昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

君達がいて僕がいた 5 「 スマン スマン 」

2021年05月14日 04時24分30秒 | 5 青春のひとこま 1973年~

昭和52年 ( 1977年 )
MA会・夏の旅行は若狭・高浜
高浜は第一回 ( 昭和50年 ) で泳いだ海、二度目となる。
しかし、今回
主目的は海で泳ぐことでは無かった。 外にあった。
そして斯の地へ、
私、大土、水阪、寺内、梶、西村、山下兄弟、の若人 総勢8名。
車2台に分乗して乗込むのだ。
 
8月14日 ・高浜
前列 左から
梶・・大土・・私・・山下兄弟・・西村
後ろ・・・寺内    水阪が撮影
斯の旅行での写真は、この一枚しか無い



道路で一夜を明かす
8月12日 ( 金 )
集合時間は午後11時、
集合場所は都島工業高校の正門前とした。
私は、
迎えに来て呉れた西村の車に乗り、午後10時45分頃、都工へ着いた。

午後11時
全員、集合
イザ行かん !!

・・・
と、意気揚々出発する。・・・つもりであった。
ところが
こともあらうに、
もう一台の車を持って来る筈の水阪一人、未だ来ない。

「 まさか、事故ちゃうやろな 」
「 それは無いやろ 」
「 あいつのことや、遅れとるんやで 」
「 さもあらん 」
「 まさか、(今日の事) 忘れとるんちゃうやろな 」
「 かも・・しれんな 」
「 あいつ、・・・なにしとんねん 」
・・・と
皆の不安が募るばかり。

「 連絡は付かんのんか 」
「 あいつ、今 加古川の現場におるんや 」
「 この時間や、もう連絡は付かん 」
「 おいおい、ほな、どうすんねん 」
一台の車に7人 乗れやしない。

あいつが来なければ、もうどうしやうもないのだ。
「 家の方へ電話してみるわ、何か連絡しているかも知れんからな 」
日付は既に変っている。
夜中のこととて、重々失礼とは想ったが、此の際遠慮はしておれまい。
電話を掛けると、母親が出て来た。
事を説明すると、
連絡は何も無い・・けれど
「 うちの子は、約束を破ることはしない 」
「 どうか、待っててやって下さい 」
・・・と、言う。
母親とは、つくづく有難いものである。
然し、母親の言に感心している場合ではない。
宿の予約済等もあり、( 旅行を ) 中止する訳にもいかないのだ。
吾々は、交代でラーメン食べに行ったり、
喫茶店に行ったり、時間を過ごしたのである。

「 おい、どうする 」
「 とにかく、朝まで待とうや、待って来んかったら  レンタカー 借りよう 」
「 どうせ、朝にならな 店開かんしな 」

13 日
空が白けて来た。
都工の正門前の道路にへたりこんで、待つこと 6時間
滔々 夜を明かしたのである。
暁払い
一台の車、Civic  が、吾々の目の前に止った。
運転席には水阪の顔
ドアを開けるや
「 スマン スマン 」

寝過ごしたのだと言う。
仕事が終わって一眠りしたところ、気が付いたら午前3時。
「 スワッ、大変 」
・・・と、高速道路突っ走ってきたんだと。

若狭高浜
宿に、到着すると、皆して眠った。
さもあらん。
結局、
若狭高浜では海に入らなかった。


「 君達がいて僕がいた 」
フィナーレ

14日宵
浜大津に着いた吾々一同
琵琶湖ショーボートに乗込んだ。
そして、
一時の歓楽を過ごした。
然し、 時間をつないだだけ。一時の時間を潰したのだ。
今回の目的
本番はこれから
・・・

後は
語らない。



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