昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

茶目っけ

2021年06月03日 04時36分19秒 | 4 力みちてり 1970年~


額中絵画
中学校の教室正面、黒板の中央上に掛かっていた
そして此は、中学二年の時
額のガラスに写った 「 青い鳥 」 を見ていた時の絵画である
こういう、絵画の選定を
誰が、どういう基準で以て決めたのかは
分からないが、芸術とは、こういう事なのであらう

幼き頃から
野球をしているか、絵を画いているか 」 の、何れかであった私
小学生の時には、大阪へ転校してから2回、展覧会に入選した
当然、図画の通信簿は、5 の私
中学生に成っても、偶にではあるが、絵を画いていたのである
絵画に興味はあった
昭和44年(1969年)中学三年生
中学校に、西洋美術絵画本を販売に来ることがあって
1枚50円のサンプル版を、3枚選んで購入したのである
其の内・1枚が是
  ギュスターヴ・クールベ 作

「模写しやう」
早速、画いた絵が是 


模写
昭和45年(1970年) 高校一年生
芸術の授業で夏休の課題として、「海の絵を画く」 が、出題された
巷では、西郷輝彦の「真夏のあらし」が流行っていた夏休み
級友の平野、水阪、友がき・舟木、平野の中学の同窓・平山、西川 とで
小豆島のキャンプ場・グリーンランドへ泳ぎに行った
二泊三日のキャンプ・・・初めての経験であった
・・・リンク→バラ色の時 4 「 小豆島グリーンランド キャンプ場 」 

 
水着や飯盒・フライパンは持って行ったけれども
絵の具など、誰が持って行くものか
そこで
私は、 を もう一度、模写して提出したのである
しかし、案じた如く
「 実際観た海を画くことが、課題である 」
「 この絵、知っとるぞ、模写はは駄目だ 」
東京芸大出身の教師に、そう云われた
「 そうか、やっぱり ばれたか 」
「 さすが、芸大の先生やな・・この絵、判ったか 」 と、ばれた事が嬉しかった私であった
「 模写はいけませんか?」
「 駄目だ 」 と、採点は75点
「 駄目出しで、及第点なら・・・まぁ、いいか 」

面白い 面々
昭和45年(1970年 )当時、魅力的な人物が多かった。
教師も生徒も、中々面白かった。
共に、胸襟を開いてこその事である。

芸術の授業で 「 建物を画く 」 が、宿題された。
私は、偶々手にした雑誌の中に、
当時最先端であった、「 カーテンウォール 」 のファサードを持ったオフィスビルの写真を見つけた。
芸術の事業での、
建築パース ( 透視図 ) は 「 的外れ 」 ・・・とは、想ったが、
私はどうしても、画きたくなったのである。
そして、
う存分、パースを画いたのである。
期日、提出すると、
教壇に立ったまま、その場での採点された。
70
点 と。
「 やっぱり、芸術性が無かったかなぁ・・、まあ、こんなもんかな 」
・・・
と、少々不満ではあったものの
渋々納得したのである。


「 花田、その絵 貸して呉れ 」 ・・・と、吉田。
「 なんやお前、宿題しとらへんのんか?」
「 それに、大丈夫か、おい 」
「 大丈夫、大丈夫・・・心配せんでええから 」
頃合いを見て、
自分の宿題として持って行ったのである。
茶目っ気 を、出したのである。

果たして、
「 花田、75点 貰うたぞ 」
「 旨くいったなぁ・・」
「 でも、なんでやねん 」
「 なんで、俺の点より、お前の方がええねん 」
「 この絵、さっき 70点やったんやぞー 」
「 アハハ・・先生、ちゃんと見とらへんのや 」

教卓前の縦列を、手際よく こなしている教師の姿があった


「 それ(その方法)、ええな ・・」
「 花田、その絵、俺にも貸して呉れ 」 ・・・と、宮田。
調子に乗って、
さっさと、持って行ったのである。

「 何ぼ何でも、それは無理やろ 」
「 ばれたら豪いことに成るぞ 」     ( えらいこと )
・・・と、想いつつ
その成行如何んを、湧く湧くする想いで以て
吉田と共に、待っていたのである。

「 あかんかったわー 」
・・・と、宮田。
笑いながら帰って来た。

「 何ん ぼ、俺でも、1枚の絵で、3人に点は、やれんぞ 」
・・・やて、


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