昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

昭和 ・ 私の記憶

2024年05月13日 19時52分25秒 | 昭和 ・ 私の記憶 ( 目次 )


私の 「 昭和 」
・・・を 物語る


昭和 ・ 私の記憶
親父は私に期待をかけていた。
『 鳶が鷹を生む 』
親父の好きな 文句であった。

私は
小学四年生 ( 10歳 ) の時、
将来、「 設計士 」 に成ろうと思った。
親父が謂う、
『 鷹 』 に成なろうと思ったのである。
・・・蛙の子は蛙



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昭和 ・ 私の記憶 1
    想い出る故郷
 
            昭和32年 ( 1957年 ) ~ 昭和37年 ( 1962年 )
    男前少年 
                  昭和38年 ( 1963年 ) ~ 昭和41年 ( 1966年 )  小学生 ・大阪
昭和 ・ 私の記憶 2
    青い鳥 
                      昭和42年 ( 1967年 ) ~ 昭和44年 ( 1969年 )  中学生
    力満ちてリ             
昭和45年 ( 1970年 ) ~ 昭和47年 ( 1972年 )  高校生
昭和 ・ 私の記憶 3
    青春のひとこま        
昭和48年 ( 1973年 ) ~ 昭和58年 ( 1983年 )  社会人
    右翼青年              
昭和49年 ( 1974年 ) ~
    バブルの頃            
昭和59年 ( 1984年 ) ~ 昭和63年 ( 1988年 )
    大阪ヒーロー
    大和撫子

昭和維新に殉じた人達の体験を、
恰も 己が実体験の如く記憶し 蓄積した

昭和 ・ 私の記憶 4
    昭和の聖代
    三島由紀夫
    二・二六事件


・・・と、吾心懐に存する。
其の 一つ一つが大切なものばかり。
その中でも
貞子さん(ていさん)
男前少年 と おんなせんせい
 「 青 い 鳥 」
腕自慢でも敵わなかった万博の大屋根
憂 国
昭和48年 (1973年) 3月5日
巨人の星
生涯一の大風景
・・・の物語は、格別なもの。

殊に、
一番の想い出は
男前少年 と おんなせんせい
それは
吾人生の 『 核 』 を為す如き出来事であった。
・・・と、そう想う。

もう一つの
昭和 ・ 私の記憶
 ( ・・・※)  ・・パスワード
1  青年

男のロマン 1975
Process 1974~1977 自我      ( ・・・※)
Process 1977 温故知新 


2  青春のひとこま
「 男と女 」
勿忘草 ~1979               ( ・・・※)
見果てぬ夢・叶わぬ想ひ ~1982     ( ・・・※)


昭和64年 ( 1989年 ) 1月7日 (土)  昭和天皇崩御

『 昭和の余韻 』 
夢を追った  平成
設計士として

当時、
九州・福岡で、ゴルフ場を建設する為
クラブハウスの設計を依頼されていた私
その設計が、大詰めの段階に 差掛かっていた。
更に、建築の為の手続きも、
福岡県庁で着々と進めていた。
その最中の この大震災であった。

想へば、
私の人生 ・絶頂の瞬間は、
波乱万丈
阪神淡路大震災の記憶と重なる。
「 選りに選って、この時期に 」
その時の、吾想いである。
・・・
1995年1月17日の記憶

  基本プラン イメージスケッチ
  イメージ模型
吾ロマンを一心にデザインした
会長は 其のマンを汲取った

そして、己がロマンを私に託そうと想った
とんでもないことが  起きてしまったのである

1994年6月29日(水)
「 クラブハウス、コンペや想うてやってみいへんか 」
「 とれんかも、しれんど・・」
 ・・・と、社長が言う。
「 ハイ、やらせて下さい 」
・・・と、私は即座に答えた。

Design & Datail 1987~2007     ( ・・・※)

吾 生涯年を
『 12年を一日 』 ・・・と、 そう換算するなら
生涯は六日
七日目からは残生としよう

昭和64年 (1989年 ) 昭和が終った
而し  『 昭和 』 は、私にとって  
「 つい、昨日 」 ・・・こないだ なのである

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昭和 ・ 私の記憶 1 ( 想い出る故郷 、男前少年 )

2024年05月13日 19時33分49秒 | 昭和 ・ 私の記憶 ( 目次 )


私の 「 昭和 」
・・・を 物語る


昭和・私の記憶  1
目次
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「 故郷は遠きにありて想うもの 」
私にとって、『 遠きにありて 』 ・・・とは、過ぎ去った時を謂う。

そして 『 故郷 』 ・・・とは、母を謂う。
1  想い出る故郷   ~ 昭和37年 ( 1962年 )
昭和32年 ( 1957年 )  3歳
01  吾母との絆の証し   ・・私の手の甲のアザは、母の大切な形見 
02  下島小学校のブランコ 母と二人して 父の帰りを待つ・・・  ・・「 また、仕事先でよばりょうるんじゃろうて・・・」
03  「 雨がふりょうる 」  ・・「 おばあちゃん あめ こうて 」
04  ムカデの話し  ・・「ムカデの上に・・・」
昭和33年 ( 1958年 )  4歳 年少さん

05  弁財天神社  ・・山桜とニイニイ蝉  ・・カヤの葉飛ばし
06  アコウを釣った  ・・「 ガツン ゆうた 」
07  丸谷の波止場 と 「 夕焼けとんび 」  ・・♪夕焼け空がまっかっか
昭和34年 ( 1959年 )  5歳 年中さん

08  バンカラへの憧れ  ・・白い鉢巻をして颯爽と騎馬に跨る叔父の勇姿を観て、私は誇らしく想った
09  三つ子の魂百までも  ・・勇ましい・・は、男児の誉れ
10  大地蔵 ・ 峠越えて  ・・「 肥え かけたんじゃのうて、声 かけたんで 」 ・・峠、母と唄う
11  こんなうまいもん初めてじゃあ  ・・「 あれなんなぁ ? 」 
12  小ミカン畑  ・・皆のジャンパー、腰の回りが膨らんでいる
13  飛地 大久保  ・・櫓を漕いだは、10歳年長の叔父
14  しょうじきなきこり と わるいきこり  ・・「 あの時どうして笑うたん ? 」
昭和35年 ( 1960年 )  6歳 年長さん

15  寄りそいあって生きた時代  ・・米の量を補う為に、芋を混ぜた「芋飯」で腹を大きくした
16  総理大臣が軍艦に乗ってやって来た  ・・日本国の総理大臣が吾が島を訪れたのである
17  天下御免の向う傷  ・・「 主役は ワシがするんじゃ 」

18  タコ捕りの達人  ・・「 オッ、おるおる。 エッ、どこなあ。 ホレッ、そこにおろうが 」
19  丸谷の波止場 「 サッカン 早よ 助けんねー !! 」  ・・「 泳げるようになった 」
20   桃花の咲く頃  ・・おねえさんと桃花 ・・薄い日差し ・・冬のホタル
21  サトオッチャン  ・・「 サトルー、ユキノリがコケテのぉ 」
22  山ん中で路に迷う  ・・「 はぐれたんじゃ 」
23  ようちえんぼうず  ・・「 オーッ、総天然色かぁ 」
24  快傑 ハリマオ  ・・「 この歌 三橋美智也が唄ようるんで 」
昭和36年 ( 1961年 ) 7歳  小学一年生

25  日出子先生  ・・担任は おんな先生
26  三ノ瀬小学校  ・・宿題忘れて立たされて
27  ドジョウの話し  ・・妹が水に沈んだ ・・ドジョウに襲われる ・・夢
28  千代子と謂う名  ・・「 ししゃりでるな 」
29  「 捨ててきなさい 」  ・・猫を拾う ・・「 拾わにゃあ よかった 」
30  天神鼻  ・・「 なして こんなところに タコつぼがあるんじゃろ 」 
31  満天の空に 星は 星の数ほどあった  ・・「 ぶつからないのか 」 と、想うほどの星空があった
32  海峡を越えて   ・・「 はなだゆきのりくん 」 と、先生が呼ぶ声  時折、風に乗って、聞えて来る
33  夏の想い出と祖母がつくったアブラメの味噌汁  ・・「 アブラメ ( 稚魚 ) 、喰えるん?」
34  海に落ちた妹  ・・「 ミサエー、ミサエー 」・・・と  悲痛な声で母が叫んでいる
35  儚い命  ・・「 ヘソとヘソをくっつけて、三回まわるんじゃ 」
36  貞子さん(ていさん)  ・・「 貞子まっちょれよ。もうすぐじゃきんの。 ・・・ええ。 」
37  トイレでしみじみ想ったことは  ・・誰にも気づかれることなく死んでしまうのか
38  い た ん ぼ  ・・ 「 ワシが、採ってきちゃる 」
39  自転車ごと海に落ちた中学生  ・・「 大事じゃあ。大事じゃあ 」
40  痛ツ !!  ・・それは今迄経験したことのない痛みであった
41  サンタは煙突から入って来る  ・・「 サンタクロースが来ますように 」
42  相撲をとって 遊んだころ  ・・行司役の年長が存て、遊びを取仕切った
43  メジロ と とりもち と 百舌鳥獲り  ・・「 泥を付けたら取れるど 」
44  気がついてみたら  ・・八合戦 ・・気絶
45  散髪屋で見た漫画本  ・・従軍看護婦と兵隊
昭和37年 ( 1962年 )  8歳 小学二年生
46  テレビが吾家にやって来た  ・・少年ケニヤが見れる
47  七変化  ・・ 白ノスズメガ ソウユウタ ♪
48  上をむいて歩こウォウォウォ  ・・「ちがうわい 歩こおおお じゃ  
49  野球少年 ・ チャンバラから野球へ  ・・打者の打ち返した球がライナーで真向から飛んでくる
50  『 すれ違いざまのキャラメル一粒 』  ・・「 もういっぺん学校じゃあ 」 と、小学校へ向ったのである
51  「こんな と、喧嘩せえ」  ・・私が相手と顔を突き合わせている
52  故郷は遠きにありて想うもの  ・・瞼をとじさえすれば吾故郷はいつでも其処にある
53  トグロを巻いたヘビ  ・・私の姿を見るなり  いかにも気持ち悪い、かま首を持ち上げたのである
54  蒲刈病院  ・・あしながバチに刺される
55  公民館が炎ようるぞー  ・・「 オッ、校長が来た。教頭が来た 」
56  ムカデの話し  ・・体の中に ・・布団の上を這うムカデ
57  誉められると 思ったのに・・・  ・・山火事を消したのに
58  教えたとおり、言うんで  ・・「 親父さんがいつもお世話になっております 」


「 謝りなさい 」
怒りのこもった言葉であった。
「 そんなもん、
受容れられるものか 」
だから私は、何も言わなかった。
次の瞬間、往復ピンタをくらったのである。
こともあらうに、皆が見ている中だ。
「 如何して 殴られる 」
( ・・・男前少年 と おんなせんせい )

2  男前少年  昭和38年 ( 1963年 ) ~ 昭和41年 ( 1966年 )
昭和38年 ( 1963年 )  9歳 小学三年生 
01  びっくりしたなぁもう !!  ・・運動場を覆い尽くす千八百名を見て度肝を抜かれた
02  生意気な奴  ・・「 こんな奴と、友達になるな 」
03  笑いたいのをこらえたのに  ・・「 笑ろうたらあかん・・」 ・・9歳の少年は、堪えようとした
04  コカコーラ は くすりの味  ・・「 コカコーラは風邪に効くんじゃぜ 」
05  おまえ・・ブタマン屋の娘やろ  ・・「 これが、ブタマン…かあ 」
06  長島少年  ・・「 昨日の長島、凄かったなあ、四打数五安打やったで 」
07  山田 浩 「 男は泣いたら アカン 」  ・・大阪での友達第一号
08  世の中に、こんなにうまいもんがあるのか  ・・親子丼
昭和39年 ( 1964年 )  10歳  小学四年生  東京オリンピック

09  「目にあたらんで、よかったなぁ」  ・・独楽が少女の額を直撃した
10  強い は 男のロマン  ・・ゼロ戦
11  戦友  ・・♪ 赤い夕陽に照らされて ・・満洲
12  野球少年 「 近所の小伜 」   ・・「 何処どこの誰々を呼んで来い 」
13  新聞少年  ・・「 まあええ。働こういうことは ええことじゃ 」
14  鉄腕アトム  ・・「 扇風機の風は体に悪い。うちわが一番ええんじゃ 」
15  肩までつかれ  ・・「 100まで数えろ 」
16  ロケット花火を飛ばして、叱られて  ・・「 火事になったらどうします。警察を呼びましたから 」
17  爆弾池  ・・「爆弾池で魚は釣らん、捕まえるんや、網で掬うんや」
18  夏休みは いつも一人で  ・・塀を相手に一人キャッチボール
19  拾った金を寄付した・・けれど  ・・「 この三百円は恵まれない人の為に寄附をする 」
20  愛と死を みつめて  ・・儚い命に日本中が涙した
21  姿 三四郎 「鉄壁の不動心」  ・・「 卑怯なまねはするな 」
22  奮闘努力 と リーダーの条件  ・・すぐ横を、駆抜けた、一瞬 ・たちどころに、彼女の存在感を感じ取ったのである
23  ドッチボール ・ 「 あいつら 何もわかっとらへん 」
24  ミックスされた記憶 「 金メダル と 母の白いブラウス 」  ・・「 お母ちゃんが帰って来た 」
25  明日があるさ  ・・「 さっきまで あんなに笑っていたのに 」
26  紅白歌合戦を風呂屋で観る  ・・
ザ・ピーナッツが歌う 「ウナ・セラ・ディ・東京」が、流れていた
昭和40年 ( 1965年 )  11歳 小学五年生

27  若い いのち  ・・「 私は妻です 」
28  林間学校  ・・自分の帽子に吐いた奴
29  故郷に錦を飾る それまでは  ・・親父は精一杯 己が意地を張っていたのである
30  テケテケテケテェッ・・・・  ・・彼はギターを持って、得意満面の顔で私に弾いて聴かせた
31  親父の心意気  ・・「 ワシは、花田組のもんじゃ 」
32  あっという間に日が落ちて  ・・どうしよう・・・日が山に懸かり始めた
33  話せば分る・・問答無用  ・・「 偉人の名言・格言、を提出しなさい 」・・・宿題です  と

昭和41年 ( 1966年 )  12歳  小学六年生

34  集団登校  ・・「 ミサエー まだかあ 」
35  四つ葉のクローバー と ドナドナ  ・・♪ とてもすき  ボッコ  プッコ  ノッコ
36  風よ伝えてよ あの娘に  ・・「 ♪風ょ伝えてよ エテコに 」
37  私も オカワリ したい  ・・私と同じ班の〇〇さんが言った
38  遠足 帰りのバス  ・・「これ、誰が歌っているの」
39  君は王将だ !!  ・・自称 ・クラスの王将
40  ろくに犬も飼えないくせに  ・・「 この犬 育てんねん 」
41  勢い余って・・・シュン太郎  ・・「ハナダ・・ゲンキダセヨ、キニスンナヨ・・・」
42  あくびをして おんなせんせい に 叱られた  ・・「 勉強に集中していないから出るのです 」
43  学芸会 「 主役や言うから楽しみに観に行ったのに 」  ・・「 もう、折角頑張ったのに ・・・ 」
44  参観日 「 なんで 手をあげんのや 」  ・・「 ハイ、あんまの道を歩みます 」
45  男前少年 と おんな せんせい  ・・私の男前は飛ばされた
46  白組優勝 「 こんなことが 親孝行になるのか 」  ・・「 白組が勝ったら、あなたが優勝旗を取りに行きなさい 」
47  ヒーローに成った  ・・都島球技大会
48  学校を休む ・ 1 「 その顔、どしたんな 」  ・・「 そんな すごい病気なんか 」
49  学校を休む ・ 2 「 闘病とは辛抱我慢すること 」  ・・「 風呂で遊びょうるきんじゃ 」
50  ウルトラ Q  ・・「 ワシの見た 夢じゃあ 」
51  一生懸命なるが由に  ・・私の発音がおかしいと言うのだ
52  俺の目を見ろ 何にも言うな  ・・私は、感動してしまった

・・・次頁  昭和 ・ 私の記憶 2 ( 青い鳥 、力満ちてり )  に続く

コメント (1)

昭和 ・ 私の記憶 2 ( 青い鳥 、力満ちてり )

2024年05月13日 18時38分56秒 | 昭和 ・ 私の記憶 ( 目次 )


私の 「 昭和 」
・・・を 物語る

昭和・私の記憶 2
目次
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教室正面の黒板上には、
額に入った絵画が掛けられていた。
「 オッ!」
席に座って見上げると、
額のガラスが鏡に成って 私の後ろの景色が見えた。
なんとそこに、彼女が写っているではないか。
私は 小さな額の中に 『 青い鳥 』 を、みつけたのである。
毎日 『 青い鳥 』 を、見ることができる。
而も
一人、ひっそりと。
黒板を見る振りをして、『 青い鳥 』 を、見ていたのである。
それはもう、幸せな時間だった。

3  青い鳥   昭和42年 ( 1967年 ) ~ 昭和44年 (1969年 )
昭和42年 ( 1967年 )  13歳  中学一年生
01  あしたのジョー  ・・ヘビー級は凄い
02  ラジオ体操 第二 ・・「 教えて上げよう 」
03  ヒーローに成った・・脇役だった一年生
04  切身の塩サバ 一つ  ・・「 オッ、ハナダ 今日は豪勢な 」
05  ひとの心懐にあるもの  ・・読書とは
06  まんまんちゃん あん ・・サッカーの釜本
07  教師の驕り 人としての格  ・・教師は烈火の如く怒鳴った
08  禁じられた遊び ・・「 映画を観て 君らは如何想ったか 」
09  ブルー シャトー ・・元首相 ・吉田茂の国葬が行われた日
10  先生の親心  ・・「 このクラスの中で成績が一番良かった 」

昭和43年 ( 1968年 )  14歳  中学二年生
11  ヒーローに成った・・一躍 ヒーローに成った二年生
12  『 心を合わせる ということ 』 とは  ・・「 楽譜とおりに歌おう 」
13  ちょっと、つまづいただけの物語 ・・「 アッ ぶつかる 」
14  長島茂雄 感動のホームラン  ・・男の中の男
15  先生の親心  ・・「 本当は86点でしたと言って、皆にあやまりなさい 」
16  not only but also  ・・鉄人 ・吉田も笑ってた
17  「 なんやお前、教科書忘れたんと違うんか 」  ・・なにしてんやろ、こいつ
18  青い鳥 1 「 青 い 鳥 」  ・・「 〇〇〇  ヤロ ・・ 」
19  青い鳥 2 ・ 〇〇〇 「 おまえの所為やぞ 」  ・・「 花田君、黒板見るふりして キーコ見てやる 」

昭和44年 ( 1969年 )  15歳  中学三年生
20  ヒーローに成った ・・青い鳥の目の前で
21  余計な一言  ・・「 コケコッコー 」
22  「 茶目っ気 」・・・勢い余って  ・・「 男は少々ヤンチャなくらいがいい 」
23  置き碁・風鈴 「 もう、やめじゃあ 」  ・・「 クソー 」
24  がり勉  ・・「 花田君 ガリ勉 やてね 」

25  ジェラシー 「 なんで、あいつやねん 」・・「 優しい方が  良えんやぞ 」
26  修学旅行 1 ・ 消えた記憶 「 観音様です、おっ母さん」・・♪ 観音様ですおっ母さん
27  修学旅行 2 ・ 希望号 「カーディガン の 想い出 」・・「 もう、せっかくのところ・・・邪魔をして 」
28  恋心・・「 恋なぞしない 」 ・・と  ・・カーディガン
29  「 おばあさん どうやった? 」 ・・・○○○ が 問いかけた ・・振り向くと、○○○とカーディガンの姿があった
30  引き潮が 満ち潮に変わる時  ・・「 ミヤチャーン ! !  ・・・あれは サユリさん じゃ 」
31  先生の親心  ・・「 かわいそうなことをした 」
32  文学少女にはなれなかった ・・友ガキ ・舟木が笑い出した
33  石川啄木 ・「 文学少女にはなれなかった 」 の、後書 ・・わかれ来て 年を重ねて  年ごとに 恋しくなれる  君にしあるかな
34  それは ちがうやろ  ・・教師は良い意見であると誉めた
35  虹のまち 「 ばら色の瞬間(とき)」 ・・♪ 大阪南の虹の町
36  一緒に行ったろかぁ  ・・よくよく、しょげている私を 見るに見かねてのこと
37  生涯最高のスコア・・・   ・・10フレームを残してスコアは190
38  東洋の魔女 ・・「 だけど涙がでてきちゃう  女の子だもン 」

39  進路相談 「 全くの、五分・五分ですか?」・・「 あそこって、あそこよ 」
40  青い鳥 3 ・ 卒業文集 「 でも 楽しかったわ 〇〇さん 」・・「 でも  楽しかったわ 〇〇さん 」
41  大阪市立淀川中学校 第9期生 (1970年卒)  ・・卒業アルバム


力 満ちてり                          これぞ建築の意気                これぞ 建築の意気
意気は湧けり                        栄えをばゆずらぬ俺の胸        俺の誠 空とぶ雲となる
剣とりて 皆 勇みたて             めぐり来たるこの時
おお選手達                           鐘は鳴る 意気は鳴る
意気は湧けり 戦い抜け         かざせ栄冠の盾を
ああ俺等の選手達よ               起てよ 勇み立て

4  力満ちてり  昭和45年 ( 1970年 ) ~ 昭和47年 (1972年 )
昭和45年 ( 1970年 )  16歳  高校一年生
01  バラ色の時 1 「 今日の酒は格別 」 ・・「 あった! 合格していた !! 」
02  バラ色の時 2 「 線路の路肩に見付けた つくし 」  ・・「 こんな処につくしが・・・」
03  バラ色の時 3 「 一寸した油断から魔が差す 」  ・・「 滑って転んだのは、腰が抜けたから 」
04  受験番号一番の男 と 人生航路  ・・一番と二番の出逢い
05  昭和45年 (1970年) 4月8日 ・ 1 「 大阪市立都島工業高等学校建築科・65期生 」  ・・「 大人扱いをするぞ 」
06  昭和45年 (1970年) 4月8日 ・ 2 「 天六ガス爆発事故 」  ・・「 見に行かんで良かった 」
07  旭屋書店の帰り、宝くじ を買ったら 当たった~  ・・「 下二桁、22を下さい 」
08  力 満ちてり 「 古き伝統 輝く歴史 」  ・・「 弁当食うの ヤメー ! ! 」
09  反骨な奴のレジスタンス  ・・「 分かったかァ ! ! 」  ・・「 分かりません ! 」
10  腕自慢でも敵わなかった万博の大屋根  ・・「 30メートルやったら、石投げたら届くで 」
11  「先生、そんなん言うたらあきませんわ」  ・・此を、黙って聴いて居られるものか
12  「 チャン、チャン、チャ・チャ・チャ、チャ・チャ・チャ・チャ 」  ・・「 いいもん見せてもろたな 」 ・・「 ハイ 」
13  面白い 面々  ・・「 五郎はおかしいぞ、掛軸に自分の名は無いぞ 」
14  バラ色の時 4 「 小豆島グリーンランド キャンプ場 」  ・・小豆島の海、グリーンランドキャンプ場
15 茶目っけ  ・・「 なんぼ俺でも、一枚の絵で 3人に点はやれんぞ 」
16  憂 国  ・・「 三島由紀夫が自衛隊でクーデターを起こそうとして 失敗して、切腹して死んだそうだ 」
17  雄叫び  ・・「 やっぱり、セーラー服は良いいなあ 」
18
  貴ノ花の相撲を見たかったのです  ・・文化祭出展の模型作りに嫌気がさして・・
昭和46年 ( 1971年 )  17歳  高校二年生
19  面白い面々 泣いてたまるか  ・・「 こいつら、面白いヤッチャな 」
20  スター 誕生  ・・「 郵便局は、ハガキや切手を売る処、封筒は売ってない 」
21  鎖縁の物語 「 共に野球部に入ったけれど 」  ・・「 お前が入るんなら、俺も入る 」
22  人目憚ることなく、ひたすら落語に打ちこむ姿を目の当りにして  ・・「 あれが小米かぁ 」
23  パトカー に乗って帰宅する  ・・「 チョット、金貸して呉へんか 」
24  「私は待っています」 と、伝えて  ・・折鶴
25  青い リンゴ  ・・大阪中央郵便局でアルバイト
昭和47年 ( 1972年 )  18歳  高校三年生
26  私はいつも 鬼ばかり  ・・浅間山荘事件
27  17才のこの胸に 「 二人で唄った刑事君 」  ・・♪ よんでいるのか 刑事君
28  17才のこの胸に 「 友ガキ・舟木との別れ 」  ・・「 たのむから、もう 出んといてくれ 」
29  面白い面々・茶目っ気 「 カンニング 」  ・・「 エッ  そんなんアリ ・・かい ? 」
30  木枯し紋次郎の一膳めし  ・・一機に腹の中に流し込んだ
31  ひまわりの小径 ・ 「 セーラー服の後ろ姿 」  ・・「 どこの女子校やろ ? 」
32  背伸びした一分(イチブン)  ・・エースで四番 「 剛速球は男のロマン 」
33  メンチ切ったやろ  ・・「 おいおい、あいつからんでくる気やぞ 」
34  凄いやつ  ・・「 わしら、チョンコウ や 」
35  君は都工 ( ミヤコー ) のライトだ!  ・・「 俺は、フランク・ロイド・ライトを研究している 」
36  人は、こうして人生を選択する  ・・「 この成績で設計事務所入りを希望するのか ? 」
37  ヤングおーおー ・・「 機械科の三好が、出とったやろ 」
38  ひまわりの小径のレコード と 奇特なヤツ ・・「 お前にやったものであるから、お前の好きにしたらええ 」
39  cap of coffee  ・・英語の水原先生、それは駄目だと云う
40  卒業設計 ・ 「 工業高等学校 」  ・・これぞ、吾 卒業設計

・・・次頁  昭和 ・ 私の記憶 3 ( 青春のひとこま 、右翼青年 、バブルの頃 、大阪ヒーロー 、大和撫子 )  に続く

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昭和 ・ 私の記憶 3 ( 青春のひとこま 、右翼青年 、バブルの頃 、大阪ヒーロー 、大和撫子 )

2024年05月13日 16時19分37秒 | 昭和 ・ 私の記憶 ( 目次 )


私の 「 昭和 」
・・・を 物語る

昭和・私の記憶  3
目次
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昭和52年 ( 1977年 ) 12月11日(日)
新大阪駅近くの平安閣にて、親友・水阪の結婚式が行われた。
三々九度を終えると
新郎新婦が夫婦になった決意と抱負を語るプログラムがあり
吾々仲間一同も、水阪の計らいで以て特別に参加していたのである。
「 ほんまに、ほんまに 」・・と、水阪の決意は印象的であった。
プログラムが終ると、愈々披露宴。
会場は結婚式場の下階で行う。 吾々は、階段で下階に降りた。
披露宴会場へ向う途中エレベーターホールで、
ソファーに一人端座する 容姿端麗、美人の女性に気付いた。
「 綺麗な女性 (ヒト) がいる 」
此を・・一目惚れ・・と、謂う。
然し、とは謂っても、所詮、通りすがりの縁
そのまま、彼女の前を素通り披露宴会場に入った。
( ・・・ 見果てぬ夢 ・叶わぬ想ひ )

5  青春のひとこま  昭和48年 (1973年 ) ~ 昭和58年 ( 1983年 )
昭和48年 ( 1973年 )  19歳
01  VAN は、憧れであった  ・・黒ノスリムのスラックス、裾18cmのダブル・・・
02  昭和48年 (1973年) 3月5日 ・・「 いやいや、これは君への投資です 」
03  走れ歌謡曲  ・・深夜ラジオ
04  老いた母ひとり 残して行かれない ・・「 ありがとう浜村淳です」
05  チェリッシュの悦ちゃん ・・「 チェリッシュの悦っちゃんの方がいい 」
06  男の人が そんな事してはいけません!!  ・・
07  旅情 ・ 兼六園  ・・「 カーディガンに暑中見舞い送ろう 」
08  心の旅  ・・「 こいつ 」 そう想った
09  酢豚の想い出  ・・少女の心尽くしのおもてなしは、私を感動させた
昭和49年 ( 1974年 )  20歳
10  カーディガンの夢 ・・「 二級建築士になったら結婚しよう 」
11  巨人の星  ・・「 俺は、左門豊作 かー 」
12  調子にのって、叱られて  ・・「 なんやこの絵、下手くそやなあ 」
13  ミニサイクル と交通ゼネスト  ・・「 歩いて行けばよかった 」
14  意見具申、そこに居た第三者 ・・「 今回のコンペ、当選者はいません 」
15  古いお寺に ただひとり ・・目の前に広がる京都の町を眺めた
16  若い頃 ・・「 斯の子は、何処で如何しているのやら ・・ 」
17  りんご の 写真  ・・「 あのポスター、欲しいんでしょう ? 」
18  俺は男だ  ・・「 森田健作さーん 」
19  二十歳の誕生日に  ・・大学キャンパスで千葉信一に遇った
20  青春の ひとこま  ・・「 正子さん  野島正子さん・・・ハーイ  」
21  青年は夢を追いかけろ  ・・「 男気つかれて、その気になったんやろ 」
22  10時になったら、帰ります  ・・「 お父ちゃんは 泊まって来ることはいっぺんもないんで 」
23  羊羹(ヨウカン)と、クリープ の話 ・・「 こうすると美味いんですよ 」
24  酔うた~  ・・宴会であれだけ呑んでもちっとも酔わなかったのに

25  「 どうして 俺が叱られる 」 ・・・因果な奴  ・・「 スケジュールは追って連絡します 」
26  想い出の セレナーデ  ・・「 天地真理、いいな 」
27  キック の 鬼  ・・チョビヒゲをはやした小柄の男 「 沢村忠 」
28  君達がいて僕がいた 1 「 仲 間 達 」  ・・「 オイ ちょっと待て、俺 肉食うてへんど 」
昭和50年 ( 1975年 )  21歳
29  隣りの あの女性(コ)  ・・「 本当に あの女性 (こ) ですよね 」
30  小さいけど 魂 こもってはる  ・・「 ほんまやったら 国宝なんやけどなぁ 」
31  「 お前、変わってるなあ 」  ・・「 お前の、北一輝に倣ったんや 」
32  叶うものであれは゛ 叶えて欲しい・・  ・・「 決めるべきです 」
33  あの時の少女の言葉 忘れないで存る ・・「 ミホさん・・私の手、輪ゴムより細い 」
34  君達がいて僕がいた 2 「 京橋はええとこ だっせ 」  ・・いくよくるよ との出逢い
35  君達がいて僕がいた 3 「 МA会 野球部 」  ・・「 オイ 8人じゃ 試合できんぞ 」
36  マルチ  ・・騙されても騙すな
37  青春時代 『 青天霹靂のリストラ 』  ・・「 悔しいだろうが、ここは大人の対応をしろ 」
昭和51年 ( 1976年 )  22歳
38  ほう・・・、それで、親孝行とは如何ですか  ・・「 親の傍を離れない事 」 と、答えた
39  「ママ、可哀そう」  ・・その言葉にホロッときたママさん、両の目が潤んだ
40  手編みのプレゼント  ・・「 可愛いい・・ 」 と、想った
41 二級建築士に成る  ・・「 屋根伏 描いとるけど、 違うやろ 小屋伏やろ 」
昭和52年 ( 1977年 )  23歳
42  君達がいて僕がいた 4 「 北の新地は想い出ばかり 」 ・・MA会で盛上げた披露宴
43  君達がいて僕がいた 5 「 スマン スマン 」  ・・水阪一人、未だ来ない

昭和53年 ( 1978年 )  24歳
44  クッターの公式  ・・「 いいものが出来ましたね 」 ・・まさにその時
昭和54年 ( 1979年 )  25歳
45  運転免許を取った理由はバスが来たからです  ・・然し、バスは来た
46  「 魅せられて 」  ・・「 これが、女優と謂うものか 」
47  人 間 革 命  ・・それもう、感動の涙の坩堝
48  帰り途は遠かった  ・・木曽駒ケ岳でテニス
昭和55年 ( 1980年 )  26歳
49  私が観た映画・動乱 「 私は、幸せでした 」  ・・まさに、時代を観たのである
50  大阪名物パチパチパンチ  ・・「 オッ、そうかそうか、そりゃすまなんだな 」

昭和56年 ( 1981年 )  27歳
51  蒜山高原  ・・「 ファーーー 」
昭和57年 ( 1982年 )  28歳
52  コートにかける青春  ・・「 こうして、よく アキレス腱を切るんですよ 」

53  プロローグ ・ 遥かなる想い  ・・旅行でもしたら少しは気が晴れるかも知れない ・・そう想った
54  「結婚式に出席しない」 は、俺の主義  ・・「 思い遣りに欠けた 」 それだけの事かも知れない

昭和58年 ( 1983年 )  29歳
55  甲子園のマウンドに登る  ・・「 私も一役買った 」

56  青雲の涯 遙かなる想い  ・・「 犬に餌やらなあかんのャ、そのままにして出かけてきたから 」
57  青春のたまり場 「 MA会 ・ 都島アーキテクチャー 」 ・・『 君たちがいて僕がいた 』 の、総集編



 檄
国土を離れて国民なく、国民を離れて国民社会なく、国民社会を離れて、人生なし
故に日本を愛せざるものは人に非ず
日本は尊厳極みなき道義精神を以て世界に比なき団結を有する
日本同胞の愛国同胞主義による日本たらざるべからず
実に、日本は愛国同胞主義に生き、愛国同胞主義は国体に生く
然も、日本愛国同胞主義や今何処  国体や今如何
世界の大勢、国内の実状、一として国体改造の急を告げざるものなし
日本の危機たる真に未曾有と称ざるべからず
これを救うものは何ぞ
ただ愛国革新の断行にあるのみ
生命に価するものはただ生命を以てのみすべし
日本愛国革新者ょ、日本愛国革新の大道の為に死を以て、ただ死を以て立て
クーデッタを起せ  我同志ょ蹶起せよ
( ・・・ 四年目の檄 クーデッタを起せ  同志よ蹶起せよ )

6  右翼青年  昭和49年 ( 1974年 ) ~
01  二・二六事件と私  ・・私は彼ら の言動を知るにつき、
       
それらは、私自身の 「 昭和の記憶 」 として
      
宛も私自身の実体験の如く蓄積されていったのである。
02  
晒を巻いて ・・「 死ぬときは割腹して はてたい 」
昭和49年 ( 1974年 )  20歳
03  超国家主義 『吾人は人間であると共に、真正の日本人たるを臨む』  ・・朝日平吾
04  祖父の訓育  ・・「 やるなら拳骨でやるんだ 」
05  祖父 の 遺伝子  ・・「 祖父の想い 」 として、これを継承しようと誓った
06  歴史との出逢い  ・・「 ああ ・・あった 」  一人声無き歓声を上げた私
07  尊 皇 討 奸  ・・「 何だ君は ! 」
08  生涯一の大風景  ・・「 自分にも、何か大きな事がやれる 」
09  私の DNA  ・・最初の一歩を踏み出した私、勢いついて止まらない
昭和50年 ( 1975年 )  21歳
10 一つの写真との出遭い  ・・日本人の面構え と、そう想った
11  何シブイ顔して、歩いてんの !?  ・・「 男がヘラヘラした顔して歩けるか 」
12  覚醒しても尚、覚えている夢  ・・「安全装置を外せ」
13  「サークル」  ・・俺は見た、今の日本の若者のサンプルを
14 右翼青年  ・・「ソ連の奴隷になれ言うのかァ」
15  嗚呼 あの時はもう帰らない  ・・「 なんや、交差点の写真ばかりやな 」


石亭での定例会議
此の日は、『 愛宕の間 』 で 行っていた。
座敷から、和風石庭の景色が堪能でき、庭は数寄屋建築の離れにも通じていた。
定例会議も最中
斯の庭を歩く人影・・・此方へやってくる。
ノーネクタイの下駄ばき・・というリラックススタイル
そして、私に向って声を掛けた。
「 確認、おりたやろ。言うといたからな 」
そう言って、通り過ぎて行った。
オーナーの南野理事長 ( 45 才 ・・当時は皆から 『 理事長 』 と 呼ばれていた )
斯の、大阪府民信用組合の理事長である。
その勢いたるや、『 飛ぶ鳥をも落さん 』 、まさに絶頂の頃。
『 俺が一声かければ、役所も直ちに動く。俺にはそれだけの力がある  』 ・・・と。
( ・・・
Design & Datail  )
7  バブルの頃
  昭和59年 ( 1984年 ) ~ 昭和63年 ( 1988年 )
昭和59年 ( 1984年 )  30歳
01  記憶しない大切な想い出もある  ・・ 東京モノレール
02  栗原小巻 「 こんなきれいな女性 (ひと) 見たことない 」  ・・目の前に、あの栗原小巻がたった
昭和61年 ( 1986年 )  32歳
03  どうか、通してくだしゃんせ  ・・「 何を言っているのか、分かりまへんわ 」
04  コレクトコール プリーズ  ・・Collect call Please  ok  japan osaka 0 ・・  whats ・・?
05  あのおつりは、私のだった  ・・あけてびっくり、玉手箱
昭和62年 ( 1987年 )  33歳
06  大阪つばめ  ・・「 まあ、こんな幼き子が  この演歌を唄うか 」
昭和63年 ( 1988年 )  34歳
07  イエス か ノー か  ・・「 kippu・・・、 kippu・・・」


   「 ドヤッ  わしらの時代は おもろいやろ 」
8  大阪ヒーロー
01  笑いたいのをこらえたのに  ・・漫才、中田ダイマル・ラケット
02  「おかあちゃん、この漫才おもしろいで」  ・・漫才、横山やすし・西川きよし
03  すきがあったら どっからなと かかってこんかい  ・・吉本新喜劇、岡八郎
04  おまえ・・ブタマン屋の娘やろ  ・・吉本新喜劇、岡八郎
05  ガオー  ・・吉本新喜劇、岡八郎
06  革命児達  ・・落語、笑福亭仁鶴  ・・落語、桂三枝、・・落語、月亭可朝
07  人目憚ることなく、ひたすら落語に打ちこむ姿を目の当りにして  ・・落語、桂枝雀
08  大阪名物パチパチパンチ  ・・吉本新喜劇、島木譲二


9  大和撫子
01  女の まこと  ・・「 私くしは山崎烝の妻でございます 」

02  私が観た映画・動乱 「 私は、幸せでした 」  ・・「 あなたの妻と呼んでいただいて  私は幸せでした 」
03  二十四の瞳 花の絵  ・・「 お母さん、百合の花の弁当箱  ほんまに買うてよ 」
04  散髪屋で見た漫画本  ・・「 看護婦さんは食べないのかい 」
05  妻と共に消え去った、幼き命がいとおしい  ・・「 私たちが居たのでは後顧の憂い、一足先に逝って待っています 」
06  殉国 「愛児とともに是非お連れ下さい」  ・・ 「 菅波、お願いがある。貴様の妹を俺の妻にくれないか、一生大事にする 」
07  大和撫子 は 日本女性の鑑  ・・
凛としていて、清楚 慎まやかで 一歩己の身を引いて男を立て、男に尽す 甲斐甲斐しい女性を謂う
08  東京だよ おっ母さん  ・・久しぶりの道
09  郷愁  ・・島倉千代子が謳う 「 女性 」
10  おさげ の女性  ・・おさげは女学生の代名詞
11  七変化  ・・琴姫七変化
12  東洋の魔女  ・・「 だけど涙がでちゃう 女の子だもん 」
13  「私は待っています」 と、伝えて  ・・優しい乙女心
14 男の人が そんな事してはいけません!!  ・・「 そういうことは女のすること 」
15  絶世の美人  ・・吉永小百合

・・・次頁  昭和 ・ 私の記憶 4 ( 昭和の聖代 、三島由紀夫 、二・二六事件 )  に続く

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昭和 ・ 私の記憶 4 ( 昭和の聖代 、三島由紀夫 、二・二六事件 )

2024年05月13日 13時53分53秒 | 昭和 ・ 私の記憶 ( 目次 )


私の 「 昭和 」
・・・を 物語る

昭和・私の記憶  4
目次
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惟フニ 今後帝國ノ受クベキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ  朕 善ク之ヲ知ル然レトモ
朕 ハ時運ノ趨ク所
堪へ難キヲ堪へ
忍ヒ難キヲ忍ヒテ
以テ 萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕 ハ 茲ニ國體ヲ護持シ得テ
忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ 常ニ爾臣民ト共ニ存リ
若シ夫レ情ノ激スル所 濫ニ事端ヲ滋クシ
或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ
爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ
朕 最モ之ヲ戒ム宜シク 擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ
任重クシテ 道遠キヲ念ヒ 總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ
道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ
誓テ 國體ノ精華ヲ發揚シ
世界ノ進軍ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克ク 朕 カ意ヲ體セヨ 
( ・・・ 終戦の玉音放送 )

9 昭和の聖代  
00  修身と教育 ・・「 今の子供は修身を習わにゃいけん 」
01 
昭和ひとけた に 生まれていたら・・海ゆかば
02  伝承する、と 謂うこと・・「 自尊、責任、自己犠牲 」 ・・武士道の根幹精神である
03  万斛の恨み・・大阪大空襲、「 城北公園 ・ 長柄橋の悲劇 」
04  敗戦の日 ・・玉音放送 「 堪へ難キヲ堪へ  忍ヒ難キヲ忍ヒテ  以テ 万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス 」


諸君の中に、一人でも俺といっしょに立つ奴はいないのか。
一人もいないんだな。
よし!武というものはだ、刀というものはなんだ。自分の使命………。

まだ諸君は憲法改正のために立ちあがらないと、見極めがついた。
これで、俺の自衛隊に対する夢はなくなったんだ。
それではここで、俺は、天皇陛下万歳を叫ぶ。
天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳 ! 
( ・・・バルコニーの演説 )
10  三島由紀夫  『 男一匹 命をかけて 』

01  憂 国  ・・「 三島由紀夫が自衛隊でクーデターを起こそうとして 失敗して、切腹して死んだそうだ 」
02  男一匹 命をかけて  ・・「
一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ 」
03  三島由紀夫の死 雷の衝撃  ・・三島由紀夫の死は 否定も肯定も超えて 僕に大きな衝撃を与えた
04  燃えよ剣  ・・「 誠 」 一字に命をかける  意味なぞ ない

05  三島由紀夫 の 二・二六事件 
・・二・二六事件の挫折によって、何か偉大な神が死んだのだった

06  三島由紀夫 と 二・二六事件  ・・あの人達はきっと臣道を踏まえて神と信ずる天皇の万歳を唱えたと信じます
07  などてすめろぎはひととなりたまいし  ・・血の叫びにこもる神への呼びかけは
                                                          
ついに天聴に達することなく、陛下は人として見捨ててたまえり

最後まで頑張って自己を尊重し、自尊心を護ることが
取りも直さず 人間を尊重することに成る。
自己を尊重する者が人間を尊重でき、真実を尊重できる。

08  最後に守るべきもの1
  ・・三島由紀夫 と 石原慎太郎
09  最後に守るべきもの 2  ・・三島由紀夫 と 石原慎太郎 
10  三島由紀夫の葉隠入門  ・・ 『 葉隠 』 は、生きる可死ぬかというときに、死ぬことを勧めている
11  勇者とは  ・・危機というものを、心の中に持ち、その危機のために、毎日毎日の日常生活を律してゆく
12  礼法について  ・・どうして日本料理に限って男から先に出さなければいけないのか
13  羞恥心について  ・・羞恥心のなさが、反省のなさに通じている
14  忠義とは何ぞや  ・・忠義は苛酷なものですよ
15  握り飯の忠義  ・・忠義とは、死をかへりみず、その一心に作つた握り飯を献上することであります


村中、香田、余等の参加する丹生部隊は、
午前四時二十分出発して、
栗原部隊の後尾より溜池を経て首相官邸の坂を上る。
其の時俄然、
官邸内に数発の銃声をきく。
いよいよ始まった。
秋季演習の聯隊対抗の第一遭遇戦のトッ始めの感じだ。
勇躍する、歓喜する、感慨たとへんにものなしだ。
( 同志諸君、余の筆ではこの時の感じはとても表し得ない。
とに角云ふに云へぬ程面白い。一度やって見るといい。
余はもう一度やりたい。あの快感は恐らく人生至上のものであらふ。)
余が首相官邸の前正門を過ぎるときは早、官邸は完全に同志軍隊によって占領されていた。
五時五、六分頃、陸相官邸に着く。 
( ・・・磯部浅一 『 行動記 』 )

11  二 ・二六事件
昭和 ・ 私の記憶 『 二・二六事件 』 
昭和 ・私の記憶  『 西田税との出逢い 』 
昭和 ・私の記憶  『
二 ・二六との出逢い 』
昭和 ・私の記憶  『 謀略、交信ヲ傍受セヨ 』 
二 ・二六事件と私
 
歴史との出逢い  
尊 皇 討 奸  
男のロマン 1975 
私が観た映画 ・動乱 「 私は、幸せでした 」 


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聖代の終焉・1 『 ポツダム宣言受諾をめぐって 』

2022年06月21日 07時08分59秒 | 昭和 ・ 私の記憶 ( 目次 )


聖代の終焉 ・1
『 ポツダム宣言受諾をめぐって 』

 

戦争終結の動き
小磯内閣が戦争政治、大本営内閣の成立を念願して退陣したのは、
二十年四月五日、
大命は思いがけなく枢密院議長鈴木貫太郎海軍大将に下った。

そして鈴木内閣は七日成立した。
陸軍大臣はかねて予定されていた阿南惟幾大将が航空総監より迎えられ、海軍は米内提督が留任した。
陸軍は、
一、あく迄も大東亜戦争を完遂すること
二、努めて陸海軍の一体化の実現を期しうる内閣を組織すること
三、本土決戦必勝のため陸軍の企図する施策を具体的に躊躇なく実行すること
 を要望し、鈴木首相はこれを無条件に承諾した。
その夜、老宰相は全国放送を行い、
「 今は国民一億のすべてが既住の拘泥を一掃して、光栄ある国体防護の御盾たるべき時であります。
私は固より老軀を国民諸君の最前列に埋める覚悟で国政の処理にあたります。
諸君もまた私の屍を踏み越えて起つ勇猛心を以て、
新たなる戦力を発揚し偏に宸襟を安んじ奉らんことを希求してやみません 」
と国民に訴えた。
首相の死を賭して難局にあたらんとする気概は、ひしひしと国民の胸を打った。
しかし、東京憲兵隊はこの内閣が戦争内閣か和平内閣かに疑問を持ち、
その性格の検討をおろそかにはしていんかった。
すでに陸軍の中にも和平の動きはあった。
この戦争にもはや勝目はないと統帥幕僚の中にも悲観的な人がいた。
三月末、憲兵隊長会同が陸軍省で行われたが、
このときの佐藤戦備課長の 「 物動の将来についての説明 」 も極めて悲観的なものであった。
また、政治上層部にも、このような動きのあることは、さきの吉田茂事件をまたないでもわかっていた。
大磯や軽井沢にはたえずこの空気が低迷していた。
だからこの戦争段階での鈴木内閣が終戦内閣となる気配は、始めから感ぜられていた。
しかし、よくよく観察してみると、少なくともそれは差し迫ったものではなかった。
例えば内閣組閣直後 鈴木総理は外務大臣を東郷茂徳に交渉したが、
この時の話合が洩れ伝わっていたが、
それによると、総理は東郷に戦争終結の気持を明らかにしていたが、
しかしその戦争終結は日本の完敗を予想してのことであり、
なおこの戦争は一、二年は続くものとの判断に立っていたように思われた。
だから、われわれは鈴木内閣には、その戦争遂行に関し一抹の疑惑はもったが、
戦争遂行内閣と判断していた。

ソ連が日ソ中立条約の廃棄を通告してきたのは、鈴木内閣成立の四月七日であった。
しかしこの条約はなおあと一カ年は有効となっていた。
五月一日 ヒトラーの戦死、ムッソリーニの銃殺の報道、
五月七日ドイツ はついに降伏した。
日本はひとり連合軍と戦わねばならなかったが、
南方戦線は孤立し、支那においては対重慶工作は遅々として進まない。
本土は敵の空襲により大都市は焼かれ、沖縄の戦況は日々に悪化していた。

東郷外相は就任の日から戦争終結に心を砕いていた。
開戦時東條内閣の外務大臣だった彼は、
その責任の故に最終段階における外相として
その戦争終結に渾身の努力を心に誓っていたのである。
そして五月上旬には、阿南陸相、梅津参謀総長にも対ソ交渉、
すなわちソ連に和平を斡旋せしめるため適当な人をソ連に送ること、
この場合ソ連が世界政策の一環として日本に臨むことを予想しての対策、
ソ連の要求するであろう条件、これに対し日本が譲りうる限度等に関し、
その同意を得ていたのである。

その頃、軍は本土決戦を着々準備中で、この本土決戦と戦争終結とは一見矛盾するやに感ぜられるが、
阿南陸相、梅津総長らの本土決戦思想は、日本のため有利な戦争終結のチャンスを摑むことにあって、
あえて為すことなき戦争終結ではなかったのである。
東郷外相は広田弘毅を煩わずらわし対ソ交渉を始めた。
ソ連を仲介とする和平の瀬ぶみとして広田 ・マリック会談が、
箱根強羅の星一氏別荘で行われたのは六月の初めだった。
当面、日ソ両国関係を改善しつつ、ソ連を通ずる和平が考えられていたのだった。
その頃箱根、軽井沢は英米を除く外国人の疎開先だった。
二十年の始め頃から外国人の疎開は、外務、内務両省で協議した結果、京浜地区在住の外人は、
軽井沢と箱根に疎開せしめそれぞれ外務省書記官を駐在させて、その連絡斡旋に任じさせていた。
東部憲兵隊でも、これに対応して軽井沢と箱根に将校を長とする憲兵分隊を、
隊司令部の直轄として配置し、防諜上の措置を講じていた。
ソ連大使館員は強羅ホテルに六月から七月にかけて疎開を完了していた。
なお、わが国がソ連との国交調整にのり出そうとしたのは、すでに十九年八月頃、
小磯内閣当時、政府と統帥部との協議で、対ソ特使をモスクワに派遣することがきまり、
広田弘毅が予定され、モスクワと交渉したが、ソ連は九月中旬にこれを拒絶してきた。
ちょうど守島駐ソ公使が帰朝中だったので、守島公使帰任の上 更にソ連と折衝せしめることとしたが、
特派員大使派遣のことは、この後沙汰止みになっていたのである。

弘田 ・マリック会談は、六月三日と四日の二日間行われたが、
弘田はマリックの要望で、日ソ国交調整の具体策として、
「 ポーツマス条約の破棄を主とした漁業権を割譲し、その代償として石油の対日輸出、
 満洲国の中立化などを基礎とした日ソ友好条約の締結 」
を提案した。
マリック大使は始めから冷淡な態度というか、この会談には乗り気ではなかった。
だからこの案が示されても本国へクーリエで送るといった緩慢ぶり、
その後広田がマリックを訪ねても病気と称して会わなかった。
弘田、マリック会談は暗礁にのり上げてしまったのである。
だが、戦争終結の動きは宮中からおこった。
終戦は天皇の御意思であった。
天皇の御心を察した木戸内府が和平に口火をきることを決意し
その和平案に基いて首相、外相、陸相、海相と個別に話合って同意を求めた上で、天皇に奏上して、
六月二十二日の最高戦争指導会議構成員に対する天皇の御言葉となった。
このとき天皇は
『 戦争指導に就ては、さきに御前会議において決定はされているが、
 他面戦争の終結についても、この際、従来の観念にとらわれることなく、速かに具体的研究をとげ、
 これが実現に努力するよう  』
と仰せられた。
ここで、さきの御前会議というのは、六月八日の御前会議のことで、
『 今後にとるべき戦争指導の大綱 』 が決定されていたのである。
この大綱は依然戦争継続を主としたものであったが、二つの注目すべきものがあった。
その一つは、戦争目的を国体護持と皇土の保全におきたいこと、
その二は、その第二項に対ソ施策の活發強力な実行を強調したことであった。
この対ソ施策が、ソ連を通ずる和平工作を意味するものであったか、
対ソ静謐せいひつを期するものであったか、そのふくみは、各自の解釈に委かされていた。
いわば和戦何れもが内に含まれていたのである。
東郷外相は、天皇の御言葉にしたがって、対ソ交渉を強力に進めることになった。
しかし、ただ、相手の腹をさぐっている程度で、事は進まなかった。
とうとう天皇は七月七日に鈴木首相に速かに平和交渉を開始するよう督促になった。
即ち、この際ソ連に対してザックバランに仲介を頼むことにしてはどうか、
これがため親書をもってソ連に特使を派遣するように取運ぶことにしてはどうか仰せられた。
そこで政府も統帥部も近衛特使派遣を決定し、七月十二日自ら近衛公にソ連行を命ぜられたのであった。
そして十二日夜政府は駐ソ佐藤尚武地位氏に訓電して、
近衛公が天皇の親書を携えて近く訪ソしたい旨を、ソ連政府に通ぜしめた。
この電報には特に天皇の御言葉、
「 天皇陛下におかせられましては、今次戦争が交戦各国を通じ、
国民の惨禍と犠牲とを日々増大せしめつつあるのを御心痛あらせられ、
戦争が速かに終結せんことを念願せられおる次第なるが、
大東亜戦争に於て米英が無条件降伏を固執する限り、帝国は祖国の名誉と生存のため、
一切をあげて戦ひ抜く外はなく、是がため彼我交戦国の流血を大ならしむるは不本意にして、
人類の幸福のため なるべく速かに和平の克服せられんことを希求せられんことを希望する。」
との内容が打電されていた。
佐藤大使はこれをモトロフ外相に手交し 急ぎ回答を求めたが、
「 スターリン、モトロフがベルリンに向け出発するので解答は遅延するであろう 」
と返事してきた。
ベルリン会議は二週間の予定であった。
だが、政府はソ連を仲介とした和平交渉を企図したため、すっかり日本の腹を見られてしまった。
ソ連の対日態度の変化は、すでに十九年十一月七日の革命記念日のスターリン演説にあらわれていた。
この演説でスターリンは、
「 由来歴史の示すところによれば、
 侵略国は常に新しい戦争に対して、被侵略国よりは準備をととのえている。
かの真珠湾事件やその他太平洋諸島に見る攻撃、
香港、シンガポールに対する日本軍の最初の攻撃の如き、
事実は決して偶然と見なすべきではない。
侵略国としての日本が、平和愛好国としての英米よりも、
戦争に対して完全な準備を整えていたことを示すものである。」
とて、日本を侵略国と認めて誹謗したのである。
また、二十年四月中旬頃には、統帥部は、
ソ連が極東に狙撃兵団、航空機、戦車などの移動を開始しつつあることを確認し、
ソ連の対日作戦の兆候と判断していたのであった。
このようなソ連を仲介として和平交渉を試みたことが、ソ連の参戦を急がしめ、
彼をして漁夫の利を得せしめたことになったといえるのではなかろうか。

鈴木総理の腹
近衛はソ連行のため政府等に外務省と折衝して、着々準備をしていたが、
肝心のソ連からは、その後 近衛派遣の具体的目的についての問合せがあり、
政府は、戦争終結につきソ連の仲介を依頼するらある旨を返電し、その回答を待っていた。
しかしソ連大使館は、七月二十四日、大使館婦女子一行を、山形県酒田港から出帆帰国せしめた。
空爆批難のためとの判断もあったが、わたし達は、対日参戦近しと判断した。
憲兵がこのような判断をもったのには、わけがあった。
わたしはこの年春頃から、ソ連諜者を逆用していた。
このことは部内でも関係者二、三人のほかは厳秘としていた。
この日本人諜者は、ソ連参事官にテストされてから、時々大使館につれ込まれて、無電教育をうけていた。
六月頃になってやっと渡されたものは小型無線機であった。
厳重に封印されていたが、これを使用する時期は 『 国内混乱し相互の連絡困難なとき 』 と指示されていた。
国内混乱とは、ソ連の対日参戦によるソ連外交官の抑留を意味するものと、わたし達は解釈していた。
連合軍の本土上陸対策にしては、無電期の交付が過早だと見たからである。
ともかくも憲兵としても当然ソ連大使館の動きには細心の注意を怠らなかったことは事実である。
それはそれとして、鈴木内閣も弱体無能で首相の終戦意思が、どこまでのものであるかはっきりしなかった。
六月九日から臨時議会が開かれたが、
十日の戦時緊急措置法案の審議において作田代議士が質問に立ったが、
鈴木総理は耳が遠くて答えられない。
迫水書記官長が一々筆記して手渡し、首相はこれを朗読するといった答弁、議員側はおさまらない。
左近司国務相が助け舟を出して矢次りとばされて立往生、
次いで米内海相が立って説明したが、場内騒動となって一時休憩のやむなきに至るといった始末、
そして、翌十一日には同じ戦時緊急措置法の審議において、
小山亮代議士が、首相の施政演説中の 『 日米わば両国共に天罰をうくべし 』 をとりあげて質問したところ、
総理が 『 五詔書の天祐という言葉に対しては学問者にも意義がありまして-- 』 と述べると
議場騒然として混乱の限りをつくし、休憩につぐ休憩で会議は二日延長となった。
総理の失言は、神聖な国体を冒瀆し光輝あるわが国民的信仰を破壊する不逞悪逆な言辞で、
天人俱に許すべからざるものだというのである。
その頃、召集、徴用で活動力を失っていた右翼であったが、
その一部は早速鈴木内閣弾劾に動いていた。

六月二十六日 沖縄はついに失陥した。
何十回となく特攻隊が出撃し残存海軍をあげての特攻もとうとう及ばなかった。
次いで来るものは本土上陸であった。
わたしは、議会で米内海相が、敵本土に上陸せんとせば、
先ず、洋上でこれを捕捉殲滅せんめつし、
その残存部隊の上陸企図はこれを水際において破砕すると公言して、
議員の拍手をうけていたのを見たが、
その米内はすでに艦船、航空機を失って敗戦を自認していたのであるから、
政治家の裏腹はわからないものであった。

七月二十七日 早朝
サンフランシスコ放送はポツダム宣言を電波にのせて放送した。
ここでソ連がその名を連ねていないことが、気がかりとされていた。
ポツダム宣言を国民の前に秘しておくことは、却って国民の疑心暗鬼を招くおそれがあるというので、
下村宏情報局総裁は、宣言を要約し刺戟的語句を削って、これを大きく取扱わないこと、
ソ連のことには触れないことを立前として新聞に発表した。
しかし陸軍には首相の反対声明を望む声も強かったので、
政府として何かこれについて一言あった方がよいということになり、
首相の二十八日の定例記者会見において、
記者の質問に答えるという形式で、これに触れることになった。
このとき首相は、陸海一致の意見として、是非首相が 『 黙殺する 』 という発言をするよう強く要求されていた。
しかし首相は、
「 わたしは、あの共同宣言は、さきのカイロ会談の焼き直しだと考える。
 政府としてはこれを重視する必要はないと思う。戦争完遂に邁進する外はない。」
と答えた。
これが紙上では 『 わが方これを黙殺す 』 と大きく伝えた。
外務省はこれをアメリカ向放送までした。
首相が最後に
『 戦争完遂に邁進する外はない 』
との駄句をつけたことが大きく響いてしまった。
アメリカの原爆投下、ソ連の参戦に大きな口実を与えたのである。

こうして運命の日 八月六日の広島の原爆攻撃となった。
この爆撃で中国憲兵隊司令部は全壊し十数人の憲兵は戦死傷した。
隊司令官瀬川寛大佐夫妻は自宅玄関で戦死した。
丁度朝八時すぎ、まさに出勤の間際であった。
この報が東京に伝わったのはその日の午後だった。
特殊爆弾という原子爆弾といったが、広島市は一瞬にして壊滅した。

越えて翌九日午前、私はソ連の参戦を知った。
早朝四時短波放送によって、ソ連の対日宣戦布告を伝えたというのである。
だがマリック駐日大使は前日、すでに対日宣戦布告をわが東郷外相に手交していた。
ソ連はその中で、
『 日本のポツダム宣言拒否によって
 極東戦争に関する日本政府のソ連に対する調停方の斡旋は全くその基礎を失った 』
と書いていた。
さきの近衛特派について首を長くして待っていた回答は、ソ連の対日宣戦布告であった。
また、この日 長崎にはふたたび原爆投下をうけた。

ついに土壇場に追いこまれた統帥部も政府も
午前中からずっと閣議につづく最高戦争会議を開いて緊張した討議がつづけられていた。
和戦何れに進もうとするのか、陸軍省、参謀本部のおかれた市ヶ谷台は、
勇ましい戦争継続論が幅をきかせていた。

今日、終戦に最後まで反対したのは陸軍だったと理解されている。
そのことに間違いはないが、あの戦争段階において、
なお、陸軍が戦争を信じて本土決戦を主張したかというと、それには疑問がある。
統帥部ではすでに十九年夏頃から一部の幕僚には、
なるべく速やかに戦争を終熄すべきだの意見が、ささやかれていた。
二十年四月中旬に、戦争指導に関する基本要綱が陸軍案として決定されたが、
その素案には 『 ソ連を通じて戦争終末をはかる 』 と書いてあった。
また、さきにふれた二十年六月八日の御前会議決定の
『 今後にとるべき戦争指導の大綱 』 
において
--国体を護持し皇土を保衛し征戦目的の達成を期す--と、その目的を明示してあったが、
それは戦争目的でなくして終戦条件のふくみともとれるものであった。
戦争終結に最も強硬に反対したといわれる阿南陸相にしても、梅津参謀総長にしても
終戦そのものに不同意を唱えていたわけではなかった。
終戦には同意なのだが、その終戦をできるだけ有利にしたい、
これがため、なんとかして勝機をつかみたいというのが本心であったことは既に書いた。
だが、人々は互に腹のさぐり合い。
事のうけとり方は十人十色といった具合で、その内にうらを容易に見せなかったのが、
この戦争終結の問題であった。

聖断下る
八月十日 朝五時すぎ、
私は部下の将校特務より、政府は今暁ポツダム宣言受諾による無条件降伏を決定したとの情報をうけた。
「 昨夜この閣議と最高戦争指導会議により午前四時廟議はポツダム宣言受諾を決定し、
 利益代表国を通じ通告の手続きがとられるというわけである。」
わたしは即刻大城戸憲兵司令官を官舎に訪ね、その旨報告すると共に、
これに関し治安対策その他に関し協議した。
大城戸中将は直ちに車を陸軍省に走らせた。
・・・・
私は九日の昼から夜につづいた右の会議が、戦争の転換を図るものであることは想像していた。
小さい事だったが、ソ連の参戦によってソ連外交官を抑留する必要があるので、
憲兵はこれを陸軍省に伺った。
ところが、今度限りその処置はしばらく保留してくれと回答してきた。
それはソ連と戦う意思がないものと見た。
ソ連と戦う意思がないのは、この機に英米との和平に転換する動きと判断したからだ。
しかし、内閣の政治力では、戦争終結に持ち込むことは困難だと考えていた。
なぜなら、陸軍は戦争終結にはあえて反対ではない、
ただ、乾坤一擲の出血作戦によって 敵に大打撃を与えることを第一とし、
このままの態勢で和平に入ることを欲しなかったからである。
だから、すぐ、原爆とソ連の参戦によって手を上げるということはあるまい、
また、このような国家浮沈の重大事項が、わずかの時間で決定されることは考え得られなかったのである。
だから、結局は戦争継続におちつくのではなかろうかと、希いかつ思っていた。
だが、司令部に出勤すると間もなく、閣僚の模様や、御前会議の内容なるものが伝わってきた。
統帥部が戦争継続を主張して譲らなかったので、鈴木首相は天皇の御聖断を仰いだのだとか、
天皇は痛烈に軍の不信を表明して、
軍の作戦計画が一つとして予定のごとく進行しなかったことを難詰せられ、
東部軍の作戦準備は完了したと上奏したが、
事実、千葉地区ではまだ完成に至っていないではないか等々、お叱りをうけたとか、
平沼枢府議長が国体護持を条件として、ポツダム宣言受諾に同意したとか、
おおよそ、真偽何れかわからぬままに、情報として流されてきた。
だが、その頃わたし個人としては、
戦争はいかに天祐神助にたよっても、もはや勝目のないことはわかっていた。
しかし敗けるということはないと考えていた。
妙な論理だが、我方から敗けたと手を上げなければ敗けたことにはならんというのだ。
早い話が支那戦争であれだけ日本軍にたたかれた蒋介石が、
重慶という奥地に逃げていても支那は敗けていないのだ。
だからどんなに困難であっても忍びに忍んで敵に出血を強いながら、
降参したと手をあげなければよいのだと割り切っていた。
これがため東部憲兵隊にしても、
いよいよ敵の上陸が九十九里浜あるいは相模湾に行われれば、
方面軍司令部と共に群馬県西部山岳地区に移動することを考えていたし、
この際ゲリラ部隊として憲兵の最後の働き場所を求めるつもりで、
心の準備をしていた。
これは私ばかりではなく多くの第一線指揮官の心構えであったと思う。

国の意思は天皇の御裁断で降伏にきまったが、陸軍の幕僚はすごい剣幕だった。
ことに陸軍省軍務課、それは省部の統合で戦争指導課でもあったが、
戦争継続の強硬派の中核であった。
彼等はポツダム受諾をのめば絶対に国体護持はできないというのである。
ここでは鈴木内閣をどうして打倒するか、
国内戒厳に直入するには、どのように持ち込めばよいかなど案を練っていた。
現にこの日の午後、
ある幕僚は私のところへ顔をみせて、鈴木内閣を倒すまの合法的手段はないか聞いていた。
彼等強硬派唯一のたのみは、阿南陸相の態度にあった。
阿南の戦争継続に唯一の望みをかけていた。
その夜八時頃 新橋駅附近と、赤坂のアメリカ大使館前で、爆弾さわぎがあった。
何者かが爆弾を投げつけ新橋では通行の二、三人が負傷した。
翌十一日朝省線山手線一帯の主要駅には、
デカデカと 『 鈴木バドリオ内閣を倒せ 』 と書いたビラが貼られていた。
この日の午後、警視庁から次の連絡があった。
「 昨夜新橋、赤坂の爆弾事件について警視庁の鑑識課で調査したところ、
 その爆弾は日本軍の手榴弾であることがわかった。軍についてその出所を調査してもらいたい 」
わたしはこの爆弾騒ぎもビラ貼りも軍幕僚と気脈を通ずる右翼一派の行動とにらんでいた。
そこで、憲兵司令部を通じ陸軍省に対し、
わざわざ 『 この事件を徹底的に調査をするがそれでよいか 』 とダメを押させた。
陸軍が尻尾を出すと思ったからだ。
案の定、防衛課から、
『 その下手人はわかっているので、憲兵の捜査は一時保留されたい 』
と折返したのんできた。
軍の強硬幕僚の小細工で右翼と通じて帝都の治安を破壊しようとしたのだ。
これが後に述べる尊攘義軍の一派であった。

ポツダム宣言の受諾は、十日午前七時、
アメリカへはスイス政府、イギリスへはスウェーデン政府を通じ電報せられ、
ソ連に対してはソ連大使に手交された。
その電文は、
「 七月二十六日付三国共同宣言ニアゲラレタル条件中ニハ
 天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スル要求ヲ包含シ居ラザルコトノ諒解ノ下ニ
日本政府ハ共同宣言ヲ受諾ス 」
とあって、そこに一つの条件がついていた。
天皇の地位を変更するものでないことを条件としてポツダム宣言を受諾するというのであるから、
連合国が果してこれを受け入れるかどうかが問題だった。
これでは、連合国は、多分受け容れないのではないか、その憶測が多かった。
まだまだ問題は残されていると、戦争継続派は希望を捨てなかった。

ところで政府ではこの降伏受諾をいつ公表するかが問題だった。
が、結局、それとなく、暗示しておこうということになり
 下村宏
下村情報局総裁談を発表した。
要旨は、
「 敵米英は最近頓に空襲を激化し、一方、本土上陸の作戦準備を進めつつある。
 加ふるに昨日九日には中立関係にあったソ連が敵側の戦列に加わり、
いまや真に最悪の事態に立ち至ったことを認めざるを得ない。
正しく国体を護持し 民族の名誉を保持せんとするが、
一億国民にあっても国体護持のためには、あらゆる困難を克服して行くことを期待する。」
その日の新聞は右の総裁談をのせたが、これとならんで
陸軍大臣布告
全軍将兵に告ぐ。
ソ連遂に皇国に冠す、名分如何に粉飾すと雖も、大東亜を侵略制覇せんとする野望歴然たり。
事玆に至る。
又何をか言わん。
断乎神州護持の聖戦を戦ひ抜かんのみ。
仮令、草を喰み 土を嚙り 野に伏するとも 断じて戦ふところ死中自ら活あるを信ず。
是れ即ち七生報国 「 我れ一人生きてありせば 」 てふ楠公救国の精神なると共に、
時宗の 「 莫妄想 」 「 驀直進前 」 以て醜的を撃滅せる闘魂なり。
全国将兵宜しく一人を余さず楠公精神を具現すべし。
而して又時宗の闘魂を再現して驕敵撃滅に驀直進前すべし
と、いさましい発表をデカデカとのせていた。
まことに対照的な二つの公表記事に、人々は驚いた。
だが、これには次のようないきさつがあった。
九日ソ連参戦の報に接した軍事課の稲葉正夫中佐は、この重大な次期に際して全軍の動揺を防止し、
ことに志気を維持するためには大臣訓示を全軍に通電する必要があると考えた。
そこで阿南陸相に意見具申をして即座に同意を得た。
稲葉は文案を起草したが局長以上の決裁を得るに至らなかった。
十日はポツダム宣言受諾ときまって、
これに関する情報局総裁談がその夜七時にラジオを通じて放送されることになった。
そこでこの大臣訓示が遅れてしまっては何もならない。
情報局部員だった親泊朝省大佐は、局長以上の許可なしに独断で放送させてしまった。
そして、その放送は下村総裁談の前に行われ、
翌十一日の新聞では、これとならんで掲載されたのであった。
たしかに、それは当時の混乱を示すものであったが、
親泊大佐が陸軍省記者会を通じて掲載方を強要したもので、
情報局も困惑したが、
すったもんだしているうちに発表されてしまったのである。
だがこの公表の狙いは、全軍将兵ではなく、敵国政府であり、一般国民であった。
親泊朝省大佐
警備命令の予達
さきのポツダム宣言受諾の通告に、連合国がどんな回答をするかが、和平派にとっても、
また抗戦派にとっても、大きな関心であったが、十二日朝になって短波放送がキャッチされた。
ここで問題となったのは次の二点であった。
一、降伏ノ時ヨリ天皇及ビ日本政府ノ国家統治ノ権限ハ、降伏条項ノ実施ノタメ、
 ソノ必要ト認ムル措置ヲ執ル連合軍最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス
二、最終的ノ日本国政府ノ形態ハ、ポツダム宣言ニ従イ
 日本国民ノ自由ニ表明スル意思ニ依リ決定セラルベキモノトス
すなわち、これで国体護持ができるのかというのである。
天皇が連合軍最高司令官の制限の下におかれるということ、
また、最終的な日本国政府の形態とは、一体どういう意味なのか、
あちこちで議論は沸騰していた。
私なども、わからぬままに原文をとりよせて、
国家統治の権限が最高司令官に subject to するということは、
『 従属する 』 というのか、『 制限の下にある 』 というのか
と訳語をめぐって、人々に聞きただしていた。
首相官邸にいる閣僚の中にも、これでは国体護持はできない。
占領下に国民の自由な意思表明など、歴史上ありやしない、
と受諾反対を唱えるものがいると聞いた。
十二日午後、
陸軍省より、東部軍参謀長、憲兵司令部本部長、当部憲兵隊司令官に、
命令受領に出頭せよとの通達があった。
私達は次官室の前の控室で、しばらく待たされたが、
その間、入りかわり立ちかわり幕僚が顔を出し、いろいろと情報を伝える。
首相官邸にいる阿南陸相からであろう。
『 閣内の空気は今朝のアメリカ回答では国体護持はできないといい、
 鈴木首相でさえ、これはひどいというている。情勢は有利に進展しつつある 』
と伝えて来る省内は情報におどり一喜一憂していた。
しばらくして、若松只一次官は一片の紙片をもってわれわれの前に現れた。
東京の警備命令を下すというのである。
その口頭の要旨命令というのは、全く月なみの、
「 東京の警備を厳重にするため、
 宮城、中央官衙を警備し、要人の警衛を周到にし、治安の確保を期すべし 」
といったものだったが、この命令は予達だった。
というのは、
『 その実施は迫って命令されるが、その実施命令は陸軍次官自ら下達するから、
 幕僚の伝達によっては、絶対に実施してはならない 』
というのであって、それは、抗戦幕僚のクーデターの実行を事前に抑制しようとしたものであったのである。
軍首脳部が、抗戦幕僚の独断による兵力使用を封ずる苦心の策であった。

午後二時頃、東京上空に敵機一機侵入、市内焼跡に爆弾ならぬ伝単を撒布した。
政府のポツダム宣言受諾通告とこれに対するアメリカの回答の日本語であった。
市民はこれを見て、敵の謀略だと憤慨していたが、その大部は警察、憲兵によって回収された。
十三日アメリカ国務長官からの正式回答が届いた。
政府はその回答をめぐって、再び甲論乙駁、これを決定しかねていた。
その頃、ニューヨークタイムズ紙の、日本皇室に関する論説が放送され、
日本の皇室を廃止せらるべしと論じてあったので、
陸軍省では、このニュースを印刷に付して急いで閣議の席に配布し国体護持派に力を加えたということもあった。
終戦をめぐる上部の動きは、まだ、一般国民には洩れていなかったが、
通信報道関係の間では、すでに知られていた。
十二日横浜憲兵隊長から、十三日には宇都宮隊長からこれが真否にさき、
わたしのところに照会してきていたので、情報は東京周辺には、すでに流れていた。
十三日元帥会議があり。
広島より上京した畑元帥は、
『 これでは国体護持は不可能だから、是非陛下の御考え直し 』
を直言したとも聞いた。
また十四日午前 御前会議によって、最終的に廟議が決定されるとの事であったが、
陸軍は変に備えて、十三日午後東京地区の警備を命令した。
さきの予報命令の実施である。
私はこの機に第一相互の東部軍司令部を訪ね田中静壱大将に会った。
田中軍司令官は、
『 ひたすら戦争継続の御聖断が下るものと期待している 』
と沈痛な表情で語っていた。
十三日夕刻、
那須兵務局長は憲兵司令部を訪ね、東部憲兵隊に、
「 明十四日終戦決定を前にして、省内幕僚の越軌独断行動を警戒するの要がある。
 とくに、幕僚がほしいままに大臣命令を以て軍隊に命令し、
あるいは、自動車を駆って自ら軍隊に赴きこれを指導することの危険をおそれるので、
明十四日、省内警戒のため憲兵を増派されたい。」
と要請し、かつ、これは軍務局長たっての要望であるとも、つけ加えた。
陸軍省には、補助憲兵を含んで約四十名の市ヶ谷憲兵派遣隊が、
将校指揮の下に常駐されていたが、わたしは、これを増強するため、
佐官一、尉官三、准士官、下士官二十名を増加配属し、省内各門の警備を厳重にすると共に、
省内軍事課を中心とする幕僚の動向を警視することを命じた。

十四日午前十時より
宮中で最高戦争指導会議構成員らによる御前会議があり、
ここに再び聖断は下って、ポツダム宣言を受諾することになった。
そしてそれは閣議を経て連合国に打電された。
午後三時陸軍大臣は省内において、全員に対し
会議の次第、天皇の御言葉を伝え承詔必謹 を 訓示した。
憲兵もまた午後四時
大城戸憲兵司令官は在京憲兵将校を集め、大臣訓示を伝え司令官の所見を陳べた。
この日万一に備えて陸軍省に増派していた憲兵は夕刻に至って撤去した。
予想に反して強硬幕僚も鎮静し不穏の兆候もなかったとの報告だったが、
それが皮相な観察であったとは、数時間後にしらされた。
彼等幕僚は、夜に入って庁舎屋上にのぼり暗夜の星に黙想をつづけていた。
正午頃空襲警報の発令あり、管内では熊谷地区が焼夷弾攻撃をうけ、かなりの被害があった。

・・・次頁 聖代の終焉・2 『 玉音放送の録音盤を奪え 』 に続く


大谷敬二郎著 
昭和憲兵史 から

コメント

蛙の子は蛙

2016年04月22日 23時15分50秒 | 昭和 ・ 私の記憶 ( 目次 )

祖父の家に
額入りの住宅透視図が、掛けられていた。
「 設計士 」 を、めざしていた伯父が、描いたものだ。
海軍予科練の伯父は、村の秀才であったと謂う。
絵を画くことの好きだった5歳の私
その透視図に、何か知らん 「 ロマン 」 を感じたのである。
「 設計士 」 は、設計図を描く
「 設計士 」 は、偉い人が成る
・・・と、聞かされた。
「 設計士 ・・・か 」

親父の兄弟  予科練の叔父に抱っこされているのが、10歳年長の叔父
昭和19年 ( 1944 年 ) 頃の写真

職人気質 (ショクニンカタギ)
親父は、昔気質の左官職人であった。
祖父も、叔父達もそうであった。
「 左官一家 」 である。
私は職人の子 なのである。
そして、私は一家の 最初の孫でもあった。
 昭和28年? 最前列左二人目親父、右祖父

昭和38年 ( 1963年 ) ~41年 ( 1966年 )
小学3年生~6年生 の頃
親父は晩酌の肴に、
自分がいかに腕のいい、しかも昔気質の職人であるかを自慢した。
スジ、を通す
義理 人情 義侠心
男気 男前
気概 心意気・・・とか、毎晩、聞かされたのだ。
此は、親父の人生に於いて重要だったのだ。人生そのものだったのだ。
その頃は、親父も若かくて、元気があった。
私は、素直に親父の話を聞いた。 そして素直にそれを享けいれた。
・・・リンク→男前少年 と おんなせんせい

親父は私に期待をかけていた。
『 鳶が鷹を生む 』
親父の好きな 文句であった。
私は
小学四年生 ( 10歳 ) の時、
将来、「 設計士 」 に成ろうと思った。
親父が謂う、『 鷹 』 に成なろうと思ったのである。

救いの神
然し、中学での成績が、あまり良くない。
偶に輝る時もあった。・・・けれど、概ね 並 でしか無かった。
「 このままでは、いけない 」 ・・・と、思いつつ
かろうじて100番以内に入っていた成績も、
中学二年の一学期 中間テスト ( 4月 ) で、127番/293人まで下がったのである。
「 これでは、将来の進路が危うい 」
・・・と、独り 気張ってはみたものの 成果は微微たるもの
・・焦りだした。
そんな時
隣近所の大学生・久田さん
( 大阪へ移住してきてから、私を近所の子として、可愛がって呉れていた )
「 花田君、今度の ( 二学期の中間 ) 試験の答案用紙、見せて ミィ 」
「・・・」
「 勉強、教えて上げるから、家においで 」
「 一年の数学と英語の教科書を持ってくるように 」
なんで一年から?・・と 思ったが、素直に従った。
勉強はきびしかった。
惨めな思いもしたし、腹も立った。
けれども、文句は言わない。
文句を言うのは、恥ずかし事だと思っていた。
教えを乞うとは、そういう事だと思っていたのだ。

親父には弟子がいた。
「 弟子とは 」 ・・・親父は晩酌の肴に、講釈をタレタ
師匠と弟子の関係、子供のころから側で見聞きしているのである。
『 文句は言わない  』 ・・・ものと

基礎から勉強する。
数学の問題は、よく読んで、解けるまで、一つ ひとつ 解いて行く。
英語は、頭で覚えず、自然に手が動くようになるまで書いて覚える。
これが、できるようになると、成績は上がった。
そして、将来の希望が持てるようになったのである。
是 ひとえに、無報酬で教えて呉れた久田さんのおかげである。
・・・リンク→ がり勉

「 我 」 をとおす
中学3年生の、卒業まじかホームルームの時間
各々が将来の抱負を語った。
私は
「 一級建築士になって、設計の仕事をする 」
クラスの皆に、そう語った。
当時は、高度成長期・万博景気に沸いていた、建築士が人気ナンバーワンの職業であった。
今で謂う、トレンド。 エンジニアという名詞も響きが良かった。

女優 「 日色ともゑ 」 の婚約者が、
二級建築士ということが話題に上った頃のことである。

NHK 朝ドラ 「 旅路 」 の  日色ともゑ
昭和42.4 ~昭和43.3  放映

「 そこそこの工業大学へいくより、都工 いくほうがええんやて 」
「 ほんまかいや、都工てそんなにええ学校なんか ?
「 日本一の工業高校なんやて 」
「 へー 」
私は級友3名で都島工業高校を見学した。
威風堂々とした、如何にも伝統を感じさせる 重厚な本館建物。
薄暗く、重々しい、内部空間 ( エントランスホール・ロビー、階段 ) に、
「 こ
れが 都工か 」 ・・・と、感激したのである。

進路相談で、私は、大阪市立都島工業高校の建築科を希望した。
所謂 『 天下の都工 』 である。
担任は反対した。
「 ランクを一つ下げなさい 」 ・・・そう云われた。
職員会議でも、それが結論だった。・・・と、云うのである。
確立は半々だという。
「五 分 ・五分ですか?」 
「 5.5の方ですか、4.5の方ですか?」
・・・担任は答えなかった。
公立を落ちたら 私立高校に通うことになる。
スベリ止めにと、私立を併願受験をし、既清風高校に合格している。   
・・・リンク→ 進路相談 「 全くの、五分・五分ですか?」
・・・けれど、その場合 経済的負担は大きい。
だから、公立へ入学は、絶対必至であった。
失敗はできなかったのである。

それでも 私の両親は、
私の 『 我  』 を、通していいと言ってくれた。
私は希望通り、島工業高校の建築科を受験することに決めた。

試験の前日
受験生を集めて、学年主任の教師が各々に激励して周った。
「 心配するな、大丈夫 ・・」
私の番が来た。
「 お前はなァ、・・・」
・・・と、それだけ。
私は腹が立った。
「 この期に及んで、そんなこと言って如何する 」

1970年3月17日、受験の日。 ・・・リンク→ 受験番号一番の男 と 人生航路 
その日は、雪がちらつき寒かった。
『 試験 』 は、想うようには・・できなかった。自信が持てなかった。
落ちたと思った。

3月20日は、合格発表の日である。
淀川神社で 『 合格祈願 』 の、参拝を済ませ
徒歩で向かった。

2番 ( 受験番号 )
「 あった! 合格していた!!」
嬉しい気持ちより、安堵の気持ちの方が大きかった。

工業化学科を受験した 大橋、河越、杉岡、彼らも全員合格していた。
合格手続きを済ませると、通用門前で皆が集まった。
どの顔も笑顔が溢れていた。
「 皆で一緒に帰ろう 」 ・・・と、帰路はバスに乗った。
『 合否 』 を、担任の先生に報告する為、中学へ帰校することになっていたのだ。


興奮が冷めると、腹がへった
吾々四人は、帰校途中
大東商店街で、お好み焼きを食べることにした。

 
大東商店街                           淀川中学校 職員室

帰校して、職員室に入り、担任に合格の報告をすると
よっぽど心配したらしくて、安堵の表情を浮かべて
「 帰りが遅いから、心配していたんよ・・・無理したから 」
お好み焼きを食べていましたと言ったら
担任の木下雅子先生
「 呑気に・・」 と、笑った。
・・・リンク→バラ色の時 1 「 今日の酒は格別 」


都島工業高等学校 1975.01.15    ・・・リンク→ 「 大阪市立都島工業高等学校建築科・65期生 」

建築科の生徒になって、『 T定規を 持って登校するのが、誇らしかった。
「 息子さん、さっそうとして、学校行っていたょ・・・」
・・・と、母が近所の人にそう言われたそうだ。
リンク→力満てり

高校では、透視図も描いた、設計の課題がおもしろかった。

   
リンク→きみは都工のライトだ! 

住宅研究部に入って、文化祭で出展した。


高校三年生・昭和47年(1972年)の文化祭に個人出展したもの

高校三年生の秋
いよいよ、就職希望を担任に申し出る時が来た。
私は、設計事務所を希望した。
「 設計士に成る 」 は、10歳の私 の決意だったから
しかし
私は、成績が良くなかった。
 池下先生 ( 3年間 A 組担任 ・・私は B 組 )
「 池下先生なんか、
 この成績で、何で、設計事務所へ行きたいといっているのか・

 と、言っているが、大丈夫だ、心配するな、行かせてやる 」
吾 担任が、私の希望を押して呉れたのである。
「 花田の場合、卒業設計で、頑張ったから、・・・」
設計事務所を希望した級友・大土に、担任はそう言ったそうだ。
大土は希望が叶わず・・・大阪府庁の役人に成った。
かくして
私の設計事務所へ行きたい、という希望は叶えられたのである。
・・・リンク→人は、こうして人生を選択する 

 
・・・リンク→ 卒業設計 ・ 「 工業高等学校 」

私の親父は、私の 工務店入りを望んでいた。
直接、私には言わなかったけれど、
倅の 『 現場監督の姿 』 が、見たかったようだ。
「 設計事務所では、ウダツがあがらん 」 と、心配していたそうだ。
ここでも私は、『 我  』 を 通したのである。

私が設計事務所入りを決めたとき、親父は己が希望を腹に飲み込んだ。

以降は、年表のみ
昭和48年 (1973年) 、赤崎建築事務所入社
昭和51年 ( 1976年 )、
二級建築士
昭和59年 ( 1984年 )、 一級建築士
平成04年 ( 1992年 )、独立開業


「 我 」 を通して
私は、一級建築士に成った。
独立して、設計事務所を開設し、設計の仕事をしている。
「 設計士に成る 」 と謂う、10歳の決意
「 一級建築士になって、設計の仕事をする 」 と、中三の表明
一途に 一直線 その目標を達成した。
果たして
『 鳶 は 鷹 』 に成ったのであらうか

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