前に無くなったと、彼等は教えて呉れた
たかが、数年のこと

    

もう、心配はしまい
結して捕まることはないのだから
私は決めていた通りのアングルを撮影した
栗原部隊、丹生部隊が上るところを、撮ったのだ
然し
未練はあったものの、首相官邸の正門までは到らぬ
一年前と情況は変るまいと、たかをくくったのである
反転し、霞ヶ関ビルに向う
「どうもありがとうございました」
「気を付けて、帰ってください」
こんな些細な遣り取りに
私は、嬉しくなって、次第に元気を取り戻してきた

そして、交叉点の坂道を下り、霞ヶ関ビルへ向った

   

霞ヶ関ビル
エレベーターで昇るにつれ、気持ちが昂ぶってゆく
何と、地上150mから、大東京を見渡す
是、素晴らしき風景哉

「オオッー」

「万歳、万歳、万歳」

霞ヶ関ビルの展望室(36階・最上階)から眺望
(註・東面の窓から 皇居の撮影は、「禁止」とな

  そこで、素直で正直なる私、気が惹けるも、東・南コーナー南面から、撮ったのである)
真に、それはもう、有頂天 為る哉

ここまで快調の大東京の空に、陰りか
西から雲が拡がる・・・いそがねば

     

     

     

    

これぞ、昭和50年(1975年)11月24日(月) の、大東京なるぞ

     

    

昂奮冷めやらず
地上に降り立つ
次なるは、虎ノ門交叉点哉

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男のロマン 大東京 二・二六事件 一人歩き (八)

2014年12月21日 | 男のロマン 1975

男のロマン 大東京
二・二六事件 一人歩き

第二部
昭和維新

三、二・二六事件 一人歩き 昭和50年11月24日(月)
   (四) 虎ノ門→乃木坂

虎ノ門





地上、150mの昂奮醒めやらぬ
「ヤッタ、ヤッタ」・・・もう元気一発
振替休日の今日
閑散とした街に歩くは吾一人

虎ノ門・・文部省・大蔵省・・大蔵省交叉点とつづく
此処から首相官邸へと向ったのは、一年前のこと
坂の先には国会議事堂が見える

大蔵省・・外務省・・内務省交叉点に着く

  

    

     

昭和11年2月26日・朝 内務省前の歩哨線・・・命懸の緊張感を感じる

     



内務省交叉点
昭和50年(1975年)11月24日
想はば
神達の面影を求めて、一人 大東京
 

「元気、元気、元気・・」
日比谷公園に向かう、歩道橋の階段を、2段づつ駆け上がる
「元気、元気」・・そう、声を発しながら



内務省交叉点へ着いたものの
フィルムが残り少ない
霞ヶ関ビルでの、150mの有頂天
是為である
感激の坩堝の最中
枚数を制限せずんば・・
交叉点での撮影を以て、フィルムは切れた
「大事哉・・」
今日は、振替休日(勤労感謝の日)
休日ならずとも、こんな処で、フィルムを置く店など、ざらに在ろう筈もなかろうに
「如何せん・・・」
咄嗟に閃きしが、日比谷公園の売店
元気なるかな、吾は日本男児・・と
意気揚々、日比谷公園へ馳せる
「元気、元気、元気・・」
日比谷公園に向かう、歩道橋の階段を、2段づつ駆け上がる
「元気、元気」・・そう、声を発しながら
果して、思惑通り哉
フジカラー・36枚撮りフィルム2本、手に入れたのである

官庁街
祝日たる今日
霞ヶ関・永田町、人通りも無い
 
雪の日の朝、此処には歩哨線が布かれ
歩哨の兵隊は、緊張の中にいた
「ああ、此処に兵は列をなしていた」

「なんや、交差点の写真ばっかりやナ」
と、後で会社の先輩・東さんに冷やかされたが
私は、その、交差点 が、目的であったのである
大真面目に
そこには、男のロマン が在る
と、信じていたから

日比谷公園にて、フィルムを手に入れた私
そのまま、本日予定の中間点たる、皇居に入る

皇居二重橋
時刻は午後二時過ぎ
此処でちょっと、小休止
一年前、私はここで君が代を口遊みたる
空模様が怪しくなった
西の空は、雲が立ち籠めて来た
雲の動きが予想以上に速い

     

      

        

のんびりとは、しておれぬ
霞ヶ関ビルでの昂奮もすっかり醒めた
此の日、最大の目的地
歩兵第一聯隊、歩兵第三聯隊は、これからだ
未だ、疲れの認識は無い・・も
この僅かな間に、晴空は曇り空に
未だ、小休止といえる程、休むる間もなく
とにかく、急ごう



桜田門に向う

桜田門下
すっかり曇り空に
吾が心、センチメンタルに

      

           

     

感慨なんか興りは
しない
強ち、曇空だけの所為ともいえぬも

内堀通り・・三宅坂台上へ

三宅坂台上
大東京の空は低く垂下る
吾が一年間の想いは何処か
感傷的なこの気分は一体何処からなりや
一年前と同じ位置に坐っている
そして、今年の私は
一年前の、あの気持を懐かしみ
最早、昭和維新無く、神達の面影も感じとれず
只一人、佇んでいる

         

感傷的な想いで以て、三宅坂台上を去る

 

国会議事堂正門を素通り、地下鉄国会議事堂前へ

此処はまぎれも無く、日本国の中心地なるぞ
プラットホーム迄、異様に深い階段を下る
国会議事堂前・・赤坂・・
そして、乃木坂へ
昭和50年11月24日(月)
時刻は午後二時半を過ぎて久しい
大東京の夕暮は速い
増々急がねばなるまい・・・
栗原中尉の歩兵第一聯隊、安藤大尉の歩兵第三聯隊
そして神達が集った竜土軒を訪ぬるは
是が最後の締め括り

乃木坂
曾て、兵衛の街であった 六本木・乃木坂
神達はもう直ぐそこに存る
私の脳裡には39年前の地図が焼付いている
目印なるは竜土軒
竜土軒傍の道が即ち、歩三に通じる
歩一は竜土軒の前・・と
私は重々しい期待を以て歩兵第一聯隊(現防衛庁)の塀に沿って歩く
途中に必ずや竜土軒を確認できる筈・・と
今歩くは、昭和11年2月26日の雪の朝
安藤部隊が昭和維新の想いを抱きて、鈴木侍従長邸まで行進したる路
昭和維新の轍の残る路である
竜土軒・・・店主は今も尚健在だと謂う
ならば、存ってもいい
存って欲しい
否、なければならない
然し
竜土軒は無い
曾て、神達が集いし竜土軒は存在しない
即ち、神達の集うべく処は無い
・・・
私の神達に逢いたいとの想いは叶わないのか

歩兵第一聯隊

              

             

「歩一は残っている」
防衛庁の建物に代ってはいるが、歩兵第一聯隊の一部が、その儘の姿であった

神達は、この衛門より出発したが



昭和維新の夢は、叶わなかった
「中隊長殿と供に死にます」 と、下士官兵
「兵を見殺しには出来ぬ、兵に賊軍の汚名をきせられぬ・・・兵は帰そう」
かくして、下士官兵は、帰ってきた

歩兵第三聯隊

             

             

歩三の衛舎も、その姿は変わらない侭でいる
「散るや万朶の桜花」
然し、神達は、ここに帰っては来なかった
そして今、私が此処に入る
・・・歴史とは、かくなるものや

・・・
我々が悲壮な気持ちで戦闘準備にかかった頃
幸楽の前には民衆が黒山の如く集まり口々に
「我々も一緒に闘うぞ、行動を共にさせてくれ」 と、叫んでいた。
丁度歩一の栗原中尉がきていたので、彼は早速民衆に対して一席ブッた。
「皆さん!我等のとった行動は皆さんと同じであなた方にできなかったことをやったまでである
これからはあなた方が我々の屍を乗越えて進撃して下さい」
「我々は尊皇義軍の立場にありますが、これに対し銃口を向けている彼等と比べて、
皆さん方はいずれに味方するか、もう一度叫ぶ、我々は皆さんにできなかったことをやった」
皆さん方は以後我々ができなかったこと、
即ち全国民に対する尊皇運動を起こしてもらいたい、どうですか、できますか?」
すると民衆は異口同音に、
「できるぞ! やらなきゃダメだ、モットやる」 
 と、感を込めて叫んだ


昭和50年11月24日(月)
私の、二・二六事件 一人歩き ・・は
かくして終わる
もはや
大東京に、男のロマンは無かった

午後三時半
今、私は乃木坂に一人居る
然し、神達は居ない


「栗原死すとも、維新は死せず」
栗原中尉、最期の絶叫である

・・・
昭和維新の魂は
今も、暗雲漂う
大東京の空を彷徨うか
 

・・・完
昭和50年12月21日 納筆


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