昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

面白い 面々

2021年06月02日 20時18分24秒 | 4 力みちてり 1970年~

昭和45年 ( 1970年 ) 高校一年生
大阪万博開催中で日本中が活気に満ちて
もう、バラ色の瞬間 (とき) であった。

「 材料 」の授業中、
担当教師・黒川先生から
万博景気で如何に建設業界が儲かったか、
・・・と謂う、
伝説的エピソードを、聞かされた。

「 ここの勘定、私が持ちます 」
「 そう云って、
孔に通した紐でくくった一万円札の束を出すんや、
それを高々と持ち上げて、皆に見せると、
皆が、それはもう ・・ヤンヤヤンヤの拍手大喝采 や 」
パース なんて、こんなちっちゃなもん ( ハガキサイズ ) で 5千円 」
「 君等が画いているサイズで 2万円から4万円するんやで 」
「 そんなんやったんやで 」
・・・と、万博で
如何に景気が盛り上がったかを
面白、可笑しく、話すのである。
「 へぇー 」
「 そんなに、儲かるのんか 」
吾々の初任給 せいぜい2 ~3万円 頃のこと
私は、頗る景気の良い話に すっかり関心した。
然し、それもさるもの、
授業中こんな雑談ばかりする教師も存る
「 面白い、さすが高校、中学とは違う 」
・・・
そう、感心したのである。


大阪マーチャンダイズマートビル ( OMMビル )
昭和44年 ( 1969年 ) 竣工
大川・天満橋、傍に建築された 22階建のオフィスビル
大阪に於ける、高層ビルの魁であった
とにかく、吾々の大阪は、明るかったのである

  
  建築パース    office ファサード とインテリア                           精密描写のサンプル

「造形 」 の授業では
「 建築パース 」 や 「 精密描写 」 等を、学んだ。
私にとっては、未曾有の世界で、
それが亦 嬉しかった。
それは、
目標である設計士に繋がる。
・・・そんな気がした。

和室の透視図
宿題として着色したものである。
教師より指摘された部分が、私のオリジナリティ
16歳の個性 なのであらう。
「 これが、2万円か 」
・・・と、眼がくらんだ私
とにかく、こういうものを画くのが、好きな私であった。
そして
こういうものを画いている自分が、誇らしくもあった。

  斯のパース ( 室内透視図 ) ・・・見る人が見ると、基本的に間違っているところが 2 箇所もある
  これを 「 チョンボ 」 ・・・と、謂う


茶目っ気
「 花田、俺の分も、画いて呉れへんか 」
・・・
と、級友・吉田五郎
「 ええよ 」
「 で、どんなふうに画くねん 」
「 なんでもええわ、お前に任せるから 」
「 ほんまやなぁ、俺に任せるんやな 」
「 よっしゃ、でも、どうなってもしらんからな 」
「 分かってる 」

安請負い したものの
唯、頼まれて画くだけでは、物足りない、
・・・と
気分は、すっかり 遊び心 の中
「 驚ろかせてやろう 」 ・・・と
床ノ間の掛軸に、
「 五郎 」 という 書 を入れた。

「 ドヤッ 中々シャレてるやろう 」
・・・と、私は
茶目っ気 を、出した。
面白い奴 と、只それだけを 謂わしめんが為に。
尤も、これは、普段、真面目 故のこと


吉田五郎 
彼はハンドボール部キャプテン
インターハイに出場したスポーツマンで、
而も 学業の成績も良かった。
所謂、ワルでも、不真面目な奴、でも無い、
正真正銘真面目な生徒である。
その、長身で甘いマスクは
学校内の女子生徒 ( ほん僅かであるが ) に、
人気絶大であった。
・・・リンク→スター 誕生 と  茶目っけ

「 俺の名前を入れたんかぁ・・・」
そうは言ったが、
まんざらでもなさそうであった。

果たして、反応は如何
提出した吉田に、担任の木全先生
名古屋 訛りで以て
「 五郎 はおかしいぞ、掛軸に 自分の名前は無いぞ 」
「 書 を 書くなら、書くで、相応しいものを書くんだ 」
「 しかも もっと上手に書かないと駄目だ、これは下手だ 」
「 書 に成ってない 」
・・・
と、もう散々

私の、ほん些細な遊び心 は、
一寸した物語 へと、発展してしまったのである。
「・・・閉口した 」 ・・・と、吉田

堅物・木全先生
彼の生真面目は、
吾々の思惑を凌駕した。
それが亦、
面白いと想う、私である
 


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