昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

人目憚ることなく、ひたすら落語に打ちこむ姿を目の当りにして

2021年04月06日 21時30分13秒 | 4 力みちてり 1970年~

昭和46年 ( 1971年 )
課外授業として、桜橋のサンケイホールで 『 落語 』 を 観賞した。
真打は 『 桂米朝 』 、米朝がメインの落語会だったのである。
弟子の 『 桂小米 』 が、前座を務めた。
米朝 は上方落語を牽引する大看板。大阪人なら、その落語は誰もが知っていたのである。
然し、彼の落語は玄人好み、高校生の吾々にはその値打ちは解らなかった。
果して、生の落語もテレビの印象通り。・・・面白くなかった。

  桂米朝                    桂小米
「 落語とは、面白いもの。 可笑しいもの 」
・・・・これが、吾々の想いであった。そしてそれが、吾々の期待でもあったのだ。
ところが、前座に演じた小米の落語は 吾々の期待を満たして呉れた。
面白かった。可笑しくって大笑いした。
「 笑いたい 」 ・・・と、
そんな期待で以て聴いている吾々を笑わせて呉れたのである。
「 小米は面白い 」・・・と、
吾々は、脳裡に焼きつけたのである。


 類似イメージ
昭和46年 ( 1971
年)、高校2年の秋の事
課外授業で、大阪厚生年金会館の小ホールを見学した。
舞台の袖から舞台裏を回った。 ・・・大道具、小道具と裏方のスペースを観察した。
ステージから観客席を眺めた。 『 檜舞台に立つ 』 ・・・役者、演者の目線を観察した。
そして、ステージから観客席へと回った。
そこで 宮田らグループが ステージに 『 かぶり付き 』 ふざけて見せたのである。
「 オイオイ、此処はストリップ劇場と違うぞ 」
と、堅物 ・担任木全が 咎めた。
「 あいつら、油断したら何仕出かすか解らん 」
さもあらん。

あれが、小米かぁ   
                                                     
(コヨネ)

見学を終えて、吾々は帰校の途に就いた。
四ツ橋筋を、四ツ橋から国鉄大阪駅まで 徒歩で45分はかからうか。

各々、小人数のグループごと、景色を楽しみながら、北へと向かった。
私には、初めて歩く都会の街並みは新鮮であった

イメージは昭和49年8月

今の渡辺橋・当時の面影は無い

中之島は堂島川、渡辺橋にさしかかった時
向うから
「 ・・・・・・・・・・」
なにやら言い持って、歩いて来る、一人の男に気がついた。
しょぼくれた、平凡な小男
ニヤニヤ しながら なにやら、喋っている。
「 ・・・・・・・・・・」
渡辺橋上、吾々は、彼とすれ違った。

「 おい、小米 ヤデ 」
「 あれが、小米 かァ 」

 

桂 小米 ( 後の 桂 枝雀 )
路を歩きながら、落語の稽古をしていたのである。
吾々は、
人目憚ることもなく、ひたすら、落語に打ちこむ
その姿を、目の当たりにしたのである。
吾々は感動の心持ちで、彼の後ろ姿を、見送った。

「 小米 は、なあ 」
「 神戸大学を辞めてまで、落語家になったんやて 」
「 へぇー! 」
17歳の私は、
その 『 生き様 』 に、賛同した。
その 『 潔い覚悟 』 に、共感したのである。
そして、

「 カッコ エエ !! 」 ・・・心の中で、感嘆の声を上げた。

『 小米は面白い 』 ・・・素は茲にある。
そう想ったのである。



面白い落語から大爆笑落語へ
昭和45年(1970年)~50年(1975年)
革命児・笑福亭仁鶴が、我々に落語を知らしめ、落語に耳を傾けさせた。
「 落語も面白いもの 」 ・・・と。
「 落語を聞く 」 ・・を、若者の一つのファッションとしたのである。
然し、それは未だ、粋の範疇、通の領域。
落語の域を超えるまでには行かなかったのだ。
時代は進化する。
昭和48年(1973年)桂小米は桂枝雀を襲名した。
そしてこれを機に、
枝雀がばけた。 大ばけした。
茲に、ヒーロー・桂枝雀 が真打登場 したのである。
彼の落語はこれまでの全ての落語を凌駕した。
それはもう、大爆笑の大爆笑。
落語を聴かせて、且つ、我々を大爆笑させたのである。
これぞ、枝雀落語の真骨頂・・と。


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